ふかふかのベッドに慣れたかと思えば、目を閉じると忌々しいあの夜の出来事を思い出して寝返りを繰り返しているうちに朝が来る。
下瞼にくっきりと浮かび上がった隈を見て、ナギは「げ」と舌を突き出した。
あの日から一週間が過ぎようとしているのに、ナギの身体はベッドで眠ることを良しとはしてくれない。
太陽の匂いを吸い込んだシーツを嗅ぐ度に、あの晩ベルフェゴールにされたことを思い出してしまう。
どんな風に触られて、どんな風に舐められたか。
事細かに覚えてしまったそれを脳内再生すればするほど眠りは浅くなり、記憶は鮮明になる。
「大丈夫か?」
いつものように花摘みを手伝っていると、ベヒモスが心配そうにこちらを覗き込んできた。
平気だ、という意味を込めて頭を振るも、彼の眉間に寄った皺は戻りそうにない。
「もしや、寝不足か? すごい隈だぞ。」
「……ヴォルグには言うなよ。アイツ、この件に関しては超が付くほど敏感になっているからな」
「だが、」
「言わないでくれ。自分で何とかしてみせるから」
くしゃり、と顔を歪めて笑ったナギに、ベヒモスは言葉を飲み込むことしか出来ない。
「本当に辛くなったら、私の元に来なさい。眠り薬を調合してあげよう」
「悪いな、助かる」
そう言って再び花を摘み始めたナギの後姿へ向けて、ベヒモスは深い溜め息を落とした。
芳しい花の香りを纏った姫が、従者の腕の中ですうすうと規則正しい寝息を立てている。
それが魔女の呪いの所為とも知らずに、健やかな息を吐き出す彼女の横顔を見て、王子は片眉を上げた。
「どうしたのさ、それ」
童話に登場する眠り姫よろしく寝室に担ぎ込まれてきたナギを見て、ヴォルグは呆れたように顔を顰める。
「花摘みを手伝ってもらっていたのですが、眩暈がすると言って倒れまして……」
「あはは、酷い隈だねぇ。まったく君って奴は」
ぐりぐり、とナギの眉間を押さえれば、寝心地悪そうに唸り声が上がる。
「うー……」
「ふふ、まるで獣のそれじゃあないか」
楽しそうに笑うヴォルグに、ベヒモスは渋い顔をする。
「陛下」
「分かっているよ。寝不足なんだろ。静かに寝かせておいてあげるさ」
「そうではなく……」
「ああ。どうして、彼女が寝不足だと気付いたのかって?」
「はい」
ヴォルグは悪戯っ子のような顔で笑うと、ナギの眠る寝台に腰掛けた。
「血の眷属だからだよ。心の声が聞こえるんだ。まあ、当の本人はここ数日疲労のあまり、それをすっかり忘れているようだけれど」
「余程、気を許していらっしゃるのですね」
ベヒモスの一言に、ヴォルグは首を傾げた。
ひどく子どもっぽい仕草が似合って見えるのは、小さい頃から彼を知っている所為だろうか。
きょとんと、緋色の目を大きく開いてこちらを見つめる彼に今度はベヒモスが笑う番だ。
「おや、ナギ殿の話ですよ?」
「……からかうな、ベヒモス」
「ははっ。これは失礼を」
「もういい。さっさと母上の所に花を持っていけ」
シッシッ、と小動物にするようにベヒモスを手で追い払うと、ヴォルグは眠りこけているナギに目線を戻した。
穴が開くのではないかと思うほどにナギを真剣に見つめるヴォルグを盗み見て、ベヒモスは忍び笑いを浮かべた。
気を許しているのは、どちらか――なんて、顔を見れば分かる。
冷たく、痛いくらいの殺気を放ち、視線だけで他人を殺しそうな獰猛な目をしていた王の顔と、ナギに視線を遣る横顔が重なる。
(……ヴァトラ様。貴方の遺児は、随分と良い剣を見つけられたようだ)
亡き王に向けて自然と笑みが零れた。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、アストライアと共に国を練り歩いていた頃のヴァトラだ。
◇ ◇ ◇
先王が殺されたあの日。彼を最初に発見したのは、当時三貴人の末席である「子爵」に腰を落ち着かせていたベヒモスであった。
先王ヴァトラは優しい王だった。
魔族であるにも関わらず争いごとが嫌いで、人間が攻め込んできたときも武力ではなく言葉巧みに彼らを退けた逸話がいくつもあった。
そんな王が殺されたのは、吐く息が白く染まり始めたそんなある日のことだった。
