「マモン師匠（せんせい）！」
少し掠れた低いアルトが自分を呼ぶ声に、マモンは顔を上げて辺りを見渡した。
けれど、見えたものは中庭と吹き抜けになった外廊下の天井くらいで、声の主の居所が分からない。
「ここですよ！ ここ！」
ばあ、と両親に似た軽やかな身のこなしで上階の手摺りに足を引っ掛けて、逆立ちするような格好で宙ぶらりんになったルナが眼前に姿を見せた。
これだから姫様にドレスは着せられないのです、とマリーが以前、愚痴を溢していたことを思い出し、マモンの眉間に皺が寄る。
「……お戯れが過ぎますよ、ルナ姫。また、家庭教師に叱られても知りませんからね」
「師匠が黙っていてくれたら分からないでしょ？」
幼馴染であり、主君でもあるヴォルグと瓜二つの顔で悪戯っぽく微笑まれて、マモンはため息を吐くことしかできない。
「ソル様はどうされました？」
いつも一緒の片割れが見えないことに疑問符を浮かべれば、ルナの目が猫のようにスッと細められた。
「ばあ！！」
ルナよりも少し低い声が背後から聞こえてきたことに驚いて、咄嗟に剣の柄へと手を伸ばしたマモンだったが、眼前のルナがくすくすと笑い声を漏らすのに、肩を竦めながら後ろを振り返る。
「今日は、僕らの勝ちだね！ 姉上！」
「そうね。マモン師匠ったら、お前の気配に全く気付いてなかったもの！」
二人揃って悪戯好きなのは間違いなく父親の遺伝だろうな、とどこか虚な目で遠くの空を眺めていたマモンだったが、このまま舐められたままなのもいかがなものかとすぐに思い直した。
勝利に酔いしれ、笑みを携えている姫の腕を自分の方へと軽い力で引っ張る。
「え、」
すっぽりと腕の中に収まったルナの顔は驚き一色に染まっていた。
「午後はマリー様にお針を習う予定だったでしょう？ すぐ近くですし、このまま送って差し上げます」
所謂『お姫様抱っこ』の状態で歩き始めたマモンに、最初は借りてきた猫のようにおとなしかったルナだったが、次第に意識を取り戻していき、その顔を赤く染め上げた。
「お、降ろしてください！ 一人で歩けます！」
「いけません。あのような場所にぶら下がっていたのです。どこかお怪我をなさっていては一大事ですから」
「師匠！！ ソ、ソル！！ 助けなさいよ！！」
「尊い犠牲だった……」
姉一人で悪戯のお咎めが無しになるならと簡単にルナを見捨てたソルだったが、中庭からナギの怒号が響き渡ってきたのを合図に脱兎のごとく逃げ出した。
「ソル！！ てめえ、また俺の大剣を勝手に触ったな！！」
「わー！！！ ちょっと触っただけだよ！！」
「危ないから触んなっていつも言ってんだろ！！」
とても王妃とは思えない粗暴さと俊敏さを以って、実の息子の首根っこを容易く捕らえたナギが魔王もかくやと言った凶悪な顔でソルを睨んだ。
「罰として、親父殿に体幹を鍛えてもらえ」
「じ、じいちゃんは嫌だ！！ じいちゃんと特訓だけは勘弁して！！」
「だーめだ！ 次、勝手に触ったら問答無用でベヒモスと組手させるからなって言っただろう」
「うわーん！！ 助けて姉上ー！！」
先程はいとも容易く姉を売り飛ばしたくせに、自分が餌食に遭うと分かった途端にこれである。誰が助けるか、と母譲りの悪態を吐いたルナであったが、依然その体勢が変わっていないことにギリ、と奥歯を噛み締めた。
「せ、師匠？ 私、一人でもマリーのところに行けます。絶対逃げませんから」
「そう言って、前回も休憩の途中で行方を眩ませたのは誰でしたかな？」
「うぐ……」
「お転婆もほどほどにしませんと、嫁ぎ先が減ってしまいますよ」
薄紅色に頰を染めていたルナから表情が消える。
次いで、恨みがましそうにマモンを睨むものだから、視線を受けた本人は突然不機嫌になった理由が分からずに小首を傾げた。
「……マモン師匠」
「はい？」
「私、師匠のことが好きなんですって、言いませんでした？」
