第二章、水面の騎士 - 2/5

二、

 医務室は団長室を出て階段を下りた突き当たりの部屋だった。その奥には渡り廊下があり、ホロの隊が作業場として使っている別棟の建物がある。

 別名「双子の研究室ネイヴェス・ルーム」と呼ばれる医務室は、ホロとユタの第二の執務室のようなものであった。
 階段を引きずられたことで意識が回復したのか、歩き始めたホロの後に桔梗と桜花が続く。
 中に入ると二人は簡易な椅子に座らされ、ホロは机の前の椅子を陣取った。

「じゃあ、桜花さんから。刺されたところってどの辺り?」
「人型になると分かり辛いですけれど、この辺りに切っ先が」

 鎖骨付近を触りながら桜花が顔を顰める。それに頷きながらホロは書類に筆を走らせた。

「君は深く刺さっていないんだよね? あの破片を俺が握った時、どんな感じだった?」
「抉られているような感覚がしました」
「そうか……。念の為、渡り廊下の奥にある建物に行ってくれない? ユタと第四小隊の子たちに言って本格的に調べて貰おう」

 桜花を医務室から別棟まで案内したホロが小走りで戻ってくる。
 桔梗を見る目が少しだけ不安そうに揺れた。

……桔梗ちゃん。脱いで、今すぐに」
「きゃーセクハラー」

 棒読みで言いながら桔梗は鎖帷子を脱ぎ捨てた。露わになった黒のインナーから濃い血の香りがして、ホロの顔が歪む。

「まったく、君は! 痛いなら痛いってはっきり言わないと!」
……痛くないんですよ、それが」
「え?」

 緩く笑いながら桔梗が肩の傷に触れる。

「実はさっきから感覚がないんですよね~」

 困ったな、と笑う彼女にホロが目を剥く。

「困ったな、じゃねえよ!! 何でもっと早く言わないのさ! あーもうッ! この子だけは!!」

 桔梗の座っている椅子を回し彼女が背中を向くようにすると、断りを入れてから傷口が見えるようにインナーへ切れ目を入れた。
 ホロが医療用の手袋を付けてインナーを捲れば、むわっとした嫌な気配と共に血の匂いがより一層濃くなる。

「これは……
「うわ、何これ」

 二人の眉根に皺が寄る。シアンが回復魔法をかけて塞がったかと思われていた傷が復活し、血と共に黒い魔力が傷口から溢れていた。

「触るよ」
「は、はい」

 痛みは無いとはいえ、血が出ている所為で桔梗は妙な気分になった。ホロの手が触れているのに触られている感覚が一向になく、気味が悪くなってくる。

……術印があるねぇ。斬られた時、ちょっと痺れなかった?」
「そう言えば、一瞬だけ」
「多分、その時に組み込まれたんだろうね。君の魔力を吸うように術式が組まれている」

 ホロが面倒臭そうに溜息を吐いた。手袋を取り外し、引き出しの中を引っ掻き回し始める。
 やがて目当ての物が見つかったのか、桔梗にそれを投げた。
 おっと、と言いながら桔梗は受け取った物を見て怪訝そうに首を傾げる。

「魔力計測機なんて、何に使うんです?」
「魔力計るのに使うに決まってんでしょ。いいから、スイッチ入れてみて」
「はあ」

 訳も分からないまま、桔梗は魔力計測機のスイッチを押した。
 魔力計測機はスイッチを入れると、手を握った人物の魔力数値を簡単に検出してくれる優れものである。騎士団に入りたての新兵はその数値の結果で、どの隊に入るか決まってくる為、握る寸前に緊張で気絶してしまう者も少なくはない。
 力を込めて魔力計測機を握れば、一分ほどで計測を終えた音が室内に鳴り響く。
 魔力計測機をホロに渡すと彼はやっぱりか、と言って長い長い溜息を吐いた。

「桔梗ちゃん。君普段の六分の一くらいしか魔力無いヨ」
「は?」
「ほら」

 機械的な文字で浮かび上がった数字は僅か五十八。桔梗の顔からサッと色が無くなる。成人女性にあるまじき数字であったからだ。
 中でも桔梗は第二小隊を任される少佐である。彼女の魔力は他の女性騎士より高く、普段であれば三百を少し超える数字がそこに記録されているはずだった。

「嘘でしょ、え、な、何ですかこれ」
「この分だと桜花さんもかもね~。まあ、彼女は計測したことないから比べる対象がないけど。六十以下だとビンゴかな~」
「ご、五十八って魔導学校の低学年じゃあるまいし! 壊れているんじゃないですか!? 壊れていますよね、絶対!」

 悲痛な声で訴える桔梗を宥め、ホロは椅子から立ち上がった。

「取りあえず、桜花さんの方を手伝ってくるから。君は少し仮眠でもしておきなさい。替えのインナーの場所も分かるよね?」
「はい……

 意気消沈と言わんばかりに肩を落とし項垂れる桔梗に小さく笑いながら、ホロは医務室を後にした。

「はああああ」

 嘆きながら血で汚れた黒のインナーを引き裂いて、予備のインナーの入っている引き出しから一枚拝借する。その際、びりびりになったインナーで粗方の血を拭っておいた。
 ふと、医務室の壁一面を占めている大きな鏡が目に入る。
 特殊な技術で作られた鏡で、回復魔法の補助を行ってくれるそうだ。技術班であるホロが完成した時に自慢げに話していたのを思い出して桔梗は小さく笑みを取り戻した。

