第二章、水面の騎士 - 4/5

四、

 術式の解呪を始めて五日目。
 桔梗の身体に異変が起こった。

「ぐ、あああああああ!!」

 頻りに叫び声を上げて、ベッドで悶え苦しむ彼女の姿に、シアンは同席していたシャムと桜花を外に出ているように促した。

「どうですか? アメリアさん」

 ベッド脇に腰掛けて桔梗に睡眠薬を飲ませたアメリアは弱弱しく首を横に振った。

「良くない傾向ね。昨日、術式に綻びが出来たの。あと少しで解呪できそうだから、と昨日はそこで止めたのだけれど。もしかしたら、綻びを補うために、更に魔力を吸収しようとしているんじゃないかしら……
「どうすれば良いんです?」
「分からないわ。古い術式な上、二つの術式が複雑に重なっている。こんな前例見たことも、聞いたこともないのだもの」

 ふう、と頭を抱えたアメリアに、シアンも眉間に皺を寄せて黙り込む。
 そこへ、何も知らないレオンが慌てた様子でアメリアを呼びにやって来た。

「アメリアさん!!」

 普段は汗の一つも知らないと言った風貌の彼が、額にびっしりと汗を光らせ、部屋の中に転がり込んでくる。
 その様子に、アメリアとシアンは揃って首を傾げた。

「どうしたんだ、そんなに慌てて……
「た、大変なんだ!! 街の東側に龍が現れたんだよ!!」
「何!?」
「結界魔導石を狙っているみたいなんだ! とにかく、一緒に来て防御魔法を展開してください!!」

 レオンは狼狽えるアメリアの手を引いて、そのまま走り出してしまった。
 シアンも慌てて飛び出そうとするが、青白い顔で眠る桔梗を見ると、足が止まってしまう。

……すぐ戻る」

 そう言い残して彼女の髪を優しく撫でると、シアンは今度こそ部屋を飛び出した。
 廊下に追い出したはずのシャムと桜花の姿がない。
 同族の気配を察した桜花がシャムを連れてそちらに向かったのだろう。
 街の東側に向かうまでの間、何人かの部下と合流することに成功したシアンは、辿り着いた先で見た光景に絶句した。
 口先を赤で染めた白金の龍が、街中を闊歩している。
 鋭い爪で建物を破壊したこと思えば、龍の意思で操られているのか、身体から分離した白金の鱗が宛ら剣のように宙を舞い、人々に襲い掛かる。
 グッと歯を食いしばり、シアンは呆けている騎士たちに喝を入れた。

「何をぼさっとしている!! 人命を最優先に、龍をこれ以上街の中に入れるな!!」

 空気を突き刺す怒声に動きを止めていた騎士たちはやがて常の動きを取り戻し、瓦礫に挟まっている人や鱗に襲われている人々の救助活動を開始する。

「状況は!?」

 少し離れた場所で防御魔法を展開するレオンとアメリアに問えば、彼らは揃って首を振った。

「被害が大きすぎる。何度注意を引いても、魔導石の方に向かってしまうんだ」
「チッ」

 シアンが舌打ちを零しながら、空を見上げた。
 すると、太陽が姿を隠し、暗闇が訪れた。

「遅くなりましたっ!!!」

 凛とした声の後に桜色が翻る。
 本来の姿に戻った桜花がシャムを背に、白金の龍に飛び掛かった。

「ガアアアアアアアアアア……ッ!!」

 龍の悲鳴が辺り一面を支配する。
 桜花はそんな叫び声を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。
 だが、これ以上街の中に入られてしまえば、たくさんの人命に関わる。
 背中に乗っているシャムをちらり、と窺うと彼は心得たように首を縦に振った。
 次いで、桜花が押さえている龍に向かって飛び降りる。

「木々よ。我が声に応え、彼の者を『捕らえろ』!!」

 シャムの声に、地面から木の根が現れた。
 グルグル、と意思を持つ生き物のように、桜花が取り押さえている龍の身体に巻き付いていく。
 やがて龍の身体を全て覆うと、木の根は動きを止めた。
 隙間から覗く龍の赤い目が恨めしそうに桜花とシャムの二人を睨む。