「あー……」
墓穴を掘った、と頭を抱えたマモンだったが、すでに後の祭りである。
「師匠のことが好きだって何度も言っているのに、どうして他の人に嫁げみたいなことばかり言うんですか！！ 酷い！！ やっぱり、本気にしてなかったんだ！！」
「お、落ち着いてください。そんなに暴れると、危ない――っ！」
ジタバタと暴れるルナの身体に、マモンの重心がブレた。
傾いだ身体を何とか持ち直そうとしたマモンだったが、それを見越したルナが強引に彼の首へ腕を回す。その結果、ルナの身体を跨ぐようにマモンが覆い被さったまま、床に転倒してしまった。
「……お怪我は？」
「ここが痛む以外、どこも悪くないわ」
ここと称されたのは、丁度膨らみ始めたばかりの胸のあたりだった。
こんなに至近距離でルナと接したことがなかったマモンは、思わず呼吸することも忘れて、彼女に見惚れてしまう。
「ルナ、姫」
息のかかる距離で見る金と紅に目が奪われる。
「マモン」
父親と同じ濃紺の、夜を閉じ込めたような美しい髪が外廊下の白い床石の上を無造作に流れていく。
「好き」
耳を澄ませていなければ聞こえない吐息のようなか細い声が、マモンの耳に柔く響いた。
「……ありがとうございます」
「私、本気よ」
「ご容赦ください」
いつもと全く同じ言葉を紡いだ男に、少女が唇を尖らせる。
「私は、貴女様の父君に忠誠を誓った身。ただの臣下である私が貴女を妻になど、出来るわけもないでしょう」
「そんなの、父上に聞いてみなければ分からないじゃない」
「私と貴女の年齢差を考えてみてください。私はヴォルグ様と二つ違いなのですよ？ 父親と同年代の男に嫁ぎたがる娘など貴女くらいです」
「好きになった人の年齢が、偶々父上と近かっただけだもん」
「――姫様」
これ以上は付き合っていられないことを示すために、マモンは先に立ち上がった。
思わず触れてしまいそうだった髪に指先が絡まらないよう気を付けながら、未だ横になったままの姫君にそっと膝を折る。
「さ、姫様。マリー様の元へ参りましょう」
「マモンがキスをしてくれたら行きます」
「姫様」
「……何よ。子ども扱いするくせに、子どものご機嫌とりも出来ないわけ？」
この煽り方――間違いなくあの二人の子どもである。
上半身は引っ張り上げることに成功したものの、キスしてくれるまでテコでも動かないぞという強い意志を感じさせるルナに、マモンは頭を抱えた。
「大人のようにエスコートして欲しいなら、もう少し可愛げを持った方が良いのでは？」
「そんなもの、母上のお腹の中に置き忘れてきましたぁ」
「……まったく、」
「みんなして、子ども扱いばかり。私だって来週には十三歳になるんで――」
続きの言葉が紡がれることはなかった。
額に触れたマモンの唇が離れていく様子をゆっくりと見送りながら、ルナは「ひえ、」と情けない悲鳴を溢す。
「さ、キスしたので立ち上がってください。遅くなるとそれこそマリー様に何を言われるか分かりませんよ」
「……っ、あ。今、」
「貴女がご所望になったのでしょう？？」
白々しくも、そんなことを宣ったマモンに、ルナは頰が熱くなるのが嫌でも分かった。
こんな些細なことで振り回されてなるものか、と「額にキスしてなんて言っていない」と抗議の言葉と共に立ち上がるも、マモンは何食わぬ顔でルナの手を引いて歩き始めてしまう。
「ちょ、っと、師匠！ 今のはやだ！ ちゃんと口にしてよ！！」
「初めては、好きな殿方にとっておきなさい」
「師匠がいいって言ってるのに！」
「はいはい。あ、マリー様、後は頼みました」
ルナが遅いことを心配したマリーが扉から顔を出しているのに気が付くと、マモンはこれ以上悪態を吐かれては敵わないと彼女にルナを預けて逃げ出すことにした。
「また逃げられた」
「ふふ。姫様は本当にマモンのことがお好きなんですねぇ」
