背中に感じていたルーシェルの気配が消えた。
代わりに現れたヨフィエルの気配に、掌の上で踊る水晶が淡い白銀の光を放ち始めた。
「……あっちね!」
暗闇の一点を照らす水晶に従って、アマネは走った。
(明星……!)
イヴに抱き着かれた所為で苦悶の表情を浮かべたルーシェルの姿が、脳裏を掠める。
ずきり、と痛んだ胸に気付かないままアマネは走った。
走って、走って、息が出来なくなるのではないかと思うほど、走って。
「――アマネちゃん?」
不意に聞こえてきた兄の声に、アマネは走っていた足を止めて辺りを見回した。
暗闇の所為で視野が狭く、どこに何があるのかが上手く把握出来ないのが悔しい。
「ここよ、ここ。そのまま、光に向かって進んで」
ヨフィエルの優しい声に従うと、そこにはぐったりとした様子で横たわる少女と血だらけになったヨフィエルがいた。
「兄様!! 大丈夫ですか!?」
「私は平気。殆どは返り血だし……。ただ、背中に傷を負ってしまって、上手く飛べないの」
「そんな……」
「大丈夫よ。天界に戻ればすぐに治るもの」
ヨフィエルは微笑みを浮かべると、アマネの手に握られていた夢渡しの水晶を見て、ハッとした。
「それ、ルーシェル兄様の水晶じゃない!?」
「は、はい。明星から預かったものです」
「良かった……。私の水晶はイヴ様に壊されてしまったから」
コンコン、とヨフィエルが優しく水晶をノックする。
白銀の光が再び瞬いたかと思うと、次いでシーレの声が響いた。
『ルーシェル様、アマネ様、ご無事ですか?』
「……明星は、いません。ただ、ヨフィエル兄様とは合流できました」
『そう、ですか。分かりました。引っ張り上げますので、意識を集中してください』
白い光がアマネたちを包み込む。
瞼の裏に、ルーシェルの横顔が浮かんだ。
アマネ、と自分の名を呼ぶ声が、じんわりと耳元に響く。
――必ず助けに戻ります。
アマネはそう心の中で決意するのだった。
◇ ◇ ◇
空気を吸い込む度に肺が軋んで、息が上手く出来ない。
ドク、と痛みを訴える心臓に、アマネの額に脂汗が滲んだ。
酷い耳鳴りに耐えようと、耳を押さえながらその場に蹲る。
「だ、大丈夫ですか?」
頭上から掛けられた声に、アマネは緩慢な動作で顔を上げた。
白いワンピースを着た薄紫色の髪を持つ少女の手がこちらに伸ばされる。
ぼんやりとした頭で、それを見つめ返す。
華奢な指先が、アマネの頬を掠めようとしたとき――見慣れた白銀がそれを遮った。
「ダメだよ、ミーシャ。この子に触れてはいけないと言っただろう?」
「でも」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、まずは君の身体を直さなくちゃ」
アマネを隠すようにして、部屋の出口へと彼女を連れ立ったヨフィエルに心の中で感謝を述べる。
アマネは悪魔にも人間にも耐性がない。
天使は翼で自身に結界を張り、その身を守る。
だが、アマネにはその翼がなかった。
それ故に天界に戻ってきてからというもの、天界を覆う浄化の気が「夢堕ち」に侵されたアマネの身体に反発し、激しい嘔吐感と頭痛が彼女を蝕んでいた。
「……大丈夫かい?」
「ガブリエル兄様」
蹲ったまま顔を持ち上げると、そこには三大天使が一人――ガブリエルが立っていた。
柔らかな翡翠色の髪を耳にかけ、蹲るアマネに手を差し伸べる。
「君は瘴気に耐性がないから、余計に反動が強いらしい」
「そう、みたいですね――うっ」
「ほら、ここに座って」
そろそろ、とアマネの身体に障らないように、赤子に立つことを促すかのようにゆっくりと手を引かれ、ベッドに誘導される。
「深呼吸してごらん」
「すぅー、はー」
言われるがまま、深呼吸を何度か繰り返すと心なしか息が楽になった気がした。
アマネの顔色が良くなったのを見て、ガブリエルが彼女の手首を掴んで脈を測った。規則正しい音を奏でる脈を確認すると、優しい手つきでアマネの髪を撫でる。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
胸に手を這わせながら、アマネは張り付けたような微笑みを浮かべて礼を述べた。
