「殿下、おめでとうございます……!」
金色が瞬く。
はらはら、と彼女の――ユタの頬を伝った雫を、桔梗はどこか現実離れした思考に陥りながら、凝視した。
「えっと、」
「ご懐妊されております」
困惑の表情を貼り付けた桔梗に、ユタがにっこりと畳み掛ける。
告げられた内容はあまりにも衝撃的で、ここ数日の体調不良が頭から抜け落ちてしまうほどのものだった。
「吐き気や倦怠感があったのは、妊娠初期によく見られる症状です」
「……」
「殿下?」
妊娠、という言葉に、桔梗は奥歯をグッと噛み締めた。
慣れない単語に戸惑っていたのは勿論だったが、自身の血族に纏わるしきたりを思い出し、その顔から徐々に血の気が失われていく。
『案ずるな』
そんな桔梗を落ち着かせようと、右腕の刺青から旭日がひょっこりと姿を見せた。
以前の彼からは想像もできないほど穏やかな表情で桔梗を見下ろす彼に、ユタの目が点になる。
『貴女の子はシアンの子でもあります。東王家のしきたりは、課されませんよ』
次いで、左腕の刺青から現れた華月が、微笑みを携えながら言葉を紡いだ。
「……良かった」
東の王族は代々華月を守るため、その身に龍の魂を宿す。
《龍下ろし》と呼ばれるそれは、子を宿した女性に龍の魔力を注ぎ、その肉体を龍の器とするものだった。
かつては強すぎる龍の魔力に赤子が流れることもあり、危険視されてきたが、近年は王族の血が龍の魔力に馴染んだため、余程のことがない限り、赤子とその母親が死亡することは少なくなったと聞く。
けれども、実際に自分がその立場になって、桔梗は初めて恐怖した。
自身の母である霙はこんな恐怖を幾度となく味わったのか、と思うと、心臓がぎゅっと痛くなる。
『我らの戦いが終わりを迎えた今、《龍下ろしの儀》はもう必要ないと妾は考えます』
「華月様、」
『お前が勝ち取った平和の証だ。胸を張れ、桔梗』
トン、と旭日が桔梗の胸に拳を置く。
東の国最敬礼とよく似た仕草に、桔梗はこの日初めて笑みを溢した。
旭日の逞しい腕が桔梗を抱きしめる。
それを見た華月もまた、彼と同じように胸の中へと桔梗を包み込んだ。
創世龍の二人に抱きしめられる姫君の姿を、ユタは一生忘れまいと心に深く刻みつけるのだった。
◇ ◇ ◇
大きな懸念が晴れた桔梗は、次に浮上した問題に頭を抱えることになった。
「シアンには伝えるべきですよね」
『お前たちは一応、番だろう。一体何を躊躇っているのだ』
「だ、だって、」
普通に恥ずかしいのだ、とぼやいた依り代の少女に、旭日は呆れたようにため息を漏らした。
幼少期からお互いのことを知っているのに、今更何をと片眉を持ち上げた彼の姿に、桔梗がムッと唇を尖らせる。
「旭日様だって、華月様に知られて恥ずかしいことの一つや二つあるでしょう!?」
『…………ふむ』
「ほらぁ~~!!」
言われて初めて、華月には隠していることがいくつかあったことを思い出す。
納得しかけた旭日を見て、華月が苦笑を浮かべた。
『言い負かされてどうするんです』
『いや、しかしな……』
『桔梗。これは大事なことですよ。貴女一人の問題ではないのですから、言い難くなってしまう前にシアンへ伝えなさい』
「で、でも……」
桔梗の眦にうっすらと涙が滲む。
不安に揺れる愛し子の瞳に、華月は困ったように口元を結んだ。
『めでたいことです。もし他人からこのことを聞かされたら、シアンはきっと悲しいでしょうね』
「うぐっ」
『これはあくまでも、俺の予想だがな。あの小僧なら、両手を上げて喜ぶと思うぞ』
「え、え~~?」
旭日が笑いながら呟いたそれに、桔梗の眉間に皺が寄る。