柔らかい笑みを浮かべるマリーとは対照的にルナの表情は浮かない。
「どうしたら、師匠に伝わるかな」
「何がです？」
「本当に、お嫁さんにしてほしいって」
「まあ！」
マリーの頰が薔薇色に染まる。
嬉々とした表情に、ルナは若干の気恥ずかしさを感じたが、父や母に相談することもできず、悶々とした日々を過ごしてきたことを思うと、こうして真面に話を聞いてくれる存在はありがたかった。
「私がマモンのお嫁さんになりたいっていうと、みんな変な顔する……」
「姫様は魔王陛下の第一子であられますからね。魔力の質量で王を決めていた時代と変わって、血筋で繋いでいくことを選んだ今、王位継承権第一位の御方がマモンに嫁ぎたいと仰られるのを聞くと手放しで良い顔は出来ないのでしょう」
「別に魔王になりたくないって言っているわけじゃないのに」
唇を尖らせて不満を訴える顔は在し日の王妃にそっくりである。
普段は魔王に瓜二つの少女であったが、過ごした時間が長い分、時々見せる所作は母親によく似ていた。
「姫様はまだお若いですから、これから色んな出会いがあると、マモンはそう言いたいのではありませんか？」
このように愛らしい少女から想いを寄せられて、嫌な気持ちになる者は少ない――はずだ。
異母弟に助け舟を出したいわけではないが、そういった考え方もあることを示してやれば、ルナも納得するのではないかとマリーは思った。
「……そんなの、いらない」
「え？」
「初めて会ったときから、ずっと好きなのっ！ これから、とか言われても、マモン師匠以上に好きになれる人なんて出来ないよっ！！」
恋に恋をしているだけだと、それは勘違いだと、何度も嗜められてきた。
彼に言われた通りに、自分と同じ年頃の男の子へと目を向けたこともあったけれど、結局マモンと比べてしまって、彼のことをもっと好きになるだけだった。
「…………どうしよう、マリー。どうしたら、マモンは私のこと『女の子扱い』してくれるの」
――ぽたり。
直線に正確に針を通す練習をしていた布に、雫が滲む。
濃紺の髪が目元を隠している所為で、夜空の隙間を縫って流星が流れ落ちるように小さな煌めきが何度も瞬いた。
「ルナ姫様」
そっと頰に優しく触れて、異なる色合いの双眸を覗き込む。
その間にも、ぽたぽたと小さな手先を濡らす雫が痛々しくて、マリーは僅かばかりに眉根を寄せた。
「私にとっておきの考えがあります」
「？」
「来週の夜会に参加しませんか？」
『夜会』――それは、ヴォルグが魔王になる以前より魔王城で月に一度開催されていた貴族たちの愉しみの一つだった。
人間界との争いごとが絶えた今でも、貴族とその子どもたちが魔王城を訪れるためのお祭り騒ぎ（こうじつ）として続けられているのだ。
参加資格は十二歳以上から。来週の今頃十三歳になるルナはその参加条件をクリアしている。
「姫様たちのお誕生日祝いも兼ねて、今回の夜会はいつもより盛大に準備をしていると聞き及びました。そこで美しいドレスを身に纏い、マモンに『ぎゃふん』と言わせてやるのです」
「そんなことでマモン師匠の心が動くとは思えないけど、」
「何を仰います！ 魔王陛下とて、ナギ様のドレス姿が美しいばかりに言葉を失ったことがあるんですよ！ マモンなどイチコロに決まっています！」
「そうかなぁ？」
「そうと決まれば、早速ドレスの布地を選びましょう！ また明日、姫様が気に入りそうなものを持ってまいります！」
何故かマリーのやる気にスイッチを入れてしまった、とルナは蟀谷を掻きながら、ため息を溢す。
ドレスを着たくらいでマモンが自分のことを意識してくれるとは、とても思えない。
授業もそこそこに鼻息荒く帰り支度をしているマリーの背を見ながら、ルナはもう一度深いため息を吐き出すのであった。
◇ ◇ ◇
「なんとかしてくれ」
こんなに疲弊している親友を見るのは、自分がナギを助けに境界へ単身で乗り込もうと躍起になったとき以来だ、とヴォルグは驚嘆に目を丸くした。
