22話『暁と共に眠れ』

「随分とお粗末な術式じゃのう」

フラーがふうっと息を吹きかけると、氷柱の一つがあっけなく砕け散った。
空気中に舞った氷の結晶に、女魔導士の額に青筋が浮かぶ。

「何をしたのッ!?」
「お前さんに教えたところで、理解できんだろうよ」

意地悪く細められた柘榴の双眸が、風に煽られた前髪の隙間で瞬いた。

「お主らまで呆けてどうする。悠長なことをしている暇はないぞ」

敵が動揺している間にルクバトの元へ急げとフラーが言外に告げる。
ヴェレは言われるがままアストラガルの腕を引いて走った。
去り際に、姉の――クラレットの横顔に「お気をつけて」と言い残していくのも忘れない。

「……誰に言ってんだっつの」

短剣を逆手に持ち直すと、クラレットは眼前の男に意識を集中させた。
生白い顔をしたザインがにやり、と口角を持ち上げる。

「義父さんの腕を移植したってことは、自前のはアンタレスの毒が回ったのか」
「ああ。お陰様でな。この通り、使い勝手が悪くて困っている」
「どの口が、」

軽々と巨大な斧を振り回してみせたザインに、クラレットの眉間に深い皺が刻まれる。
ひりついた殺気で場が満たされていくのを感じながら、シトラスはゆっくりと彼らの間に割り込んだ。

「何してる、シトラス! そこを退け!」
「退かない。この人たちには聞きたいことがあるんだ」

ねえおじさん、とシトラスは臆することなくザインに問いかけた。

「《獅子座》のオーラン、って名前に聞き覚えない?」
「……知っていたとして、俺がそう簡単に教えると思うか?」
「ううん。思わない。――だから、」

「僕が勝って、おじさんたちの口を割らせるよ」

その目に宿るは、正に獅子の獰猛な光だった。
これからお前を屠ると、小さな身体から発せられたとは思えないほどの強烈な殺気に、ザインは勿論、女魔導士もまた声もなく固まった。

「炎よ、幾重にも咲き乱れ、敵を焦がせ――《火華(インフェリス)》!!」

氷を見たときから、ずっと試したいと思っていた魔法を紡ぐ。
フラーとの修行で、周囲の魔力を取り込む術式を学んだシトラスの魔法は、相対属性の氷を感知したことで、その威力を増幅させた。

空に咲いた炎の大輪に、クラレットが思わず「すげえ……」と口走る。

「何、驚くのはまだ早いぞ」

凄いのはここからだ、とフラーがまるで自分のことのように得意げに鼻を鳴らす。
二人の会話を何となく耳で拾い上げながら、シトラスは絡めた指に力を込めた。

「撃ち落とせ」

シトラスの声に、火華の炎が一際激しく燃え上がった。
そして、次々に、拳ほどの大きさの火球を生み出していく。
明けの空を真っ赤に照らすほどの火球が、ザインたちを捉えた。

「子どもが背伸びしたところで、《乙女座》の私――氷刃のナージャに勝てると思って?」

生意気だわ、とナージャが指を鳴らした。
音もなく出現した巨大な氷壁が、火球を受け止め、蒸気を発生させる。
そして、「ついでにあちらも牽制しておきましょうか」とぼそりと呟きながら、ルクバトに向かって氷の槍を投擲した。

「その驕りがお主の敗因じゃな」
「なっ!?」

大量の蒸気は、互いの視界を奪った。
けれど、それはフラーにとって何の楔にもならない。
むしろこの蒸気が彼女の味方となって、音もなくナージャの懐へと入り込めた。

「《口封》を付与すると、こういうことも出来る。覚えておけ」
「身体刻印……まさか、貴女は……ッ!!」
「悪いが今はお喋りしている暇も惜しい。少し頭の中を覗かせてもらうぞ!」

ナージャの額に手を伸ばす。
稲妻が走ったような、鈍い痛みがフラーとナージャの二人を襲った。
ばたり、と二人して倒れ込んだ彼女たちを尻目に、シトラスとクラレットは、ザインに向き直る。

「魔女は抑えた。どうかな? 降参してくれる?」
「だはははは! これはやられたな! だが少年。一つ忘れているぞ」
「何を?」
「……《蠍座》は執念深いんだ」

そう言って、ザインが影の中に沈んだ。
気配が完全に消える。

「どこ、」
「シトラス!!」

クラレットがシトラスの身体を蹴り飛ばす。
突然の衝撃に、視界が真っ白になった。
じーんと痛みの余韻を残した頭を振って視線を戻す。
先ほどまで自分が立っていた場所から、斧が突き出ていた。

「……相変わらず、勘が鋭いな」
「てめえのやりそうなことは、お見通しなんだよ」

ぬっと影の中から顔を出したザインに、クラレットの短剣が唸りを上げる。
首を捻ることで、それを避けたザインが、影から飛び出し、クラレットへと蹴りを放った。
鈍い衝撃音が、辺りを満たしていく。

