ネイヴェスのこどもたち

コンコン、と控えめなノック音が響く。
ここが病院であることを踏まえてなのか「兄さん?」と告げられる声も、いつもより小さい。

「起きているよ」

扉から姿を見せたユタにホロは苦笑を零す。
彼女の手には、魔力計測器や魔力安定剤など様々なもので溢れかえっていた。

「アギア兄さんの様子はどう?」
「まだ、目を覚まさないみたいだ。多分、旭日様が身体を再構築したときに、魔力を消費しすぎたのが原因かもって桔梗ちゃんが」
「そう」
「ああ」

それきり、言葉が途切れた。
ユタが持ってきた器具を調整する音がやけに大きく響く。
ガンガンと痛みを訴える頬と頭にホロは起こしていた上体から力を抜いた。
病院の固いベッドの上に身体を預けることにも慣れてしまった所為で、どのあたりに頭を落ち着けるのが良いか、すっかり身体が覚えてしまっている。
そんな兄の様子に、ユタは片眉を上げると、魔力計測装置を投げて渡した。

「なに?」
「前に測ったの、三日前なんですって? 婦長にきちんと測ってもらわないと困りますって、私が怒られたのよ」
「そんな毎日測らなくても、一週間に一度くらいで良いだろう?」
「兄さん?」
「分かった、分かった。測りますぅ」

嫌々ながらも魔力計測器を握った彼に、ユタは満足そうに頷いた。
ピピッと軽やかな音で計測器が叩きだした数字を伝えれば、ユタの表情が僅かに曇る。

「やっぱり、世界樹の麓で魔力を使ったから、回復が遅いのかしら? それとも、キチンとした食事と睡眠が足りていないから……」
「お前それ、後半は俺の不摂生に対するお小言じゃないか」
「あら、本当のことでしょう? 日頃から生活リズムを整えていれば、多少の無茶をしても、数日安静にしていれば回復するはずよ」

段々とユタの目がつり上がっていく。

ホロは居心地悪そうに枕へ額を擦りつけた。

「兄さん? 聞いているの?」
「聞いている、聞いている」
「まったく……」

こんな風に兄妹で話をするのは久しぶりだった。
西の国では『双子』を『神の愛し子』と呼んだ。
一つの魂が神の祝福を受けて同じ存在に分けられる。そうして、互いの魂を、考えを認識出来ると西の国では言い伝えられていた。
ホロもユタも、幼い頃は互いの考えていることが何でも分かった。
言い伝え通りだ、と親類の誰かが嬉しそうに笑っていたのを今でも鮮明に覚えている。

「ねえ、兄さん」
「ん?」
「私が今、何を考えているのか当ててみて」

ユタの目が猫のように細められる。
自分と同じ金色の目を見て、ホロは片眉を上げた。
それは二人が子供の頃から気に入っているお遊びだった。
大人になった今では、する機会も減ってしまったそれを突然求められて、ホロの顔が渋くなる。

「……俺と、旭日様のこと?」
「半分正解、ね」
「半分、というと?」
「アギア兄さんが抜けているわ」

ふふ、と笑った妹の顔が、子どもの頃のそれと重なった。
釣られて、ホロも笑みを浮かべる。

「それじゃあ、私はもう行くわね。ちゃんと婦長の言うことを聞くように」
「分かっているよ。もう耳にタコが出来るくらい聞いているからね」

また来るわ、と言い残して病室を後にしたユタの後姿を見送って、ホロはゆっくりと瞼を下ろした。
病院で生活をするようになって、もうすぐ半年になろうとしている。
今でもまだこれが現実であるということを信じられない。
シアンがアギアを負ぶって戻ってきたとき、ホロは溢れ出る涙を止められなかった。
久方ぶりに見た兄の穏やかな表情に、気が付けば衝動的に駆け寄っていた。
泣きながら何度も「ありがとう」を繰り返すホロに、シアンはいつもの仏頂面で言ったのだ。

