第四章、終わりの始まり - 5/5

五、

 地面にぽっかりと開いた大きな穴の中に、旭日は横たわっていた。
 それは先ほど、華月が涙を落とした場所であった。
 溶けた地面は柔らかく、華月の流した涙が池のように溜まっている。
 シアンを地面に下ろすと、華月は龍宿しの術を解いた。
 疲れきった顔の桔梗がぐらり、と身体を揺らして地面に倒れそうになる。それをシアンは難なく受けとめると、華月に視線を遣った。
 彼女は眼に涙を溜め、横たわる白い龍を見つめていた。
 じゃり、と音を立てて、穴の中へ向かっていく。

「うっ……

 目を開けた桔梗は、自分がシアンの腕の中に居ることよりも、眼前に倒れる一頭の龍に目を見張った。
 ゆっくりと、シアンの腕を借りて立ち上がると、華月の後に二人は続いた。

『旭日』

 華月の唇が、片割れの名を呼ぶ。
 彼は虚ろな眼で己の名を呼ぶ華月を見遣った。

『もう、終わりにしましょう。妾は、もう貴方と争いたくないっ』

 子供のように、華月は泣き叫んだ。
 だが、旭日が応えることはなかった。
 弱く首を振ると、その身体は淡く光を放ち、もとの赤髪の痩せた男のそれに戻る。

『このままでは終われぬ。終われんのだ、華月』

 俺は、もう戻れない。

 短く告げられたその言葉に、華月の眦からは止めどなく涙が溢れた。
 そんなことはない、と言えたら、どんなに良かったか。
 けれど、それを告げることが出来ないのは、華月もよく知っていた。

『旭日』

 縋るように、華月が旭日の胸に覆いかぶさる。
 その心臓の音は酷く弱っていた。
 アメリアが施した『分解』の呪術式が、不完全な龍化と魔力の消費に拍車を掛けたのだ。
 このままでは、身体は勿論、旭日の魂も分解されてしまう。
 為す術もなく泣き叫ぶ主の姿を見て、桔梗は唇を噛み締めた。
 華月の流した涙の中に浮かぶ旭日の身体から血が滲みだし、澄んだ水を汚していく。

――こんな終わり方は、誰も望んでいない。

 ふと、桔梗の頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
 シアンの腕から抜け出して、這うように華月と旭日の傍まで移動する。

「おい、何を……

 シアンが止める声も聞かず、桔梗は華月の肩を揺すった。

「一つだけ。一つだけ、呪術式を解く方法があります」

 翡翠色の双眼が、真っ直ぐに華月を見つめた。
 真摯な眼差しに華月の目が僅かに揺れる。

「私が、旭日の依り代となれば、魔力が離れた身体は『分解を終えた』と勘違いするはずです」

 桔梗の言葉に、華月とシアンは息を呑んだ。
 そんなことをすれば、桔梗の身が保たないことは明白であったからだ。
 創世龍の一頭を宿すだけでも、身体の負担は計り知れない。普段は華月が桔梗の魔力を上手く循環させているからこそ、二人はその小さな身体の中で共存できた。
 だが、そこに新たな龍を宿すとなると話は別だ。

『破壊』と『創造』。異なる魔力を取り込めば、桔梗の身体が壊れる可能性がある。

『そんなこと、許可できるわけがないでしょうっ!! 妾は、藤月から貴女の父君から、貴女を守ることを約束して、貴女を依り代とした。そんな貴女を危険に晒すようなこと、出来ません!!』

