7話『幻の歌い手』

ガンガンと痛みを訴え始めた蟀谷に、ヴェレは文字通り頭を抱えた。
《歌い手》を選別するためには、海底で眠る《魚座》の星獣《イクテュス》を目覚めさせる必要がある。
本来であれば、先代が行方不明になった時点で、次の《歌い手》は決まるはずだった。
それなのに、導であるはずのイクテュスは次代の歌い手を決めることを良しとしなかったのだ。

「イクテュスって、確か《魚座》の星獣だよね」
「ええ。星獣の中でも珍しいヒト語を解する魔物です」

幼い頃に何度か会話したことがあるのを思い出し、ヴェレの眉間に皺が寄った。

「イクテュスはまだ、父様が生きていると信じていたいのでしょうね……」
「え、」
「…………すみません。ただの独り言です」

ヴェレたちのやり取りを、男は黙って聞いていた。
じっと伺うように、こちらに視線を遣す男へとハカリが肩を寄せる。

「それで? イクテュスは起こせそうなのかい?」
「……いや。俺たちは《乙女座》に騙されたらしい。奴らの本当の目的は別にあった」
「別の目的、ねえ」
「俺たちもそれを調べているところだ。出来れば、力を貸してもらえないだろうか」

男が悪びれもせず、そんなことを宣うので、ハカリは失笑を禁じ得なかった。
整った眉毛と一緒に口角を持ち上げる。

「貴方は何か勘違いをしているようだ」
「何だと?」
「言ったはずだよ。僕たちはギルド連盟に頼まれて調査に来た、と。それならば、相応の報酬を支払うのが礼儀というものではないのかな?」

からん、とハカリの手の中で善悪の天秤が揺れた。
《天秤座》がそれをチラつかせる意味に、男の顔から血の気が失せていく。

「わ、分かった。報酬は支払おう」
「だってさ、レディ・ヴェレ。――どうする?」

気が付けば、男の周りをシトラスとヴェレも取り囲むようにして立っていた。
長身のハカリとヴェレはもちろん、幼いながらに鋭い眼光を宿したシトラスの迫力に、男は「ひっ」と喉を鳴らす。

「そうですねぇ。これくらいでどうです?」

ヴェレが右手の指を三本立てた。

「さ、三十ステラか?」
「まさか……! それだと三人で分けるには少ないじゃないですか」
「で、では、三百――さ、三ノヴァも出せと!?」
「出せないならば、この話は無かったことに。連盟に戻ったら、私が見たままを報告させてもらいます」

搾り取る気だ、と溢したシトラスに、ハカリも力強く頷きを返した。
毒を吐き出した蛇のように恐ろしい発言からは考えもつかないほど綺麗な笑みを浮かべたヴェレの姿に、二人は天を仰ぐことしか出来なかった。

◇ ◇ ◇

鼻歌混じりに先を行くヴェレの後ろ姿に、ハカリは拍手を送った。

「まさか、あそこから更に報酬を釣り上げるとは思わなかったよ。流石、僕の見込んだレディだ」
「それ、褒めてます? だって釈じゃあないですか。真珠海の名前を聞いただけで震え上がるような奴らにタダ働きさせられるなんて」

気にしていないと言っていた割に、しっかりと根に持っていたようである。
こてん、と可愛らしく首を傾げたヴェレだったが、紡がれた内容はまあまあに酷かった。

「五ノヴァもあったら、半年は仕事受けなくてもいいよね……。あ、新しい魔導書買ってもいい?」
「そうですね。坊やも最近頑張ってますし。いいでしょう。二冊までなら許可します」
「やった~~!!」

喜びを全身で表すかのように燥ぐシトラスに、ヴェレとハカリも釣られて笑みを溢す。
何を買おうか、と勇足で先頭を進むシトラスを追っていったハカリを見送ったヴェレだったが、不意に耳朶を打った音色に眉根を寄せた。

この街――《北の海》に到着したばかりの頃から、海鳴りの音が断続的に響いていた。
喧騒に賑わう街中を歩けば、少しは小さくなるかと思っていたが、それはまるでヴェレを呼んでいるかのように激しさを増している。