「助かったよ。それにしても、君はすごいなぁ! 龍を操れる人なんて東の王族だけだと思っていた」
「ええと……

 レオンにそう言われ、シャムは困惑したように桜花の方を見上げた。
 彼女は可笑しそうに笑うと、煙を纏って人型へとその姿を変える。

「私ですよ、レオン様」
……え?」
「私、龍なんです。今はシャムと契約して人の身を得ていますが、本来の姿は先程の桜火龍ですわ」

 悪戯が成功した子供のように笑う桜花にレオンは開いた口が塞がらないと言った様子であった。
 そんな彼らを横目に、シアンはシャムと桜花が捕らえた龍の方に近付く。

「桜花。通訳しろ」
「はい、ただいま」

 桜花は談笑の輪から抜け出すと、シアンの隣に立った。
 隙間から覗く苛烈な瞳に、背筋を嫌な汗が流れていく。

『あの方を出せ』
「あの方?」
『惚けるな!! 我はあの方に会いに来ただけだ!! 魔導石など壊しておらぬ!』
「ちょ、ちょっと待ってください。あの方ってもしかして……

 桜花の顔から血の気が引いていく。
 街の中央部には結界魔導石を守るようにカグラ支部の建物がある。もしこの龍が言っていることが本当だとすると、龍がこの街を訪れたのは――
 祠で見た黒い炎のことが頭を過る。

『華月様を出せ!! あの方はここに居るのだろう!?』

 その名を聞いて、桜花は力なく地面に座り込んだ。
 やはり、あの黒い炎は気の所為ではなかった。
 がくがくと、小刻みに肩を震わせ物言わなくなってしまった桜花に、シアンとシャムが駆け寄る。

「どうした!? 龍は何と言っているんだ?」
「桜花?」
……き、桔梗様に会わせろ、とそう言っています」
「何?!」

 シアンとシャム、それからその場に居合わせた騎士全員の顔が強張った。
 龍は険しい雰囲気を纏う彼らを見て、その目を細める。

『小娘。貴様も我と同じ龍なら分かるであろう。桜の名を与えられた龍ならば、尚更のこと。我はどうしてもあの御方に会わねばならぬ。非礼は詫びよう。何せ、街の近くに降り立った途端、血が沸いてしまったのだ』
「どういうことです?」
『我らはあの方々を模して造られた。それ故に近付きすぎると血が騒ぐ。獣本来の血がな』
「それで暴れていたのですか?」
『ああ。人間には悪いことをした。他に気を静める方法が思いつかなんだ』

 赤かった龍の瞳がみるみる色を変え、アメジスト色に染まる。
 その瞳の色に、桜花は既視感を覚えたが、どこで見たのかを思い出せず、ふるふると弱々しく首を横に振ると、シャムの手を借りてゆっくりと立ち上がった。

「非礼を許してほしい、と言っています。それから、どうしても桔梗様に会いたいそうです。無理は承知ですが、どうか……

 深々と頭を垂れた桜花に、シアンは眉根を寄せた。
 龍が残した爪痕を考えれば、迂闊に桔梗を近付けるのは危険だ。
 どうしたものか、と深い溜め息を吐く彼に、桜花も唇を噛み締める。

「心配なら、私が三重防御魔法陣を敷いておくわ。桜花ちゃんが居れば、もしまた暴れ出しても大丈夫でしょう?」
「アメリアさん」
「桔梗さんには回復魔法を掛けておくし、ね?」

 ありがたい申し出にシアンと桜花は顔を見合わせる。
 それから、桜花は本来の姿に戻ると、街外れの方に捕らえた龍を抱えて飛び去った。

◇ ◇ ◇

「そうですか……。そんなことが……

 意識が朦朧とする中、自分が寝ている間の出来事を聞かされて桔梗は顔を顰めた。
 無意識に左腕へと伸びそうになった腕を何とか堪える。

「どうする? 身体が辛いなら日を改めても良いが、相手は人間じゃない。こちらの言い分が通じるかどうか」
「大丈夫です。少し話をするだけでしょう? 行きます」
「そうか。支度が整ったら声を掛けろ。俺とレオンで送ってやる」
「はい」

 弱々しく手を振ってシアンを見送ると桔梗はその場に突っ伏した。
 痺れを訴える身体を叱咤し、今度こそ右手で左腕を掴む。

……華月様」

 桔梗の声に、空気が震える。

『この気配、「銀雪ぎんせつ」ですね』

 それに応えるように凛とした声が木霊した。

「銀雪と言うと、霊峰キリを統べる?」
『ええ。戦闘に特化した一族です。人嫌いで有名な彼らが人里を訪れるとは珍しい』
……旭日が来たのかもしれません」

 桔梗の言葉に、部屋の空気が凍った。

『その名を無暗に出してはならないと教えたはずですよ?』
「申し訳ありません。ですが、そうでなければこんな人の多い場所に警戒心の強い龍が降りてくるはずがありません」