「何を？」
「お前の娘を、だ！」
「どっちの？」
「上に決まってんだろ！ こんな小さな赤ん坊がどうやって俺を困らせるってんだよ！」
今日はまた一段と荒んでいらっしゃる。
胡乱な目でこちらを見つめるマモンに、ヴォルグは苦笑を浮かべた。
「その様子だと、今日も告白された？」
「……」
「何て答えたのさ」
「いつもと同じだ」
「ああ、かわいそうなルナ。こんな酷い男に心を奪われてしまったばっかりに……」
芝居がかった口調で机の上に突っ伏したヴォルグに、マモンの鋭い舌打ちが炸裂する。
「かわいそうなのはこっちだっての。何が悲しくて、主君の娘に求婚されなきゃならねえんだ」
「主君の娘じゃなかったら、君はあれの求婚を受け入れたのかい？」
「……俺の好みはお前が一番よく知っているだろう」
「ああ、レヴィね。でも残念ながら、あれは『未婚の誓い』を立てている。後継も血筋に囚われず一族の中から優秀な者を選ぶと言っていたし」
「誰かに聞かれたら、とか考えないのか？」
「お前がレヴィに懸想していることは、この城に勤めている者であれば知らない者はいないよ。おっと、失礼――うちの娘以外は、ね」
猫のように細められた瞳には冷たい光が宿っている。
身内には甘いと定評のある魔王陛下だ。
特に血を分けた子どもたちのことは目に入れても痛くないと常日頃から豪語しているほどである。
そんな娘の求愛を拒み続ける眼前の幼馴染に腹を立てていないわけがなかった。
「僕は構わない、と言っているのに。一体何がそこまでお前を頑なにさせるのだろうね」
「いや、構えよ！ お前と俺の方が歳近いんだぞ！」
「魔族の年齢差なんて、それこそ些細なことだろう」
「だーっ！！」
頭を掻き毟って低く唸るマモンに、それまで沈黙を貫いて末娘を寝かしつけようとしていたナギが不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「……マモン殿が何を気にしているのか当ててやろうか？」
「お前らが煩くて寝ないんだよ」という彼女の本心は、残念ながら血の盟約を結んでいるヴォルグにしか届かなかったが、いっそ清々しいまでに綺麗な弧を描いた目を見てマモンも何かを感じ取ったらしい。
二人して口を噤むと、ナギの二の句が紡がれるのを大人しく待った。
「お前に顔が似ているから、やりづらいんだろうよ」
「僕？」
「ひ、妃殿下、それ以上は……」
恐ろしいことを言い出した王妃に、マモンが勘弁してくれと本日何度目になるか分からない情けない悲鳴を上げるも、赤子の睡眠を妨げられた母親に敵うものなど居るはずもない。
「お転婆なところに目を瞑れば愛らしいが、そうするとお前の顔がチラついて複雑な想いになる。違うか？」
「それ以上は言わないでくれ、という意味で待ったをかけたにも関わらず、全部暴露していただいてどうもありがとうございます」
「どういたしまして」
やはりこの夫婦には今後も振り回されること間違いなしである。
ぐうの音も出ない、と涙目になって酒を煽り始めたマモンに、ヴォルグの頭には疑問符がぶら下がった。
「どうして僕の顔がチラつくとダメなんだい？」
「……イケナイことしてる気持ちになるからじゃねえの」
「イケナイこと」
「帰ります。俺が部屋に戻ってから、続きをお楽しみください」
比喩ではなく本当に泣き出してしまったマモンをナギが慌てて引き止める。
「だー！ 分かった！ これ以上は揶揄わないから、ここで呑んでけ。外で愚痴って痛い目見たばかりなのを忘れたのか！」
暴れ馬を御すように立ち上がりかけたマモンをソファに戻すと、魔王も執務机から移動して彼の隣に座った。
魔王と魔王妃に挟まれるという、特殊な層からすれば羨ましいと言われかねない状況にマモンが気付く様子はない。
これは余程、疲労が溜まっているらしい。
