島中――ここは外界から遮断された離島であるらしい――に響き渡る軽快な口笛の音色に、ハカリは顔を曇らせた。
伝達が早い、ということは素晴らしいが、裏を返せば見張りの兵士が混乱するほど、敵が四方から攻め入ってきている、と考えることも出来る。
「……止まって」
先を進んでいた兵士を呼び止めるが、伝わらない。
彼はそのまま駆け出し、そして――頭部に突き立った矢によって、無言のまま倒れ伏した。
どさり、と地に伏した兵士の身体から、温い血が音もなく白理石の敷き詰められた道を染めていく。
ハカリは一拍の沈黙ののち、小さく息を吐いた。
倒れた兵士から距離を取るようにして身を引き、剣の柄に手をかける。
口笛はまだ止まない。
それどころか、むしろ、増えてきている気がする。
――いや、気のせいじゃない。音が、周囲を囲むようにして反響していた。
(……呼応してる?)
左手奥から、右の茂み。そして背後へ。
同じ旋律が、わずかに音程をずらしながら広がっていく。
まるで、ハカリを中心に円を描いているようだった。
――包囲されている。
気付いたときには、既に遅かった。
濃い影が、建物の隙間から滲み出すように姿を現す。
赤銅色の甲冑に身を包んだ兵士たち。
彼らは一糸乱れぬ動きで、じわじわと間合いを詰めてきていた。
「……なるほどね」
どうやら最初から、この場所へ誘導されていたらしい。
ハカリは自嘲気味に口角を持ち上げた。
「降りてきなよ。そこに居るんだろう?」
闇夜に浮かぶ紫紺の瞳に、影が揺らめく。
自身を取り囲むようにして姿を見せた赤銅色の甲冑を纏った兵士の中に紛れて見知った顔があることに、ハカリは眉尻を下げた。
赤銅の兵士たちと頭二つ分は身長差が開いた大男――《北の海》を統べる領主・メーアが後方で仁王立ちしている。
その瞳が、瞬きすら忘れたようにハカリを捉えていた。
驚愕か、怒りか、それとも――失望か。
「……こんな形で貴方と再会することになるとは、」
「それはこちらの台詞だ。何故、君がここに居る」
ハカリが言葉を掛けるより早く、メーアの口元が僅かに歪んだ。
「僕は《天秤座》としての役割を全うしているだけですよ」
「――君は、まさか」
「剣を向けられている相手に、これ以上話す義理はない。貴方がその刃を収めると言うのであれば、話は別だが」
「やっと抜く決心がついたものを戻せ、と言うのか? それこそ、君に言われる筋合いはないな」
メーアの目が、ハカリを鋭く睨みつけた。
外つ海の《魚座》が真珠海に攻め入る――それが何を意味しているか分からないハカリではない。
爛々と輝く瞳の中に、男の覚悟を見た。
だからこそ、ここで退くわけにはいかない。
「では、僕もヴェレのためにこの剣を振るうことにしよう」
「そうか。やはり、彼女が選ばれたというわけか」
「ご想像にお任せするよ」
「ならば、これ以上の会話は無意味というもの。――者ども、かかれ!!」
メーアの号令に、赤銅の兵士たちが一斉にハカリへと飛びかかった。
流麗な弧を描いて迫ってきた曲刀を、半歩身を引くことで難なく躱す。
そしてその勢いのまま、逆手で引き抜いた剣を、空気を切り裂くように払った。
斜めに跳ね上げた一撃が、男の肩口から胸板にかけて深く切り裂き、甲冑の留め金ごと吹き飛ばす。
「ぐあ!?」
甲冑を斬り裂くほどの膂力に、攻撃を受けた兵士が周囲を巻き込みながら吹っ飛んでいった。
動揺が、騒めきとなって波紋を広げていく。
「これではレディの言葉が正しかった、ということになるね?」
『この街の魚座は臆病なんですねぇ』
メーアのことだ。
あの酒場にいた男たちもきっと何人か連れてきているはず。
そう予想を立てた上での挑発だったのだが、思った通り――兵士が一人、鎧と同じかそれ以上に顔を真っ赤にして怒りに打ち震えている。
「この野郎!!」
振り下ろされた刃が、すぐそこまで迫る。
男の剣先がハカリの首筋を捉えた――。
「《交刻(フィルダ)》」
