白銀の霧に隠された真珠海を、朝の潮騒が包んでいた。
淡い薄紅の空が、海面に鏡のように映り込み、その中央に座す水上神殿はまるで空中に浮かんでいるかのようだった。
ヴェレは一人、祈りの石畳に膝をついていた。
着せられた白い礼服が、潮風を受けて小さくはためいている。
石の冷たさも、肌に刺さる朝の空気も、どこか現実味がなかった。
イクテュスに見染められたとはいえ、《歌い手》としての資質が本物かどうかを見極める必要がある。
そう言われて口を挟む暇もなく、あっという間に儀礼用の白装束を着せられ、この聖殿に連れてこられてしまった。
――貴女には、《漣の試練》を受けていただきます。
巫女の言葉を反芻する。
星獣イクテュスが“試す”というのは、単に声を交わすだけではない。
選ばれる者が本当に《歌い手》たる資格を持つか――その魂に、問いを投げかけるのだという。
「ヴェレ」
後ろから、そっと声をかけられた。振り返ると、クラレットが立っている。
いつものような大きな声も、粗雑な仕草もない。
厳かな雰囲気に当てられているのか、他種族の星獣の聖殿の前だからか、珍しく凪いだ表情の彼女にヴェレは瞬きを返した。
「行ってこい」
その一言で十分だった。
揺らいでいた心がすうっと落ち着いていくのを感じながら、ヴェレは義姉に頷いてみせる。
水鏡のごとく広がる聖域の中へと、一歩を踏み出した。
まるで、海が呼吸しているかのようだった。
足元に広がる透明な水面を踏みしめて、進んでいく。
「――よく、来ましたね」
波音に混じって、涼やかな声が響いた。
海の静寂を撫でるように落とされた、柔らかな歌を連想させるその声に、ヴェレはハッと息を呑んだ。
幾重にも折り重なる水の膜が、静かに海面を揺らしている。
その中心に現れたのは、巨大な水母のような影。
《魚座》を守護する者にして、《歌い手》の選別を担う者――星獣イクテュスが、透明な硝子で造られた台座に腰掛けている。
透き通った身体の内側には星々の煌めきが散っており、まるで宇宙そのものが海の中で鼓動しているようだった。
「その瞳、覚悟が出来たと思って良いのかしら?」
「――はい」
「そう。では、あなたの歌を聞かせてちょうだい」
覚悟を見せてみろ、と言われているのだと直感した。
ごくり、と生唾を飲み込む音が、やけに大きく鳴り響く。
ヴェレは大きく息を吸い込むと、ゆっくりと呼吸を整えていった。
聖殿に満ちた澄んだ海の魔力がヴェレの身体をじわり、じわり、と侵食していく。
鼻の奥を嗅ぎ慣れた海水の香りが満たしていくのを感じて、ヴェレは静かに瞼を下ろした。
静かな星の ゆりかごに
金の秤と 銀の詩
ふたりの声が 揃うとき
扉は開く 遥か海
星の涙が 揺れる宵
祈りは深く 水底へ
夢の名を 星にゆだねて
風が運ぶよ レーヴと共に
記憶の中で蘇る、父の声をなぞるように歌声を紡ぐ。
ヴェレの旋律は胸の奥深く、沸き上がる海の魔力に乗って、聖殿全体を包み込んでいった。
とても歌を歌っただけとは思えない疲労感がヴェレを襲う。
じーん、と身体の中に甘い痺れを残したそれに、知れず眉間に力が籠った。
朝焼けに燃える聖殿の燭台に、銀の炎が灯る。
まるで、自分の歌声に応えるかのように次々と、燭台が揺らめく炎を踊らせる姿に、ヴェレは瞬きを繰り返すことしかできなかった。
「…………あなたの覚悟、しかと受け止めました」
イクテュスが緩慢な動作で台座から立ち上がった。
彼女の後を棚引くように海流が軌跡を描く。
そして、ヴェレの眼前まで歩いてきたかと思うと、イクテュスは勢い良く右掌を空に向かって翳した。
「星獣イクテュスが告げる!! 新たな《歌い手》の誕生を!!」
イクテュスの掌から、閃光が放たれた。
聖殿の天蓋を突き抜け、遥か上空へと光柱となって昇っていく。
やがて空を覆い尽くしたかと思うと、それは星々のように弾け飛んだ。
繊細な光の雨が、ヴェレの身体を優しく包み込む。
胸の奥に、ぽたり、と一際、熱い雫が落ちた気がした。
それは悲しみでも、喜びでもない。
ただ、静かに、確かにヴェレの中で何かが目覚めた。
「これは……《歌い手》の紋章……!」
言葉にならない想いが喉を震わせる。
胸元で花開いたのは、イクテュスと星を模った《魚座》独特の刻印――《歌い手》の紋章だった。