二人して顔を見合わせた夫婦は、仕方なく彼を酔い潰す方向に考えを落ち着かせた。
「双子が迷惑かけてばかりで悪いな。さ、ぐーっといけ。ぐーっと」
「うんうん。可愛いけど、やることがナギに似てえげつないものね。あ、マモンこのチーズ凄く合うよ」
勧められるがままに酒を浴びたマモンは、案の定、そのまま眠りに呑まれてしまった。
すうすうと子どものような顔をして眠る彼に、ヴォルグとナギが目を細めて笑みを浮かべる。
「悪いけど、うちの姫様は諦めが悪いんだよなァ」
「誰に似たのか知らないけどね」
「両方だろ？」
「早く楽になればいいのに。僕たちは二人とも、お前のことを『婿殿』と呼べる日が来るのを楽しみにしているのだから」
そんな物騒な会話が頭上でされているとは露知らず、マモンの意識は深い眠りの底へと落ちていった。
◇ ◇ ◇
――夜会、当日。
今回は双子の誕生日祝いも兼ねているため、普段は参加を免除されている――開始時刻までマリーと追いかけっこをして、毎回逃げ果せている――ナギと先月一歳になったばかりの末王女も参加するとあって、貴族は勿論、設営を担当している従者たちの熱の入りようと言ったら、常の比ではなかった。
「国王陛下、王妃殿下のご入場です」
アナウンスされたのを合図に、ヴォルグとナギが腕を組んで大広間に入ってくる。
常は男装に近い服装を好んでいるナギであったが、今日ばかりは流石にマリーから逃げられなかったらしい。髪色に近い、エメラルドグリーンのドレスを身に纏った姿に会場が熱い吐息を溢した。
「王妃殿下の美しさも去ることながら、魔王陛下の麗しさたるや」
「もう、いつ死んでもいい」
ちらほら、と熱っぽい悲鳴が上がっているのを聞いて、ナギは横目で本日の夫の姿を盗み見た。
王族の象徴でもある『深紅』を惜しむことなく使用された夜会用の燕尾服は、華奢なヴォルグが纏うと、身体のラインが浮き彫りになり流麗な曲線を描いている。
普段は頭頂部近くで結ばれている髪も、今日は低い位置で結われており、見慣れない新鮮さを醸し出していた。
「なあに？」
「別に？ ただ、旦那様に見惚れていただけだ」
「それは良かった。長い着付けに耐えた甲斐があったね」
戯れに微笑む夫婦の次に入場のアナウンスが響いたのは、本日誕生日を迎えたばかりの双子で、カーテンの奥からゆっくりとした足取りで両親の元へと向かっていく。
「まあ……！」
ナギの時と同様、否――それ以上の恍惚とした眼差しとため息が会場中に敷き詰められた。
「父上と母上に、ルナが挨拶を申し上げます」
「同じく、ソルが挨拶を申し上げます」
頭を垂れたルナが纏っているのは檸檬色が鮮やかな可愛らしいドレスで、常のお転婆が嘘のように『美しさ』が際立っていた。
対するソルも、姉が身に付けたドレスと同じ色のネクタイを差し色にした、濃紺の燕尾服を纏っている。
対人形のようだわ、と感嘆の声を漏らしたのは誰だったのか。
まだ何も始まってもいないうちから、拍手喝采が巻き起こり、双子は互いの顔を見合わせて首を傾げている。
「ほんに、ナギ様は良い仕事をなさいました」
「マリー。お前、もしかして泣いてんのか？」
ナギがいつ着崩しても直せるようにと、すぐ後ろでステラを抱いて待機していたマリーは、感動のあまり涙を溢れさせている。
そんな彼女の様子に若干引きながら、本日の主役である双子の前にナギが膝を折った。
「十三歳の誕生日、おめでとう。こうして、ヴォルグと『二人で』お前たちの生まれた日を祝えて嬉しいよ」
母からの慈しみに溢れた祝いの言葉に、二人は抱きつくことで感謝を表明する。
「……二人ともおめでとう。僕たちの元に生まれてきてくれて、本当にありがとう」
父王は、マリーに釣られて泣いていた。
滅多に人前で涙を見せない魔王が静かに泣いている姿に、会場中の視線が彼に集中する。
「ち、父上ぇ」
「泣かないでぇ」