チュッと剣に口付けを落とす。
浮遊感が身体を襲ったかと思うと、ハカリの身体は崩れた瓦礫の真っ只中にあった。
ハカリが立っていた場所には、先ほどまでこの場所に埋もれていた男が、地面にぐったりと横たわっている。
「……《天秤座》の固有刻印か」
「さあ? どうだろうね」
「厄介な。その男に構っている時間はない! 二手に分かれて族長を探せ!」
メーアの雄叫びを受け、男たちはハカリに向けていた刃を収めた。
次いで、走り始めた彼らを横目に捉えつつ、ハカリはメーアに疑問を投げかける。
「《乙女座》に何を吹き込まれた?」
「それを聞いてどうするんだね」
「返答次第によっては、ここで貴方を殺す必要がある」
「…………中立を重んじる《天秤座》とは思えない発言だ」
「中立とは秩序。秩序が乱されようと言うのであれば、僕たちはその乱れを排除するために容赦はしない」
言い終えた瞬間、瓦礫の間をすり抜けてきた海風が、ハカリの外套を大きくはためかせた。
鈍い音とともに、また一つ建物の壁が崩れ落ちる。
焦げたような匂いが鼻を突き、遠くで爆音が響いた。
◇ ◇ ◇
シトラスの放った《火球》が、次々に侵入者と街を爆破していく。
さながら、巨大な炸裂弾のように炎が弾けては消え、を繰り返す光景に、族長を始めとした《真珠海》の民は開いた口が塞がらない様子だった。
「……ちょっと派手にしすぎなのでは?」
「そうだぞ、坊。これじゃあ、ハカリが囮になった意味ねえだろ」
「全員まとめてぶっ飛ばせって言ったのは二人じゃないか! 文句があるなら、ちょっと手伝ってよぉ!!」
それはいや、と姉妹の声が揃うのに、シトラスは目に涙を浮かべた。
ハカリが飛び出して行ったのが合図となって、ヴェレたちの周りにも続々と侵入者が姿を見せたのである。
正直、手助けに入ってやりたいのは山々だったが、ヴェレとクラレットの前に立ち塞がった敵はそれを許してくれそうにない。
一人が下がれば、後方に控えているもう一人が現れる――二人組の特殊な剣術に、流石のヴェレも防戦一方だ。
その一方で、黒い外套を深く被った男たちの姿に、クラレットはどこか既視感を覚えていた。
「な~んか、見たことある気がするんだよなァ」
「やっぱり姉さんとは、男の趣味が合いませんね」
「そうじゃねえっつの。ん~~どこで会ったんだっけか……」
攻撃を崩さない、二段構えの剣術。
クラレットが眉間に皺を寄せたのと、男の一人が口角を持ち上げたのは同時だった。
「姉さん!!」
ヴェレが翠嵐の鉾を間一髪で掬い上げる。
ガン、と鈍い音が鳴り響き、クラレットの鼻先で剣が止まった。
翠嵐の鉾によって受け止められた刃越しに、灰色と視線が交差する。
――お前は筋が良いな。流石、アイツの娘だ。
ずっと蓋をしてきた、子どもの頃の記憶が意図せず、膨れ上がった。
肌を刺す、ひりついた殺気と、こちらを値踏みするような視線に、怒りで頭が真っ白になる。
「…………ザイン」
クラレットの声に、男が嬉しそうに破顔した。
「覚えていてくれて嬉しいよ。クラレット」
「このッ!!」
クラレットは衝動のまま、ヴェレを突き飛ばすと、男――ザインへと間合いを詰めた。
短刀を引き抜き、ザインの目玉を狙って振り下ろす。
「いつも言っていただろう。感情に任せて、攻撃するな、と」
まるで、悪戯をした子どもでも嗜めるかのように、ザインはそれを軽々と受け止めた。
苦い感情がクラレットの胸中をじんわりと満たしていく。
「姉さん! 後ろです!」
ヴェレの声に、クラレットは半身を翻した。
眼前の男によって、何十、何百と身体に叩き込まれた動きだ。
掴まれた腕とは反対の手でもう一本、短刀を握り込む。
振り返るよりも早く、クラレットの短刀が背後に迫っていた兵士の胸を穿った。
「やはり、お前は筋が良いな。あのとき、お前を殺さなくて本当に良かった」
「……ふざけんなっ!! アタシから、二人も父さんを奪っておいて!!」
「ああ――その目も、父親にそっくりだ」
