2話『星々の庭』

 半泣きになったソルを見て、ルーシェルが口角を上げる。
 堕天使だった頃の名残か、鼻を鳴らす少年を見ているとどうにも気分が昂揚していけなかった。
 虐め甲斐のありそうなやつだな、と眦を和らげたところをばっちりと細君に見つかってしまうが、知らぬ顔を決め込んで、落ち込む少年の頭を軽く叩いてみせる。

「何、そう悪い話ばかりではないぞ。我が父、オリジンからこれを預かってきた」

 そう言うとルーシェルは己の両手を叩いた。
 真っ白な光と共に現れた対になった双剣をソルの前に差し出す。

「これは?」
「陽刀『アマテラス』と影刀『ツクヨミ』だ」
「三神の皆様がそれぞれの力を込めて造られた逸品です。精霊を宿していますから、滅多なことで壊れず、使用者が悪しきと判断したもののみ両断いたします」

 夫の言葉足らずな説明を、アマネが引き継ぐ。
 受け取った双剣の一つ――アマテラスを鞘から引き抜こうとしたソルだったが、特殊な魔法が施されているのか、がっちりと固まって一向に抜ける素振りを見せないそれに眉根を寄せた。

「ぬ、抜けないんですけどっ!」
「当たり前だ。お前はまだ使用者として認められたわけではないからな」
「えぇ……」
「獣の気配に聡い刀だ。暫くは獣の気配のない場所では抜けんだろうな。だが、お前が真に主として相応しいと判断すれば、お前の意思に反応して抜けるようになる」

 貰った身でこのようなことを思うのは失礼なのかもしれないが、非情に面倒くさい。
 剣の分際で気難しすぎる、と苦虫を噛み潰したような表情になったソルを見て、天使の三人が喉を逸らしながら優美に笑い声を上げた。

「アリア」

 ルーシェルが先程までのからかいを含んだ声音が嘘のように、低い声で娘の名前を呼ぶ。ゆっくりと、父親の前に進み出たアリアの横顔にはうっすらと緊張の色が孕んでいた。
 ソルは、対人形のように並び立ったアリアとルーシェルの二人から目が離せなかった。

「ここから先、俺たちは何も出来ない。出来ることがあるとすれば、お前とそこの小童が死なぬように祈りを捧げることくらいだ」
「……分かっております」
「今一度問う――全うできる自信はあるか」

 しん、と静まり返った部屋の中で、誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。

「私は、天使長ルーシェルと花園の女主人アマネの娘。恐れるものなど、何もありません」
「……そうか」
「はい」

 娘の覚悟をしっかりと受け取ったルーシェルは、先程からぷるぷると肩を震わせて今にも泣きだしてしまいそうな妻の名を小さく呟いた。

「アマネ」
「は、はい。分かっております。分かっている、つもりだったのですが、」

 目に涙を浮かべながら、アマネはパチンと指を鳴らした。

「貴女には私たちからこれを」

 リン、と音を奏でたそれは鈴の付いた長い杖だった。

「叡智の杖です。一振りすれば任意の者を呼び出せます。ただし召喚できるのは、一つの世界につき三人まで。鈴の実が再び鳴るまでの短い時間ですけれど、役に立つはずです。試しにミカエル兄様を召喚してみてください」
「分かりました」

 アリアはゆっくりと瞼を閉じると、その裏で叔父の姿を思い浮かべた。
 ちり、と杖を持っている部分が熱を孕む。
 リーン。

「お呼びかな?」

 その声に目を開けると、精悍な顔立ちの青年が微笑みながら立っていた。

「ミカエル叔父様!」

 嬉しさのあまり抱きついたアリアが杖を投げ出す。
 それを危なげなくキャッチしたソルは、アマネに視線を移した。

「これは、俺にも使用は可能ですか?」
「もちろん。発動条件は、召喚したい人物についての知識を有していることですから。どなたかお呼びしたい方がいるのなら、お試しになってください」
「……」