「やだな。こんなつもりじゃなかったのに、マリーが後ろでグスグス言うからだよ」
自分の身体から離れ、ヴォルグに力一杯抱き着いた双子に、ナギは声を上げて笑った。
「お前ら、おんなじ顔だな」
その一言に、会場が涙の渦に呑み込まれたのは言うまでもない。
もはや、誰か死んだのかと言わんばかりのムードに、食事を給仕する係が心配そうにこちらを窺っていることに気付いたマリーが来い来いと合図を送れば、会場はあっという間に明るさを取り戻した。
首が据わったことで、姉や兄が抱っこしてくれることを学んだばかりのステラが、父王と抱き合ったまま固まっている二人に向かって手を伸ばす。
マリーは末王女のお気に召すまま、本日の主役たちに近付いた。
「殿下方、ステラ様がお祝いをと」
「ほんとだ。おいで、ステラ。僕が抱っこしてあげるよ」
「あ、ずるいわよ。ソル。あとで変わってね」
「分かった～」
話しかけるタイミングを狙っていた同年代の煌びやかな少女たちから逃げ出す口実を得たソルは、ステラを抱いたまま、マリーと一緒に窓際まで移動した。
案の定、両親と抱擁を終えた姉が、貴族の子息たちに取り囲まれているのを見て苦笑を溢す。
「まあ、ソル様ったら、妹君を使って逃げ果せるなんて」
「姉上には悪いけど、ああいうのって男の方が断り辛いんだよ」
「ふふふっ」
マリーの笑みに、辟易とした表情で舌を突き出したソルだったが、ふと今日はまだ一度も赤髪の騎士の姿を目にしていないことを思い出す。
「そういえば、マモン師匠は？ 今日はまだ一度も会っていないけど、」
「彼なら、所用があるとかで遅れてくるそうです。夜会が終わるまでには来ると言っていましたよ」
「そうなんだ……」
「ソル様？ どうされました？」
「ううん。マモン師匠が来ないと、姉上ガッカリするだろうな、と思って」
慣れないドレスに身を包んで、うっすらと化粧を施した姉の横顔は、弟のソルから見ても美しかった。
元々、双子は黙っていれば両親に似た美しい容姿をしているのだ。
ただ口を開いたり、動きだしたりしてしまうと途端にナギの血が騒ぎだして、粗暴なところが目立ってしまう。
そんなところも可愛いでしょ、と笑ったヴォルグの姿を思い出し、マリーは苦笑を噛み殺した。
「確かに。今宵の姫様は一段とお美しい。マモンには悪いことをしてしまったかしら」
レヴィアタンが苦い表情を浮かべながら、ソルの前に大きな包みを置いた。
「レヴィ小母様。今日は来られないと言っていたはずでは！？」
「これを作っていたら遅くなってしまったのよ。どうしても今日までに間に合わせたかったのだけれど、間に合うかどうか分からなくて、返事は保留にさせてもらったの」
「それは？」
ソルが置かれた包みの前にステラを抱いたまましゃがみ込もうとしたので、荷物がなくなったレヴィアタンが末王女を預かりながら「開けてごらんなさい」と彼を促した。
触った感じでは硬い何かであるということしか分からない。
ゆるり、と巻かれていたリボンを解けば、それは容易く姿を晒した。
「大剣だ！！！！」
「ナギの大剣に触って怒られていたでしょう？ それでお前のものを、と。私と兄上で作ったの」
「わー！！ ありがとう！！ 小母様！！ 大事にする！！」
目をキラキラとさせているソルに、レヴィアタンは満足そうに頷いた。
◇ ◇ ◇
マモンが城を訪れた頃には宴もたけなわといった頃合いで、皆それぞれのパートナーとチークダンスを楽しんでいた。
（何とか間に合ったか……）
レヴィアタンの頼みで、ルナに送る調度品を受け取りに行っていたらすっかり遅くなってしまった。
本人に直接渡してくれ、と頼まれていたが、当のルナ姫の姿が見当たらない。
（どこだ？）
夜会用に新しく作った礼服は、ヴォルグの許可を得て差し色に朱色を使わせてもらった。
