ぽたり、と掌に落ちた何かに、 は顔を顰めた。
ここは、曽祖父が建てた家だ。経年劣化は仕方のないこととはいえ、今月に入って二度目の雨漏りである。父の日曜大工で騙し騙しやってきたが、流石にそろそろ、本格的な修理を依頼した方がいい。
「お母さーん! また雨漏りしてるでー!」
階段から顔だけを出して叫べば、丁度庭から洗濯物を取り込んできた母が「またぁ?」と肩を落とした。
「一回全部見てもらった方が、ええんじゃないけ?」
「せやねぇ……。今日、祭りの打ち合わせに松さんたちが来るからお願いしてみるわ」
松さんこと松宮は、この町で唯一建築業を営んでいる人物だ。
本職が来るなら話は早い。
は、後で頼めばいいかと、これ以上、雨に打たれる前に安全な自室へ引っ込むことにした。
夕食を一緒に食べ、晩酌しながら祭りの実行委員会は開催される運びになった。
中年たちの笑い声はタワシで鍋底を洗ったような音を立て、部屋の中に反響を繰り返す。
それにうんざりとしながらも、ビールのおかわり片手に、 は、タイミングを見計らって、修理の話題を切り出した。
「おー。ええぞ。今年はお前ん家が『櫓』やからな。うんとええ屋根瓦を敷いてやろかいの」
「ありがとう! おじさん!」
「その代わり、お前も『お役目』をきっちり果たすんやぞ」
「分かってるって!」
これで雨漏りに悩まされることも無くなる。
わーい、と燥ぐ の様子に松宮は「いくつになっても変わらんなあ」とビールを煽りながら苦笑を寄越すのだった。
◇ ◇ ◇
祭りの日、外は生憎の雨だった。
松宮のおかげで雨漏りしなくなった自宅に怖いものはない。 は、鼻歌混じりに祭り装束に袖を通した。
「ねえ? もう準備できた?」
「出来たよ〜」
「あら、今年は一人で着られたのねぇ……!」
母が驚きに目を見開く。
まるで、小さな子どもの成長を喜ぶ親のような態度に、思ったことをそのまま口に出せば、母は声高に笑った。
「当たり前じゃない! いくつになっても、私にとって は可愛い娘だもの!」
十代の少女のような朗らかな笑みを浮かべた母に、面映い気持ちで胸がいっぱいになった。
そわそわと身動ぐ の背中を、母が軽く叩く。
次いで、「御神酒を並べるの手伝って」と、お盆に並べられたそれを手渡された。
「分かってると思うけど、御神体の部屋には入ったらあかんえ」
「はーい」
「……一昨年、けいちゃんがどうなったか、忘れてないやろ」
「…………うん」
けいちゃんは、 の幼馴染――だった。
一昨年の祭りで『櫓』の役目を果たしたのが、けいちゃんの家だったのだが、けいちゃんは『花嫁』ではないのに、御神体が置かれた部屋に誤って入ってしまった。
御神体は神主と『花嫁』以外を拒絶する。
迷信として伝わってきたそれが真実だった、と知ったのは、けいちゃんが祭りの儀式が始まったと同時に泡を吐いて亡くなったからだ。
それも の眼前で。
今でも、こちらに助けを乞うように、真っ赤に濡れた彼女の両目が焼き付いて離れない。
「……大丈夫。御神体のお部屋には近寄らんよって」
「気を付けりよし」
もう一度「うん」と力無く頷くと、 は御神酒を持って、神主が控室として使っている四畳半の部屋へ向かった。
御神体は我が家で唯一、海を拝むことが出来る亡き祖父の私室に置かれている、はずだ。
そっち側の廊下には、近付かないでおこう。
ぐっと奥歯を食い縛ると、 は重い一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
祭りは夕方から行われる手筈だった。
太陽が海へと眠りにつき、淡い紫色のカーテンが夏の終わりを告げる風に揺られて、はためいている。
提灯の灯りが、田圃道を薄ぼんやりと彩る影を目で追って、 は「あ、」と声を漏らした。
今年の『花嫁』役を務める斜向かい――と言っても、道路と畑三つ分ほど離れている――に住む二つ上の百合ちゃんが祭り用の白無垢に身を包んで、大きく手を振りながら歩いてくる。
「 ちゃ〜ん! 来たよぉ〜!」
「いらっしゃい、百合ちゃん。……ごっつ綺麗やねぇ!!」
「ありがとう。汚しちゃダメだから、気になってご飯も食べれんけどね」
「うわあ、大変やねぇ。何か摘めそうなもの探してこようか?」
「お願いしてええ? 出来たら甘いものを頼みます!」
両手を擦り合わせる百合の姿に、 は苦笑を返した。
そう言えば、去年は の姉が『花嫁』を務めたが、その時は百合が介添人の役を買って出てくれていた。帰省しなかった姉の分も、 が百合にお返しをしなければならない。