……痛ッ」

 先程まで感覚すらなかったというのに、急にズキリとした鈍い痛みが桔梗を襲う。
 思わず鏡に寄り掛かれば、中途半端に肘までインナーを通した自分と目が合った。止血したはずの左肩からまた血が溢れる。どろりとそれが流れていった先、左腕を見て桔梗は唇を強く噛んだ。
 黒い龍の刺青が蜷局を撒くようにして桔梗の腕に巻き付いている。
 震える右手で左腕の血を拭い取ろうとするのと、医務室のドアがノックされたのは粗同時だった。
 慌ててインナーを着ようとするが、サイズを間違えたのか、腕は入っても首が入らない。どうしようと慌てる桔梗を嘲笑うかのように扉が開かれる。

「桔梗? 居るのか? 団長が呼んで……

 鏡越しに部屋の中に入ってきたシアンと目が合った。首が入っていないと言うことはつまり、下着が丸見えになっているわけで。カッと桔梗の頬に赤が差す。
 パクパクと声にならない声で叫ぶ桔梗を余所にシアンが顎に手を添えて言った。

……黒か。つーか意外にでか――

 最後まで言わせるつもりはなかった。中途半端なインナーを脱ぎ捨てて、椅子に掛かっていた白衣を掴む。
 一瞬でそれを纏うと、助走をつけ、シアン目掛けて回し蹴りを繰り出す。
 動揺した桔梗の身体は軸がブレブレで、シアンは簡単に彼女の蹴りを避けることができた。
 にや、と笑ったシアンに桔梗の額に青筋が浮かぶ。

「死ねッ!」
「お、何だ? やる気か?」

 足払いを掛けて体勢を崩そうとするが、簡単に倒れてはくれない。
 桔梗は憎々しげに舌打ちをすると、シアンを鋭い目で睨んだ。

「返事もしてないのに部屋に入ってきますか、普通!?」
「気配がしたから入って何が悪い!」
「察知能力、獣並みか! クソ!」

 口調が崩れた桔梗に対して益々楽しげな笑みを浮かべたシアンに、桔梗はグッと拳に力を込めた。
 どちらかというと蹴り技重視だが、この距離で一発逆転を狙うなら顎にアッパーが効果的だ。そう判断して桔梗が攻撃を仕掛けた時であった。

「うお!?」

 避けようとしたシアンの身体が、間抜けな声と共にひっくり返る。
 予想もしていなかったことに対処の遅れた桔梗も彼に釣られ、縺れるようにして二人で床に倒れ込んだ。

「痛ッ!! 何するんですか! も……
「ッ……う、お前なあ……

 痛いと顔を顰めながら睨めば、存外に近いシアンとの距離に桔梗は頬が熱くなるのを感じた。
 ばさばさ、と書類が二人の周りに無造作に散らばる。
 シアンが転んだのは先の蹴りの風圧で舞い上がった書類が原因で、倒れた彼の上に桔梗は跨る形で倒れ込んでしまったのだ。
 黙った桔梗に違和感を覚えたのか、頭を押さえていたシアンも彼女を見て固まった。
 引っ掛けられただけの白衣はボタンが留められておらず、そこから下着と白い肌が丸見えになっている。息のかかる距離でそれを目すれば、流石に冗談では済まされないような気がして、慌てて顔を逸らした。
 急に顔を逸らしたシアンに桔梗は自分の恰好がどうなっているのかを思い出し、勢い良く上体を起こそうとした。だが、寸での所でシアンに手首を掴まれ咎められる。

「馬鹿、ちゃんと周り見てから起き上がれ。棚にぶつかるぞ」
「す、すみません」
「ほら」

 そう言うとシアンは上体を起こし、桔梗が立ち上がり易い体勢を取った。
 起き上がったシアンの足の上へ座る体勢になり、頬の熱が更に上がる。
 早鐘を打ち始めた心臓を押さえるように白衣の合わせを片手で押さえ、立ち上がろうとした桔梗はそのまま固まった。
 また静かになった桔梗を不思議に思い、彼女の視線をゆっくり辿れば、そこには、にやにやと厭らしい笑みを浮かべたホロが立っていた。
 だらだらとシアンと桔梗両名の額から冷や汗が流れる。

「ホ、ホロ。お前いつから?」
「うーんとね、シアンが手首握ったあたりから?」

 よりにもよって一番面倒臭い人に見られてしまった。桔梗の肩がふるふると震え始める。心なしか彼女の周りに静電気が発生しているように見えた。
 それに、まさかとシアンの口元が痙攣を起こす。

「おい、待て! こんな所でぶっ放したら!!」
「いやあああああああ!!!!」

 全身真っ赤に染めた桔梗から繰り出された雷は見事二人の男に命中した。
 ぷすぷすと黒い煙を放つシアンとホロを余所に桔梗は足早に部屋から逃げ出す。
 最悪だと何度も呪詛のように呟きながら。