 そう言われると、誰を呼ぶべきなのか悩んでしまう。

「呼ばれた相手の記憶ってどうなります?」
「貴方と縁が近い者であれば残ります。ただ、異なる世界からの召喚で面識のない者となると記憶は消去されることもありますが……」
「分かりました」

 縁の近い者と言われてソルが思い浮かべたのはただ一人。
 自分と同じ顔をした双子の姉の姿だった。
 杖がソルの魔力に反応して熱くなる。
 リーン、と再び美しい音色を奏でたそれは、眩い光を放った。

「……ソル」

 聞こえてきたのは間違いもなく姉の声で。
 ソルは歓喜のあまり、姉に抱きつこうと手を伸ばした。

「今までどこに行っていた!!」

 ゴン、と鈍い音が部屋の中に響く。
 半泣きの姉、という今まで見たこともない姿を晒したルナに動揺したソルは殴られた頬を押さえてその場に立ち尽くした。
 緩慢な動作でソルに近付いたルナは弟の胸にこつりと額を預ける。

「心配したんだぞ」
「ご、ごめん。姉上」
「無事で良かった」

 痛いくらいの強さで抱きしめられ、ソルも姉の背中にそっと腕を回す。
 小さく震えている肩を見たのは、それこそ母を一人で境界に残したとき以来だった。

「母上たちも心配している。すぐに帰ろう」
「それが――出来ないんだ」
「何?」

 金色と紅の目が鈍く光った。
 一つずつ分け合ったように金色と紅の目を持つソルとルナは、向かい合うと互いの目が鏡を覗き込むように対になる。

「箱庭に居る次元の獣を倒さないといけない」
「……また随分と懐かしい名前を、」
「本当なんだ。ここに浮かんでいる塵は全部、獣に食われた世界の成れの果て、らしい」

 ルナの目がゆっくりと見開かれる。
 今にも零れ落ちそうな姉の目を見つめながら、ソルは自分が冷静さを取り戻していくのを感じた。

「何匹居るのか分からないけど、獣をすべて倒したら元の世界に戻してくれるんだって」
「何だ、その不確定要素満載の約束」
「あはは」
「あはは、じゃない。……お前は、昔からそうだ」
「うん、ごめんね」
 
 リン、と鈴の音が聞こえる。
 どうやら、ほんの数分程度で召喚した者は元居た場所に戻されてしまうらしい。

「姉上。時間がないみたいだから手短に伝えるね。母上たちには心配しないでと言っておいてくれ。それから、何か困ったことがあれば今みたいに姉上や母上たちを喚ぶ方法を教えてもらった。いつ喚ぶかは分からないけど、俺の武器を持ってきてほしいんだ」
「あの馬鹿みたいにデカい大剣を常に携帯しておけとでもいうのか」
「うん」
「…………分かった。母上には私から伝えておく」

 ルナが呆れたように溜め息を零す。
 その姿が、段々と足先から消え始めていた。

「ソル」
「ん?」
「さっさと殺して戻ってこい――お前が死んだときは、私が代わってやろう」
「縁起でもないこと言わないでくれない?」
「ははっ」
「ちょっと、姉上……! あー、行っちゃった……」

 夜色の、父と同じ髪を翻したのを最後に、ルナの姿は完全に消えた。

「愉快なお姉様ですね」

 クスクスと笑い声を噛み殺しているアリアに、ソルは後頭部を掻き乱しながら苦笑する。

「優しいんだか、怖いんだか、いまいちよく分かんない人なんだ」
「あら、随分と仲が良さそうに見えましたけど」
「まあ、仲は良い方だと思うよ。妹の面倒とか一緒に見ていたし」
「妹様もいらっしゃるんですか?」
「うん。可愛いよ。十二個離れているから、何やっても可愛い」

