――男は笑っていた。
降り積もる白い雪の中、小高い丘の上に影が一つ。
からから、と声高に笑う男の声が突風に煽られ、空に消える。
乱暴な吹雪が肌を撫でる度に、男の肌は赤みを増した。
「……やっと、お前に会える」
男が喜びに震えた声で、ぽつりと零した。喜びに打ち震える手を空に向かって伸ばす。
見上げた先は、灰色の重い空に覆われていた。
「待っていろ、」
吐き出した息は白く、空が零した雪の結晶の中に吸い込まれていく。
「……邪魔だ」
男は眉間に皺を寄せると、雲に向かって右手を翳した。
辺りを蠢いていた凶悪な風が、男の手に吸い込まれていく。
そして、吸い込まれたそれは勢い良く空に放たれた。
――ゴウッ。
獣が低く唸り声を上げるように風は威力を増して、空に向かって昇っていく。
やがて雲に到達する頃には、小さな竜巻のような姿になった。
見る間に分厚い雲を吸い込み、夜空が本来の色を取り戻す。
辺りを優しい闇が包むのに、男の口元に笑みが浮かんだ。
腰を下ろしていた場所からゆっくりと立ち上がると、音もなく地面へ着地する。
「ああ、嬉しや! 今宵は何と月が綺麗なことか!」
黄金色に輝く月が男の赤く染まった目を、肌を、醜く浮き上がらせる。
男が着ていたのは、古の王族が好んで着ていたような滑らかな肌触りのものだった。本来であれば、美しい純白の生地でえられたはずのそれは、しい量の血で汚れ、見る影もない。
狂ったような赤が男の手を、目を、そして心を、醜く汚していた。
真新しい白の絨毯が敷き詰められた地面へ、男が足を踏み出そうとした刹那――地を這うような低い唸り声が男の背に響いた。
『待て……!』
痛みに染まった声で告げられた言葉に、男は振り向きもしなかった。
月を見つめたまま、フッと小さく笑みを零す。
「まだ、動けるとはな。なるほど、俺たちを模倣して造った価値はあるということか」
木々の泣き声が響いては消え、雪の中に吸い込まれていく。
雲が再び月を隠すのを合図に、男はゆっくりと背後を振り返った。
一頭の赤い龍が大きな翼をひろげ、鋭い目で男を睨んでいた。
『同胞を殺めた者を、易々と逃がす訳にはいかぬ……!』
「同胞、ねえ? これだから、貴様らは嫌いなんだ」
肩を竦める男に向かって、龍は勢い良く炎を噴射した。
空気中の酸素と魔力を取り込んだそれは次第に大きく熱量を増し、男に向かって飛んでいく。
だが、男は動かなかった。
片方しか開かぬ目で向かってくる炎をじっと見つめていた。
「お前を見つけたら、こんな世界すぐにでも壊してしまおう。そして、二人きりの世界を――あの頃のように、俺とお前だけの世界を造ろうか。なあ、華月……!」
――俺は、お前以外何もいらないのだから。
男はそう言って不気味に笑うと、炎に向かって手を翳した。白い絨毯と化していた雪が男の掌に集まり、巨大な壁となって炎を飲み込む。
あっけなく消えた炎に龍は気を取られた。
ヒュッ、と風切音が辺りに木霊する。
容易く龍の懐に入り込んだ男の赤い眼が、爛々と輝いていた。
「消えろ。そしてあの世から見ているがいい。俺がこの世界の王となる姿を!!」
龍の左胸に、男の手が触れる。
男が少し力を加えると、龍は後方へと吹っ飛んでいった。
掌に残った龍の残骸がドク、と脈打つ。
男は確かめるように『龍だったもの』を一瞥すると、天に向かって放り投げた。
すると、どこからともなく烏が現れ、開いた口でそれを飲み込んでしまう。
そうしてゆっくりと降下し、男の肩に着地してみせた。
『あーあ……。またこんなに散らかしちゃって……。知りませんよ?』
可愛げのない鳴き声を漏らした烏に、男は表情を顰めた。
「構わん。今ので、いくつになる?」
『……おめでとうございます。ぴったり九十九体目です』
「チッ」
男は舌打ちを零すと、突然自分の胸を押さえて苦しみ始めた。
それを見た烏が慌てたように、口から淡い光を吐き出す。
光がそっと男を包み込むと、男の乱れた呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していった。
『ここは本来、華月様の領域。長居は禁物です』
「だが、あと一体は……」
『俺に任せてください。すぐにでも、ご用意してみせます』
男は眉根を寄せたが、烏はしゃがれた声で笑っただけで気にも留めない。
そして煙と共に大きくなると、男の前に跪く。
『帰りましょう、旭日様』
巨大な烏が闇夜へと羽ばたく。
あとに残ったのは、冷たい静寂と赤に染まった雪の丘――高く積み上げられた龍の亡骸だけだった。