あのシアンが小躍りするか、と疑問符を頭に浮かべたまま、騎士団本部から程近い住宅地に足を踏み入れた。
世界樹での戦いの余波で、この辺りもすっかり様変わりしている。
せっかくだから、綺麗にしようと言い出したのは誰だったか。
クラルテの役人だったかもしれないし、団長のクラウドだったかもしれない。
ともかく誰ぞの意見が、鶴の一声となって、騎士団の独身寮やら家族寮やらが密集したある意味恐ろしい住宅地が誕生した。
シアンと桔梗が居を構える一軒家は、住宅地の奥――夫婦喧嘩で街を壊されては敵わないと何故か奥まった立地を余儀なくされた――にあった。
「……ただいま、戻りました」
業務上、敬語が抜けない桔梗の声を聞いて、キッチンに立っていたシアンが「おー」と気の抜けた返事を寄越す。
「何です、その気のない返事は」
「……お前なぁ。結婚して二年になるのに、家でも外でも敬語を使われてみろ。気が休まらないんだよ」
「…………そ、それはごめんなさい」
「別にもう慣れたから、構わんが。家で居るときくらいは砕けた口調で話してもらいたいものだね、奥さん」
「う、うぐっ」
おかしなところから反撃の刃を喰らった桔梗が、衝撃のあまり胸を押さえて蹲る。
そんな彼女の様子を楽しそうに眺めながら、シアンは「そう言えば遅かったな」と桔梗に歩みを寄せた。
(ほれ、早う言え)
(そうですよ、桔梗。今が好機です)
頭の中に創世龍二人の声が響く。
ぎくり、と肩を竦ませた桔梗に、シアンが首を傾げる。
「桔梗?」
心配そうにこちらと視線を合わせた、大海を宿した青の双眸に、桔梗は撃ち抜かれた。
「…………あの、シアン」
「ん?」
「た、体調が悪かったのは、その、」
すう、と大きく息を吸い込む。
それから、居住まいを正して――東の国独特の座り方、正座である――シアンを見つめ返した。
「――妊娠していたみたいで、」
シアンの目がゆっくりと見開かれていく。
人間の目ってこんなに大きく開くんだなあと、桔梗はどこか他人事のように彼の表情を捉えていた。
「で、」
「で?」
「でかした!! 桔梗ッ!!」
「う、わっ!? ちょ、っとシアン!! 下ろしてください!!」
ぎゃあーと叫ぶ桔梗を無視して、シアンは彼女の身体を抱き上げたままクルクルとその場で回転を繰り返す。
治っていたはずの吐き気が再び戻ってきた桔梗が「うっ」と声を漏らしたのを合図に、漸くシアンが落ち着きを取り戻した。
「わ、悪い、つい嬉しくなって……」
慎重に桔梗を床に下ろしたかと思われたシアンだったが、次いで力強く妻の身体を抱きしめた。
「…………ありがとう」
普段の彼からは想像もつかないほど、か細い声が桔梗の耳朶を打つ。
「ひょっとして、泣いてます?」
「……」
「……ふ、ふふっ」
「何だよ、笑うな」
「まさか泣くとは思わなくて、」
「お前なあ……!」
小馬鹿にされた文句を言おうと勢い良く顔を上げたシアンの目に飛び込んできたのは、眦を赤く染めた桔梗の姿だった。
「他人のこと言える顔じゃないだろ、それ」
「え、」
「ったく」
よしよし、と桔梗の髪を乱雑に撫でると、シアンはその細い肩に額を預けた。
体調が優れないと彼女が言い始めて数日。
もしや龍の魔力が身体に異常をきたしているのではないか、と旭日や華月が出てきたタイミングでこっそりと尋ねてみたが、二人は笑顔を浮かべるばかりで何も教えてくれなかった。
今思えば、彼らはとっくに気が付いていたのだろう。
桔梗の中に新しい命が宿っていることに。
(あの二人も人が悪い……いや、この場合は『龍』が悪いと言うべきか……?)