 ステラの姿を思い出して、頬がにやけるのを止められない。
 箱庭に来て初めて笑顔を浮かべた青年に、アリアはそっと安堵の息を漏らした。

「それでは、そろそろ出発いたしましょうか」
「え、そんな急に?」
「昨日からエネルギーが弱っている星があるのです。恐らく獣の仕業ではないかと」
「なるほど」

 コンコン、とアリアが叡智の杖で床を叩く。
 最初に居た真っ白な部屋に戻ってきたソルたちだったが、そこには先程までなかった漆色の扉がデカデカと存在を主張していた。

「お気を付けて」
「アリアに何かあったら殺すからな」

 物騒な見送りを背中に、ソルとアリアが扉をゆっくりと押しながら、一歩を踏み出すのであった。

「…………箱庭?」
「はい。ソルはそう言っていました」
 
 血相を変えて部屋の中に入ってきた娘から聞いた話は俄かに信じがたく、ナギはガンガンと鳴り響く頭痛に蟀谷を押さえた。

「女神サラが連れて行ったくらいだ。何か良くないことがあったのは間違いないだろうね」
「お前はちょっと黙れ。口を開いたら物騒なことばかり言いやがって。この数年の間で、ルナに悪影響が出ているんだよ」

 こてん、と首を傾げながら、魔王が愛娘に視線を移す。

「ええ~? そんなことないよね? ルナ」
「はい、父上。そんなことありません」

 眦を和らげたルナに、ナギはますます頭を抱えた。

「女神サラ以外にも神が居たことに驚いたが、ひとまず獣が相手なら安心だな」
「どういう意味?」
「……獣の殺し方なら、ガキの頃から嫌と言うほど見てきているからさ」

 金色の目が獰猛な光を宿していた。
 ぞくり、と肌が粟立つ殺気に、ヴォルグの目が細められる。

「恐らく最初に喚ばれるのは君だろうね」
「そうかァ? 俺はお前だと思うぜ」
「どうして?」
「母親の勘」

 ええ、何それ~と盛大に笑い声を上げたヴォルグであったが、この数時間後、本当に召喚されることになる。だが、当の本人はこのとき知る由もなかった。

 じりじりと身を焦がす太陽に、ソルは鋭い舌打ちを零した。

「あっつい!」
「……そうですね」
「いや、絶対暑くないでしょ!? 一人だけ羽で日陰作って狡いよ!」
「では、お入りになります? 日差しがないだけで風が生温いことに変わりはありませんけど」
「……遠慮します」

 額にびっしりと汗を浮かべて溜息を漏らすソルと、涼しげな顔をしているが翼の生え際に滲んだ汗が気持ち悪くなってきたアリアは二人して眉間に深い皺を刻んでいる。

「どこかで休まない? 何だか目が回ってきた」
「そうですね。記録によるともうすぐ町が見えてくるはずです」
「……その台詞、さっきも聞いた気がする」
「記録は絶対じゃありませんから。それに、獣が入り込んだ影響で地形が少し変わっている気がするので」
「それを先に言ってくれない? 歩き損じゃん。絶対、さっきの洞窟で水探した方が良かったよ~」

 だらん、と手を伸ばしながら歩くソルの恰好は、砂漠を彷徨う遊牧民の服装に変わっていた。どうやら扉を潜ると同時にその世界に適した服装へと変わる仕組みになっているらしい。
 アリアはと言えば、鮮やかな藤色の布地を身体に巻き付けた特徴的な民族衣装を纏っている。ルーシェルが見たら卒倒しそうだな、と心の中で思いながら、暑いからという理由で結い上げられた髪の隙間から覗く項にソルは苦笑を零した。

「あ、あれです」

 それからどれくらい歩いただろうか。
 足元に纏わりつく砂に辟易していたソルは、アリアの声に反応するのが少しだけ遅れた。

「え?」
「ほら、あれですよ」

 そう言って、アリアの細い腕がソルの腕に巻きつけられる。
 ふわっと香った芳しい花の香りに、思わず顔を背ける。

(うああ、めちゃくちゃいい匂いする……)

 至近距離で女性と接したことのないソルにとって、アリアの行動は目に余るものがあった。
 離れてくれ、と言外に告げようにも、しっかりと捕まってしまった腕に触れることすらも危うく、別の意味で汗が噴き出してくる。

