カイザールの街は、二つの渓谷を跨いだ窪地に造られていた。
窪地から東側の渓谷を目指して歩くと、大人一人がやっと通れるほどの小さな抜け道がある。
額に張り付く髪を後ろ手に撫で付けたハカリは、苛立ちを隠そうともせずに舌打ちを落とした。
生ぬるい風がハカリを歓迎するかのように頬を撫でていく。
薄暗い小道を抜けた先で、ハカリを出迎えたのは歴代《裁定者》の魂が眠る神殿だった。
「……遅かったじゃない」
「少し準備に手間取っただけだよ」
「尻尾を巻いて逃げると思っていたわ」
「お望みなら、そうしようか?」
「…………ふんっ」
神殿の入り口で待っていたノクだったが、ハカリの顔を見るなり怒って先に中へと入っていってしまった。
これではまともに調査が進むかも怪しい。
始まる前から頭痛が襲ってきて、ハカリは思わず天を仰いだ。
同行を申し出てくれたヴェレの誘いを蹴るんじゃなかった。
行き先がこの場所じゃなければ、それこそ二つ返事でヴェレの手を握り返していただろう。
ここは《魚座》で言うところの《真珠海》に近い。
普段であれば族長筋とその警護を担当する兵士しか入ることを許されていないのだ。
神聖視されている場所へ他種族の者を引き入れることは余計な火種を生みかねないと、丁重に――血涙を流しながら――お断りしたのだ。
身体を締め付けるように、纏わりつくぬるい風が煩わしい。
深いため息を一つ吐き出すと、ハカリは漸く重い一歩を踏み出した。
幼い頃は地獄へと続く大きな口のように思えていた荘厳な造りの扉を押し開ける。
三つ星を過ぎたばかり、生まれたての朝日が照らすステンドグラスのおかげで、神殿内は色鮮やかな光に包まれていた。
神殿の最奥部――太陽と月を模ったステンドグラスが照らすのは、空の台座。
「……《無色の天秤》が無くなっている」
「ええ。私は今この瞬間まで、あなたが盗んだものだとばかり思っていたけれど」
「酷いなぁ。僕があれを盗んだところでどうにもできないことは、君が一番分かっているだろう」
「さあ、どうかしら?」
肩を竦ませたノクの表情から少しだけ険が和らぐ。
それに苦笑を返したハカリだったが、不意に頭をぐしゃりと掻き混ぜられて、息を呑んだ。
生前のリュカを彷彿とさせる乱雑な仕草に、心臓が一際大きく跳ねる。
すぐ近く、突然現れた懐かしい気配に、ハカリは混乱と焦燥のあまり、剣の柄へと手を伸ばしていた。
「やっと来たか。……遅かったな、ハカリ」
空の台座から聞こえてきた声に、自分の耳を疑う。
「リュカ、兄さん……!」
「おかえり《裁定者》。お前の帰りを俺たちはずっと待っていたよ」
台座に腰掛けたリュカが、満面の笑みでハカリを出迎える。
リュカの身体は半透明に透けており、朝日を吸収してキラキラと光を屈折させていた。
人ではない、と一目で分かるその異様な光景に、ハカリは絶句したまま柄を握る手に力を込めた。
「ハカリが《裁定者》ですって!? どういう意味です! リュカ様!」
「どういう意味も何もない。そのまま受け取ればいいだろう? お前も分かっているはずだ、ノク。次の《裁定者》はハカリしか居ないと」
ノクは思わず一歩、リュカに詰め寄った。
「だけど……! どうして! どうしてハカリなんです!?」
悲鳴のような甲高い声が、神殿の中を満たしていく。
ぐわんぐわん、と反響を繰り返すそれに、居心地の悪さを感じたハカリは、僅かに半歩後ろへと下がった。
「まるでハカリにはその資格が無いとでも言いたげだな」
「だってそうでしょう! 彼は逃げたんですよ! セラス様を置いて!」
「なるほど、お前にはアレがそう見えていたのか」
「?」
