――声を聞いた。
子供が泣く声を。
目を覚ますと、身体が痛かった。
固い木の感触と、上下に小刻みに揺れる感覚に、マリアは自分が馬車に乗せられていたことを思い出す。
「……そうか、ここは」
「気が付きましたか?」
まさか同席している者が居るとは思わず、マリアは怠い身体に鞭打ってそちらを振り返る。
「コーラル帝国でお供をさせて頂きます。ロゼッタです」
「どうも」
「聖女に滞在して頂く東の塔――かつては最果ての塔、と呼ばれていた塔にはもうすぐ到着いたしますので、暫し御辛抱ください」
言葉の端々に宿る棘に、何とも言えない表情で曖昧に頷くと、空を覆う分厚い雲を睨みつける。
アッシュの所為で、マリアは今『浄化の炎』を扱うことが出来なくなっていた。
女神サラと迦楼羅と交わした制約の一つ――『異性との接触を禁ず。汝、清らかな乙女であれ』に反してしまったからだ。
異性との接触――所謂キスやセックスなどがこれに該当した。
「クソッ。アッシュの野郎……!」
思い出すだけで腹立たしい。
炎を扱えないマリアでは、獣を屠ることが出来ないのだ。
それを分かっていて尚、アッシュはマリアを帝国へ渡さないために強硬手段を取ったのであった。
結局、マリアの考えを受け入れた国王の申し出でマリアはコーラル帝国へ赴くことになったのだが、武器は携帯することを許されなかった。
罪人としての連行を強調するためであることは明白だった。
下町の人間でも、もっとましなもてなしを施してくれる、とどこか遠い目になった彼女に、ロゼッタが険しい目つきを寄越した。
「何か?」
「いいえ? 恐ろしい魔女だと聞き及んでおりましたので、少し拍子抜けしただけです」
とても、そんな生易しい視線では無かった気がするのだが、ここで彼女の機嫌を損ねると何をされるのか分かったものではない。
マリアはそっと小さく溜め息とも欠伸とも言えないものを噛み殺して、三度窓の外へと視線を戻すのであった。
「どうしてマリアを行かせたんですか!!」
アッシュが険しい表情でユミルに詰め寄ると彼女の傍らに控えていたフィンが代わりに答えを告げた。
「大聖女は直前まで説得されていました。けれど、マリア様が自ら望んで迎えの馬車に乗り込んだのです。誰もあの方を止めることは出来ませんでした」
「ですが!」
「……貴方にそれを言う資格があるのですか?」
更に詰め寄ろうとしたアッシュを、ユミルが鋭い視線で制した。
普段は滅多に人前に晒すことのない、額にある三つ目の目を露わにしてアッシュを睨むユミルに、アッシュはぎくりと肩を震わせた。
「……っ」
「炎が扱えないマリアはただの少女と言ってもいい。増してや武器の携帯も許されなかった。そんな状態のあの子を私が黙って見送ったと? 貴方は本気でそう思っているのですか?」
静かに怒りを孕んだユミルの声に、アッシュは俯くことしか出来なかった。
けれど、あの時はああする他、マリアを咎める術が無かったのも事実である。
己が犯した大罪を正当化するわけではないが、マリアの考えを改められたら、とそう思ってあの行動を取った。
結局、彼女はアッシュが雑務に追われている隙に、帝国の誘いに応じてしまったのだから手に負えない。
戦闘経験はあっても、それは対獣用のものだ。
優しいあの子は、人に剣を向けることはしない。
――だからこそ、行かせたくなかったというのに。
重い空気が部屋中を満たした。
マリアが連れて来られた東の塔――かつて最果ての塔と呼ばれていた古い建物は、その昔、聖アリス教会が混血児の子供たちを収容するために建設計画を立てていた建物だった。
現在は敵国の要人を軟禁するために用いられているようで、必要最低限の家具が置かれているだけだ。
「こちらに着替えて頂きます」
そう言ったロゼッタに手渡されたのは、見るからに女性ものと分かる白いワンピースだった。
今まで着ていた服はどうするのか、と眉間に皺を寄せれば「査問会が終わればお返しいたします」と冷たい口調で返ってくる。
こんな服に袖を通すのは、幼い時分以来だ。
慣れないスカートに顔を顰めれば、「よくお似合いです」と能面のような顔をしてロゼッタが言った。
お世辞にしても質が悪いと、マリアは零れそうになった溜め息を寸でのところで飲み込んだ。
