5話『血の雨に墜つ』

そわそわと落ち着かない様子でヴェレたちが向かった森を見つめる少年に、ミントがクッと喉を鳴らした。
ギルドにやってきたばかりの頃の彼を、妹と一緒になって揶揄いすぎた所為か、二人きりになった途端、シトラスは警戒心の強い猫のように大人しくなってしまったのである。

「おい坊、そんなに隅っこで座っていたら冷えるだろ。こっちへおいでよ」
「……別に寒くない」
「あんたは平気でも、アタシがヴェレに怒られるんだ」

ミントの言葉に一理あると思ったのか、闇世の中でも目立つ夕日色の髪を揺らしながら、シトラスは静かに焚き火の前へと腰を下ろした。

「ハリカガミって夜行性なの?」
「ああ。群れで生活しているから一匹見つけたら、近くにもたくさんいるはずだ」
「ふーん」
「何だい。自分から聞いておいて、興味なさそうだねぇ」
「だって、鏡みたいな鱗持っている以外は普通のネズミと変わんないんでしょ? 面白くなさそうだなぁって」
「……あんた、また一段とヴェレに似てきたね」
「それ、喜んでいいやつ??」
「あんまり喜ばない方がいいだろうさ」

真っ白い喉を晒して笑うミントに、シトラスの眉間に皺が寄る。
ふと、何の気なしに空を見上げてみれば、月が居ない寂しさを誤魔化すように、星々が一面に敷き詰められていた。
一つ星まで起きていることの方が珍しいシトラスにとって、その光景は圧巻だった。
視界いっぱいに広がる星々の姿に息も忘れて見惚れていると、それに気が付いたらしいミントが眩しいものでも見るかのように目を細めた。

「綺麗だろう」
「うん」
「笑う月があってこそ、って言う奴も居るけどね。アタシは新月の夜が一等綺麗だと思うよ」
「どうして?」
「いつもは月明かりで見えない星の光も見えるからさ」

ミントの指先が、点と点を繋ぐように夜空をなぞっていく。
頼りない明滅を繰り返すそれにシトラスが視線を移したときだ――。

「グアアオオオ!!」

鼓膜を劈くほどの激しい咆哮に、思わず両耳を覆う。

「きゃああああ!!」

それに続くように悲痛な叫び声が辺りに木霊した。
若い女の声だ、と認識するや否や、ミントの背筋を悪寒が走り抜けていく。

「まさか、嘘だろ……」
「い、今の何、」
「坊はここで待ってな! 様子を見てくる!」
「やだよ! 僕も一緒に行く!」
「チッ。あとで、後悔しても遅いからね!」

乗りな、と言われたのと殆ど同時にロゼの背中へとよじ登っていた。
飛び上がった風圧で冷たい夜風が頬を切り裂く。

森全体を見上げられる高さまで飛翔したロゼのおかげで、咆哮が聞こえてきた場所はすぐに割り出せた。
ヴェレたちの目的地――魔女の谷へと続く洞窟である。
音は反響を繰り返している所為か、少しだけくぐもっていた。

「あそこ!!」

洞窟の入り口付近に血塗れの少女が倒れていた。

「分かってる!!」

ミントが血相を変えて、ロゼに急降下を命じる。
シトラスは振り落とされないようにミントの腰にしがみ付くので精一杯だった。

先ほどとはまた違う、濃い魔力が洞窟から溢れ出している。

「離れてな。アンタにこの魔力は濃すぎる」
「う、うん――ミント!! 危ない!!」

シトラスの声に、ミントは殆ど反射で大剣を錬成した。
ガン、と鈍い衝撃音が、身体を襲う。
吹っ飛ばされずに済んだだけ、急拵えにしては上出来である。
獣特有の嫌な生臭さが頭上から降ってくるのと、眼前に立つシトラスの青白い顔で、疑念が確信へと変わった。

「アタシに覆い被さっているのは、黒い龍かい?」
「う、うん!」

《乙女座》の里から現れた黒い龍。
それを聞いて逃げ出さなかった自分を、ミントは誇らしく思った。

グッと大剣の柄を握る手に力を込めて、勢い良く振り被る。

――手応えを感じない。

そのことに、ミントは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「ヴェレを呼び戻しな! こいつは人の味を知ってる。《魔女殺しの龍》だ!!」
「わ、分かった!!」
「なるべく早く頼むよ。出来れば、アタシが真面に相手をしていられる内にね!」