「セラス兄さんは昔から言葉が足りないのが良くないな。兄さんは分かっていたんだよ。次の《裁定者》に選ばれるのがハカリだってことを」
だから遠ざけたんだ。
リュカの言葉に驚いたのは、ノクだけではない。
ハカリも初めて聞く兄の心情に、動揺を隠せなかった。
「遠ざけた? 違うよ、リュカ兄さん。僕はセラス兄さんと喧嘩して、家を飛び出したんだ」
「優しいあの人が、そう仕向けたんだよ」
「……っ」
最後に見たセラスの表情が、ハカリの脳裏に蘇る。
夜明け前の青白い光の中、背を向けた兄の肩が僅かに震えていた。
振り返らなかったその人の、滲むような横顔をはっきりと思い出す。
ホッとしたようにも、泣きそうにも見える、眉間にぎゅっと皺を寄せた仏頂面。
あのとき気付けなかった感情が、今更ながらに胸を締めつける。
「――――《天秤座》の子。アザリオの血を引く、ハカリに問う。正義を貫く、覚悟はあるか」
リュカの声に、剣呑さが増した。
冷たく、刺すような鋭い眼差しを向けられて、ハカリは自身の呼吸が荒くなるのを嫌でも実感する。
「お前の正義を示してみろ」
生前と同じ、決して揺るがぬ炎(正義)がリュカの瞳で轟々と燃えている。
その光を宿した兄が、眩しくて、同時に羨ましかった。
「……僕の、正義」
「そうだ。お前にしか示すことの出来ない《正義》を見せてみろ」
静謐な空気が、神殿の中を満たしていた。
まるで世界そのものが、ハカリの言葉を待っているかのように、音ひとつ立たない。
喉が焼けつくような沈黙の中、ハカリはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に、言葉にならない熱が燻っている。兄の遺志、セラスの想い、自分自身の弱さ。
全部を抱えて、それでも、目を背けることはできなかった。
「分かったよ、兄さん。僕は――」
その言葉が終わるより早く、神殿の床が音もなく崩れた。
足元に、淡く光る亀裂が走る。空間そのものが反転するような目眩に、ハカリはとっさに体勢を低くした。
ノクが短く息を呑み、ハカリに駆け寄ろうとするも、その身体は光の奔流に弾かれる。けれど、彼女は完全に弾き出されることなく、亀裂の縁にしがみついた。
「ハカリ、私も……っ!」
彼女の声に、リュカが静かに言葉を重ねた。
「ならば行くと良い。新たな《裁定者》の誕生を見届ける者として。だが気をつけろ、この先は《裁定者》にのみ許された試練。お前が進むなら、それ相応の覚悟が必要だ」
ノクは躊躇わなかった。決意を瞳に宿し、亀裂へと身を投じた。
「だったら、私も乗り越えてみせます。セラス様が選んだ道が正しかった、と証明したい!」
光が弾け、二人の姿が神殿から掻き消える。
眩さに目を瞑った二人だったが、次に視界を開くとそこは別の場所に塗り替えられていた。
乾いた風が吹いている。空には星も雲もなく、果てしない白だけが広がっている。
何も無い空間――けれど、何かが、確かに存在している気配がする。
「ここは――」
自問の途中で、またしても声が降った。
今度は明瞭に、リュカの声だった。
「示せ。お前が信じる《正義》を」
それは命令ではなかった。
ただの兄から、弟への問いかけ――けれど、そこにはかつての炎が確かに宿っていた。
憧れ、嫉妬し、焦がれた、兄の力強い眼差しがハカリを射抜く。
色んな感情が込み上げてきて、言葉を上手く紡げない。
唇を噛み締めながら、こくりと頷いたハカリの姿を見咎めたリュカが、両手を高く掲げた。
「これより《裁きの審問》を執り行う。汝、これらの善悪を示せ」
リュカの声に応えるように、神殿が再び震えた。
次いで、夜泣き鈴の木、猪、ベルヴォラが順番に姿を見せる。