ふん、と鼻息荒く台所へ突入してきた の姿を見て、母が「あれま、どうしたんよ。豚みたいにふがふが言うて」とくすくす笑うのを尻目に「お腹空いたからお供え用のおかき食べてええ?」と戸棚に手を突っ込む。
「聞く前に出してるやないの〜。ええけど、ちょっとにしときよ」
「はあい」
小袋に分けられたおかきを少しと、甘いものとしてかりんとうをいくつか掴み取る。
それを次々に小袖に放り込んだ の姿に、母が呆れたようにため息を吐き出したのが聞こえてくるも、知らんふりを決め込んで、百合の元へと急いだ。
「おまたせ〜〜」
「わあ〜! ありがと〜!」
間違っても着物を汚さないようにと大きなバスタオルを前掛けがわりにすると、その上におかきを並べる。
百合はぱあ、と目を輝かせると、周りに誰も居ないことを確認してから、嬉しそうにおかきを頬張った。
「今から朝まで御神酒以外飲んだらあかんってちょっとしんどいよなあ」
「ほんまにねえ。凛ちゃんも去年、終わりかけ顔死んどったよ」
「あはは、お姉ちゃんから食べること奪ったら何も残らんもんね」
「え〜ひど〜」
鈴が転がるような声で笑う百合に釣られて、 も口元を綻ばせる。
介添人とはいえ、 も食事は塩むすびとたくあんしか食べることを許されていない。
自分も少し食べておくか、とおかきに手を伸ばす。
「――『花嫁』と介添人は、準備が出来次第、部屋に来なさい」
後ろから聞こえてきた神主の声に、 は思わず「ひえ!?」と情けのない声を漏らした。
丁度、かりんとうを口に含んでいた百合もごくり、という音が聞こえるほど大きく喉を鳴らし、 越しに神主を見て、驚愕に表情を染めている。
「は、はい」
「分かりました」
二人が返事をすると、神主は音もなくきた道を戻っていった。
「…………っくりしたあ」
「なあ……! 心臓口から出るかと思った……!」
残っていたお菓子を急いで食べると、二人は身支度を整えて、神主が待つ控室へ入った。
「お待たせしました」
の声に、神主がまるで梟のようにゆっくりと首を擡げ、二人を振り返る。
ぎくり、と肩が震えたのは だけではない。
少しばかり恐怖を感じさせる動きに、百合もまた身に纏う白無垢と同じ顔色になって、唇を震わせていた。
「じゃあ、始めましょうかね」
神主の一声に、彼の後ろで控えていた巫女が二人、御神体のある部屋へと続く襖をゆっくりと開いた。
襖が開け放たれた瞬間、ムッとした生臭い磯の香りが鼻を衝く。
思わず「うっ」と声を漏らせば、神主の鋭い視線が飛んできた。
「すみません……」
「部屋に入った後、 は何か見ても、声は出さんように」
「え、」
「ええな?」
「わ、分かりました」
は、瞬きを繰り返しながら軽く頷いた。
真横に立つ百合が不安そうな顔で部屋の中をじっと凝視している。
「い、行こか、百合ちゃん」
「……い、いや」
「やっぱり、怖い」と恐怖に顔を染めた百合に、 は「え」と小さく声を漏らした。
「怖いって、何、」
「わ、私……いやや……! 食べられとうない!!」
食べられたくない。
はっきりと百合が溢した言葉の内容に、 は驚愕に目を見開いた。
「……どういうこと?」
「『花嫁』なんか嘘っぱちや! 御神体も、神様やない! 次の生贄にするために、うちと ちゃんを介添人に仕立てよったんよ!」
「え…………」
それじゃあ、去年『花嫁』を務めた姉は――。
「こうすることでしか『人魚』の怒りを鎮められんのや。お前らには悪いけど、『花嫁』さんになったってくれ」
「いや!! いやや!!」
「ちょっ! 嫌って言うてるやないですか! それに、生贄ってどういう――うわっ!?」
部屋の前で押し問答しているうちに、巫女の一人が と百合の身体をトンと押した。
能面を被っている所為で気が付かなかったが、巫女からも部屋の中に広がる磯のような、何とも言えない魚臭い香りが漂っている。
「親方様。今年の贄にございます。二人纏めて食ろうてしまってええそうです」
にやり、と目抜き穴から覗いた目がいやらしく細められる。
「待って!」と叫んだ の声は、無情にも閉められた襖の向こうには届かなかった。
――後ろに何か居る。
ちりちり、と頸を焦がすような視線を感じて、 は肩を強張らせた。
隣にへたり込んだ百合もまた、先ほどの比ではないくらい顔面蒼白となり、がたがたと身を震わせている。
「…… ちゃん、ええけ。何聞かれても『うちやない』って言うんよ」
「えっ」
「ええから」
「百合ちゃ、」
「――お前が花嫁か」
それは、耳に直接息と共に吹き込まれた。
耳朶を這う生温い呼吸と、男とも女とも取れない奇妙な声に、 はすっかり固まってしまう。
「お前が花嫁か」
もう一度、それは言葉を発した。
手元に落ちた影が暗く、 の身体を覆い隠す。
「う、うちやない」
「では、お前か」