イクテュスが、その巨大な身体をゆっくりと屈め、ヴェレの刻印に、ぬらりと長い触手の先端をそっと触れさせた。
「海と星を紡ぐ、《魚座》の魂を宿す者よ。今この時より、そなたは《星を送る者》として、選ばれし《歌い手》なり」
水面を揺らすその声は、荘厳な口調からは考えもつかないほど、嬉しそうに上擦っていた。
◇ ◇ ◇
その瞬間――真珠海の空に、銀の火柱が立ち昇った。
街の広場では、子どもたちが空を指差し、大人たちは静かに手を合わせて祈りを捧げている。
「……これって!!」
周りに釣られたシトラスもまた、上空に視線が釘付けとなる。
広場の中心に据えられた星灯(せいとう)が、ひとりでに火を灯した。
燭台の周囲に据えられた《歌い手》の紋章が、淡く光を発する。
「ヴェレ、あの子……本当に……っ」
クラレットが口元を手で覆う。
眩い光に照らされながら、彼女は確かに奇跡を見た。
「やはり、僕の目に狂いはなかったみたいだ。……見ているかい? 先代のお二人さん」
ぽつりと呟いたハカリの声は、歓喜に震える広場に吸い込まれていった。
そして、その光を、遥か遠くから見上げる影があった。
「……《選定の光》か。まさか、こんなにも早く」
真珠海を望む断崖の上。赤銅の甲冑をまとった兵士たちが、無言のまま波打ち際を見下ろしていた。
その中央に立つ、他の誰よりも背の高い男――メーアが、禍々しい笑みを浮かべる。
「これで漸く《扉》が開く。目覚めの時は近い」
その声には、狂信にも似た熱が宿っていた。
傍らには、漆黒の外套を羽織った男が一人。
何も語らず、風にたなびく外套の隙間から、鋭い眼光が覗いている。
その視線は、天へと昇る光の柱を射抜くように。
波が、ひとつ。ふたつ。
まるで何かを告げるように、真珠海の海面に小さな波紋が広がる。
祝福を告げる光の柱は、なおも天を照らしている。
けれど、その輝きの向こうに、影は確かに息づいていた。
静かに、しかし確かに。
新たな《歌い手》の誕生に喝采を上げる海の底へ――
黒き気配が、音もなく忍び寄っていた。
◇ ◇ ◇
銀が閃く。
聖殿から居住区へと戻ってきたヴェレの姿を見るや否や、シトラスたちはワッと一斉に彼女へ駆け寄った。
柔らかい絹で織られた純白の衣は、イクテュスの魔力を纏ってより一層眩い光を放っている。
「――イクテュスに、認めてもらえたんだね」
見慣れない刻印が刻まれた相棒の姿に、シトラスは目頭が熱くなった。
そして、堰を切ったように笑顔を弾けさせる。
「やったね!! ヴェレ!!」
シトラスが自分のことのように喜ぶ姿を見て、ヴェレは苦笑を返した。
「ええ。ありがとう。でも、これから大変になるかもしれません」
「どういう意味?」
「《歌い手》には《星送り》という使命があるんです。私は父様が果たせなかった、その使命を全うしなければならない」
ヴェレはそう言って、自身の胸元に刻まれたばかりの刻印をそっと撫でた。
この刻印が刻まれたとき、これまで《歌い手》を担ってきた《魚座》の民たちの記憶を垣間見た。
イクテュスの願い――《星送り》を完遂するために奔走し、その命を星と散らした歴代の影を。
自分に、出来るのだろうか。
記憶の中で父の横顔が過ったとき、ヴェレは思わず怖気付いた。
至高と呼ばれる《歌い手》の中でも、更に異質さを放っていた父、アルフェレ。
彼ですら成せなかった《星送り》の儀式に、自分が挑戦しなければならないのだ。
「……《歌い手》様、よろしいですか?」
少し掠れた低いアルトの音色が、ヴェレを現実へと引き戻した。
振り返った先に、一人の女性が立っていた。
海が近いとは言え、ここは陸上のはずだ。
それなのに、その人は《海の魔力》を彷彿とさせる豊かな銀髪を潮風に揺らしながら近付いてきた。
「族長のリウテア様です」
ヴェレの隣に付き従っていた巫女が、リウテアの前に跪く。
彼女に倣って、ヴェレたちも膝を折ろうとすると、リウテアは片手でそれを制した。
「どうか、そのままで。私に頭を下げる必要はありません」
「ですが……」
「レシアよ。《歌い手》様に例のものを」
「はい。母上」
巫女――レシアがリウテアの言葉に従って、その場から離れていく。
リウテアは娘の姿が完全に見えなくなるのを待って「お見せしたいものがあります」とヴェレに言葉を投げかけた。
この土地に暮らす《魚座》の民は、他の海で暮らす《魚座》と纏う雰囲気が異なる。