『俺は騎士として当然のことをしたまでだ。礼を言われるようなことはしてねえよ』

その言葉にホロは救われた。
銀色の獣がにっと歯を見せて笑った姿が、ホロの脳裏に焼き付いていた。

最初に視界へ飛び込んできたのは、見慣れない真っ白な天井だった。
次に気が付いたのは、独特な消毒液の香り。
父が好んで使っていると言っていたものと同じ香りに、アギアは重い頭をゆるく振った。

「気が付きました?」

知らない声が耳を打つ。
声の主を探して視線を彷徨わせれば、向こうもそれに気が付いてくれたのか、顔立ちの整った女性が視界に入った。

「貴女は……」
「まだ、無理に動かない方が良いですよ。七年間も身体を乗っ取られていたのですから」

七年間。
女性に告げられた年数に、アギアは意識を手放す直前に見た景色を必死に思い出そうとした。
だが、靄の掛かったように記憶が不鮮明で、辛うじて思い出せたのは泣き出しそうな顔のホロが「兄さん!!」と自分を呼ぶ声だけだった。

「そうだ、ホロ! ホロは、どこに」
「大丈夫です。ホロさんなら、別室で治療を受けていますから」

安堵で身体から力が抜けていく。
起こそうとしていた上体を元に戻すと、アギアは自身の傍らに座る女性を注視した。

「…………その刀、そうか。貴女が」
「お初にお目にかかります。創世龍の神子、桔梗です」

そっと頭を垂れた桔梗にアギアは遠慮がちに手を振って顔を上げるように促した。

「顔を上げてください、殿下」
「ですが、」
「私は何の役にも立ちませんでした。ただ、弟を守りたい一心で旭日様を身体に封じたは良いものの、結局はあの子と貴女に重荷を背負わせてしまった」
「それは……」
『それは違うぞ、アギアよ』

桔梗の許しもなく、彼は悠然と刺青から姿を見せた。
その神々しい姿を見て、アギアの目が大きく見開かれる。
かつて遭遇した彼は、禍々しい殺気と憎しみ、この世のすべての不幸を身に纏っていると言っても過言ではないほどの負のオーラに包まれていたはずだ。
だが、眼前の旭日は違った。
血で濡れていた眼は、本来の緑に戻り、眦は柔らかくこちらを見つめている。

「お久しぶりです」
『我はずっとお前の中に居たがな』
「ええ。ですが、お姿を拝見するのは、あの日以来ですので」

旭日の顔が渋くなる。
ああ、こんな顔も出来るのか、とアギアは何故だか無性に嬉しくなった。

『お前は何も出来なかった、と言ったが、それは違う。お前が我を封じていた為に、アメリアの魔法が殊更効いたのだろうよ』

あれが自身の肉体であったのならば、あそこまで効き目はなかったかもしれない。
だが、旭日に肉体は無く、依り代のアギアを通して魔力体の旭日にアメリアの魔法が刻まれたのだと考えると辻褄があった。
旭日は口を一文字に結ぶと、じっとアギアの顔を覗き込んだ。ホロと違い茶色がかった――錆のような赤みを帯びた眼を片方しかない己が眼で見つめる。

『ほんに憎らしい顔よな』

急に黙ったかと思えば、今度は罵倒され、アギアは困惑を極めた。
そのくせ、未だに自分から視線を外そうとしない白龍に曖昧な笑みを浮かべる。

「えっと……?」
『ごめんなさいね。アギア。彼ったら照れているのよ。消滅しなかったのは、貴方の魔力に助けられたお陰だから』

くすくすと笑いながら姿を現した彼の対――華月に桔梗が堪えかねたように笑い声を漏らした。

『誰が照れているだと?』
『あら、違ったの?』
『断じて違う!』

夕暮れの病棟に、金糸雀が歌を奏でるように、桔梗の声が響き渡る。

「お二人がこんな風に会話できるようになったのも貴方のお陰です。だから、どうか自分のことを卑下しないでください」

許されたような気がした。
何が、許されたのかは分からない。
だが、彼女の言葉でアギアは身体が軽くなったのを感じた。

「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ」

眦から温かいものが零れていくのが分かる。けれど、アギアはそれを拭おうとは思わなかった。
喜びの涙だったからだ。
こんなにも歓喜に打ち震えたことはなかった。
嬉しくても涙が出るのを今日初めて知った。