ぼそり、と胸の内で零しながら、華奢な身体をきつく抱きしめる。
「妊娠していると分かった以上、産休を取らなくちゃな!」
「え、ええ!? 今からですか? 生まれるのは半年も先なんですよ?」
「当たり前だろ。初めての子だぞ。念には念を、だ!」
「ちょ、っと、シアン! 待って! あーー! もう!」
自身を抱えて走り始めてしまったシアンの嬉しそうな笑顔に、桔梗は何も言えなくなってしまった。
その代わり、抗議の意を込めて彼の頬を目一杯引っ張ってやる。
住宅街に響く彼らの笑い声に、住人たちは「またあの二人か」と肩を竦めるのだった。
◇ ◇ ◇
夏の暑い日のことだ。
桔梗は、不意に腹の底へと響いた痛みに顔を歪めた。
予定日は一週間先だから、と油断していた。
どくどく、と嫌に大きく脈打つ心臓に息を荒げていると華月が慌てたように姿を見せる。
『桔梗……!』
「だ、大丈夫です。陣痛が来たみたいで」
『それは大丈夫と言いません! 待っていなさい。妾がすぐにユタを呼んできます!』
遠くなるもう一人の母――実質育ての母である――を見送って、桔梗は遂に立っていられなくなった。
テーブルの足に縋るように腕を絡める。
視線の先には、シアンとその弟であるレオンが嬉しそうに買ってきた赤ん坊用のおもちゃがあった。
こんなときに限って、シアンは遠征に参加している所為で自宅を留守にしている。
渋っていたシアンの背中を押したのは自分だったが、今更ながらに心細くなってきてしまった。
「…………シアン」
彼の名を無意識のうちに紡ぐ。
返事はない――そう思っていたのに。
「桔梗!!」
聞こえてきた声に、桔梗は耳を疑った。
痛みで朦朧とする身体を叱咤しながら、何とか声のした方へと視線を向ける。
華月とユタを背に、汗だくになったシアンが立っていた。
「ど、して」
「二日もあれば十分に決まってんだろ!! 俺は妊婦の旦那だぞ!!」
「ふ、ふふ、何ですか、それ」
「笑える余裕があるなら大丈夫だな。陣痛は?」
「十分間隔になってきました」
「それ、やばいんじゃねえのか」
「うっ……」
うめき声を上げた桔梗の身体を、シアンが揺らさないように慎重に持ち上げる。
「十分間隔となると子宮口が開いていてもおかしくないわね。動かすのは危険だわ。ここで出産させましょう」
「――分かった」
「華月様、清潔な布とお湯を準備していただけますか?」
『ええ。任せて』
焦るシアン夫妻を他所に、ユタが的確な指示を出す。
シアンが惰性で買ったソファベッドが役に立つ日が来るとは、夢にも思わなかった。
真っ白なシーツを被せられたソファに横たわりながら、桔梗が痛みを逃すようにため息を漏らす。
「大丈夫か?」
「……大丈夫に見えます?」
「……」
「冗談ですよ。――シアンの顔を見たら、この子も落ち着いたみたいです」
一人きりだったときよりも、痛みが和らいだ気がする。
ふう、と息を吐き出した桔梗の姿に、シアンは思わず目を見開いた。
「ふ、ふうん」
「何です、その顔は」
「な、何でもねえよ」
「……うっ、いたたた……」
桔梗の膝にバスタオルをかけ、簡易的な目隠しを施すと、ユタはすぐさま赤ん坊の状態を確かめた。
やはり、頭の先が少し見えている。
すぐにでも始めなければ、母子共に危険な状態だった。
「いいこと、桔梗。練習通り落ち着いてやれば大丈夫、あなたなら出来るわ」
「は、はい」
「じゃあ、いくわよ。ひっひふー。はい繰り返してみて」
「ひっひふー」
「そう上手よ。『ふー』の後に力を込めてみましょう」
「ひっひふー……ううっ!」
――三十分後。
ユタの「額が出てきたわ」と言う声を合図に、桔梗は今まで以上に腹へと力を込めた。
つるん、と股の間を何かが滑り落ちる感覚が襲う。
「…………おんぎゃあ、おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
力強く産声を上げた我が子に、桔梗はホッと息を漏らした。
ずっと手を握ってくれていたシアンと華月を順繰りに見つめる。
二人はまるで示し合わせたかのように、同時に桔梗の額に自身の額を預けてきた。
こつん、と響いた二人分の音に、桔梗が堪えきれずに笑い声を漏らす。
「…………よくやった」
『頑張りましたね、桔梗』
「……はい!」
その後、ユタによって生湯に浸けられ、小綺麗になった我が子を見たシアンと桔梗の二人はその愛くるしさに「はわわ」と語彙力を失った歓声を上げた。
「さあ、どうぞ宮様」
差し出された我が子を、桔梗は恐々とした手付きで受け取った。
小さい、けれど確かな温もりを伝えてくる赤ん坊に、知れず涙が溢れ出す。
「ううぅ、か、可愛い」
「……分かる。寝てるだけなのにどうしてこんなに可愛いんだ」
既に親バカとなる未来しか見えない様子の二人に、華月は眩しいものでも見るかのように目を細めた。