緋色の髪を三つ編みに結われ、両手を手錠で拘束される。
武器も持たない一般人と化した小娘相手にここまでやるのか、とマリアはどこか他人事のように思った。
ロゼッタに上へ行くように促されたので、なるべく重い足取りに見えるようにゆっくりと階段を上がっていく。
簡素なベッドと机が設置されただけの部屋に入れられたかと思うと「召喚されるまで、ここで待つように」と短く言い残され、扉に鍵を掛けられてしまった。
「はあ……」
ここは空気が重い。
何か特殊な結界でも張っているのだろうか、と思えるほど身体に力が入らなかった。
することもないので、ベッドに横になれば天井や壁の至る所に茶色の染みが飛んでいるのが目に入る。
「悪趣味だなぁ」
仮にも『聖女』と呼ばれている身だ。
殺人が行われた部屋の中に案内されるとは思ってもおらず、マリアは本日何度目になるのか分からない苦笑を噛み殺すしかなかった。
「聖女・マリア」
うとうと、と瞼が重くなり始めたときだ。
誰かに呼ばれる声で、マリアはスッと覚醒した。
「……フィン?」
その声は教会に居るはずの聖子・フィンのものだった。
「貴女の影に同胞を忍ばせております。私はその同胞に思念を伝えているのです」
「そうか。それで? 何の用だ?」
「コーラル帝国が攻め込んでまいりました」
フィンの声に乱れはなかった。
酷く落ち着き払った彼の口調に、マリアはにやりと口角を上げる。
「やはりか」
「はい」
「オレを人質にして無力化を図ろうって算段だろう。生憎だが、お前たちはそこまでやわじゃない」
「はい」
「オレのことは良い。帝国から仕掛けてきたのだ。正当防衛でねじ伏せろ」
「承知」
そう言うとフィンの声は聞こえなくなった。
代わりに、マリアの影と同化している幻影の声が静かに響く。
「お身体に異変はありませんか?」
「今のところは、な。どうしてだ?」
「この塔から、かつて聖子・チヨを封じていた塔と同じ気配を感じます。魔力封じの札が施されているのかもしれません」
「なるほど、それで力が入らないのか」
ずるり、と影から顔を出したのはフィンの側近であるクロウだった。
「まさか、お前が付いてきているとは思わなかったなぁ」
「隊長から直々に言われたので、断れなかったのです。事後報告になってしまい、申し訳ありません」
「別に怒っていないよ。一人だと暇だと思っていたから丁度良い。話し相手になってくれ」
からからと屈託ない笑顔を見せたマリアに、クロウも釣られて笑みを零す。
そんな二人の様子を知ってか知らずか、無情にもノックの音が響いた。
「……聖女。俺だ」
レオンハルトの声だ、とマリアが身を固くする。
クロウに視線を向ければ、彼はすぐにマリアの影の中に沈んだ。
「どうぞ」
マリアの声に、扉がゆっくりと開かれる。
以前、教会を訪ねてきたときとは別人のようにやつれた様子の彼が、簡易に置かれた椅子に腰を下ろす。
どうやら部下もつけずにマリアを訪ねてきたらしい。
酷く憔悴しきった様子の男に、マリアは眉根を寄せた。
「お一人で来るとは、何かよからぬ噂を立てられても知りませんよ?」
「……」
マリアの冗談にも怒る気力がないらしい。
これは重症だなと眼前のレオンハルトをじっと凝視すれば、彼が徐に口を開いた。
「頼みがあるのだ」
「オレに?」
「ああ」
――貴殿にしか頼めない。
悲痛な表情の男に、マリアの眉間に深い皺が刻まれる。
「あの獣について教えてほしい」
小さく消え入りそうな声で告げられたそれに、マリアは静かに瞼を下ろす。
「……それは本当にお前の望みなのか?」
「ああ。友を、シュナイダーを救うにはもう時間がないのだ」
「やはり、副騎士団長は生きていたんだな」
「上層部は奴を騎士団の名簿から外した。本来ならそれだけで済むはずだった。だが、奴は貴殿を我が国に連れてくることに楯突いた。『彼女があのバケモノから我々を助けてくれたのだ。感謝こそすれ、怒りを向けるべきではない』と。上層部と王は貴殿に何か吹き込まれたのだ、と結論付け、その上で奴を見せしめに処刑すると言っている」
シュナイダーと数名の生き残りは既にコーラル帝国の住民票から抹殺されているらしい。