「あ、ありがとう、マスター」
「おう。悪いな、思いっきり蹴っちまって」
「ううん。大丈夫だよ」
「……まだ、やれそうか?」

クラレットがザインを睨みつけたまま、シトラスに問うた。
その真剣な表情に、シトラスもまた、ザインへと向き直った。

「誰に言ってるの、それ」
「お前、ますますヴェレに似てきたな」
「げ……。あんまり嬉しくないなぁ……」

シトラスはそう言って肩を竦めると魔導書を捲った。
まだ覚えている途中の魔法で一つ、面白いものがあったことを思い出したのだ。

「マスター。《蠍座》って光属性も耐性強い?」
「…………他の属性に比べると耐性は低いな」
「つまり、弱点ってことだね!」

喜色満面の笑みで頷き返した少年に、今度はクラレットが「げ」と舌を突き出す番だった。

「――お喋りは終わったか?」

低く掠れた声が、耳朶を撫でる。
鼻先を鈍い風切り音が掠めていった。
シトラスの首根っこを掴んだまま、後ろへ飛び退いたクラレットの動きに、ザインが満足そうに笑みを深める。

「流石、アンタレスの毒を御しただけのことはある。お前なら俺を凌ぐ《夜穿つ棘槍(ヴェスピナ)》にもなれただろうな」
「黙れ!! お前が《夜穿つ棘槍》を語るな!! 《黒蠍(ザハラク)》の名を踏み躙った裏切り者が!!」

怒りで短刀を握る手が小刻みに震えた。
ともすれば、血が滲むのではないかと思うほど強く短刀を握りしめるクラレットの姿に、シトラスは小さく息を吐き出した。

「さっきから気になっているんだけどさ……。おじさん、何を待っているの?」
「…………何の話だ」

ザインの瞳に、一筋の翳りが生じた。

「やっぱり、あの人を気にして攻撃できないんでしょ。だって、」
「――! ひょっとして、あの女が《星断つ斧》を制御してんのか!」

クラレットがシトラスの言葉を引き継ぐと、ザインの顔からみるみる表情が抜け落ちていった。
それまで笑顔だったのがひび割れるように消え、代わりに深い皺が眉間に刻まれた。
星筋を辿るように天を仰ぎ、まだ夜の名残を浮かべる淡い光を鋭く睨みつける。

「お前は本当に、ヴァルクスの娘にしておくのが勿体無い、良い戦士に育ったな」
「……黙れッ!! 父上を侮辱するな!!」

クラレットの怒りに触れた星の魔力が彼女の髪をゆらり、と持ち上げた。
真紅の髪から冷たい黄金の光が溢れ出す。
稲妻が走ったように鋭い殺気を真正面から浴びたザインは、重い身体を引き摺るように斧を構え直した。

二人同時に走り出す。
剣と剣がぶつかり合い、鈍い音が辺りを木霊した。その瞬間――。

シトラスの凛とした声が、二人の間を貫いた。

「光を纏いし結晶よ。敵を封じ、動きを凍てつかせよ――《封晶(ルクスクリス)》!

少年の祈りは、男の影をしっかりと捉えた。
分厚い硝子の向こうに閉じ込められたザインの姿に、クラレットが瞬きを繰り返す。

「坊や、一体いつの間にこんな高度な拘束魔法を覚えたんだい?」
「えへへ~。前から一度使ってみたいと思ってたんだ~」
「でかしたぞ。トドメは任せな!」

「クラレット!! 避けてください!!」

然して、クラレットの想いは叶わなかった。
ヴェレの悲鳴が聞こえたかと思うと、暴風が吹き荒れ、辺り一面の大地を根こそぎ巻き上げていく。

こちらを見下ろすルクバトの冷たい瞳を最後に、クラレットたちの視界は真っ黒に染まった。

◇ ◇ ◇

「姉さん!! シトラス――ッ!!」

黒い竜巻がシトラスたちを飲み込んでいく。
大地の引き裂かれる音がまるで、悲鳴のようにヴェレの耳を劈いた。

それは、一瞬の出来事だった。

氷柱がルクバトの身体を貫いたかと思うと、ルクバトが怒りと痛みの混じった叫びを上げた。
ルクバトの声に応えるように、暴風が吹き荒み、大地が割れる。

彼らに出来たのは、ただ黙って黒い渦を見送ることだけだった。

「…………《天誓》は、《天誓》はまだ続いているのですか」

ぽつりと溢したヴェレの問いかけに、アストラガルは静かに頷いた。

「続いているとも。むしろ、ここからが正念場だ」

アストラガルの言葉を掻き消すかのようにルクバトの咆哮が天を衝く。

「氷柱でルクバトの動きが鈍くなった。今なら矢が届くかもしれん」

タリクがアストラガルの隣に並び立ちながら、言った。
「ああ……。そうだな」とアストラガルが、肩を並べた青年の精悍な横顔を尻目に、《星導の弓》を持ち直す。
チェルカ草原から巻き上げられた朝露の香りを纏った風が、アストラガルの頬を撫でていく。
幼い頃、母がそうしてくれたように柔らかく肌の上を掠めていったそれに、唇を引き結んだ。