怒りで血が沸騰して、どうにかなりそうだった。
呼吸が上手く出来ない。
空気を取り込もうと焦れば焦るほど、肺が軋んで、ままならなかった。
「どうした? もう終わりか?」
「…………姉さんから、離れてください!!」
翡翠が閃く。
ヴェレの投げた翠嵐の鉾を、ザインは後ろへ大きく跳躍することで軽やかに避けてみせた。
まるで、舞でも踊っているかのようだ。
子どもの頃と同じ感想が、自分の中から湧き上がることに、クラレットの顔が苦痛に歪む。
「大丈夫ですか?」
「ああ、悪い」
「いえ。立てます?」
「……バカにすんな。これくらいで、折れるわけねえだろ」
背後では未だ爆発の音が響き渡っていた。
二人の元に新たな敵が姿を見せない。
それは煙の向こうで、シトラスが奮闘している何よりの証だった。
「早いとこ、決着をつけてやらねえとな」
「そうですね」
鋭い光を宿したクラレットの瞳に、ヴェレは短く息を漏らした。
音もなく双刀を引き抜くと、柄同士を組み合わせる。
両刃の薙刀へと姿を変えたそれに、ザインが興味深そうに片眉を持ち上げた。
「その武器――そうか! お前が噂に聞く《黄昏》のヴェレか!!」
「あら、私の名前をご存知で? それは、」
光栄です。
一歩踏み出したヴェレは、低い姿勢のままザインの懐に飛び込んだ。
瞬きの間に現れた彼女の姿に、それまで表情を崩さなかったザインに動揺が走った。
「《水刃》!」
ヴェレの髪が、海の魔力を帯びて、銀色へと変貌を遂げる。
閃いた薙刀から、水流の刃が飛び出し、ザインに襲いかかった。
その一つが、彼の腕を掠めていく。
「……っ! これは、なかなか!」
少し避けるのが遅れていれば、腕を切断されていた。
冷たく、鋭い――心地の良い殺気に、ザインの口元が綻ぶ。
「噂に違わぬ戦士だ。ならば俺も、全力を出せるというもの!」
ここに来て初めて、ザインの得物が姿を露わにした。
鎖同士で繋がった大手の鎌が、月の光に照らされて、怪しく光る。
「避けろ、ヴェレ!」
クラレットの叫びに、ヴェレは反射的に後ろへと飛び退いていた。
先ほどまで立っていた場所が、大穴を開け、見る影もない。
「……迂闊に近付くなよ。ああなりたくなきゃな」
「え、ええ」
「良いか。アタシに合わせろ。出来るな?」
「はい!」
そこからは言葉なんて要らなかった。
クラレットが跳躍したのを合図に、ヴェレが地面を駆け抜ける。
上空からナイフの雨が、ザインへと降り注いだ。
両腕の鎌を振り回すことで、それを凌いだ彼だったが、すぐそこまで迫ったヴェレには気付いていなかった。
「《稲妻》!」
迸る雷が、ザインを捉える。
「ぐあ!?」
あのアンタレスをも怯ませた雷撃。それすらも、ザインを抑え込むことは出来なかった。
ヴェレの刃を鎖で捉えると、空中のクラレット目掛けて彼女の身体を放り投げる。
クラレットは体勢を整えかけて――眼前に投げ出されたヴェレに、思わず手を伸ばした。
「油断すんな、バカ! 《蠍座》(アタシら)は魔力耐性高いんだぞ!」
「すみません……うっかりしていました……」
もう一度、攻撃を仕掛けようと二人が体勢を整えた――そのとき。
「お待ちください」
族長たちと一緒に逃げたはずの巫女、ヴァレシアの声が凛と響き渡った。
「我が歌を、星獣イクテュスと《歌い手》様に捧げます」
爆音が遠のき、辺りに柔らかな光が満ちた。
まるで、この島全体が、彼女の祈りに耳を澄ませているかのようだった。
我が刃は イクテュスの剣
我が鎧は イクテュスの衣
星の歌を紡ぎし、歌い手
魚座の守り手、イクテュスよ
我らに力を 授けたまえ
ヴァレシアの声に呼応するように、島の空気が一変した。
足の裏からも、地面が低く唸り声を上げているのが伝わってくる。
息を呑んで固まったヴェレの胸元――鎖骨に刻まれた《魚座》の紋章が真っ白な閃光を放つ。
「これは……!」
頭の先から、足の裏まで、海の魔力で満たされていくのが分かった。
「ヴェレ、お前――!」
