《雷風》が角に帯電した稲妻をバチバチと物騒に鳴らす。
一目で威嚇と分かる行動に、ハカリは自身も剣の柄へ手を掛けた。
少しでも身動げば、雷が落とされる。
緊迫した雰囲気に呑まれたノクが、ハカリの背後で短い呼吸を忙しなく繰り返していた。
「落ち着け。これはあくまで幻影。姿を写し取っただけの虚像だ」
殺気を隠そうともせず雷風を睨むハカリに、リュカが困ったように眉尻を下げた。
「……そうは言っても、神殿の中は魔力で満ちてる。どこまで嘘で、どこまでが本当か。兄さんの言葉を鵜呑みにできるほど、僕はもう子どもじゃないよ」
まるで、鷹の目に睨まれた獲物になったような気分だった。
紫紺の色彩は、ただ真っ直ぐに雷風へと注がれている。
ノクを庇うように半身だけ身を乗り出したハカリの姿は、手負いの獣に酷似していた。
「なら、これでどうだ?」
これでは裁決を下すことも満足に出来ない、とリュカが指を鳴らす。
パチン、と乾いた音を合図に、雷風は強固な檻の中へ閉じ込められた。
「初めから、その状態で出してほしかったな」
「それはすまなかった。ここは記憶で造られた場所だから、あまり洒落たことは出来ないんだよ」
「……?」
「では、気を取り直して裁決に移ろう」
リュカは曖昧な笑みを浮かべると、檻の中に放り込んだ雷風へ視線を遣った。
兄の視線を追うように、ハカリもまた雷風の方に視線を戻す。
「《雷風》は文字通り、雷雨を連れてやってくる。《天秤座》に馴染みある害獣だ」
「そうだね。でも、この雷風はどこかおかしい」
「と、言うと?」
「角が折れている……」
枝のように立派な角を持つと言われている雷風に、ずっと違和感があったのはその所為だったのか、とハカリは妙に納得した。
片方が半分ほどの長さで折れていた。
どう見ても、雄通しの縄張り争いが原因で折れたようには思えない。
「もしかして、角が折れたのは人間が原因なんじゃ……」
「ご明察。雷風の角は薬や加工品としての価値がとても高い」
「具体的な値段を教えてほしいな」
「片方だけでも十ノヴァは下らないだろうな。両方納品した場合には、五十ノヴァで買取された記録も残っている」
「じゅ、十ノヴァ!? 城一つ買える値段じゃないの!?」
厳格な試練の最中ではあったが、ノクは提示された金額に思わず目を剥いて叫んでしまった。
一ノヴァですら、平民は一生に一度見ることが出来るか否か、といった大金なのだ。
雷風の角を見る目が変わってしまう、と頭を抱えた彼女を視界の端で捉えながら、ハカリは顎に手を添えた。
「…………」
「質問は残り一回だが、お前の天秤はもう答えが決まっているみたいだな」
猫のように細められたリュカの目に、ハカリは喉元まで迫った言葉を詰まらせる。
この裁決(答え)が正しいのかどうか、分からない。
けれど、一度そう思ってしまったら、それ以外に何も思い浮かばなくなってしまった。
「雷風は天秤に乗せない。乗るのは角を折った人間だ」
「どうしてそう思った?」
「雷風は雨を連れてきてくれる隣人だ。カイザールは渓谷の窪地だから、天気が一定して変わることが少ないし、酷いときには日照りが続くこともある。雷風が好む牧草がこの地に生えているお陰で雨に恵まれていると、子どもの頃から嫌と言うほど聞かされてきた」
だから、角を折られて怒っている雷風の道理は最もだ。
ハカリの言葉に、リュカは歓声を上げた。
そして、その答えを二つの質問だけで導き出した弟の身体を、思い切り抱きしめようと飛びついた。
魔力で造られた身体は、虚しくもハカリの身体を通り抜ける。
だが、気分だけでも彼の身体を抱きしめることができて、リュカは満足だった。
三つの裁決を突破した者が《裁定者》として《星明りの天秤》の主人となる。