 声はそれきり聞こえなくなってしまった。
 桔梗は深い溜め息を吐き出すと、着ていた服を脱ぎ、明かりに晒された左腕の黒龍を一瞥する。
 常はこちらを向くように顔が内側にあるのに、機嫌を損ねてしまったのか、今は外側を向いてしまっていた。

「ご気分を害してしまったのなら、謝ります。ですが、私は貴女のことが心配で……
『分かっています。分かっているからこそ、私は貴女を巻き込みたくないのです』

 消え入りそうな声でそう告げられてしまえば、桔梗はもう何も言うことが出来なかった。
 無言のままベッドを下りると、壁に掛けられていたコートに袖を通す。
 廊下で待っているであろうシアンたちに声を掛けようと、桔梗がドアノブに手を伸ばせば、三度声が聞こえた。

『桔梗。用心なさい』

 はい、と小さく声を返すと桔梗は今度こそ、ドアノブに手を掛けた。
 珍しく喧嘩をしないウェルテクス兄弟の後姿を、まじまじと見つめながら歩いていると、いつの間にか目的の場所に辿り着いたらしい。
 本来の姿に戻った桜花が桔梗たちを出迎えた。

「お加減は?」
「いいわ、と言いたいところだけれど、駄目ね。動くたびに関節が痛むの」
「では手短に済ませましょう。申し訳ありませんが、ここから先は私と桔梗姉様の二人で行かせてもらえないでしょうか?」

 金色の眼が真っ直ぐにシアンを射抜く。
 真摯な眼差しに、シアンは僅かばかりに眉を上げるも、肩を竦めてそれを了承した。

「構わん。どうせ、俺たちはお呼びではないらしいからな。勝手に付いて行って龍の機嫌を損ねるのもごめんだ」
「兄さん!」
「異論は認めん。俺たちはここで待機しているから、何かあったら呼べ」

 さっきまで形を潜めていたはずのレオンが般若の如き表情でシアンに掴みかかる。だが、シアンはそれに動じる様子もなく桔梗と桜花に早く行けと言った。
 若干後ろ髪を引かれながら、桔梗は桜花の背に乗ると、件の龍が待つ場所へと向かった。
 森の中は不自然なほど静かだった。
 生き物の気配が溢れているはずの森が、しんと静まり返っている様子は少し不気味だった。

「お待たせしました」

 桜花が泉の前に頭を垂れる。
 すると、水の中から銀色の龍が姿を見せた。

……華月様』

 紫色の眼が不安に揺れる。
 桔梗はふぅ、と短く溜め息を吐き出すと、左手を龍の前に翳し、言の葉を紡いだ。

「我に宿りし、古の龍よ。我が声に応え、その姿を示せ」

 桔梗の左腕が黒く、不気味な光を発する。
 やがてそれは影へと形を変えて、人の形を成した。
 パッと、影がはじけ飛ぶ。
 夜を思わせる黒髪が長く、風に舞う。
 金色の瞳が怒りに揺れていた。

『妾の愛し子を危険に晒すほどの要件なのであろうな』

 華月の声は低く震えていた。
 その声に、桜花と銀龍の身体が大袈裟なまでに跳ねる。

『申し訳ありませぬ。ですが、火急の件でありまして……

 深く頭を垂れた銀龍に、華月は目を細めた。

『キリが旭日様に襲われました』
「なっ……!?」

 桜花が息を飲む音がやけに大きく響いた。
 華月と桔梗が顔を見合わせる。

『貴女の勘は、よく当たりますね』
「恐れ入ります」
『褒めていませんよ。まあ良いでしょう。それで、妾にどうしろと言うのです』

 金色の目が銀龍を冷たく突き刺す。
 そんな華月の視線から逃れるように、うろうろと視線を彷徨わせたかと思うと、銀龍は地面にめり込む勢いで額を打ち付けた。

『無理を承知でお願い申し上げます。どうか、今一度「霊王宮れいおうきゅう」へご帰還頂けないでしょうか!』

 スゥ、と静かに細められた金色の眼を見て、桔梗は息を殺した。
 華月が無言で目を細めるのは大抵、怒りを飲み込もうとしているときだけだったからだ。

『戻ったところで亡くなった龍が蘇ることはありませんよ。それは貴方もご存知でしょう?』
……それは承知の上です。亡くなった同胞たちは皆、誇りと共に散りました。悔いはありません。ですが、残った我らは歳若く、結界を張り直せる者がおりません』