《魔女殺しの龍(ネクロファング)》はその名の通り、《乙女座》の人間を食べる。
それもただ食べるのではない。
痛ぶった末に、動けなくなった人間を足からゆっくり喰らうのである。

「ヴェレ~~ッ!!」

シトラスは魔導書を開くと、最近覚えたばかりの《火球》の魔法を空に向かって放った。
新月の空に、真っ赤な火花が浮かび上がる。
少年の背後では、激しい攻防が繰り広げられていた。

◇ ◇ ◇

「全く、あなたが巣穴を突いた所為でとんだ目に遭いました」
「あはは……」

背中の鏡を利用して景色に上手く溶け込んだハリカガミを巣穴まで追いかけるまでは難なく成功した。
だが、焦れたハカリが巣穴へ剣を突っ込んだ所為で、大量のハリカガミに襲われる羽目になってしまったのだ。
魔法を使えない分、一匹ずつ地道に倒していくしか方法はなく、気が付けばシトラスたちと別れてから一つ星もの時間が過ぎようとしている。

「二人とも、遅くなってごめんなさい――って、あら? 居ませんね?」
「本当だ。焚き火の後はあるのに、おかしいな」

灰の状態からして消したのはついさっき、と言った具合だろう。
どこへ行ったのだろうか、と二人して辺りを見渡していると目も眩むほど大きな炎が夜空を照らした。

「ハカリ!」
「ああ! フラムくん、頼むよ!」

フラムの瞳孔が縦に長くなる。
二人に応えるよう、咆哮を放ったかと思うと、緋龍は空高く舞い上がった。

「あ、あれは、《魔女殺しの龍》――!?」

ハカリが驚愕に目を見開いた後ろで、ヴェレは奥歯をグッと食いしばった。
不安定な龍の背で立ち上がると、眼下の巨大な龍をきつく睨みつける。

「ヴェレ、何を、」
「急降下してください」
「ええっ!? まさかこの高さから飛び降りる気なのかい!?」
「いいから早く!! ミントさんとシトラスを見殺しにする気ですか!!」
「くっ……!」

ハカリは仕方なくヴェレの言葉に従った。
手綱を強く握りしめると、フラムが一瞥を寄越す。
正気かとでも言いたげなその顔に、頷く他なかった。

「行くよ!!」
「ええ!!」

突風が二人を襲う。
ヴェレは得物を逆手に持つと重力に引かれるまま、フラムの背中を飛び降りた。
浮遊感が全身を包み込む。

「シトラス!」

その声に、シトラスは恐怖で涙しそうになった自分を奮い立たせた。
防戦一方だったミントも、にやりと口角を持ち上げる。

「《稲妻》は使うな!! やるなら、てめぇの魔力でぶった斬れ!!」
「分かりました!!」

ヴェレは刀身に意識を集中させた。
熱い魔力が一気に注ぎ込まれた双刀が、青白く発光する。
《大海》の刻印が浮かび上がった刀身の切先は、黒龍を難なく捉えた。

夜を渡る薄明蝶のような軌跡を描いたそれは、一直線に《魔女殺しの龍》の背中へと吸い込まれていった。

「ガアアッ!!」

巨躯がぐらり、と傾いだのを合図に、ミントの手にも力が籠る。

「そぉらよっ!!」

今度こそ、振り被った大剣が龍の右目に突き刺さった。
ぜえはあ、と息を切らしたまま、こちらを睨め付ける龍の姿に、地面へと降り立ったヴェレが猫のように目を細める。

「見た目通り、頑丈ですねぇ」
「ああ。攻撃が通っただけでも御の字だ」
「……ねえ、ミントさん」
「何だい」
「《翠嵐の鉾(セイラヴェント)》って作れたり、します?」
「作れるっちゃあ作れるが、アンタあれを扱えるのか?」
「それこそ、野暮ってものでしょう。傭兵はどんな武器でも扱えるよう、一通り仕込まれているものですよ」