腕に円を描くように存在感を放つ二本の朱色以外、軍服を少し華美にしただけの礼服は、金銀宝石が煌びやかに舞う会場の中では地味な方である。
両親譲りの異彩を放つ双子のことだ、すぐに見つかるだろうと高を括ったのが間違いだった。
以前、気紛れに『かくれんぼ』とやらに付き合わされたとき、一刻掛けてもルナを見つけることが出来なかったのを思い出して、だらりと冷や汗が背中を伝う。
「あれ？ マモン師匠？」
「あ、ああ。ソル様。遅くなってしまいましたが、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。――姉上なら、人酔いしたってテラスの方に行ったよ」
「は、はあ」
「早く行ってあげて。師匠が来るのをずっと待っていたから」
何も言っていないのに、ポンポンと答えるソルに圧倒されながら、押し出されるようにマモンはテラスに向かった。
室内から聞こえてくるしっとりとした音楽が段々と小さくなっていく。
「ルナ様？ マモンです。お祝いに馳せ参じました」
返事はない。
そういえば、このテラスで初めてナギに会ったな、と薄ぼんやりとした記憶を手繰り寄せて、ヴォルグと彼女が座っていたベンチの辺りに視線を遣った。
夜の波間の空から漏れる不確かな光が、手摺りに肘をついて遠くを見つめる小さな背中を照らしている。
「姫様、」
いつもは下されている髪が今日は綺麗に結い上げられている所為で、白い頸が惜しげもなく晒されていた。波間の光を吸収した檸檬色のドレスの裾を柔らかな夜風が通り過ぎていく。
「……もう、来ないのかと思った」
「え」
「私のことが嫌になって、会いたくないのかと」
「そんなことは、」
振り返ったルナに、マモンは言葉を失った。
十三歳になったばかりとは、とても思えない。
薄く施された化粧の所為で不安そうな表情を浮かべた顔に、僅かな『色』が灯されている。
知れず、ごくりと唾を嚥下した。
「お、遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
「こ、こちらを」
今日のルナは、常の喧騒が嘘のように静かだった。
その所為で、妙に緊張してしまう。
それを誤魔化すように、レヴィアタンから頼まれていた調度品を彼女の前に差し出した。
「……これ、マモンが選んだの？」
中身の確認は済んでいるから、受け取ってきて欲しいと頼まれただけで、マモンも何が包まれているのかは知らなかった。
これ、と称されたそれがマモンの瞳と同じ色の石が嵌め込まれた指輪であったことに、二人して神妙な面持ちで互いの顔を見合わせた。
「レヴィの小母様ね」
「あ、いや、その、」
「別にいいわよ。誤魔化さなくて」
指輪を取り出したときには微かに見えた喜びの表情が消え、真顔でケースの中に戻してしまったルナに、マモンは居た堪れなくなった。
別に悪いことをしたわけではない。
ただ、プレゼントの中身を知らずに渡してしまっただけで。
というか、自分の娘だと言っても過言ではない年頃の少女の一挙一動に振り回されなければならないことに、一周回ってよく分からない怒りが込み上げてきた。
不機嫌を表に出さないように細心の注意を払いながら視線だけを持ち上げると、声も上げずに涙を流しているルナが視界に飛び込んでくる。
「――ルナ様」
「放っておいて。すぐに治るから」
「ですが、」
「見られたくないの！ あっちへ行ってよ！」
薄紅に染まった唇が戦慄く。
銀色の雫が頤を伝って、床に円を描いた。
こんな小さな指輪ひとつで涙を流すほど、自分のことが好きなのか、と胸に得体の知れない何かが深く爪を突き立てる。
（もう、だめだ）
これ以上は、耐えられそうになかった。
「……お許しください」
「あっち行ってってば！」
「姫様」
呼べば、ルナは簡単に顔を上げた。
せっかくの化粧も涙でぐしゃぐしゃだ。
けれど、そんな些細な事で彼女の美しさは損なわれない。
