第二章、水面の騎士 - 5/5

五、

 宿舎に帰った後、桔梗を待っていたのは少しだけ機嫌が悪そうなアメリアだった。
 どうしたのだろう、と聞く前に腕を引っ張られ、薬湯の中に放り込まれる。

「貴女、魔法を使ったわね? ただでさえ、綻びの所為で痛みがあるっていうのに……。もっと自分の身体を大事になさい!」
「す、すみません」

 湯の中に沈んでいった桔梗を見て満足そうに頷くとアメリアは桔梗の左肩にそっと触れた。
 昨日綻んだ部分は少しだけ戻りかけているようだったが、そんなことアメリアには関係ない。
 今朝方見つけた祖母の手記にこの術印と似たような事例が書かれていたのだ。打つ手なしだとばかり思っていたのだが、おばあ様、様々である。

「確か、こっちの印をこうして」

 こうかしら?と首を傾げながら、アメリアは桔梗の術印をそっと撫でた。
 すると、下の部分になっていた方の術式が淡い光を浴びて、消滅する。

「やったわ! 一つ術式が消えたわよ! これなら明日にでも、もう一つの術式を消せるわ!」「わ、本当だ! ありがとうございます!」

 これで明後日には調査任務へと出発できる。
 桔梗は逸る気持ちを抑えるように胸へと手を置いて、深く息を吸い込んだ。
 彼女の背後で、じっとその様子を観察していた銀青に桜花がゆっくりと歩みを寄せる。

「銀青様」

 凛、と鈴の音が緊張に震えながら名を響かせた。
 幼い龍を横目で一瞥すると、銀青は不貞腐れた表情で「何だ」と短く返事を返す。

「キリが襲われたということは、『里』も襲われたのでしょうか?」
「案ずるな。『桜火』に被害はない。やられた龍の大半は我が一族『銀雪』であった」

 ほっと安堵の息を吐き出した桜花に、銀青は不思議そうに首を傾げた。

「主はまだ幼いように思えるのだが、どうして人型になれる? 昼間、主の背に乗っていた小僧と何か関係があるのか?」
……あまり褒められたことではありませんが、呪い返しをするために彼と契約を結んだのです。魔力の相性が良かったので、こうして人の姿へと転じることが可能になりました」

 銀青は開いた口が塞がらないと言った様子で桜花を凝視した。
 人と交わってはならぬ。それはどの一族でも共通の禁忌とされている。
 唯一の例外として東の王族と契りを交わしているが、まだ年端もいかぬ少年と契約を結ぶなど正気の沙汰とは思えなかった。

「呪い返しならば仕方ないが、他にもっとやり方がなかったのか」
「一刻を争う状態でしたので、致し方なく」
「あら、なあに? すっかり仲良くなったのね? シャムが見たらヤキモチ焼かれちゃうわよ~」

 支度が出来たのか、トレードマークの赤いコートを羽織った桔梗がにこにことこちらを見ていた。

「ち、違います。キリの詳細をお聞きしていただけで……
「ふーん?」
「本当に違いますったら!」

 もう、と怒って先に部屋を出て行ってしまった桜花を見て、銀青がくすりと笑みを落とす。

「ここに来て、初めて笑ったわね」

 少女らしからぬ、まるで母親のような声で、桔梗はそんなことを言った。
 暫し魅入られたように彼女を見つめていると、やがてくしゃりと髪を撫でられる。

「さ、行きましょう。早ければ明後日にでも出発できるはずよ」
「ああ」
「あら、さっきまでの人嫌いが嘘みたいじゃない」

 すう、と意地悪く細められた目に、銀青が唇を尖らせる。
 反抗の声を上げるでもなく黙ったまま己の後ろに従う彼の気配に、桔梗の笑い声が廊下に響いた。

◇ ◇ ◇

 二日後。

 桔梗の術印は完全に消えてなくなった。
 経過を見るため、もう一日休んだ方が良いのではないのか、とアメリアに言われたのだが、銀青の用件が用件なだけに、桔梗は首を振った。

「急ぎの案件ですので、自分の目で確かめたいんです。無理を言ってすみません」
「私は構わないけれど、貴女の身体がどこまで保つか……。念のために鎮痛剤と魔力増強剤を多めに入れておいたから、身体に異常を感じたらすぐに飲むようにして」
「はい。ありがとうございます」