《朝翔の谷》が自分を見守ってくれている。

後ろに控えた戦士たちもまた、自分の一挙手一投足に熱い視線を注いでいるのを感じた。

「《魚座》と《天秤座》の戦士たちに願う」

硬く引き絞られた矢のように、何かを堪えるように震えたアストラガルの声が夜明けの空に低く轟いた。
ヴェレとハカリは、思わず顔を見合わせた。
そして、ゆっくりとアストラガルの前に歩みを寄せる。

「どうかこの戦いを見届けてほしい。例え、それがどのような結末を迎えるとしても」
「……アストラガル様」

ヴェレが彼の真意――己の命を賭けるつもりだということに気付いて、咎めるように彼の名前を紡いだ。

「承った」
「ハカリ、」
「この《天誓》は、《射手座》の戦いだ。部外者の僕たちに出来ることはないよ」
「でも、」
「そうだろう。タリク殿」

アストラガルの決意を、ハカリは受け入れた。
そして、《流星の矢》の覚悟を尊重したハカリの問いに、タリクは彼の顔をじっと見つめ返した。

「…………気遣い、感謝する」

吐息のようにか細い声を漏らしたかと思うと、タリクは駆け出していた。
これ以上、アストラガルの側に居ては、彼を引き止めてしまう。
余所者が《流星の矢》の覚悟を受け入れたのだ。
《射手座》の自分が、彼の決意を無駄にすることだけは避けたかった。

矢を番え、狙いを定めたタリクの後ろ姿を、アストラガルは眩しいものでも見るかのように目を細めた。
初めて弓矢を与えたときの、幼いタリクの顔を思い出す。

「そういえば、まだこれは教えていなかったな」

アストラガルは一人笑みを浮かべると、《星導の弓》の弦に指を添えた。
爪先に意識を集中させる。

「天より舞い降りしは、雷霊の矢」

それまで澄み渡っていた空に、突如として稲妻が走った。
アストラガルの持つ《星導の弓》に閃光が迸る。

「――《雷霊閃矢(ライラカ)》!!」

放たれた矢が、ルクバトへ向かって真っ直ぐ飛んでいく。

ひらりと舞った鈍色の羽に、アストラガルは「ありがとう」と笑顔を手向けた。

「――アウステル」

アストラガルの放った矢は、アウステルごと、ルクバトを貫いていた。
バキン、と何かが砕ける音が、辺りに反響する。

「……どうして、アウステルを!」

ヴェレが信じられないと口元を押さえる。
アストラガルは答えの代わりに深く息を吐き、弓を支えながら静かに目を閉じた。

「彼が……《流星の心臓》だった」
「え、」

その一言の重さに、戦士たちの顔から血の気が引いていく。

「そして、私も――」

その続きを言う前に、咳き込むように血が喉を溢れさせ、彼の身体は大きく傾いだ。

「《流星の矢》!!」

戦士たちの輪から、シャナールが慌てて駆け寄った。
遠くで、タリクが弓矢を番えたまま、信じられないものを見るように、目を丸くして固まっている。

「……《流星の心臓》は眷属である暁鷹の王がその身に宿して守る。そして、《流星の矢》として契約を結ぶのだ」
「そんな……!」
「…………悲しむことはない。我々はそうして、《流星の心臓》を守ってきた」
「いや! いやだ! 逝かないで、《流星の矢》!」

シャナールの目から止めどなく流れ落ちる涙が、流星のように煌めいて、アストラガルの頬を濡らした。
自身と同じ、銀の髪と灰の瞳を持って生まれた少女に、そっと手を伸ばす。

「忘れるな。弓矢はどちらかが欠けても意味を成さない。――《星導の弓》が、お前たちを導いてくれるだろう」

胸を押さえながら、アストラガルは目線だけでヴェレを呼んだ。
側に駆け寄って膝を折ったヴェレに、アストラガルが口元を綻ばせる。

「《歌い手》に頼みがある」
「はい」
「星送りの歌で送り出してほしい。月の宮へと無事に渡れるように」
「……はいっ。はい! 必ず!」

ヴェレはしっかりとアストラガルの手を握って答えた。

「《流星の矢》、」

子どもの声が、アストラガルの胸を打った。
今にも泣き出しそうに、声を震わせたタリクに、幼い頃の彼の姿がゆっくりと重なる。

「お前たちなら、大丈夫だ」

呼吸が荒くなっていく。
小さく、早く。
そして、アストラガルは、最後にもう一度、夜明けの空を見上げた。

「……良い土産話が、できた」

吐息と共に言葉を吐き出し、アストラガルの瞳は静かに閉じられた。
彼の鼓動が、夜明けの白を纏った大地に溶けてゆく。

《流星の矢》は、暁と共に眠りについたのだった。