全てを話し終えると、東雲は時雨からそっと視線を逸らした。
腕の中にすっぽりと収まっている少女からの反応はない。
「……時雨?」
呼びかけてみるも、時雨は微動だにしなかった。
しん、と嫌な静けさだけが部屋に広がっていく。
「し、」
「東雲は、」
もう一度少女の名前を呼ぼうと東雲が口を開くのと、時雨が漸く言葉を発したのは同時だった。
二人して顔を見合わせて、先に折れたのは勿論、東雲である。
「ん?」
小首を傾げ、自分を見下ろす男の琥珀色の双眸が時雨を射抜く。
その目に見つめられると、時雨の心は騒ついた。
どこか落ち着かない胸を持て余しながら、彼の服をきゅっと掴んだ。
「東雲は、姉ちゃんのこと、好きだった?」
時雨の言葉に、東雲は目を丸くした。
己でさえ、彼女が死んでから気付いた感情であるというのに、今の話を聞いただけでそれを察した時雨に何と答えるのが正解か分からずに言葉を見失ってしまう。
「……答えなくて、いい」
「時雨、」
「姉ちゃんが、言ってたんだ」
時雨は東雲の言葉を聞きたくないと言わんばかりに、彼の言葉に自分のそれを被せた。
「今度、時雨に会わせたい人がいるって。きっと、東雲のことだったんだね」
ぽたり、と東雲の服に、雫が零れ落ちる。
長い黒髪の所為で気が付かなかったが、時雨の頬を涙が濡らしていた。
「東雲」
「ん、」
「時雨のこと、好き?」
たどたどしく告げられた言葉に、東雲は瞬きを繰り返す。
「当たり前だろう。でなきゃ、こうして一緒にいるもんか」
「姉ちゃんが、そう願ったからじゃなくて?」
「え?」
「東雲は、姉ちゃんが最後に願ったことを叶えたかっただけなんじゃないの」
「時雨?」
「だって、東雲の目は、時雨を見てない」
東雲が見ているのは、今もずっと梅雨姉ちゃん一人だけだよ。
時雨は嗚咽交じりに言い放った。
「助けてくれたのは、嬉しい。本当に、感謝してる。でも、東雲が見ているのは時雨じゃない。東雲は時々、迷子の子どもみたいな顔をして時雨のこと見ているけど、時雨は、梅雨姉ちゃんじゃない、よ」
途切れ途切れに吐露された拙い想いを受け止めて、東雲は何も言い返すことが出来なかった。
実際、梅雨に出来なかったことを時雨にしてやりたかったし、彼女と時雨を重ねて見ていたときがあったからだ。
「時雨」
「さ、わらな、いでっ」
「……」
「時雨、東雲に触られると、ここが痛くなる。でも、東雲は違うでしょ?」
こんな想いは知らないし、知りたくもないのだ、と緩く拒絶されて、東雲は眉間に皺を寄せた。
どうしたらこの子どもに分かってもらえるのか、分からない。
だって、自分もまだ子どもなのだ。
あの光景が頭にこびりついて離れない。
梅雨が死んだ、あの雨の日から怖くて進むことが出来ない、弱い子ども。
伸ばした手は、鋭い音を立てて叩き落された。
けれど、東雲は再度手を伸ばす。
「……ごめん」
そう言って、小さな身体をきつく抱きしめることしか鈍色の獣には出来なかった。
◇ ◇ ◇
銀と武器屋を散策していた小炎は、嫌な胸騒ぎを覚えた。
先ほどから感じる、どこか懐かしい気配に、背筋が震える。
「おーい、小炎。今ならこっちも勉強してくれるってよぉ」
「ちょいと、兄さん。それは勘弁してくれ! うちの看板商品なんだから!」
銀が店主と戯れあいながら近付いてくる。
心底楽しそうな様子の彼に、小炎はぱちりと一つ瞬きを落とした。
「それ、何に使うか知ってて欲しがってるの?」
「知ってるとも。炸裂弾だろ? 今時珍しいよな」
「こっちじゃ、まだまだ主流の武器なんだヨ」
「……へへっ」
「何。さっきから、随分ご機嫌が良いみたいだけど」
「ナニってそりゃ、お前」
音もなく、銀の腕が小炎の腰を捕まえた。
