8話『星の声を聴く』

夜が明ける頃、港を発った小舟は、静かな《北の海》を滑るように進んでいた。
まだ眠りの淵から顔を出したばかりの朝日が海面に降り注ぎ、さざ波に反射して揺れている様は、まるで星のようだった。
その中央で、ヴェレは目を細め、遠くを見つめている。

――海が、呼んでいる。

言葉ではない、音でもない。けれど、確かに胸の奥を震わせるものがあった。

「ここから先は、魔力の感知に頼るしかないね」

そう言って、シトラスが前に出る。
彼の掌に現れた小さな水球が、ぼんやりとした青い光を宿す。
それは《北の海》の海流に合わせ、ゆるやかに回転を始めた。

「波のまどろみ、星の囁きを映せ――《水球(ネレイア)》」

シトラスの声に応じるように、海面が静かに脈打つ。
淡い魔力の光と共に、柔らかな水が小舟全体を包み込んだ。
とぷん、と音を立てて、小舟が海の中へと沈み始める。

穏やかな海面からは想像もつかない激しい海流が、ヴェレたちの乗る小舟へと襲い掛かった。

「わあ!?」

シトラスの悲鳴を皮切りに、小舟の揺れが激しさを増す。
ヴェレは咄嗟にシトラスの身体を抱き上げると、真後ろに立っていたハカリへと声を荒げた。

「天秤で重力を制御できないんですか!?」
「やっているとも! だが、海の魔力が強すぎて、制御が効かないんだ!!」
「何ですって……!」

小舟に乗る全員の顔からサッと血の気が引いていった。
当初の予定では、ハカリが持つ《善悪の天秤》を使って、移動するつもりだったのだ。
制御の効かなくなった小舟は、さながら川を流れる落ち葉のように、海流の渦に絡め取られてしまった。

深く息を吐き出し、呼吸を整えようとしたヴェレの耳朶を、海鳴りが撫でていく。
まるで急き立てるように反響を繰り返すそれに、幼い頃の記憶が脳裏に蘇った。

『海の中では、子守唄を歌ってはいけないよ』
『どうして?』
『《魚座》の星獣、イクテュス様を起こしてしまうからね』
『……だけど、父様は子守唄歌ってるよ?』
『私は《歌い手》だから――――』

あの後、父は何と言ったのだったか。
けれど、今重要なのは、そこではない。
《イクテュス》を起こすのに、必要なことは一つだけ。
そして、恐らく、この海流を操っているのは彼女だ、という確信がヴェレにはあった。

「クラレット。坊やを頼みます」
「お、おい! 何する気だ!」
「大丈夫です。《魚座(わたし)》は、海中でも呼吸はできます」

荒ぶる海流に逆らわず、ヴェレはシトラスの魔法の中、水晶を模った美しい水泡から飛び出した。
勢い付いた海水が肌を叩く。
ぶわり、と自分の中で、海の魔力が膨れ上がるのを感じた。
陸と違って、海中で魔力を解放すると、《魚座》は本来の姿を取り戻す。

それは、夜にひっそりと佇む花のように、海中に咲いた。
桜色の美しい尾鰭と、背中を覆うほどの銀髪を揺らしたヴェレが、海と同じ色の双眸を海鳴りが聞こえてくる方に向ける。

ほう、と息を呑んだのは誰だったか。
誰もが皆、ヴェレの姿に釘付けだった。

けれど、ヴェレはそんなことには構わず――視線だけでも煩いハカリには、睨みを効かせていたが――、もう一度深く息を吸い込んだ。
陸とは違い、海中での呼吸は海の魔力が直接、身体の中に流れ込んでくる。
じんわりと身体の中に馴染んでいく感覚に、意を決して、記憶の中の子守唄を紡ぎ始める。

静かな星の ゆりかごに
金の秤と 銀の詩
ふたりの声が 揃うとき
扉は開く 遥か海
星の涙が 揺れる宵
祈りは深く 水底へ
夢の名を 星にゆだねて
風が運ぶよ レーヴと共に

ヴェレの歌声に、それまで激しさを増す一方だった海流が、静かに霧散していった。
穏やかな表情へと戻った海の姿に、ヴェレがほっと胸を撫で下ろしたのを合図に、楽しそうな声がどこからともなく響き渡る。

「おかえり。海(わたし)の愛しい子。アルフェレの娘、ヴェレよ」
「……《イクテュス》ですか?」
「ええ。またその歌が聞けて、嬉しいわ」
「どこにいるんです?」
「私は、どこにでもいるし、どこにもいない。この海こそが私であり、私こそがこの海なのだから」

イクテュスがそう言って擽ったそうに笑った。

「あなたを起こそうとしている人間が居ます」
「知っているわ。けれど、私を起こせるのはただ一人――《歌い手》の資格を持つ者だけ」
「…………でも、父様は、」
「ヴェレ」

それまでとは違い、イクテュスの声に冷たいものが宿った。
彼女の想いに同調しているのか、海水温もまたひやり、と冷たくヴェレの肌を蝕んでいく。

「アルフェレは歴代随一の《歌い手》だった。だからこそ、私は次の《歌い手》を決めることが出来なかった」
「……っ」
「けれど、その考えは間違いだったみたい」
「どういう、意味ですか」
「《真珠海》で会いましょう。あなたに、私を起こす覚悟があるのならば、全てを話します」
「待ってください! イクテュス! まだ、聞きたいことが……!」