 差し出された菫色の紙袋を受け取ると、桔梗は中身を確認してすぐにポーチの中へそれを放り込んだ。
 アメリアに一礼して彼女の家を出る。
 すると、そこには既に支度を整えたシアンとシャム、それから苦笑いする桜花の姿があった。

「どうして大佐までそんな格好しているんですか?」

 もしや、という考えを胸にシアンに問いかけると、彼は満面の笑みを浮かべた。

「俺も行くからに決まっているだろう?」
「はあ?! アンタ、自分がここに何をしに来たのか忘れているんですか? 結界魔導石の修繕でしょう!?」
「そっちはトーリが居るから何とかなる。怪我人と護衛対象だけで霊峰に向かわせる方が問題ありと判断したまでだ」
「ぐ……

 珍しく正論を返されてしまえば、ぐうの音も出ない。
 代わりに歪められた唇から零れたのは深い溜め息である。
 シアンは言い出したら聞かない。それを知っているからこその溜め息であった。

「分かりました。付いて来るのは構いませんが、あとで文句言わないでくださいよ?」
「はいはい」

 鼻歌交じりに街の出口へと向かう彼を、桔梗は唇を尖らせて追いかける。
 そんな二人の後ろを桜花とシャムが笑いながら、銀青は呆れたように肩を竦めて続いたのであった。

「また霊峰を拝むことが出来るだなんて夢にも思いませんでした」

 桜花が潤んだ目で、眼前に聳える白き山「キリ」を見つめた。
 その麓では雪に同化して見え辛くなる白い鎧に身を包んだ屈強な男たちが目を光らせていた。
 古くから龍が住まう山として人が入ることを禁じられた霊峰には彼らを守るために東の国の巡回隊が配属されている。
 桔梗はポーチの中をガサゴソとかき回すと目的のものを見つけ、その場で内容を確認した。
 それはレオンから預かった国王印が押された公式な書状であった。
 銀青がこちらに出向くより先に、東の国の王から既に依頼が出されていたのである。

……懐かしい」

 ぽつり、と零れた言葉は雪の中に溶けて消える。
 誰にも咎められなかったのを良いことに、桔梗は文末に掛かれた国王の名をスッと一瞬だけ指でなぞった。

「桔梗?」
「あ、すみません。これで、合っていますよね? 見せてきます」
「おう」

 シアンの声で我に返ると、桔梗は白い鎧を纏った男たちに近付いた。
 彼らは桔梗の持っている書類を一瞥しただけで悟ったのか、夕闇を溶かして煮詰め込んだような不思議な色の石が入ったランプを貸してくれた。

「これは?」
燈火石とうかせきです。石に炎の魔力が宿ったもので、普通のランプと違って風で消えることがありません。この辺りの地域では山に入るときの必需品なんです」

 人数分の燈火石を受け取り、礼を述べると彼らは深々と桔梗たちに頭を垂れた。

「どうか、彼らの無念を晴らしてやってください。……我々は何も出来なかった。それどころか、彼らは我々を守ろうと、」

 隊長格らしい男性はそこで言葉を区切ると涙ぐんでしまった。
 悔しそうに歪められた表情が痛々しい。
 桔梗はそっときつく握りしめられた彼の手に己の手を重ねた。

「大丈夫です。彼らを殺した犯人はきっと見つけますから」

 ふわり、と笑った桔梗に、男性はその場に崩れ落ちた。

「男の人があんな風に泣くのを初めて見ました」

 巡回隊と別れて少し経ったとき、桔梗は掌を見つめながら唇を噛んだ。

……あの人たちの悔しさを少しでも晴らしてやれるといいな」
「はい」

 白い雪の中を燈火石のオレンジ色がぼんやりと照らす。
 時折聞こえる風切音が幼い龍が泣いている声に聞こえて、桔梗は胸が痛かった。
 ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめる度に、靴底がくぐもった音を響かせる。
 燈火石のお陰で視界はクリアだったが、東の国生まれの桔梗と違ってシアンやシャム、桜花の三名は慣れない雪の地面に足を取られているようだった。

「少し休憩しましょうか?」

 桔梗の問いかけにシアンはシャムの方をちらり、と見やった。
 聖騎士はその職業柄、各国を飛び回る。従って、新人研修時に様々な山でキャンプを行い、基礎体力、遭難時の救急訓練など、山から学ぶことも多い。
 こんなに厳しい雪山での訓練はしたことがなかったが、山登りの鬼と呼ばれていたクラウドの一番弟子の名は伊達ではなかった。