嫌な予感が背中を撫でていく。
ぞわり、と頸が逆立つような感触に、ヴェレは奥歯をきつく噛み締めた。

「レディ? どうかした?」
「え、あ、ああ。少し港の方が騒がしいな、と思いまして」
「……本当だ。言われてみれば、そうだね」

行ってみるかい、と聞こえたハカリの声が思っていたよりも近い場所からのもので、ヴェレは接近に気付かなかった動揺を悟られないよう小さく頷きを返す。

「二人とも~! 行かないの~!?」
「ごめんなさい、シトラス。少し、港の様子が気になって。先にそちらへ行っても構いませんか?」
「いいけど……」
「すぐ済みますから」

ごめんなさい、ともう一度謝ったヴェレに、シトラスは緩く眦を下げた。
それから少し瞳を揺らしたあと、おずおずと言った様子でヴェレの手を遠慮がちに引っ張る。

「僕、別に怒ってないよ。ほら、行こう」
「え、ええ」

姉弟のような微笑ましいやり取りを見せた二人に、ハカリは堪らず「んふふ」と笑い声を溢してしまった。

「何です?」
「何? ハカリ、不気味だよ」
「んはっ! あはは! いや、失礼! 随分と仲睦まじいものを見せられて、少し嫉妬してね。僕も混ぜてはもらえないだろうか?」

芝居がかった口調で腕を差し出され、シトラスは思わず助けを求めるようにヴェレの顔を仰いだ。
ヴェレも同じような顔をして、こちらを見下ろしている。

「…………そんなに? そんなに間を空けるほど、嫌なのかい??」

目に涙を浮かべ始めたハカリの姿に、先に折れたのは意外にもヴェレの方だった。

「良い歳をした男性がこんなことで泣かないでください。ほら、坊やの左手が空いてますから、」
「じゃあ、レディの右手を!」
「……嫌ですよ。絵面を考えてください」
「ちょっと、ヴェレ。それどういう意味? 僕なら問題ないってこと!?」

きゃらきゃらと三人が笑いながら港に続く道へと入った時だ――。

「だぁら、言ってんだろうが!! アタシは《天海の槍》マスターだってよォ!! 正規の許可証も読めねえのか!!」

聞き覚えがある――否、嫌と言うほど、よく知っている声が耳膜を震わせる。

「クラレット」

ヴェレの凛とした声がその場を制した。
海風に撫でられた赤毛が、ばさりと豊かに唸るその下で、金色の双眸が挑発的に光っている。

「おーう、ヴェレ! 丁度良いところに来た! お前からもアタシがギルドマスターだって説明してくれ!」
「……残念ながら、知らない人です」
「おい! こら、てめえ!」
「…………すみません、この人僕たちのギルドマスターで間違ってません」

これ以上、騒ぎを大きくされたくなくて、シトラスがわっと船着場まで一気に駆け抜けた。
小さな魔導士の頭をもみくちゃにしながら、小型船から降り立った荒くれギルドのギルドマスターは、にかっと白い歯を見せて満足げに笑っている。

「そぉら、見ろ。こいつらはうちのギルドでも一番の腕利き《黄昏》の二人だぞ。これ以上、何の証明が必要だってんだ」

鼻を鳴らして仰け反って見せたクラレットの姿に、衛兵はたじたじだった。
申し訳ありません、と腰を低くしながら、入港許可証の真鍮で作られたブレスレットを懐から取り出している。
それを乱暴な動作で――見た目に似合わない粗暴さである――奪い取ったかと思えば、先ほどまでの不機嫌が嘘のように鼻歌混じりでヴェレたちに近付いてきた。

「はあ~きつかった! やっぱし、船旅は性に合わねえな!」
「でしょうね。というか、どうしたんです? ギルドマスターが自らやってくるなんて」
「お前らが連れて帰ってきた《乙女座》の娘がな、受付仕事に興味あるって言うからミントとその娘に押し付けてきた!」
「……はあ」
「んだよ。アタシだって外に出たいときくらいあらァ」
「分かりました。分かりましたから、その口調を何とかしてください」

美人を台無しにする口の悪さに、ヴェレは思わず義姉の口を塞いだ。
まだ掌の下でもごもごと何かを喚いていた気はするが、ひとまず場所を変えようとシトラスとハカリにアイコンタクトを送る。
彼らは心得た、と言わんばかりに力強く頷くと、クラレットの荷物一式を持って、その場を逃げるように駆け出すのだった。