ヴェレが叫ぶも、イクテュスの声はそれきり、聞こえなかった。
静けさを取り戻した海の中、ヴェレの浅い呼吸だけがいつまでも反響を繰り返していた。

◇ ◇ ◇

海中から戻ると、外はすっかり明るくなっていた。
生まれたばかりの白い太陽が、ヴェレたちを優しく出迎える。

「何だか、眠らずに夢を見ていたかのような気分だ……」

最初に言葉を発したのは、うっとりと恍惚に頬を染めたハカリだった。
それに「げ」と舌を突き出したのは姉妹同時で、二人に釣られたシトラスも眉間に深い皺を刻んだ。

「《天秤座》は呑気で羨ましいねぇ。こっちはイクテュスの魔力に当てられて、ぐったりしてるって言うのにサ」
「確かに! 星獣の魔力は凄まじかった! だけど、僕はレディの美しさを記憶に焼き付けることに必死だったからなァ」
「姉さん、やめて。この人には何も言わないでください。私に被弾します」

はあ、とため息を吐き出したヴェレは、重い身体に鞭打って浜辺へと降り立つ。
海中で子守唄を歌ってからというもの、身体が鉛のように言うことを聞かなくなっていた。
そんな彼女の姿に、クラレットが静かに溜息を吐いて、濡れた前髪を掻き上げた。

「……なあ、ヴェレ。イクテュスはお前の父親が、本当にまだ生きているって思ってたのか?」
「分かりません。ただ、私も彼女も……そうであってほしかっただけです」

言葉にするのが怖くて、目を逸らしたままのヴェレに、クラレットは慰めるように肩を叩く。

「なら、ちゃんと受け止めな。星獣がお前の父親が残したものを、お前に託そうとしているってことを」
「ですが、」
「《歌い手》は二十年余り、空白だったんだ。お前が戸惑うのも無理はない。だけど、お前にはイクテュスが次の《歌い手》を選ぼうとしている意味が、よく分かるはずだろう」

夜空を刺す流星のような煌めきを秘めた金色の、暖かい眼差しがヴェレへと降り注いだ。
普段は粗暴に隠れている所為で見ることの出来ない、クラレットの不器用な優しさに、ヴェレは鼻の奥がつんと痛んだような気がした。

「……あの、ヴェレ?」
「どうしました?」
「さっきから、気になっていたんだけど、その、背中に何か付いているよ」
「取ってもらえます?」
「いいとも! さ、背中を向けて!」
「あなたじゃありません。坊やに言ったんです」

途端に肉薄してくるハカリの顔を押し除けて、ヴェレはシトラスに背を向けた。
小さな掌が背中に触れる感触にくすりと笑みを溢したヴェレだったが、自身の背中に貼り付いていた物の正体に愕然とする。

「これ、なんだけど」
「イ、イクテュスの鱗です。間違いない!」
「ええっ!?」
「――その鱗、薄明の光を宿し、真珠海への道を開かん。へえ、詩的な表現だとばかり思っていたが、あながち間違いじゃなかったんだねぇ」
「確かに。アタシもその言い回し、前にどっかで聞いたことあるな」

先ほどまでのしんみりとした空気が嘘のように常の喧騒を取り戻した一同だったが、不意に何かに気付いたヴェレが「待ってください!!」と珍しく声を荒げた。

「は、薄明って、確か夜明けって意味ですよね?」
「…………夜明けから二つ星、もしくは三つ星くらいの時間帯のことだね」
「真珠海で会いましょうって、今から来いって意味かよ!!」

クラレットの悲痛な叫びに、全員が顔を見合わせる。

「鱗を使うにはどうしたらいいの!?」
「シトラスくん、移動系の魔法って何か使えたりしない!?」

シトラスとハカリの声が不協和音を奏でた。
パッと顔を輝かせたのは、それを聞いていた姉妹だけである。

「坊や、確か《煌潮(コーラル)》を習得していましたよね?」
「ほら! 儀礼式で供物を捧げないと使えない縛りがあるんだって文句言っていたやつだよ! さっさと出しな!」
「え!? う、うん」

顔の整った姉妹に鬼気迫る様子で急かされて、シトラスは慌てて魔導書のページを捲った。
目当てのページを見つけるのと同時に、頭の中に呪文が流れ込んでくる。

「潮よ、道を示せ。星の煌きを辿り――《煌潮》!」

この場に供物として捧げられるものは一つしかない。
魔力が込もったシトラスの声に応えるかのように、イクテュスの鱗が閃光を放った。

――次の瞬間、夢の中へと沈んでいくような不確かな感覚に、ヴェレは目を閉じた。

身体がふわりと浮かび、耳の奥で潮騒が優しく囁く。
ひとつ、またひとつと、星の鼓動が響き合い、世界がゆっくりと書き換わっていく。

光の粒が漂う中、薄く開いた瞼の先にあったのは、どこまでも透き通った蒼だった。

水面と空の境界が溶け合い、真珠を砕いたような光が海辺を包む。

「ここが、真珠海……」

息を呑んだのは、ヴェレだけではなかった。
白い砂浜に足を下ろした瞬間、その場に居た誰もが言葉を失っていた。

柔らかな波が足元を洗い、空には笑う月が薄く浮かんでいる。
まるで天地が反転したような静謐に、シトラスがぽつりと呟いた。

「また、夢の中に迷い込んじゃったのかな……」
「ふふ、そうだね。君の言葉に同意するよ」

ハカリが笑みを浮かべながら、そっとその肩に手を置いた。

やがて、遠くから軽やかな水音が近づいてくる。
真珠の冠を載せた巫女が、揺れる光を纏って浜辺へと姿を現した。

「ようこそ、旅の方々。――イクテュスに認められし、海の娘よ、真珠海は貴女を待っておりました」

金の瞳が、真っ直ぐにヴェレを見つめる。
どこか懐かしさを孕んだその視線に、ヴェレは微かに胸を疼かせた。

けれど、それが何故なのかを、今の彼女には知る由もなかった――。