イクテュスの加護によるものなのか、はたまた元からの気質なのかは分からないが、自身に宿る海の魔力を隠そうともしないその姿は、人間というより星獣に近い存在感を放っていた。
ちら、とクラレットの方を窺えば彼女もまた、異質な気配に当てられているのか額に冷や汗を滲ませていた。
「……こちらに」
「ここは?」
「先代の《歌い手》様が暮らしていた屋敷です。《星送り》に関する資料が残っているやもしれません」
リウテアがどこか懐かしむように目を細めながら、屋敷の扉を開いた。
金剛石を食べて育つ《盾顎蟹(ガルガレイス)》の貝殻を砕いたものを建築に取り入れた《魚座》の建物は、年代を感じさせながらも手入れが行き届いており、今でもこの屋敷を大切に思っていることが節々から伝わってくる。
「父様の、暮らした家ということですか」
「ええ。アルフェレ殿と、奥方のスピカ様、そして幼い貴女が暮らしていた場所です」
「私も?」
「はい。四歳まではここで暮らしていたのですよ。覚えておられませんか?」
そう言われて初めて、玄関を開けてすぐ視界へと飛び込んできた大きな白理石のテーブルに見覚えがあることに気付いた。
天然石が好きだった母スピカのために、アルフェレが《双子座》の行商人と交渉して安く手に入れたのだ。
その際、交渉の材料として長かった銀髪を強請られ、父は何の迷いもなくそれを手放した。
『バカねぇ。こんなテーブルのために、』
スピカが嬉しそうに笑っている顔と、アルフェレが照れくさそうに頬を掻くその光景が、脳裏で鮮やかに閃いた。
「どうして、忘れていたんでしょうか……」
「里には三重の結界が施されています。ここでの記憶は靄がかかったようになっていたはずです」
「…………」
「ヴェレ」
クラレットの手がヴェレの肩に優しく撫でた。
ヴェレは姉の手にそっと自分の手を重ねると、小さく「大丈夫です」と言葉を溢した。
「ヴェレ様」
屋敷を出たヴェレたちの前に、レシアが再び姿を見せる。
華奢な掌には似つかわしくない、鎧装備が一式準備されていた。
「我らの髪とイクテュス様の鱗を魔力で練り上げた鎧です。どうか、貴女様と共に」
リウテアがヴァレシアの隣に並び立ちながら、ヴェレに鎧を差し出した。
《魚座》の民は皆、《海の魔力》が髪に宿ると信じ、子どもの頃から髪を伸ばす者が多い。
そんな大切な髪を使って造られた鎧を見て、ヴェレは胸の奥が熱くなった。
「どうして、そこまで、」
「……アルフェレ殿を守れなかった、贖罪にございます」
「父様を?」
「男性が《歌い手》として選ばれたのは、アルフェレ殿が初めてでした。彼が存命であれば、間違いなく《星送り》は完遂していたはずです」
けれど、出来なかった。
リウテアの表情に暗い色が宿る。
何故、と詰め寄ろうとしたヴェレの耳に、「ピゥーイ」と聞き慣れない口笛が響いた。
「……っ! 侵入者だと!?」
「結界が破られた、ということですか!」
「そのようだ。ヴェレ殿、申し訳ないが、」
「まさかとは思いますが『逃げろ』なんて言うおつもりではないですよね?」
「ご理解が早くて助かります」
「――お断りします」
毅然と答えたヴェレの勇姿を、ハカリとクラレットの二人が豪快に笑い飛ばした。
シトラスはと言えば、たった数時間で色々と変わり始めた環境に疲れてしまったのか、げっそりとした様子で大人たちのやりとりを見守っている。
「どこのどなたか存じませんが、父様たちが過ごしたこの里を汚させるわけにはいきません」
「よく言った、ヴェレ! それでこそ、アタシの妹だ!」
「儀礼衣装で舞うレディは、さぞ美しいだろうねぇ。刃を交えられる敵が羨ましくてならないよ……」
「お望みとあらば、あなたから斬り伏せて差し上げますよ?」
「なはは! それはまた別の機会に取っておこうかな!」
首元に添えられた切先に、ハカリは嬉しそうに目を細めた。
白を基調として造られた儀礼用の衣装が、ヴェレの肌の白さを一層際立たせている。
衣装との境界線が曖昧になった彼女の細い腕を捉えた。
「それにどうせなら、ベッドの上で一緒に踊ってもらいたいしね」
いつもは隠れて見えない蟀谷に小さく口付けを贈る。
桜色の瞳が驚きに染まっていくのを間近で見ることが出来たのは思いがけない報酬だった。
「バカ!!!!」
ヴェレが叫んだとき、ハカリは既に《魚座》の兵と一緒に走り出していた。