ぐい、と突然至近距離で拝むことになった彼の顔に、脊髄反射で拳を叩き込む。
「な、にすんのサ!!」
「照れるな照れるな」
小炎の拳は銀の頬へとめり込んだ。
それを甘んじて受け止めながら、銀は更に顔を近付ける。
「バカも休み休み、言いなヨ!」
「お前から誘ったくせに、かわいくねーな」
「誰がッ!」
悪戯な掌が、小炎の背を無遠慮に撫で回した。
久しく許したことのない距離に他人が入り込んでいるだけでも鳥肌ものなのに、熱の籠った銀のそれに、ぎくりと小炎の身体が大げさなまでに強張る。
「身体は正直なんだけどなぁ」
「……ふ、ざけっ」
細く、薄い身体を余すことなく撫で回しながら、銀が小炎の耳元にふっと息を吹き込む。
「ひっ!?」
上擦った悲鳴と共に崩れ落ちそうになった小炎を何とか抱き止めると、銀はさっきまでの浮かれた表情から一変、真剣な口調で小炎に囁いた。
「……気付いてんだろ。さっきから誰かに見られてる」
「……もうちょっと他に伝え方なかったわけ?」
「何が?」
「こ、んな、往来ですることじゃないでしょ」
武器屋は人通りの多い場所に建てられていた。
常世ではありえないことだが、妖が住む幽世にあちらの常識は通用しない。
夜雨のように獣の耳と尻尾を生やした人々が、不思議そうな顔をして銀と小炎の二人を横目に流し見ていた。
「どうせなら役得気分を味わおうかと、」
――ゴッ。
先ほどの拳とは比べ物にもならない本気のそれが銀の下腹部を襲う。
銀は朝食を吐き戻しそうになるのを何とか堪えると、先に外へ出てしまった小炎を覚束ない足取りで追いかけた。
「出てきなヨ。こっちもそんなに暇じゃないんだ。手っ取り早くいこう」
虚空に向かって小炎が声を張り上げる。
「おい、小炎。こんな人の多い場所で、」
「そのセリフ、さっきの君にそっくりそのまま返すヨ」
小炎が面の中で、これでもかと眉を顰める。
研磨したばかりの美しい煌めきを放つ短槍の柄を手にすると、小炎はもう一度叫んだ。
「二度はない。用があるなら、さっさと姿を見せろ!!」
小炎の武器を見た通行人がワッと蜘蛛の子を散らすような動きで駆け出していく。
一目散に逃げ出した彼らとは正反対に、その中にポツリと佇む男が一人。
「あれか」
「みたいだネ」
いつの間にか武装した銀が小炎の隣に並び立つ。
殺気を放った彼らに、男はゆっくりと近付いてきた。
「……輝石、返せ」
男の声を聞いて、小炎は言葉を失った。
そんな、はずはない。
彼は、あの日、自分が看取ったのだから。
ここに居るわけが――。
「ボサっとすんじゃねえ!」
男が小炎に向かって拳を放つ。
ぼうっとしていた所為で反応が遅れた小炎の身体を、銀が強引に後ろへと引っ張った。
「……うそ、でしょ」
先ほどまで小炎が立っていた場所に、大きな穴が開いていた。
地面に突き刺さった、男の青白い腕が陽光を不自然に反射している。
「白」
小炎の口から溢れた名前に、銀は自分の目を疑った。
二人が対峙している男の顔には一枚の札が貼り付けられている。
「……こいつ、[[rb:僵屍 > キョンシー]]か!?」
「みたいだネ、」
「小炎?」
「…………っ」
僵屍のその顔に、小炎は見覚えがあった。
かつて、たった一人だけこの身を預けるのを許した男。
十五年前に死んだはずの恋人が、そこに立っていた。
(兄貴が、どうして僵屍に……)
自身もそこはかとなく動揺しながら、銀はグッと唇を噛み締めた。
死んだはずの人間が、そこに立っている。
恐怖するな、というには、無理があった。
「誰だか知らねえが、俺の許可なく小炎に触れてみろ。その身体、ズタズタに引き裂いて、墓の下に送り返してやる!」
(悪い、兄貴!)