「それで? どうして、《北の海》(こんなところ)に?」
「また《水瓶座(アクアリウス)》の予言が出た」
「……今度は何と?」

ヴェレたちが、野営地にと決めた場所は街から少し離れた森の中だった。
夜星を迎え、空の果てが薄ら紫に染まり始めたその風景を視界の端に収めながら、ヴェレはクラレットに視線を遣った。

「アイツら、見たままを伝えられない制約があるからな。要約すると《星の涙》っつーのを集めろ、みたいな感じだったか」
「《星の涙》? 何です、それ?」
「さあ。アタシもそこまで詳しくは分からん。だが、一つだけ確かな予言があった」

ごくり、と誰かが生唾を飲み込んだ音が、静かな森の中に木霊する。

「星獣《イクテュス》と対峙せよってな」
「イクテュスと対峙? イクテュスに会う必要があるってこと?」

シトラスが不安そうに瞳を振るわせながら、大人たちを見回した。
彼らもまた幼い少年の気持ちが痛いほどよく分かった。
中でもイクテュスは原初《はじまり》の星獣と呼ばれ、畏怖されている星獣である。
人語を解する分、他の星獣と比べれば友好的に見えるかもしれないが、死と隣り合わせな状態――星獣本来の資質も勿論持っていた。

「……イクテュスなら、何とか出来るかもしれません」
「ああ! そうか! レディは《魚座》だから!」
「はい。彼女は《魚座》の守護者ですから、私には手出しできないはずです」
「そうと分かれば、怖いもんはねぇな! 早速明日出発しよう」

パチン、とクラレットが指を鳴らした。
呑気な姉に、ヴェレが珍しく肩を落とす。

「イクテュスは海を漂いながら、眠りに就いているんですよ。あの御仁の様子だと今はこの《北の海》に居るんでしょうけど、どうやって探すって言うんです」
「そこはお前、坊やが居るじゃねえか」
「え、僕?」
「漸く《水球(ネレイア)》の出番、ってわけだ!」

クラレットの言葉に、シトラスは目を輝かせた。
それは前々回の報酬でもらったばかりの魔法で、未だ実践したことはない。
つい嬉しくなってギルドで見せびらかそうとしたシトラスを、クラレットとヴェレが全力で止めたからである。

「へえ、シトラスくんは色んな属性の魔法を使えるんだねぇ。羨ましいな」
「ハカリだって《祝福持ち》だから、二つ使えるじゃないか」
「そうだね。だけど、君のように魔導書は扱えないから、」
「僕はハカリも充分すごいと思うけどなぁ。だって、あのヴェレがたじたじだったんだもの」
「んふっ、何だか照れるな~~」

でれでれと顔を溶かしたハカリの姿にヴェレが片眉を持ち上げる。

「まあ、だらしのないお顔。ひっぱ叩き甲斐がありそうですねぇ」
「え、あ、いや、そんな……っ!」
「叩くと言われて喜ばないでください。気持ち悪い」
「ご、ごめんよぅ」
「ちょっと、坊やに寄らないでください。悪い虫が付きます」
「ええ、そんなぁ」

すっかり二人と馴染んでいる優男の姿に、今度はクラレットが片眉を持ち上げる番だった。
義妹は昔から見た目に反して人当たりがきつい。
《星影の乱(アストラ・ベリタ)》で孤児になったことが一因なのだろうが、そんな彼女が出会ってまだ数日の人間と戯れあっていることに、クラレットは驚きが隠せなかった。

「姉さん? どうかしました?」

機敏に聡いヴェレがそれに気付かないわけもない。
ハカリの頬を抓っていた手をパンパン、と軽く払う――酷いよぉと抗議の声が聞こえてきたような気がしたが、知らないふりをする――と、こちらを凝視したまま動かないクラレットの側に雛鳥のような足取りで近付いた。

「……ん、いや。何でもねえよ?」
「何でもない、って顔をしてませんけど?」
「いいから、行こうぜ。少し長居しすぎたみたいだ」
「!」

金色の瞳が、ヴェレの背後――木々の隙間を睨むように鈍く光る。
彼女が言いたいことを悟ると、まるで荒波がゆっくりと凪いでいくようにヴェレは静かになった。
表情までも静かになったヴェレを見て、シトラスとハカリも追っ手の気配がすぐ側までやってきていることに気付く。

「行きましょうか」

夜明けを待ちたかったが仕方ない。
ヴェレの言葉に全員が短く頷きを返した。