 地面が割れてしまうのではないか、とそう思うほどに強く額を擦り続ける銀龍に、華月は深い溜め息を吐き出した。

「華月様、」
……なりません。今は貴女の身体を治すことが先決です』

 桔梗の言葉を遮って、華月が低い唸り声を上げる。
 結界が綻んだままでは霊王宮に隠されている華月の本体もいつ危険に晒されるか分からない。
 暫くそうして唸り声を上げた後、華月は桔梗と桜花の顔を交互に見比べた。

『貴女は確か、「桜火おうか」の一族でしたね』

「は、はい」

『ならば、「八重の護り」を使えるはず。桔梗の傷が治り次第、キリに同行してもらえませんか?』「そ、それはその、構いませんが……

 ちら、と桔梗の方を窺う桜花の視線に、桔梗は苦笑を返す。

「ごめんね、桜花。巻き込んでしまって」
「そんな! 巻き込んだのはむしろ、私の方です。同胞の頼みとは言え、桔梗様を危険に晒し、申し訳ありません」
「それから出来れば、私が華月様の神子ってことは内緒にしてほしいの」
「それは勿論! 決して他言致しませんので、ご安心ください」

 桔梗が華月に向かって左腕を差し出すと彼女は再び影へと姿を変え、桔梗の腕に絡み付いた。

龍の姿そのままだと目立ってしまうわね。街に戻りたいから、人型になってもらえない?」

 銀龍にそう言うと、彼は酷く嫌そうに目を細め、眉間に深く皺を刻んだ。
 どうやら華月の神子であっても人嫌いは発動されるらしい。
 桔梗がどうしたものか、と苦笑していると彼女の隣に控えていた桜花がその身を人へ変えた。

「そのままの姿で街に戻れば大嫌いな人間にベタベタと身体を調べられることになってしまいますが、それでもよろしいので?」

 桜花がにっこりと微笑みながら言った。

……とても、同胞の言葉とは思えんな」

 銀龍は深い溜め息を吐き出すと、その身を煙で包んだ。
 次いで現れた銀髪を結わえた凛々しい面立ちの青年に、桜花が笑みを深める。

「ご協力感謝いたしますわ。ええっと……
銀青ぎんしょうだ」

 銀龍――銀青は唇を尖らせ、名を名乗るとそれっきり黙り込んでしまった。
 そんな彼を従えて桔梗と桜花はシアンとレオンが待つ場所まで戻った。
 互いの頬に痛々しい拳跡がくっきりと浮かび上がる兄弟に出迎えられ、桔梗は桜花と顔を見合わせる。

……ほんの数十分ここを離れた間に一体何があったんです」

 桔梗の問いに、兄弟は互いに視線を合わせると、すぐにそっぽを向いてしまった。

「別に」
「何もなかったよ」

 こういうときばかりは息が合うのがまた小憎たらしい。
 桔梗はこれ以上食い下がっても無駄だと判断すると後ろに控えていた銀青を彼らの前に引っ張った。

「さっきまで暴れていた銀龍です。少し気になっていることがあるので調査をしてほしいと依頼を受けました」
「龍が人に、か?」
「はい。本来であれば書類が受理されるのを待たなければいけませんが、急用とのことでしたので、私の解呪が終わり次第すぐに調査依頼へ向かいます」
「お前が良いなら構わんが……

 シアンは桔梗の左肩と龍を交互に一瞥すると、先に街へ戻っていると言って歩いて行ってしまった。

「こんなところまで龍が下りてくるのは珍しいですよね。もしかして霊峰キリで何かありました?」

 レオンが腫れ上がった頬を押さえながら銀青に問えば、彼は片眉を上げただけで何も応えようとはしなかった。

「ごめんなさい。人嫌いな一族の方なんです。でも悪い方ではありませんので、どうかご安心を」
「そう言われてもねえ。さっき街の一部を壊されたばかりだし」

 メガネの奥でレオンの青い眼に怒りの焔が揺らめいていた。
 ぎくり、と肩を震わせた桜花と銀青を庇うように、桔梗が彼らの間に割って入る。

「初めて下りた人間の街にびっくりしたのよ。多めに見てあげて、ね?」

 レオンは肩を竦めると、シアンの後を追うように街へと歩き始める。
 そんな彼の後姿に、桔梗は小さくごめんと呟いて、桜花と銀青と共にカグラへの道を戻るのであった。