ここで本来は姿を見せるはずの《星明りの天秤》が姿を見せないことに、リュカは戸惑いのあまり視線を彷徨わせた。
「おめでとう、ハカリ。《星明りの天秤》はお前を主人として、――何?」
「兄さん?」
「《星明りの天秤》がノクにも《天秤座》としての覚悟を示せと」
兄弟二人の視線を一身に浴びて、ノクは消え入りそうな声で「私?」と返すのがやっとだった。
「《星明りの天秤》が試練に乱入したノクと、お前の天秤を秤にかけろと言っている」
ハカリの意思とは無関係に、ハカリが持つ《善悪の天秤》が姿を見せる。
次いで、三人の眼前に巨大な天秤が現れた。
片方の秤に、《善悪の天秤》が収まる。
もう片方にノクを乗せれば、最後の裁決が始まることは明白だった。
「これってつまり、ノクか《善悪の天秤》、どちらを犠牲にするか選べってこと?」
「……そうなる、だろうな」
「大丈夫よ、ハカリ。貴方は自分の天秤を選んで」
「ノク」
「何の犠牲もなしに帰してもらえるとは思ってもなかったから」
灰色の髪がふわり、と舞う。
その身に纏った紅が、長兄の眼差しを思い出させる。
「それが君である必要はどこにもないだろう」
「え、」
「――裁決を取るまでもない。犠牲にするのは、僕の天秤だ」
命を犠牲にして得る裁定に、意味などない。
誠実さを表すかのように広がっていた真っ白な空間が閃光を放つ。
「今度こそ《星明りの天秤》はお前を主人として認めたようだ」
リュカが柔らかく微笑む。
黄金色に輝く《星明りの天秤》がハカリたちの頭上に姿を見せた。
「俺を導き手として選んだのは失敗だった、とぼやいているみたいだ」
「え?」
「……ここはお前の記憶から造られた試練の間。俺も記憶の断片にしか過ぎないんだがな」
リュカの手が、《星明りの天秤》を掴んだ。
目に痛いほどの眩さを纏った天秤に、ハカリはやおら目を細めた。
瞼の隙間から《星明りの天秤》をこっそりと覗く弟の姿に、リュカが可笑しそうに身を震わせる。
「どうした? 受け取らないのか?」
「――ちょっと、まだ現実味がなくて」
「大丈夫だ。これを受け取れば、元の場所へ戻れる」
それはつまり、リュカとの離別を意味していた。
彼の――兄の腕に抱かれている《星明りの天秤》に伸ばそうとしていた手を、ハカリはぴたりと止めた。
「兄さん」
「ん?」
「兄さんは《裁定者》になって、後悔してない?」
母と同じ、桔梗の花を溶かして煮詰め込んだような紫色の視線が、リュカを射抜く。
「……していないよ。ただ、一つだけ心残りがあるとすれば、セラス兄さんとお前を仲違いさせてしまったことかな」
戯けた口調でそう言うと、リュカはハカリに《星明りの天秤》を半ば強引に押し付けた。
真っ白な光が、ハカリとノクの二人を包み込む。
「天秤と導きの幸あれ!」
最後に聞こえてきたリュカの声は、今にも鼻歌を歌い出すのではないかと思うほど上機嫌なものだった。
◇ ◇ ◇
星は少し遡り、ハカリたちが神殿へと出発した頃――。
ヴェレたちの滞在する診療所に一人の男性が訪ねてきた。
「これは、セラス様。どうされました?」
「いや、何。ハカリが友人を連れ帰ったと聞いて、様子を見に来たのですが、」
「ハカリ様なら、ノクに引き摺られて神殿へと向かいましたよ」
クラレットの診療を終えた医師が、部屋の中へとその男性を招き入れながら言葉を返す。
「ヴェレ殿、こちらハカリ様の兄上でこの街の領主、セラス様だ」
「ご、ご領主様ですか? すみません。ご挨拶が遅れて……。ハカリからは何も聞かされていなかったものですから」
「どうぞ、そのままで。遠慮なく寛いでください。まさかアレがこの街に戻ってくるとは思ってもいなかったので、正直驚いております」
ちら、とクラレットの様子をヴェレの肩越しに窺ったセラスに、ヴェレは「ああ」と少しだけ眉尻を下げた。