驚きに震えるクラレットの声に、ヴェレは顔を持ち上げた。
崩れた建物の硝子に写っていたのは、地面を引きずるほど伸びた銀髪と、星々の煌めきを宿した青い、蒼い瞳。
まるで、海の化身と謳われるイクテュスの姿を写し取ったかのようなその姿に、敵味方関係なく視線が釘付けとなる。
「面白い! 星獣の加護と俺の剣技、どちらが上か試させてもらうぞ!」
正気に戻ったのは、ザインが先だった。
鎖を起点として、鎌を振り回し、ヴェレへと迫る。
「ヴェレ!」
「《歌い手》様!」
クラレットとヴァレシアの悲鳴が二重奏を奏でる。
焦っている様子の二人に、ヴェレは緩く首を擡げた。
どうして、二人がそんな顔をしているか分からなかったからだ。
ザインはただゆっくりとこちらに向かってきている。
パッと軽く飛び上がっただけで、建物の上空まで跳躍したヴェレに、ザインは勿論クラレットたちも目を剥いた。
「あ、あら? いつも通り、飛んだつもりだったのですが……」
「……っ!」
海の魔力がヴェレの脚力を更に強化しているのだろう。
常にも増して、高く、高く舞う彼女の姿に、クラレットは余計な心配だったかとため息を漏らす。
潮風に煽られたヴェレの髪が、月明かりに反射して、幻想的な光を放っていた。
「……どうやら、少々イクテュスの力を侮っていたようだ」
ぞわりと、全身の毛がよだつほどの殺気に、クラレットは短刀を握る手に力を込めた。
背後に立つヴァレシアを庇うように躍り出た彼女だったが、ザインの目がこちらを捉えていないことに、眉間に皺を寄せる。
彼の目は、ただ一人。ヴェレだけを視界に収めていた。
「…………野郎ッ!」
ぎり、と奥歯を噛み締めたクラレットだったが、次いで飛び込んできた光景にその怒りは燃え上がる前に鎮火した。
「《潮流刃(テトラウム・グラディウス)》」
ヴェレの一声に、夜空を流星が滑り落ちていく。
それまで防戦一方だったザインを簡単に吹き飛ばした星々の一撃――海の魔力を帯びた銀髪が繰り出した斬撃が、夜の闇に淡い軌跡を描いた。
「良い! 良いぞ! 《魚座》の戦士・ヴェレ!」
瓦礫の山から平然と立ち上がったザインを見て、クラレットは咄嗟に短刀を投げた。
だが、その短刀が肩に突き刺さったにも関わらず、男は動じる素振りも見せない。
もう一度、と手を上げたヴェレに、ザインの高笑いが響いた。
「無駄だ。それはさっき見せてもらったからな」
父の横顔と、ヴェレが重なる。
妙な胸騒ぎに、クラレットは右耳のピアスへと手を伸ばした。
そこにはヴェレが冗談半分で持ち帰ったアンタレスの毒を仕込んである。
黒い液体がちゃぷんと可愛らしい音を立てて揺れているのを見て、クラレットはゆっくりと瞼を落とした。
自分を庇うようにして倒れ伏した父親の事切れる瞬間が、瞼の裏にありありと浮かぶ。
「――――なら、今度はアタシと我慢比べだ」
迷いはなかった。
手中で揺れていた毒を、迷わず煽る。
毒が喉を通り抜けた瞬間、全身を焼け付くような熱が駆け巡った。
それと反するように、胸に宿った覚悟が冷たく、鋭さを増す。
呻き声を噛み殺しながら、クラレットは地面を蹴った。
灰色の目が、漸くこちらを映す。
一撃、一撃だけでいい。
(父さん、アタシに力を貸して……!)
毒の魔力を右腕に纏う。
刹那、ザインの蟀谷に赤い筋が走った。
クラレットの拳に浮かんだ刻印――《蠍座》の星獣・アンタレスの意匠に、男が笑みを深める。
「なるほど! アンタレスか! これは参った……っ!」
「大人しく、沈みな! アンタはアタシが地獄へ連れていく!」
潮風の音だけが響く戦場に、深い霧が立ち込める。
崩れ落ちたクラレットの身体を、生白い腕が受け止めた。
「懐かしい気配がしたから来てみれば、なんぞ物騒なことをしよるのう」
そこだけ空間が切り取られたかのように、やけに時間がゆっくりと流れていく。
パチン、と水泡が弾ける音が響いた。
虹色の魔力が《真珠海》の空を染め上げていった。