「どうしました?」
「……なんでもありません」
「?」

 町に到着する頃には、ソルの顔はげっそりと疲れ果てていた。
 白いレンガで造られた町並みの間を、頭にターバンを巻きつけた子どもたちが甲高い笑い声を上げながら通り過ぎていく。
 這う這うの体で見つけた食堂らしき建物の中に入るのと同時にアリアから少しだけ距離を取る。
 建物の中に入ったというのに、外と変わらぬ暑さがじわりと肌を焦がしていくような気がした。

「うえ、口に砂が入った」

 ペッと舌を突き出したソルだったが、不意に冷たい殺気が背中に突き刺さっていることに気が付いた。
 背中だけではない。
 四方八方から痛いくらいに鋭い視線が自分へと集中していた。
 テーブル席やカウンター席に座った強面の男たちが眼光鋭くこちらを睨んでいる。
 ふと、腰に帯刀していた双剣が熱を帯びた。
 衣服越しに伝わってくる温度に、ソルの目が獣のように細くなった。男たちに気付かれないよう、慎重な動きで腰に手を動かす。

「あら、いらっしゃい。旅のお方かしら?」

 抑揚のある声が、思わず剣の柄に伸ばしかけた腕を諌めた。

「はい。水を頂けませんか? すぐそこの砂漠を越えてきたばかりで、喉がカラカラなんです」

 アリアはハッとした表情で隣に立つ男を見つめた。
 先程まで狼か何かのように鋭い光を宿していた瞳が、常のそれに戻っている。

「まあ! それは大変だ。待ってなよ。すぐに井戸水を汲んできてあげるから!」
「い、いえ、そんな悪いです! 場所を教えてもらえれば自分たちで汲んできます」

 慌ててアリアが女将の申し出を断れば、彼女は構やしないよと笑い飛ばしながらも、店の裏口へと案内してくれた。

「そこにある井戸を好きに使いな。お代なら、アンタらが来た道すがらの話でいいからさ」
「ありがとうございます」
「いいよ。困ったときはお互い様って言うじゃないか」

 女将は気風の良い四十代の女性だった。
 この辺りの人々は焼け付くように眩い太陽から身を護るために、頭にターバンやスカーフを巻くことが多いようで、ここから先の地域へと行くつもりなら布を買った方がいいと助言を貰う。
 見れば、女将自身も顔を覆うように少し分厚い生地で出来た鮮やかな朱色のスカーフを頭に巻いていた。

「特にあんたみたいな別嬪さんは気を付けた方がいい。未婚なら尚のこと。赤系統のスカーフを巻きな。そうすりゃ、既婚者って意味になるからね」
「どうして、未婚なら気を付けないといけないんですか?」
「この先に、フーリヤという港町がある。一週間くらい前から海賊が出るようになって、未婚の娘を攫うって言う話だ。現に、この町に暮らしていた若い娘も何人か攫われているしねぇ……。この先も旅を続けるなら、用心なさい」

 最後の言葉は、誰かに聞かれるとまずいのか、小さな声でぼそぼそと囁かれた。
 女将の話を聞いて顔を見合わせたソルとアリアである。
 二人して神妙な表情になった旅人に女将は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、次いで彼らがどのような経路でここに辿り着いたのかということに興味が移ったらしい。

「それで? どこを通って来たんだい?」

 と、自らが造り出した神妙な空気も忘れて、明るい調子で言ってのけた。

「えーっと、僕たちウェルっていう田舎から出てきたんですけど、運良く出会ったキャラバン一行のラクダに乗せてもらって次のオアシスまで、ご一緒させてもらったんです。それから少し観光するのにそこで二日くらい泊まって、昨日から一日かけて砂漠を超えてきた感じですかね……」

 よくもまあ、ないことないことをそう簡単に思いつけるものである。アリアは素直にそう感心しながら、汲んだばかりの井戸水を貰った水筒に入れ替える男を一瞥した。
 実際は、砂漠の前で開いた扉に鋭い舌打ちを零し、ほんの三時間ばかし歩き続けただけである。この場合、天使であるアリアにとっては「ほんの少し」という表現になるが、ソルにとっては「地獄の」が付く三時間であったことは言うまでもない。