「陛下、ベヒモスです」
ノックをしても返事が無かった。
普段であれば声を掛けるよりも早く、気配を察知して王の声がする。
けれども、この日は違った。
中から聞こえて来たのは、低い呻き声。
「……ベヒ、モス」
苦しそうなその声に、ベヒモスは無礼を承知で勢い良く扉を開いた。
「陛下!?」
そこには血塗れになって床に横たわるヴァトラが居た。
床一面が血の海で溢れており、靴底に彼の血が付着する。
「何があったのです!!」
回復魔法を掛けようとヴァトラに手を伸ばせば、彼はふるふると弱弱しく首を横に振った。
「私に、魔法は効か、ない。わす、れ、たのか」
「……っ!」
ヴァトラの言葉にベヒモスはハッと息を飲んだ。
魔王に選ばれた人間には初代魔王ルーシェルの加護が授けられると言われている。
――だが、実際は違った。
授けられるのは加護ではなく、呪い。
神に理解されぬまま、死を迎えたルーシェルの無念は魔力に変化し、魔界を覆った。そしてその無念は殊更、魔族を統べる者『魔王』に執着していた。
ヴァトラに与えられた呪いは『魔法無効』。
玉座に座ってから、他者の魔法を一切受け付けない特殊な体質になっていたのだ。
「では、すぐに医官を!」
「いい、かまうな」
ヴァトラは冷たくなりつつある身体を叱咤すると、緩慢な動作で寝ていた身体を起こした。
「私は、もう長くない」
「そのようなこと! 掴まってください。やはり医務室へ参りましょう!」
「良いと言っている。自分の身体のことは、自分が一番分かっているものだ」
「陛下……」
ヴァトラの緋色の目はゆらゆらと、激しく揺れていた。
ベヒモスは何も言えないまま伸ばしかけていた手で床を叩いた。
ドン、と鈍く響いた床の音が胸しく部屋に反響する。
「頼みがある」
「何なりと」
「……私を襲った者が誰であれ、許してやってほしい」
「それは、」
「『優しい暴牛(ベヒモス)』よ。出来ないとは言わせんぞ、」
王の手がベヒモスの手を取った。
氷のように冷えた彼の体温に、ベヒモスの顔が歪む。
「だが、私の殺害を企てた者は決して許すな」
「え?」
「三貴人の中に、犯人が居るはずだ」
「まさか、そんな!?」
ヴァトラは緩く悲しそうに眼を細めた。
「私も信じたくはない。だがシュラウドのあの顔を見たとき、そうとしか思えなかった」
それはつまり、王の剣であるシュラウドがヴァトラを刺したということであった。
ベヒモスは視界が真っ白になったような錯覚を覚えた。
怒りで前が上手く見えない。
「……王よ、それは」
「言ったであろう。襲撃者のことは許せ、と」
「ですが!!」
「私の死を無駄にする気か」
ヴァトラの言葉はベヒモスの胸を鋭く刺し貫いた。
「私は私の死をもって、三貴人の在り方を問う。その任を貴殿に任せたいと言っているのだ」
重く圧し掛かる言葉の羅列に、ベヒモスは今にも身体が潰されてしまいそうな胸中である。
「……奥とヴォルグを頼む」
ヴァトラは笑って逝った。
優しい王は最後まで残酷なほどに優しいまま死んだ。
◇ ◇ ◇
「――貴殿が王を殺したのではないのか」
翌日からは地獄のような日々だった。
第一発見者であるベヒモスに王の殺害容疑が掛けられたのである。
ベヒモスは必死に否定した。
だが、同じ三貴人のベルフェゴールやベルゼブブからも疑いの目で見られ、為す術もなく同じ言葉を、査問委員に任命された者たちの前で繰り返すことしか出来ない。
そんな彼を救ったのは意外にも、妹のレヴィアタンであった。
「兄上は誰よりも王のために働いてこられました! そんな兄上が、お慕いする王を殺すわけがありません!!」
不仲なことで有名だったレヴィアタンの援護を受け、査問会もベヒモスに対する態度を改めざるを得なかった。
「……すまない、レヴィ。お前にまで迷惑を掛けて」
「お気になさらないでください。たった二人の兄妹ではありませんか」
思えば、このとき初めてレヴィアタンとまともに会話をしたかもしれない。
どのような状態で王を看取ったか、現場に不審な点はなかったか、昼夜問わずレヴィアタンと議論を繰り返した。