銀が心の中でそう唱えながら、僵屍に突っ込む。
関節や骨を無視した動きでずるり、と動いたそれに、銀は鋭い舌打ちを放った。
長刀の間合いに入った瞬間、大きく腕を振りかぶる。
手応えはない。
眉を顰めた銀の背に、小炎の声が響いた。
「上!」
ほとんど、反射で後ろに仰反る。
ゴン、とまたしても鈍い衝撃音が地面を抉った。
「ったく、どんな身体能力してんだ! 人間業じゃねえ!」
「当たり前でしょ。僵屍なんだから……」
小炎の声はひどく掠れていた。
ともすれば、今にも消えてしまいそうな、そんな危うさを孕んでいる。
「ひとまず、逃げるぞ。目的があの女なら、東雲の旦那たちも危ない」
「う、うん」
声にいつもの覇気がない。
銀は再び顔を顰めると、小炎の手を掴んだ。
ぎょっとした気配が伝わってくるが、そんなこと、今はどうでもいい。
「急ぐぞ」
少し先を行く、銀の横顔に、小炎は言葉を失った。
どうしてか、白の顔と彼の顔が、重なって見えたのだ。
「銀、」
紡いだ名前に、彼は答えない。
代わりに握られた手に力が込められた気がした。
◇ ◇ ◇
泣き疲れて眠ってしまった時雨を抱えながら、東雲は煙草に火を付けた。
時雨が気に入っている窓枠に腰を落ち着け、中庭の枯山水をぼうっと眺める。
(…………どうしたもんかねぇ~)
自分は時雨を泣かせてばかりだな、と東雲が自己嫌悪に陥っていると、不意に嗅ぎ慣れた臭いが風に乗って流れてきた。
(血の臭い、)
嫌な予感が東雲の胸中を支配する。
時雨を抱えたまま、東雲は和笑亭の中を走った。
玄関前の大広間に辿り着いた東雲を出迎えたのは、肩で息をする夜雨の背中だった。
夥しい血が彼の足元に広がっているのを見て、東雲が眉根を寄せる。
氷で出来た槍のような何かが、彼の腹を無惨にも貫いていた。
「……来るなッ!」
夜雨の声が、東雲の身体をその場に縫い止めた。
「狙いは蓮持ちのガキだ! お前はそこで大人しくしていろ!」
腹からしとどに流れ落ちる血が、床に広がっている染みを更に大きくした。
ぎり、と歯を食いしばりながら叫んだ夜雨に、東雲は時雨を抱えている腕に力を込める。
「お前、」
「俺は平気だ。氷なら、まだ、耐性がある」
「でも!」
「しつこいぞっ! さっさと戻って裏口から出ろ! 俺はアイツに一発入れないと気が済まないんでな!」
夜雨がアイツ、と称した存在に、東雲は初めて目を向けた。
そして「どうして、お前が」と溢したきり、言葉を失ってしまう。
「……どーしたの、」
この騒ぎの中で、時雨が漸く目を覚ました。
片や血塗れの夜雨、そして放心状態の東雲という大人たちに囲まれて、その視線が向かうのは自然二人の大人が注視している存在になる。
「お、ねえちゃん?」
時雨がぼそり、と呟いたのを合図に、それは再び攻撃を繰り出した。
「だから、さっさと逃げろと言ったんだ!」
氷柱の雨が、再び天井から降り注ぐ。
夜雨が攻撃を避けながら、東雲を睨んだ。
二人を庇って戦えるほど、夜雨の体力は残っていない。
鋭い舌打ちが東雲を叱責する。
「悪いが、逃げるわけにはいかなくなった。こっちもアイツに用がある!」
駄菓子屋ののっぺらぼうが言っていた梅雨によく似た女というのは眼前のそれに相違ない。
東雲はそう結論づけると、梅雨とそっくりな形をした敵に銃を向けた。
引き金に手を掛ける。
だが、それが引かれることはなかった。
「やめて!」
あのときと、同じだ。
梅雨が最後に放った言葉と同じそれを、時雨が紡ぐ。
「お姉ちゃん、撃たないで!」
東雲の腕を振り解くと、時雨は梅雨の前に立って、東雲が照準を合わせられないように両手を大きく広げた。
「つ――時雨、そこを退け!」
「いや!」
「退けって言ってんだろ!」
「いや!!」
テコでも動かない、と固い決意を見せる少女に東雲と夜雨が歯噛みしていると、氷柱を構えたまま大人しくなっていた梅雨が、時雨に一歩近づいた。
「時雨!」
東雲がいち早く異変を察して手を伸ばす。
けれど、その手が時雨を掴むことは叶わなかった。
「……東雲、」
時雨が最後に何を言ったのか、上手く聞き取れなかった。
少女たちの身体が煙と共に姿を消した所為だ。
柘榴の目が、こちらを酷く睨んでいたことだけ、嫌にはっきりと脳裏に焼き付いていた。