 今度は華月が桔梗の肩を揺すぶる番だった。
 桔梗の優しく起こす手付きとは違い、激しく揺さぶる華月をシアンが咎める。

……桔梗。お前は自分が何を言っているのか、分かっているのか」

 青い眼差しは静かな怒りを孕んでいた。
 桔梗はそっと俯くと、絞り出すような声で言った。

「分かっています。けれど、これは私にしか出来ない。もう他に、道はありません」

 固く結ばれた唇に、シアンは溜め息を吐き出した。
 そして、華奢な彼女の身体を優しく抱きしめる。

……無理だと思ったら止める。だから、無茶はするな。良いな?」
「はい!」

 こつり、と互いの額を合わせて、シアンと桔梗は笑った。
 そんな二人のやり取りを見て、華月は旭日へ視線を移す。
 静かになった彼は、どこか昔の彼を思い出させた。

『血の盟約の時とは訳が違います。シアンが言ったように、無理だと思えばすぐに陣を解きなさい』
「分かりました」

 華月はゆっくりと桔梗の刺青の中に戻った。
 彼女の中で旭日を迎え入れる準備をするためだ。

「旭日」

 その声は穏やかで、聞いている者の心を落ち着かせた。

「痛みますか?」
……っ』

 見て分からんのか、と言わんばかりの形相で睨まれて、桔梗は苦笑した。

「その痛みは、華月様がこれまで抱えてきた痛みのほんのひとかけら。そして、貴方を救うことが出来なかった、貴方の不安や怒りを払うことが出来なかった私たち人間の後悔でもある。――だからもう終わりにしましょう。その呪いは貴方では消せない。さあ、私の手を取って」

 差し伸べられた手に、旭日はどこか既視感を覚えた。
 かつて、同じように自分へ手を差し伸べた者が居たことを思い出したのだ。

 女神メディ。

 それは旭日と華月を造ったはじまりの女神。
 彼女が最初に発した言葉は、桔梗が発したそれと相違なかった。

『私の手を取って、旭日』

 朗らかに微笑んだメディの顔が脳裏を掠める。
 忘れていたはずの遠い記憶。
 蘇ったそれに、旭日は温かい何かが心を満たしていくのを感じた。
 どろり、と溶けたそれが真っ赤に染めていた眼から溢れていく。
 血の涙を流した旭日の瞳は本来の美しい深緑の色を取り戻した。
 同時に彼の身体を一陣の風が優しく包み込む。

「我、汝と共に在らん。汝、我と共に歩みたまえ」

 心地良い声が耳朶を打つ。
 旭日は依り代として酷使してきた男の身体から抜け出た。
 魂の周りに施された術印が音を立てて崩れていく。
 桔梗が両腕を広げて彼を迎えた。
 パキン、とユタから受け取った宝珠が砕ける。
 飛び込んだ胸は温かく、ずっと己を捕らえていた憎しみと怒りが消えていった。

『おかえり、旭日』

 桔梗の中で、華月が泣いていた。
 もう泣くな、と伝える前に、旭日の意識は遠のく。
 無事に契約が終わったのを確認すると、桔梗はゆっくりとシアンを振り返った。
 その右腕には白い龍が蜷局を巻いている。

「大佐が来てくれたお陰で助かりました」
「そうか」
「はい」

 二人は互いに見つめ合うと、どちらからともなく笑い声を漏らした。
 けらけら、と暫く笑っていた桔梗だったが、やがて地面に倒れてしまった。
 慌ててシアンが駆け寄ると、すうすうと寝息を立てている。

「頑張りすぎだ、馬鹿」

 くしゃり、と顔を歪めながら、シアンは桔梗を抱き上げた。
 全部、全部終わったのだ。
 見上げた青空はどこまでも高く、そして澄んで見えた。

◇ ◇ ◇

『起きろ、小娘』

 乱暴な物言いに華月様はそんなこと言わない、と桔梗が頭を振る。
 すると、チッと鋭い舌打ちが響いて、次いで頭を叩かれた。

『起きろ、と言っている。まったく貴様はいつまで眠れば気が済むのだ。これだから、軟弱な人間は……

 痛いな、と思いながら目を開けた先、そこには白い装束を着た旭日が居た。
 これが本来の服装なのだろう。白の布地に鮮やかな赤い刺繍が施されたそれを見て、桔梗が瞬きを落とす。

『旭日! 桔梗はまだ安静にしていないといけないと言ったのに! どうして起こしたのです!』

 左腕の刺青から華月が怒った顔で現れる。
 それを見て、桔梗は自分が旭日と契約したことを思い出した。
 慌てて武器を手繰り寄せた彼女に、旭日と華月が声を立てて笑う。