「私の姉です。戦闘中に強い毒を摂取してしまいまして。カイザールなら高度な治療が受けられる、と知人の勧めもあり、ハカリに案内をお願いしたんです」
「……なるほど、それで」
セラスはヴェレと寝台で眠るクラレット、そして出窓で手持ち無沙汰に魔導書を捲っているシトラスへと、順に視線を送った。
そして、何かを考えるかのように顎へと手を添え、片眉を持ち上げる――ハカリがよくしている仕草だ、とヴェレは思った――と「よろしければ」と遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「我が家に来ませんか? ハカリが旅の間、何をしていたかお話を聞かせてもらいたい」
「ええっ!?」
珍しく驚いて叫んだヴェレの反応に、それまで魔導書に夢中だったシトラスが漸く顔を持ち上げる。
ハカリによく似た、けれどハカリと違って硬派な印象を抱かせるセラスの姿に、少年はぱちりと瞬きを一つ落とした。
「見たところ、姉君の容体も落ち着いているようだ。これなら屋敷へ移しても問題はないだろう?」
セラスが医師に視線を投げかけると彼は苦笑を浮かべながら「そうだな。アンタのお屋敷なら風通しも良いし」と肩を竦めている。
これは何を言っても聞かないタイプの人間だ、とそこに至って漸くヴェレは悟った。
似ていないと思ったが、とんでもない。
強行突破なところは弟そっくりなセラスに、ヴェレは白旗を上げる他なかった。
診療所の面している坂道をさらに登った場所――街の北東部に位置する見晴らしの良い場所に、セラスの屋敷はあった。
道行くだけで「セラス様!」「おはようございます!」等と、住民から賑やかな声が飛び交う。
「……皆さん、朝からお元気ですね」
「ええ。この辺りは日照時間が短いので、早く起きて早く寝るのが習慣になっていますから」
「だから、お店も閉まるの早いんだ」
ふーん、とシトラスが荷物を抱えているのか、抱えられているのかよく分からない状態でよたよた歩きながら、周りを見渡した。
「君のように観光客には驚かれることも多いよ。酒場もリゲルに比べると閉まるのは早いだろう?」
「オジサン、知ってる? リゲルの酒場に『閉まる』なんて言葉は存在しないんだよ……。年がら年中営業してるんだから」
ギルドの騒々しさを思い出したのか、シトラスが舌を突き出すのに、ヴェレも苦笑を溢す。
「確かに。リゲルはずーっと営業中の看板が出されていますものね」
「それは羨ましい」
「領主様は、ひょっとしてお酒好きでいらっしゃる?」
「ええ。こう見えて、地酒に目がなくてですね。《魚座》の月海酒も飲んだことがありますよ」
「月海酒を!? 正気ですか!?」
あれは飲みものではない、とヴェレは悲鳴を上げた。
深海の最も深い部分の海水と、黒真珠と呼ばれる希少な真珠を混ぜて煮込み、月の光に一年間翳して作る月海酒は、《魚座》の中でも限られた人間しか飲めないほど度数の高い危険な代物である。
無類の酒好きであるヴェレもまた、一口舐めただけで根を上げてしまうほどだった。
「二日酔いならぬ十日酔い、に苛まれましたがね」
「そうでしょうね……。十日で済んだだけでも凄いです」
「前にヴェレが悪酔いしてたお酒?」
「…………うーん、一体どれのことでしょう??」
シトラスの言葉に、ヴェレの口元が僅かに引き攣った。
だが、少年はそれに気付かないまま「えーっと確か、」等と呑気に言葉を続けている。
「黒い瓶の、」
「シトラース?」
ヴェレの目が、猫のようにスッと細くなる。
シトラスは慌てて口を閉ざしたが、時すでに遅かった。
とても成人女性一人を背負っているとは思えない俊敏さで、ヴェレはシトラスの首根っこを掴む。
「余計なことは?」
「言いません……」
「よろしい」