夜の狭間で生まれたように、空の色と同じ濃紺が指の間を通り過ぎる。
ちゅ、と小鳥が啄むようなキスを髪に施してやると、金と紅の目が驚きに見開かれた。
「その涙は、私を想って流したものですか？」
酷いことを聞いている自覚はあった。
ただ、それでも彼女から直接言葉を聞かない限り、自分が動けないことも分かっていた。
「何度も好きだって言ったのに、まだ足りないの」
溢れ落ちそうな涙を指で掬う。
期待に濡れた双眸がじっと、マモンの次の行動を待っていた。
「では、この唇は私のものだと思っても構いませんね」
「――っ」
触れた唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて眩暈がした。
角度を変えて、いっそ吐息さえも奪うように何度も口付けを施せば、初めての濃厚な触れ合いに酔ったルナの潤んだ目がこちらを睨んでいる。
「せ、師匠のばかっ」
「はい」
「は、初めてなんだから、もう少しゆっくり、」
「すみません。『待て』が苦手で」
「意味が、わからな――」
ルナが抗議するより早く、マモンはその唇をもう一度塞いでしまった。
逃げられないように、と腰を引き寄せて、先ほどよりも深く口付ける。
「む、娘、みたいに思ってるから、だめって言った！」
「そうですね」
「父上の方が、年近いから、だめって！！」
「はい」
「な、なんで急にこんな、」
人目に付きにくい隅のベンチに移動して、力が抜けてふにゃふにゃになってしまったルナを膝の上に抱えながら、マモンはされるがままになっていた。
握り拳を作ってポコポコと自分を殴っている姫の姿に眉尻を下げれば、たったそれだけのことで、ルナの反撃は大人しくなった。
「指輪、私からだと思ったんですよね？」
「……」
「ほら、もう一度、箱から出してください」
「いや」
「どうして？」
唇を尖らせたまま動かなくなったルナの手から指輪を取り上げる。
そっと壊れないように気を付けながらケースの中から持ち上げて、ルナの――左薬指にそれを通した。
「魔族は結婚するとき、自分の角や爪を加工して番に贈ります」
「だから？」
「これは、ナギ様に聞いた話ですが、人間は心臓に一番近い左薬指に指輪を贈るんだそうです。丁度、こんな風に」
「――もっと分かりやすい言葉があるんじゃないの？」
痺れを切らしたルナが額に青筋を浮かべるのを見て、短気なところも両親譲りだなとおかしくなってしまう。
「俺の妻になってくれ」
今日だけで一生分の涙を流しているかもしれない。
ルナは溢れる涙を拭おうともせずに、マモンの首に腕を回した。
「ほんとに？」
「貴女が望んだくせに、いつになく弱気ですね」
「だ、だって師匠が意地悪ばっかりするから」
言葉を貰っても、まだ信用できないとルナの瞳が不安に揺れている。
そんな彼女の姿に、マモンは苦笑を溢した。
「では、貴女が『もういい、分かった』と仰られるまで、何度でも告白（プロポーズ）することにいたしましょう」
貴女がそうしてくれたように。
耳元へと直接吹き込まれた言葉に、幼い姫の顔が紅色に染まる。
我らが至高の王の色だ、と意地悪く目を細めながら、もう一度、触れるだけの優しい口付けをルナに贈った。
◇ ◇ ◇
「結婚式の日取りはいつにする？」
「気が早すぎてマモンの胃に穴が開くぞ」
「えー」
「えー、じゃない。しばらくはそっとしておいてやれ」
「ちょっかい掛けたくなるのが父親ってもんじゃない？ ねえ、ベヒモス」
「……お答え致しかねます」
「おいこら、親父を巻き込もうとするんじゃねえ」
とんでもないところに飛び火させようとした夫の暴走を脇腹を抓ることで抑えると、ナギはテラスで繰り広げられた甘酸っぱい告白劇の主役たちに笑みを溢した。
「ほんっと、あの押しの強さは誰に似たんだか」
波間の空に瞬く星々がくすくすと身を捩るように笑い声を響かせていた。