 だが、シャムは違う。

 普段は亜熱帯に近い気温の森で生活している、まだ身体も出来ていない少年だ。
 用心のために厚着しているとは言え、この先も今のように気温が穏やかだとは限らない。
 シアンは先を行く銀青と桔梗にこくり、と頷きを返した。

「銀青、少し休憩しましょう」
「駄目だ。今、休めば吹雪に呑まれるぞ」
「でも、」

 桔梗がちら、と後ろの少年たちを振り返ったのに気が付いたのだろう。
 銀青は嫌そうに顔を歪めると、たっぷりと間を置いてから、仕方がないと言い放った。

……我が貴様らを乗せてやる。雪雲が集まっていない今なら、空を飛べばすぐであろう」

 思いもよらない申し出に、目を丸くしたのは桔梗だけではない。
 彼女のすぐ後ろを歩いていた桜花までも、驚きに表情を染めて、銀青を凝視していた。
 同胞から送られた不躾な視線を無視して、銀青は本来の姿へと戻った。
 雪の中に咲く一輪の花のように、白一色の世界で銀色の鱗が艶やかに映える。

「置いて行かれたくなければ、早く乗れ」

 今にも飛び立たんと言わんばかりに翼をバサバサと鳴らす銀青に急かされて、一同は慌てて彼の背中に飛び乗った。
 桜花とは違う硬い鱗の感触に、桔梗は思わず鱗の上に指を滑らせる。
 鋭い刃物のような見た目とは裏腹に、存外に滑らかな触り心地に暫しその感触を堪能した。
 びゅう、と銀青が空に舞う。
 冷たい風が頬を撫でていくのに、桔梗はスッと目を細めた。
 自分が知っている霊峰の空気ではない。
 圧し掛かってくるように重い気圧に、少しでも気を抜けば今にも倒れてしまいそうだ。

……平気か?」

 不意に小さく尋ねられた声に、桔梗は苦笑いを返す。
 恐らくシアンやシャムに聞こえないように、と気を使ってくれたのだろう。
 人嫌いだと言う割にこちらを気遣う銀青の優しさが、少しばかり気を紛らわせてくれた。

「知らない魔力が山を覆っているように感じる。これが旭日の魔力なのね」

 一際冷たい風が、桔梗の頬を滑る。
 乱れた髪を押さえながら、桔梗は眼下に構える立派な建造物に、息を飲んだ。
 白い雪の中に、黒いそれはよく映える。

零王宮れいおうきゅう』と呼ばれるその建物には、東の国の守り神にして『創世龍そうせいりゅう』が一頭、破壊を司る黒龍『華月』が祀られている。
 ふわり、と雪の絨毯の上に静かに着地した銀青の背から下りると、桔梗は辺りに散乱する龍の死体に、思わず口元を押さえた。
 声を漏らすことなく静かに涙を流す桜花を、シャムは優しく抱きしめた。

「桜花は、ここで待っていて」
「でも、」
「良いから」

 桔梗は振り絞るように声を漏らすと、山のように積み上げられた龍の死体に唇を噛み締めた。
 銀青も極力視界に入れたくはないのだろう。
 スッと不自然に視線を外しながら、シアンと桔梗に霊王宮の中へ入るように促した。
 ゆっくり、とふらつきながらも何とか前に足を踏み出した桔梗の腕をシアンがそっと支える。
 そして、二人は絶句した。
 黒塗りの建物でも分かるほど、夥しい量の血や肉の残骸が壁と屋根に飛び移り、辺りを汚している。

「結界の陣が張られている月の間だけは何とか死守したが、ここで多くの同胞がやられてしまった」

 すまん。
 銀青は桔梗に深く頭を垂れた。
 桜花を外で待たせて正解だったかもしれない。
 華月は彼女なら結界を張り直せるかもしれないと言っていたが、こんな状態の建物の中を桜花に見せる訳にはいかなかった。

「大佐も、外で待っていてくれて構いません」
「そんなふらふらした状態で言われても説得力はないぞ。俺のことは松葉杖のようなものだと思え」

 な、と笑ったシアンの白い歯が光る。
 少しだけ落ち着きを取り戻した桔梗は、銀青に導かれるまま月の間へと向かって足を踏み出した。
 月の間に近付くにつれて、血の臭いは濃くなっていく。
 流石のシアンも不快な臭いに顔を顰めたが、すぐ隣を歩く桔梗が顔面蒼白になっているのを見ると、常の表情を心掛けずにはいられなかった。