しゅん、と項垂れたシトラスと、そんな彼を見て胸を撫で下ろしたヴェレのやり取りに、セラスは年甲斐もなく声を出して笑った。
「さあ、どうぞ。すぐに部屋を用意させるので、応接間で暫く待っていてくれ」
ひと足先にセラスが屋敷の中へ消えていく。
白と紫紺、今は居ない誰かさんを彷彿とさせる二色を基調に造られた建物へと一行は足を踏み入れた。
床に敷かれている天鵞絨色の絨毯は、毛足が長く、足の裏を優しく包み込む。
これでは歩いているのか、埋もれているのか分からないな、とヴェレが口元を綻ばせていると、シトラスが「わああ!」と感嘆の声を上げた。
「ヴェレ! ヴェレ、見て!」
「何です。大きな声を出して……。クラレットが病人なの、忘れてません?」
「あっ、ごめん。でも、これ見て! 凄いよ!!」
こんなに燥ぐシトラスを見るのは、書店以外では初めてのことだ。
ヴェレはクラレットをソファに下ろすと、シトラスに引き摺られるようにして彼の後を追った。
「……これは、確かに凄いですね」
「でしょ! 上から下まで全部ぎっしり!! しかも《ラティアン書》から《アルデバラン式》まで!!」
「ごめんなさい。シトラス。私、魔導書はさっぱりで」
「全部あるなんてありえないんだよ!! だって《アルデバラン式》はついこの前、発表されたばかりなんだ!!」
「な、なるほど?」
「――それだけではないよ。《クロイツ式》の未発表作もどこかに紛れているはずだ。両親が無類の魔導書マニアでね」
楽しそうな声に誘われるようにして、セラスが階段からゆっくりと下りてきた。
従者に支度を任せてきたのだろう。
他所行きの外套を脱ぎ、動きやすそうな格好になった彼が、シトラスの目線が釘付けになった書棚を指差した。
「二人とも装丁の美術的価値にしか興味がないようで、中身が読めないのだから買い付けは控えるように言っているんだが、聞かなくて困っているんだ」
「も、勿体ない……!」
「表紙を傷付けなければ読んでも構わないと許可を貰っている。滞在中は好きなだけ読むといいよ」
「いいの!? わー!! ありがとう!!」
魔導書が関わると途端に子どもらしさが目立つ。
はしゃいでいる内容――ぶつぶつと何やら魔術めいたことを嬉々として呟いていた――は一つも可愛くなかったが、嬉しそうに目を輝かせているシトラスに釣られて、ヴェレも表情を和らげた。
「これで少しは気も紛れるだろう」
「…………お気遣いありがとうございます」
「いや何。実はノクからの報告を受けて、気になってはいたんだ」
「と、言うと?」
「ハカリが妙齢の女性を連れて帰ってきた、としか聞かされていなかったものだから」
「え……」
ぎくり、とヴェレは肩を強張らせた。
あのとき、ハカリが嫌そうに顔を顰めていたのは、ノクがセラスに報告すると分かっていたからだ。
次いで、彼が自分に向けていた、あの柔らかな表情までもが鮮明に蘇る。
ヴェレは下唇をぎゅっと噛み締めた。
「まさかこんな綺麗なお嬢さんを連れているとは思わなくてね。想像以上に驚いてしまった」
無言になったヴェレに、セラスは困ったように眉根を寄せた。
「押しが強いところは家系なんだ。ご迷惑をおかけしていたら、申し訳ない」
「い、いえ、そんな、」
「ははは。その様子だと、アレには随分手を焼かされているようだ」
言葉に詰まるヴェレを見て、セラスは冗談めかして笑う。
(返答に困ることばかり、聞かないでほしい……)
ヴェレは相手がこの街の領主であることも忘れて、きつく睨みつけてしまった。
「失礼。少し冗談が過ぎたかな?」
「ええ。ご兄弟そっくりで嫌になります」
「……そんなこと、久しぶりに言われた気がするよ」
セラスが微笑んだ。
その顔はハカリが時折見せる表情に似ていて――胸を締め付けるような甘い痛みが、ヴェレを襲うのだった。