『心配せずとも、もう暴れぬわ。こうして、華月の傍に居ることが俺の望みだったからな』
『だそうですよ。現に貴女が気を失ってから今日まで、妾と共に貴女の回復に尽力してくれましたから』

 華月の手が桔梗の頭を優しく撫でた。
 それに心地良く目を細めていると、ノックもなしに扉が開かれる。

 深い青色の眼と、目が合った。

 次いで、痛いくらいの力で身体を抱きしめられる。
 海のような香りが桔梗を包み込んだ。

「ちょ、い、痛いです。大佐」

 掠れた自分の声に桔梗は驚いた。
 それを聞いたシアンがフッと口元を緩める。

「流石に一週間は寝すぎだ、馬鹿」
「そ、そんなに寝ていたんですか!?」
「ああ。鼾まで掻いていたぞ」
「そ、それは嘘でしょう! 嘘ですよね、二人とも!? ねえ!」

 必死に華月と旭日に同意を求める桔梗に、シアンは「嘘だよ」と笑った。
 こつり、といつかのようにシアンの額が桔梗の額に触れる。

「もう、目を覚まさないのかと思った」

 静かに告げられた言葉は少しだけ震えていた。
 きゅっとシアンの背中へ腕を回す。

「まだ、何も伝えていないのに。居なくなられるのは困る」
「え?」
「全部、思い出したんだ。お前が東の国の姫で、俺と昔手合わせをしたことも。この傷が誰を守って出来たのかも――全部」

 桔梗の眦から涙が溢れた。
 温く頬を伝ったそれは、シアンの手の甲を濡らす。

「ごめんなさい」
「どうして、お前が謝る」
「今までずっと貴方を騙して」

 ぐす、と鼻を鳴らしてシアンの肩に顔を埋めた桔梗の背中を、シアンは優しく撫でた。

「知っているか? 男はな、女の嘘を許してやる生き物なんだ。俺は騙されたとは思ってもいないし、怒ってもいない。だから、もう泣くな」

 シアンの声が桔梗の心に巣食っていた靄を晴らした。
 ひっく、ひっく、としゃくる桔梗をシアンが優しく宥める。

「泣くなって言ってんだろ」
「だ、って、とまら、ないっ」

 それを聞いてシアンは何かを考えるように小首を傾げた。
 そっと身体を離したかと思うと、ゆっくりと顔が近付いてくる。

 ちゅっ。

 可愛らしい音が部屋に響く。

『ほう?』
『まあ!』

 旭日と華月の声に、桔梗はカッと頬が熱くなるのが分かった。
 シアンの唇が眦に触れている。

「なっ!?」

 何を、と開いた唇を噛み付くように塞がれた。
 響いた水音に、桔梗の身体が羞恥に震える。
 漸く唇が離れる頃には、桔梗の息はすっかり上がっていた。

「ん、止まったな」

 にやり、と目を細めて笑うシアンに桔梗は握り拳を造った。

「も、もっと他にやり方があったでしょう……!!」
「ああ。でも、したかったから」
「そういうことを、聞いているんじゃなくて!!」

 びりっと桔梗の身体を静電気が走る。
 それを見たシアンが再び顔を近付けた。

「何だ。初めてだったのか? だから、そんなに怒っているのか?」
……ッ!?」
「なら、ちゃんと手順を踏んでやる」

 そっと桔梗の手を握ると、シアンは彼女の手の甲へキスを施した。
 そして、翡翠の眼をじっと見つめて言葉を紡ぐ。

「好きだ」

 はらり、と止まったはずの涙が、再び眦から零れた。
 それを指で掬いながら、シアンが笑う。

「わ、たしも、」

 好き。

 その言葉が音になることは無かった。
 代わりに部屋に響いたのは、唇の触れ合う淡い水音で。
 傍観を決め込んでいた二頭の龍も、どちらからともなく手を取り合って笑った。
 穏やかな日差しが差し込む、そんな昼下がりの出来事であった。

《完》