そして、ベヒモスとレヴィアタン、それから彼らの部下であるマモンはヴァトラの剣であったシュラウドを見つけることに成功する。
王が殺されてから一月の時間を要したが、慎重に事を進めた成果もあり、生家に帰ろうとしていた彼を無事捕まえることが出来たのだ。
「何故、王を殺した」
ベヒモスの問いにシュラウドは応えようとしなかった。
ただ、静かに涙を流す彼に、本意で王を殺したのではないことだけが痛いくらいに伝わってくる。
一行はそれきり静かに、歩みを進めた。
だが、城が見える橋に差し掛かった時、ベヒモスがふと足を止めて言った。
「……王は、お前を許せと仰った。我らはそのお言葉を守りたい。だから、答えてくれ。何故王を殺したのか」
シュラウドの瞳は何か物言いたげに揺れていた。
嗚咽を飲み込もうとして、引き攣った声を上げるシュラウドをベヒモスはじっと優しい表情で見守る。
そして、シュラウドがゆっくりと口を開きかけた――その時。
無数の刃が彼の身体を突き刺した。
「兄上!」
レヴィアタンの声が遠くに聞こえる。
シュラウドの身体を突き刺した刃は、正面に立っていたベヒモスの腹をも貫いた。
倒れた拍子に立っていた橋が激しく揺れる。
二人の身体を貫いた刃は、劣化した木造の橋を容易く破壊したのだ。
ドボン、と二人を飲み込んだ川を見て、レヴィアタンが絶叫した。
二人を助けようと飛び込む態勢を取ったレヴィアタンを、マモンが腕を掴むことで必死に抑える。
「離しなさい、マモン! 兄上が!」
「駄目です! レヴィアタン様! 貴女まで落ちてしまったら、誰がベヒモス様と王の意思を引き継ぐのですか!」
その言葉に、レヴィアタンはグッと喉を詰まらせた。
赤い血の軌跡が川の中を泳いでいるのを、ただ黙って見つめることしか出来ない自分が悔しい。
血が滲むほど唇を強く噛み締めて肩を震わせる彼女から顔を逸らしたマモンは、二人を襲った武器を見て目を見張った。
「レヴィアタン様、これを……」
それは、白い薔薇が描かれた武器だった。
白い薔薇は魔族が敵対する人間組織『聖アリス教会』がシンボルとする花だ。それが二人を襲った。
レヴィアタンとマモンはゆっくりと、互いの顔を見合わせる。
「王殺しに、聖アリス教会が関わっていると言うのですか?」
「でも、何故彼らはシュラウドを、」
「もしかして、シュラウドは彼らの仲間だったのではないかしら。だから、何かを喋る前に殺された」
そう考えれば、辻褄は合う。
教会ならば魔族を殺せる武器は山ほどある。
魔王ヴァトラは鋼の身体を持っていた。そんな彼を一撃で仕留めることが出来るのは、人間が対魔族用に開発したと言われている『聖剣』くらいしか想像がつかなかったのだ。
だが、魔族には聖剣は扱えない。
聖なる天使の加護が施されたそれは、魔族が持つと毒に等しく、触れたところから一瞬にして光の魔力が毒のように身体の中を駆け巡り、死に至らしめる。
勿論それは斬られても同じことが言えた。
ヴァトラの傷口は、スパッと綺麗に分裂していた。
普通の武器であるならば、斬れば斬るほど強度の増す特殊な防御魔法の持ち主が一撃で刀傷を負わされている。
やはり、聖剣でもなければあんな風に綺麗な傷が残るわけがない、とレヴィアタンは唇に手を添えながらに思った。
「帰りましょう、マモン。するべきことが山のようにあります」
「よろしいのですか?」
暗にベヒモスを見捨てるのかと投げかけたマモンに、レヴィアタンは緩く首を横に振った。
「私たちが行おうとしていることは、これからの魔界に貢献する重大なこと。兄上ならばそちらを優先せよと仰るに違いありません。――それに、兄上があのような攻撃で死ぬはずがありません。必ず生きて戻ってこられます」
「……ですが!」
「ですが、は無しです。男の子でしょう!? しゃんとなさい!」
それこそ、兄上に笑われてしまいますよ。
レヴィアタンの言葉に、マモンは涙をそっと拭った。
彼の赤髪が、波間の光に照らされて淡く反射するのにレヴィアタンが小さく笑みを零す。
「ご無事でいてくださいね、兄上」
凛と響いた声は、静かに川に流れていく。
川の水と混ざり始めた赤い血が、ゆらゆらとそれに応えるように揺れていた。