人形のように形ばかりの笑みを浮かべる妹の痛々しい表情に、ガブリエルの顔が歪む。
「……ルーシェル兄様とヨフィエルの件は君の所為ではないと、何度言ったら分かるんだい?」
「分かっています」
「では何故、そのように苦しそうな顔をする?」
ぐさり、とナイフで胸を刺されたような痛みを覚えて、今度はアマネが顔を歪める番であった。
「明星のことを考えると、胸の辺りが痛みを訴えるのです」
「ほう」
「息が出来なくなってしまうような、そんな感覚がして……」
ズキズキ、と再び痛み始めた胸を押さえるアマネに、ガブリエルが猫のようにスッと目を細めた。
「それは帰ってきてから、ずっとかい?」
「はい」
「そうか」
ふふ、と笑うガブリエルにアマネは首を傾げた。
「君なら、兄様のことを助けられるかもしれないね」
「私が、ですか?」
「ああ」
窓の外で瞬く星々を見ながら、ガブリエルがぽつり、と呟く。
「氷のように冷たいあの人の心を、君は少しずつ溶かしてくれたから。君ならきっと、本当の意味でルーシェル兄様を助けられるよ」
どこか寂しそうに微笑むとガブリエルはそれっきり何も話さなくなってしまった。
何かを待つようにずっと窓の外の星を睨みつける兄を、アマネは見つめることしか出来ない。
赤い星が横切ったのを合図に、ガブリエルは部屋を出て行ってしまった。
優しい兄の背に、暗い影が落ちる。
アマネはガブリエルを呼び止めようと手を伸ばしたが、寸での所で思い留まった。
あんな風に、何かを耐えているガブリエルの表情は初めて見た。
普段は温厚で、誰に対しても優しい天使である彼が、あんな形で感情を露わにするのは珍しい。
「……明星」
どうしたら良かったのだろうか。
ルーシェルの名前を呼びながら、胸のもやもやを追い払おうと、そっと窓を開いた。
まだ夏の香りを残した夜風に、銀の髪が煽られる。
「アマネよ」
「お、お父様!?」
窓枠に腰掛けようとしたアマネのすぐ隣に、いつのまに現れたのか、険しい表情の神が立っていた。
「ガブリエルを責めないでやってくれ」
急に現れるや否や、そんなことを言うものだから、アマネは面食らった。
ぱちぱち、と瞬きを繰り返していると、神が窓枠に凭れながら、星を見上げる。
「アレは、どこかでルーシェルと自分を許せていないのだ」
「え?」
「ルーシェルが堕天する前日。最後に会話を交わしたのはガブリエルだった」
だから、己を責め続けている。
ガブリエルが去り際に、「君なら兄様を救える」と言った言葉の意味が分かって、アマネの鼻の奥がツンと痛んだ。
「だから、私のことを兄様は責めなかったのですね」
「……ああ。アレらは良くも悪くも互いのことを理解していた。それ故に、止められなかった己をガブリエルは責めているのだ。ルーシェルが戻ってきてからも、一度も会いに行こうとはしない。それを戒めとするかのように」
深いため息を吐き出した神に、アマネは顔を伏せた。
「お前が気に病むことではない。ただ、アレらが素直になれないだけだ。だからな、アマネ」
――お前の思うようにいきなさい。
赤くなった眦を慈しむように、神の掌がするり、と肌の上を滑っていく。
優しい温もりに、自分の意思とは関係なく涙が溢れた。
止まない雨のように溢れる涙を必死で止めようと目元を押さえるが、それが意味を成すことはなかった。
そんなアマネの様子に笑みを溢した神が、不意に彼女の身体を力強く抱きしめた。
優しく身体を包み込んだ神の体温に驚いて、涙が引っ込むと、それを見た神がアマネの背中にそっと掌を重ねた。
じり、と背中を焦がすような熱がアマネの全身を覆う。
次いで、鼻先を柔らかい何かが擽った。――白い羽が風に煽られて宙を舞っている。
「翼?」
背中に感じる異物感にそっと手を伸ばせば、柔らかくも筋張った感触が返ってきてアマネは息を飲んだ。
「ほう、白か。天の福音(アマネ)の名に相応しい、良い色だな」
「あの」
「行け。イヴはお前が来るのを待っている」
そう言い残すと、神の姿は煙と共に消えてしまった。
真新しい翼に意識を集中させて、いつかのように、窓枠に足を乗り上げる。
「明星!」
水を得た魚のように、翼を広げた天使が空を縫うように滑り落ちた。