「ここだ」

 銀青が立ち止まったのは滝が扉になっている不思議な部屋だった。
 水の隙間から見えた部屋の中に、金色の水晶が淡く輝いている。

「アレは特殊な水晶でな。女子にしか触れられないようになっているのだ。だから、華月様も桜花に……
「ええ。分かっているわ。後は私がやるから、貴方は大佐を連れて少し離れていてほしいの」

 シアンに見られたくないと言葉の端に滲ませた桔梗に、銀青は静かに首を縦に振ると「おい」とシアンに向かって声を掛けた。

「結界を張るには時間が掛かる。その間にここを片付けるのを手伝え」
「それは構わないが、桔梗は一人で平気なのか」
「この部屋には女子しか入れぬ。我らがここに居ても妨げになるだけだ」

 廊下の端まで彼らが移動したことを確認してから、桔梗は水に触れようと手を伸ばした。

『駄目よ、桔梗!! それに触れてはいけない!!』

 華月の声が、頭の中で響く。
 慌てて手を引っ込めようとするが、それは一瞬遅かった。
 ぴちゃん、と可愛らしい音と共に桔梗の指先が水を撫でる。

……捕まえたぞ。小娘』

 それは思い出したくもない男の声だった。
 腕を握られる感触に、かつての記憶が嫌でも重なる。
 水の中からのっぺり、と姿を見せたのは、赤い錆のような色の髪を持つ不気味な男だった。

『旭日……!!』

 華月が桔梗の左腕から現れて、彼女の手首を掴む男を睨んだ。

『久しいなぁ、華月。お前は優しいから、きっとここに戻ってくると信じていたよ』
「は、なせっ!!」

 華月が旭日、と呼んだ男の腹を蹴って、桔梗は彼から距離を取った。
 少し掴まれていただけなのに、手首が焼けるように熱い。

『相変わらず小生意気な餓鬼だ。貴様が華月の器でなければ、すぐに殺せると言うのに』

 男は酷く煩わしそうに首を回し、滝の中から出た。
 ごきごき、と不快な音を鳴らして、現れた旭日に、桔梗の身体が小刻みに震え始める。
 あの日と同じ、汚れを知らないかのように真っ白な着衣に、冷たく恐ろしい眼光。

『迎えに来たぞ、華月』

 旭日が吐き出した言葉も同じだった。

『何度言われても同じこと。妾は貴方の元には行きません』

 それに応える、華月の言葉もまたあの日と一言一句変わらない。
 ただ、一つだけ違うことがあるとするならば、それは、ここにシアンと銀青が居るということ。

「桔梗!!!」

 廊下の向こうで、シアンの声がする。
 だが、それよりも早く桔梗の前に背中を見せたのは、銀青だった。

「お下がりください、華月様!! ここは我が引き受けます!!」
『貴方では無理です!! お止めなさい!! 銀青!!』

 銀青が右手を地面に向かって突き出す。
 すると、彼の右腕が見る間に刃へと変わった。
 両刃のそれを見た旭日がにぃ、と不気味な表情を浮かべる。

『ほう。貴様「銀雪」の生き残りか。全て平らげたとばかり思っていたが、これは面白い』
……早く!! 早くお逃げください!!」

 銀青の声は震えていた。
 同胞を殺された、彼の怒りは震えとなって全身を駆け抜けていく。

「さあ、お早く」

 銀青は振り返らなかった。
 けれど、桔梗は動かない――否、動けなかったのだ。
 旭日の眼光が、まるで床に足を縫い付けてしまったかのように、身動きが取れない。

『どうした、小娘。早く逃げねば、こやつの行動が無駄になってしまうぞ』

 旭日の嫌な笑い声が耳にこびりつく。
 目に涙を浮かべ、自分を睨む桔梗に、旭日の目が弧を描く。

『紛い物の分際で、俺の刃で直々に死ねること光栄に思えよ』
「華月様」

 銀青の腕が、旭日の前に翳される。
 耳鳴りのように鈍い金属音が辺りに木霊した。

「最後に一目、貴女様にお会いできて良かった」

 お逃げください。
 銀青はそれしか言わなかった。
 自分の命などくれてやる。
 そう言わんばかりの眼で、旭日を射抜く。

「さあ、早く。我が旭日様を抑えられているうちに」

 ――キィン。

 金属音が桔梗を現実に呼び戻した。
 銀青と旭日の攻防に割って入ったのは、見慣れた青いコート。

「シアン、大佐」

 ぽつり、と零した名前に、シアンが笑顔で桔梗を振り返る。

「悪い。遅くなったな。無駄に長いんだよ、この廊下」

 シアンはそう言うと、ちら、と銀青と視線を合わせた。
 ふっ、と銀青は短く息を漏らした。
 次いで、腕に力を込めると、受け止めた旭日の刃を弾き飛ばす。
 見た目に反して軽い旭日の身体が、宙に浮いた。
 その隙に、シアンが彼の懐に潜り込む。