「意識が浮上してすぐに押しかけてしまって申し訳ないのですが、もう少しだけお付き合い頂けますか?」
「え、ああ、はい。それはもちろん」
「貴方の身体は七年間、旭日様に乗っ取られていた影響で、成長速度が異様に遅くなっていました。恐らく魔力の殆どを魔力体である旭日の修復に専念していたことが原因であると考えられるのですが、肉体年齢が二十代前半で停まっています」

そう言われて初めてアギアは己の手をじっと凝視した。
本来の年齢を考えると、まだ発達途上の少年のような名残を残したそれに、フッと口元を和らげる。

「……俺が選んだことですから、悔いなどありません。それに、俺自身もあの頃のまま、時が止まってしまっているようなものなので、丁度良いと思います」
「後遺症、とでも言えばいいのでしょうか、恐らくこの先も貴方の肉体はひどくゆっくりと歳を取ることになります」
「構いません」

はっきり、と言い放ったアギアの姿に、今度は桔梗が瞑目する番であった。
どこかホロとユタを彷彿とさせる眼光の鋭さも然ることながら、内に秘めた思いの強さ――信念を貫き通す、言い出したらキリがないところは血を感じさせる。

「……やはり、貴方もネイヴェスなのですね」

嬉しそうに破顔した姫君は、それだけ言い残して部屋を去った。
残されたアギアは、そんな彼女の後姿を見送って、窓の方へゆっくりと視線を向ける。
数年ぶりに見た景色の中に、知っているものは何も存在していなかった。
ただ「帰ってきた」という懐かしい感覚だけが、ゆっくりと身体を満たしていく。

「兄さんっ!!」

いつか聞いた声と共に、扉が悲鳴を上げる。
最後に見た時より、ずっと大きく、そして精悍な顔立ちになった弟が息も絶え絶えに、そこに立っていた。

「ホロ」

名前を呼んだ途端、涙を流しながらその場に崩れ落ちた彼に、アギアはどうして良いのか分からず、おろおろと視線を彷徨わせる。
そこへ、同じ顔がもう一つ現れた。

「……アギア、兄さん?」
「君は、ユタかな?」
「はい。初めまして」

ふわり、と笑った妹に、アギアも釣られて笑みを零す。
こんな風に穏やかな時間が訪れるとは思いもしていなかった。
母を失って途方に暮れていたアギアの前に、父を名乗ったネイヴェス卿が現れてから数か月。
アギアの時間はそこで、ぷつりと途切れていた。
けれど、こうして二人の弟妹達を前にすると、自分が取った行動は無駄ではなかったのだ、と改めて思った。
出会ったばかりの自分にすぐに懐いてくれたホロ。
あの頃は会うことが叶わなかったが、ホロやネイヴェス卿の話にいつも登場していたユタ。
そんな二人とこうして対面できたことに、胸の奥が熱く疼いた。

「あははっ!」

アギアの声を皮切りに、それまで泣いていたホロと、彼を支えようと手を伸ばしていたユタが一緒になって笑い声を上げる。

「はーっ、こんなに笑ったのは、生まれて初めてかもしれない」

喉を逸らしながら、そう言ったアギアに双子が思わず顔を見合わせた。
そして、二人してひどく芝居がかった様子で立ち上がると、長兄の寝台にそっと腰を下ろす。

「これから、毎日笑って暮らせるよ」
「いやと言うほどね」

風で持ち上げられた赤毛の隙間で、金色の半月が四つ並んでいる。

「そう、だといいな」

再び零れ落ちた涙で頬が濡れるのも構わず、アギアは二人の弟妹を抱き寄せた。
懐かしい太陽の匂いが肺を満たす。
彼らを照らすように、真昼の太陽が爛々と光を放っていた。