自分が彼を救ったことで、彼は殺されそうになっているのだとレオンハルトは言った。
誰かを救って感謝されたことはあっても、責められたことはない。
十五歳の少女には重い言葉がマリアを苛んだ。
「……オレから獣のことを聞きだした後、シュナイダーと一緒に殺す。そういうことか?」
「…………恐らく」
「猶予は?」
「分からん。ただ、今週末に司教が凱旋すると言っていた。処刑の前に懺悔の祈りを捧げるのが我が国の風習だ。それまでは貴殿とシュナイダーに手出しはさせん」
ゆっくりと深呼吸したマリアの姿に、レオンハルトは唸った。
ワンピースを着ていると市井に暮らす少女だと言われても不思議はない。
少女が大剣を握る理由がどうしても知りたくなった。
「何故、剣の道を選んだ」
男の真摯な眼差しに、マリアはスッと猫のように目を細めた。
「そこに家族を脅かすものがあったからだ」
「その細腕で出来ることなど、たかが知れているだろうに」
「そうかもしれないな。けれど、オレは守ってもらうより、誰かを守りたいと思った。だからこそ、女神もオレに応えてくれたのだろうよ」
マリアの右薬指には指輪のような火傷があった。
それは女神と契約した者の証だ。
教会の人間以外にこれを晒すのは初めてのことである。
レオンハルトは最初、マリアの言葉の真意を測りかねていた。
だが、彼女の右手を見てその眼を驚愕の色に染めた。
「シュナイダーが何故、貴殿を庇ったのか理解できた気がする」
「そうか」
「ああ」
「……もう、行くのか?」
「今日の所は、な。貴殿の尋問は全て私に一任されている。ここは少し窮屈だろうが、暫し耐えてくれ」
憎むべき相手であるはずの少女に向けた己の言葉に、レオンハルトは驚いていた。
家族を守りたい。
その気持ちが痛いほどよく分かる。
いつまでも過去の出来事に囚われるな、と友は言った。
あの凄惨な事件の生き残りである自分も前に進むべき時がきたのかもしれなかった。
「……クロウ」
「ここに」
ぬっと己の影から姿を現した同胞に、マリアは唇を噛み締めた。
「オレは大丈夫だから、教会に戻ってくれ。ユミルにこれを届けてほしい」
そう言うとマリアは落ちていたガラスの欠片を拾って、自分の髪を切った。
「マリア様!? 一体何を!!」
「オレの髪には特殊な力が込められていると、以前言われたことがあるのを思い出したんだ。獣が現れても、これで多少は凌げると思う」
「ですが! 貴女はどうするのですか! 今は炎も使えないはず! 御身に何かあれば、それこそ……」
「心配ない。浄化の炎は使えなくても、咎の炎は使える。退ける程度なら今のオレにも可能だ」
「ですが!!」
「くどい」
それはとても十五歳の少女が発する声ではなかった。
低い、大人の男のようなそれに、クロウは年甲斐もなく肩を震わせ恐怖を感じた。
「二度は言わん」
ぐい、と強制的に持たされた髪とマリアの顔を交互に見て、クロウは震える手でそれを懐に仕舞った。
「どうか、ご無事で」
お帰りをお待ちしております。
深々と頭を垂れ、影の中に沈んだクロウに、マリアはふぅと息を吐き出した。
長い間伸ばしていた髪がこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。
女神サラと迦楼羅に言われたことを思い出した自分を褒め称える。
『貴女の髪は迦楼羅の操る焔と同じ。もしもの時はその髪に念じなさい。まあ、「もしも」なんてあっては困るのですけれど』
そう言って苦笑した女神の声が頭の中に木霊する。
(ごめんなさい)
右手薬指に、そっと唇を寄せる。
アッシュにキスをされたとき、驚いたのと同時に昂揚を覚えた。
微かに恋慕を抱いている相手からされた口付けのせいで、マリアは力を失ってしまったけれど、唇に残る彼の熱にどうしようもなく胸が騒いだ。
『マリア』
「……分かっている」
『では、その「感情」を代償に?』
「……ああ」
迦楼羅の炎が部屋の中を温かく照らした。
両手を広げたマリアの胸の中へ、迦楼羅が飛び込んでくる。
――ずっと、好きだったの。
「アッシュ兄さん」
つう、と伝ったマリアの涙は、頤を伝って床に染みを作った。
少女の小さな祈りは、女神の眷属に静かに浸透していくのだった。