ふわり、と番の気配を感じて、隣を見れば何とも言えない表情の旭日が彼らを凝視している。
『どうしました?』
『……いや、』
『旭日?』
『あの小娘が母になろうとは、な』
『…………そう、ですね』
一つしかない右目が柔らかく微笑む。
緑眼の先に映る愛し子の姿に、華月もまた口元を綻ばせた。
『名はもう決めているのか』
突如降ってきた旭日の声に、桔梗とシアンはぎくりと肩を竦ませる。
何か恐ろしいものでも見つけたかのように怯えた表情でこちらを見る彼らに、めでたい場であるにも関わらず旭日の額に青筋が浮かんだ。
『……何だその顔は』
「あの~~」
「えっと、お願いが、ありまして、」
歯切れの悪い二人に、旭日が片眉を持ち上げる。
まどろっこしい、と咆哮を浴びせようとした彼を咎めたのは、産まれたばかりの赤ん坊の弱々しい手だった。
くんと旭日の白髪を引っ張った『彼』に、創世龍の二人が目を丸くする。
「う、うわーーー!! 何してんだバカ!」
「す、すすすすみません! 旭日様! 御髪はご無事ですか!」
戸惑いもせずに旭日の髪を口に含もうとした我が子を、桔梗たちが寸でのところで引き離した。
『く、くくくっ! あーははははははっ!』
「……めちゃくちゃ笑っていらっしゃる」
「き、気でも触れたんじゃねえか」
「ちょっとシアン。仮にも御前でそんなこと、」
シアン夫妻と並んでユタが不気味に笑う旭日に怯えた視線を送っていると、彼の番である華月さえもカラカラと明朗快活な笑い声を上げ始めてしまったものだから、その場は混沌で包み込まれてしまった。
『良い! 我の髪が気に入ったか、小僧!』
『ダメですよ、旭日。貴方は頭の先からつま先まで、余すことなく妾のものなのですから』
『妬いておるのか』
『ええ、少し』
眼前でいちゃつき始めた二人によって、場は更に混乱を極めた。
絵画もかくやと言った創世龍の仲睦まじき様子に、意を決したシアンが挙手することによって割って入る。
「よろしいでしょうか!」
『何だ小僧、死にたいのか』
「いえ、遠慮します! お、お願いを聞いていただきたく!」
『……そう言えば、何ぞ言うておったな。良い。申してみよ』
ご機嫌な旭日という不気味な現象を目の当たりにして、その場にいた人間全員の背に冷や汗が流れる。
ごくり、と生唾を飲み込んだのは誰だったのか。
深く息を吸い込み、シアンは以前から考えていたことを言葉として紡いだ。
「旭日様に名付け親になっていただきたいのです」
名付け親、と鸚鵡返しした旭日の顔を、シアンは一生忘れまいと心に深く刻んだ。
創世龍にはあるまじき、ぽかんとしたその表情に、並び立った華月が見たこともない満面の笑みを浮かべる。
『この子に名を付けてほしいそうですよ』
猫のように目を細めた彼女の姿に、旭日は華月が全てを承知した上で自分に黙っていたことを悟った。
相変わらず食えない女子(おなご)だと、牙を晒して笑い声を上げる。
その姿はまるで、龍が咆哮を放ったかのように見えた。
『……そうさな、』
一同に緊張が走る。
旭日はちら、と桔梗の腕に抱かれた赤ん坊に視線を送った。
父親と同じ銀色の髪に、母親から受け継いだ深い湖畔のような碧の瞳。
そう言えば、かつて刃を交えた東の戦士に、同じような瞳の者が居たな、と思い返す。
彼の者も王族に名を連ねていたはずだ。
名は確か――。
『シュラ』
幾千と刃を交わし、自身が唯一《好敵手》として認めた人間の男の名を紡ぐ。
まだ視界は見えていないはずの赤子の目がはっきりと、旭日を捉えた。
『気に入ったか、シュラよ』
もう一度。
頬に手を添えながらに名を呼べば、赤ん坊は嬉しそうに燥ぎ声を上げた。
『それは、』
「良き名を賜り、恐悦至極に存じます」
狼狽える華月を尻目に、桔梗が笑顔で応える。
シアンとユタだけが聞き覚えのない音の羅列――赤ん坊の名前を口の中で反芻していた。
「あまり聞いたことのない言葉だが、どういう意味なんだ?」
「……かつて旭日様を封印するまで追い詰めた戦士の名前です。とても強い御仁だったとか」
「へえ、」
良かったな、と息子――シュラの頭を撫でてやれば、言葉としてはまだ識別できないような声をシアンに返す。
『シュラよ。何者にも屈しず、己が信念を貫く――そういう男になれ』
そう言った旭日は近年稀に見ない慈愛に満ちた表情で、自身が名付けたばかりの赤ん坊を抱き上げた。
華月と桔梗がどちらからともなく視線を合わせる。
ほろり、と涙を流した華月の肩に、桔梗はそっと頭を預けた。
「……そういうことは、もう少し大きくなってから言った方が良いのでは?」
だが、空気が読めない男として定評のあるシアンによって、良い雰囲気はあっという間に霧散する。
彼の頭に、ユタの手刀が落ちたのは言うまでもない。