「はー。ウェル、ねえ? 悪いが聞いたこともない名前だ。そんなに遠いところから来たのかい?」
「……ここだけの話なんですけどね」
「な、なんだい」

 嫌に真剣な面持ちで女将に近付いたかと思うとソルはぼそり、とその耳元に爆弾を投下した。

「実は僕たち駆け落ちなんです」
「えっ!?」

 これにはアリアも女将と一緒になって目を剥いた。
 一体何を言いだすのだ、と叫びそうになったアリアに、青年がしいと唇に指を添え、静かにしているようにと視線だけで制する。
 となれば、手持無沙汰になったアリアができることは、女将がどんな反応を示すのか固唾を飲んで見守ることくらいである。

「こりゃあ、また珍しい。駆け落ちだなんて、私らの時代でもそんなに見ることなかったよ」
「といっても、家出同然で飛び出してきただけなんですけど……」
「それでも大したもんさ。うちの息子なんて口を開けば仕事に行きたくないだの、飯がまずいだの、文句ばっかりでねえ。そんなこと言う暇があるなら、嫁さんでも見つけにいけってんだよ」

 豪快に笑い飛ばした女将に好感を持ったのは、アリアだけではないらしい。
 駆け落ち、というとんでもない話を持ち出したソルも、彼女の笑顔を見て、自分も白い歯を見せて笑っていた。

「こんな面白くもない話ですみません。井戸の水、本当に助かりました」
「……本当に、ありがとうございました」

 努めて、愛想良く微笑みながら御礼の言葉を告げたつもりのアリアであったが、その口元はひくりと引き攣っていた。それと言うのも、ソルの口から出た言葉のほとんどがでたらめな物だったからである。
 天使は清廉であれ、という言葉を信条として育つ。
 嘘や偽りなどは悪魔が得意とするそれであるからだ。
 黙っていたとはいえ、間接的に嘘をついてしまったことに、途方もない罪悪感を抱いたアリアは、真剣な表情で腕を組むソルを見て眉根を寄せた。

「全く……。呆れて物も言えない、とはこのことです。よくもまあ、あんな風に次から次へと嘘が思いつけるものですね」

 嫌味をちくちく突き刺されても、ぴくりとも表情を変えないソルに、アリアは更に眉間の皺を深くした。

「聞いていますか?」
「ん? ああ、ごめん。半分くらい聞いてなかった。何? 嘘をついちゃいけないって?」
「ええ。仮にも聖剣を託された身なのですから、そういうことは控えてください」
「次から気をつけま~す」

 青年の口元が弧を描いた。けれど、その目はどこか遠くを移しており、アリアの言葉が全く胸に響いていないことを語っていた。

「それで? 何がしたかったんですか?」

 記念すべき初仕事である。これ以上、怒りを持続させて、獣の発見を遅らせることだけはなんとしても避けたい。

「さっきの食堂に居た男たちなんだけどね」
「ええ」
「多分アレが噂の海賊だと思うよ」
「何ですって!?」

 先程、出てきたばかりの建物を振り返ろうとしたアリアの腕をソルが掴んで引き留める。

「振り返っちゃダメだ。気付かれる」
「な、何に?」
「尾けられている」
「……一体、どうするつもりなんです」
「天使さまって、走るの得意?」

 こちらの問いに応えないどころか、こてんと首を傾げて質問に質問を返してくる青年に、アリアは本日何度目になるのか分からない溜め息を吐き出した。

「いいえ、と答えたらどうなさるんですか」
「そのときは、担いで走ろうかなって」
「結構です。布を買ったら、すぐにでも走れます」
「りょーかいしました」

 ふふ、と楽しそうに笑った青年とは裏腹に、アリアの心中は穏やかではない。
 この後、走らなければならないことが待ち受けているのかと思うと、人間でいうところの胃がキリキリと痛んだような気分に陥った。