こうなったヴェレは止められない。
ミントは呆れたように肩を竦ませると、注文通りの武器を作るためにその場で胡座を掻いた。

「あれは構成を理解した上で錬成しないと形を成さない。材料は?」
「オリハルコン、レグルスの牙、《魚座》の血液」
「魔力で補うには最低でもどれか一つ必要だよ」
「では、血液で」

そう言って何の躊躇もなく、自分の掌を切ったヴェレに、二人のやり取りを黙って見ていたシトラスが「ひっ」と小さな悲鳴を漏らす。

「あら、何をのんびりしているんです。ハカリが近くにフラムさんと降りてきているはずですから、坊やは怪我人をそちらに運んでください」
「わか、分かった」
「くれぐれも魔法は扱わないように」
「どうして?」
「あの龍は魔力の高い人間を狙う性質がある。アタシやヴェレがここを動かないうちは大丈夫だと思うが、次に狙われるなら間違いなく坊だろうね」

シトラスはさっきまで我慢できていた涙が頬を伝っていくのが分かった。
止まらなくなってしまったそれを必死で拭いながら、血塗れになって倒れている少女の元へと走り始める。
そんな小さな後ろ姿を笑って見送ったミントは、自身の魔力に意識を集中させた。

「――――こんなもんか」

ミントがパン、と勢い良く地面を叩く。
すると、八芒星を描いた魔法陣が浮かび上がり、身の丈ほどもある巨大な三叉槍が飛び出した。

その名の如し――翡翠の刃が先端で鈍く光っているのを見て、ヴェレが恍惚の表情を浮かべる。

「流石《乙女座》イチの鍛治師。見事な出来栄えです」
「アイツを倒せたら、それはアンタにやるよ」
「それは僥倖。俄然、やる気が湧いてきました」

ほう、と悩ましげなため息を漏らしたかと思うと、ヴェレは出来上がったばかりの三叉槍を片手で持ち上げてみせた。

「ちょっと! いくらお前さんでも、それは流石に無茶だ! 腕を痛めるどころの騒ぎじゃ――」
「大丈夫です。右腕に《海の魔力》を流せば、重さなんて関係ありませんから」
「……相変わらず、無茶をする」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「勝手にしな」

にこり、と微笑んだヴェレとは対照的にミントは疲労困憊と言った様子である。
もはや真面に相手をしているのが馬鹿らしく思えてきた。

――グオオオオ!

ここが戦場でなければ、呑気に話を続けることが出来ただろう。
私を忘れるな、と言わんばかりに咆哮を放った《魔女殺しの龍》に、ヴェレたちは視線を戻さざるを得なかった。

「あら、意外と寂しがりやなんですかね?」
「馬鹿言ってないで、何とかしな! じゃなきゃ、そいつを取り上げるよ!」
「それは困ります!」

言うや否や、ヴェレは助走を始めていた。
俊敏な動きで龍に迫っていく後ろ姿に呆気に取られていたミントへと、火球が襲いかかる。

「おっと! 危ないじゃないか、全く」
「……来るのが遅いですよ。そのまま、ミントさんの護衛をお願いします」
「心得たとも!」

ハカリがミントに向かって放たれた火球を切り裂いたおかげで、龍に動揺が見られた。
先程、ミントに右目を突かれた所為で、視界が定らないのだろう。

「これで終わりです!!」

ヴェレの声に、龍は彼女が自身に肉薄していることに漸く気付いたようだった。
迫り来る彼女の姿に、形振り構わず火球を打つけ始める。
ヴェレはそれを跳躍することで躱すと、空中で一回転し、龍の頭上を取った。

「――捉えました」

華奢な細腕に不釣り合いなほど、巨大な三叉槍が夜空に翡翠の光を放つ。
グッと力を込めれば、白い肌に青筋が浮かび上がった。

「どうします? 大人しく引き下がりますか? それとも、」
「グアアアアア!!」
「……そうですか、残念です」

ヴェレが重力に誘われるまま、龍に向かって落ちていく。
翠嵐の鉾が、龍の脳天に深々と突き刺さった。
まるで、柔らかいバターでも割くかのように、龍の首を刺し貫いたそれをヴェレが引き抜くと、息絶えたはずの龍から血が吹き出した。

真っ黒な血の雨を浴びながら、銀髪を揺らしたヴェレの口元が僅かに綻ぶのを、ハカリがじっと見つめていた。