 ――獲った。

 シアンはそう確信した。
 だが、現実はそんなにも優しくはなかった。
 ブン、と空しい音を響かせたシアンの刃を受け止めたのは、漆色の壁。

「ぐあッ!!」

 低い呻き声が、遅れてシアンの背中に届く。

「銀青っ!!」

 桔梗が血飛沫を上げ倒れた銀青の身体を受け止めた。
 そんな彼らを見下ろすように、大きな影が二人を包む。

『惜しかったな、小僧共。あと数舜早ければ、俺の上体は吹っ飛んでいただろうに』

 くつくつ、と喉を鳴らして旭日が笑う。
 桔梗の目が涙に濡れる。

「いや、いやよ! 目を開けて!! 目を開けてよ、銀青!!」

 彼女の身体は銀青の血でしとどに濡れていた。
 壊れた人形のようにいやいやを繰り返す桔梗に、旭日の腕が伸びる。

「伏せろ、桔梗!!」

 しゃくりながら、桔梗はシアンの声に従った。
 無意識に身体が動いたのだ。
 そしてそのすぐ後に、熱風が肌を襲う。

「お二人とも!! こちらへ!!」

 桜花の声が、二人の耳に響いた。
 彼女が吐き出した火炎が旭日に命中し、彼を後方へと吹き飛ばしたのだ。
 いつ起き上がって来るかも分からない敵を背後にしていると言うのに、桔梗は動かない。
 ぎゅう、と膝の上に横たわる銀青の身体を抱きしめて、肩を震わせていた。

「銀青は諦めろ!! 何の為にそいつが命を張ったと思っているんだ!!」
「いやです!! 行くなら、彼も一緒に!!」

 涙に濡れた桔梗の言葉はシアンの胸を痛めた。
 たった一日。彼と行動したのは瞬きのように一瞬だったが、同胞の、家族の死を悼み、道々で空を見上げては両手を組んだ銀青の姿が脳裏を掠める。

……おいて、いけ」

 掠れた声が、桔梗の背を押した。

「姫神子、頼む」

 後生だ、と縋られてしまえば、桔梗は何も言えなかった。

「桔梗!!!」

 シアンの腕が、桔梗の身体を引っ張り上げる。
 膝に乗せていた銀青の頭が、鈍い音を響かせて床に激突した。

「銀青!! 銀青っ!!」
「桜花、最速でここを離脱しろ。シャムは桔梗が落ちないように抑えてくれ」

 わんわんと泣き喚く桔梗をシャムと二人がかりで押さえるシアンに桜花は頷くと同時に上空へ舞った。

 炎に包まれた霊王宮は酷い有り様だった。

 血と肉が焦げた嫌な臭いが、ここまで上がってきている。

中庭に桜花が来てくれていなかったら、今頃ここには居なかったかもしれないと、男の刃と眼の冷たさを思い出してシアンは身震いした。

「銀青……

 桔梗は自分を庇って死んだ龍の名前を呼び続けた。

 腕の刺青に戻った華月が頭の中で、心配そうに声を掛けてくるが、それに応える気力は今の彼女にはない。
 また、逃げるのか、と心の中で幼い自分が語り掛けてくる。
 だってどうしようもなかったのだ。
 あの赤い瞳を前にすると自分は動けなくなる。
 蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つとれず、刀の柄にすら手を伸ばせなかった。
 白い雪が桜花の背に舞い降りる。
 それを見た桔梗はガタガタと身体を小刻みに揺らした。
 忌まわしい、封じたはずの記憶が、桔梗の心をじわりじわりと侵食していく。

『迎えに来たぞ、華月』

 独眼の男はあの日もそう言って赤い眼を爛々と輝かせていた。

――意識が遠のく。

 最後に聞こえたのは、シアンが心配そうに呼ぶ己の名前だった。