今度は百合に問いかけている。
ずずず、と何かを引きずるように身体を動かしたそれに、視線を遣って、 は「ひっ」と引き攣った声を漏らした。
「うちやない」
百合が毅然と答える。
すると、それはまた、 の方へと戻ってきた。
「ではお前こそが、花嫁か」
「うちやない」
もう一度、 がそう答えると、それは大きく身体を戦慄かせた。
ぼたり、と畳に染みが広がっていく。
天井まで伸びた大きな影が、 と百合の二人を見渡して「花嫁はいずこへ」と今までとは違う言葉を紡いだ。
「……花嫁なら『人魚様』が食ろうてしまったでしょう」
百合はそう言って、懐から一枚の札を取り出した。
見たこともない形の赤い文字がびっしりと書かれたそれを見て、『人魚様』と呼ばれた何かが、低く唸り声を上げる。
「では、やはりお前が花嫁か!」
「うちやない、言うとるでしょうに」
「では、こいつか!!」
ぐあ、とどろどろの何かを纏った『人魚様』が に向かって飛びかかってくる。
は、咄嗟に後退ったが、後ろにあった箪笥の所為で、逃げ場を失ってしまった。
「――やはり、わしの匂いがする。では、お前こそが、本物の『花嫁』か!」
「ひ……っ!!」
人魚様が大きな口――少なくとも にはそう見えた――を開いて、間近に迫る。
もうダメだ、と身構えた を襲った衝撃は、しかして予想していたものとは違った。
「凛ちゃんと約束しよったんよ。次の生贄は絶対に出さんって」
「な、にを……ぐうっ!? 何だ、これは……っ、あづい……!!」
「熱い、やって? やっぱり、あんたただの魚もどきやったんやね」
百合の放った札が、人魚様の身体にへばりつき、煙を上げていた。
「これには火の祝詞がびっしり書かれてる。今まで食うてきた女の子らの分も、ぜーんぶ貼ったるさけ。どっちが先にくたばるか、我慢くらべしよや」
「ゆ、百合ちゃん?」
「大丈夫やで、 ちゃん。 ちゃんは、うちが死んでも守ったるさけな」
先ほどまで怯えて震えていた百合の面影はどこにもない。
動きにくい白無垢の上掛けを脱いだかと思うと、豪快に袖を捲って、懐から山ほど札を取り出した。
「おりゃ……!!」
可愛い掛け声とは裏腹に、豪快な手付きで人魚様に札を投げつけた百合に、 は状況が飲み込めないまま、ただ呆然と彼女を見守ることしかできなかった。
札を貼られる度に、人魚様が汚い悲鳴を上げる。
まるで、黒板を爪で引っ掻いたときのような、何とも言えない不快な音が部屋を埋め尽くしていった。
「おっしゃ〜! これで終わりじゃ!!」
「うぐがああああ……ああ……花嫁、ああ、わしの……」
「う、うわうわうわ!! きっしょ! こっち来んなら!!」
最後の一枚を百合が貼り終えると、人魚様は猫くらいのサイズまで小さくなった。
どろどろとした見た目は変わらぬまま、鈍い動きで身体を引きずって の方へ向かってくる。
あまりの気持ち悪さから、反射的に足が出た。
生臭い磯の香りが、鼻を抜けていく。
蹴り飛ばされた人魚様は、障子ごと中庭に飛んでいってしまった。
倒れた障子越しに見た空が白い。
夜が終わろうとしていることに、 は開いた口が塞がらなかった。
「いや〜間に合って良かった! けいちゃんと凛ちゃんのことは残念やったけど、 ちゃんだけでも助けられて良かったわぁ」
「な、なんや、これは! どないなっとんのや…………!」
焦げた白無垢を身に纏いながらピースサインをする百合と、襖を開いた途端、脱力して動かなくなってしまった神主に、 は思わず天井を仰いだ。
長い、長い夢を見ているかのような感覚に、ぶるり、と怖気が駆け抜けていく。
「今年の花嫁がうちで良かったやろ?」
煤で汚れた肌とは対照的に、真っ白な歯を見せて笑った百合。
「うん」と が苦笑混じりに返す。
ふと、百合は、 に視線を向けた。
長い睫毛に縁取られた瞳の色に、微かな違和感を抱く。
暖かな木漏れ日を感じさせる榛色の瞳ではない。
深く、深く――水の底のような、青だった。
「…… ちゃん?」
呼びかけても、返事はない。
笑ったままの の唇が、ゆっくりと開いた。
「――ちゃんと花嫁はうちやないって、言うたやろ」
ぬめりを帯びた指先が百合の頬を撫でる。
その手は、生きている人間の温度ではなかった。
障子の外、池の底で、もうひとつの影がゆらり、と揺れていた。
まるで、そこからこちらを見上げて――泣いているかのように。
百合はこの事件後、札を書いてもらった寺の住職にこう語った。
うちはほんまに ちゃんを助けられたんかな。
あの子の顔も、声も、笑い方も全部覚えとるんに。
どうしてか、名前だけ思い出せんのや。
呼んだらまた――あれが来るような気がするんよ。