「あれって《雷風(ベルヴォラ)》じゃないの!? どうしてあんな魔物まで出てくるのよ!」
「……恐らく、人に有害か無害か、その定義を求められているんだと思う」
ノクが金切り声を上げたおかげで、ハカリの頭は冷静だった。
ちら、と伺うようにリュカへと視線を送れば、彼は満足そうに頷いている。
「その通りだ。では、まず夜泣き鈴の木を裁いてみろ」
シャンシャン。
名前を呼ばれた夜泣き鈴の木が身体を揺すって音を鳴らした。
カイザールの街や、その近くには自生していない木だ。
だが、ハカリはこれに似た朝笑い笛の木を知っていた。
「質問をしても?」
「いいだろう。一つの審問に対し、三度まで質問を許可する」
「これに似た朝笑い笛の木を見たことがある。群生地は《双子座》が多く暮らす山間部で間違いないかな?」
「ああ。よく知っていたな。名の通り、朝笑い笛の木と対を成す存在だ」
ハカリは《双子座》の街を訪れたときに聞いたあることを思い出した。
「判決を告げる。夜泣き鈴の木は《善》だ」
「その理由は?」
「夜泣き鈴の木は、夕暮れから夜明けにかけて、鈴の形をした実を震わせて音色を奏でる。その音色は空気中の魔力に反応していて、魔物や害獣が近付くと音が大きくなると言われている。その特性を利用して、街の警鐘に使っていると聞いたことがある――だから、害をなす存在を遠ざけるその性質は、人間にとって有益だと、思う、」
言葉尻になるにつれて、ハカリの声は小さくなっていった。
あくまで自分が体験したわけではなく、街の住民が話していた「そろそろ夜泣き鈴の木の植え替え時期だな」という会話がやけに耳に残っていたから、気になって後で調べた。偶々知っていただけに過ぎない知識を用いて、憶測で判決を言い渡してしまったことに、下唇を強く噛んだ。
「お前はもう少し自信を持った方がいいな。その知識も《天秤》を計るのには必要なことだ」
「知識が、役に立つの?」
「ああ。昔から俺も兄さんもよく言っていただろう。『知識は天秤に勝る』と」
「そして、天秤は善悪を裁く」
「……何だ。覚えているじゃないか」
夜泣き鈴の木が、兄弟の談笑する姿を見て満足そうに身体を揺らした。
シャン、と涼やかな音を奏でながら、夜泣き鈴の木がその身を靄と化す。
「夜泣き鈴の木が、消えた」
「ということは、ハカリの裁定が正解だった、みたいね」
それまで黙って彼らのやり取りを見守っていたノクがホッと胸を撫で下ろした。
無事に一問突破できたことに、ハカリもまた深く息を吐き出す。
ここまで緊張のあまり、上手く呼吸が出来ないような錯覚に囚われていたのだ。
「次に移るか?」
「ああ。もちろん」
ハカリの目から迷いが消えた。
すう、と一筋の光が宿り始めた弟の双眸は、兄の姿を彷彿とさせる。
違うものがあるとするならば、その色が紅ではなく紫なことくらいだ。
「では、次。猪」
リュカの声に誘われ、猪がハカリたちの前に躍り出る。
フンフン、と見るからに鼻息の荒い獣に、ノクは咄嗟にハカリの袖を掴んだ。
「あ、ごめ、」
「ん」
ぎこちない二人のやりとりに気付いているのか否か、リュカは口元に弧を描きながらハカリに「裁決を下せ」と言葉を紡ぐ。
「この猪は何か罪を犯したのかな?」
「《牡羊座》の田畑を荒らしたことがある」
「……へえ」
ハカリは顎に手を添えると、片眉を持ち上げた。
《牡羊座》は小柄な種族で、大人でも他種族の子どもくらいの背丈しかない。
ハカリも一度だけ彼らの村で世話になったことがあるが、確か腰元くらいの高さに頭があったはずだ。
「猪が襲ってきたとき、村に男性は居た?」
「いいや。丁度、出稼ぎの時期で村には年寄りと女子どもしか居なかった」
それを聞いて、ハカリの心は決まった。
《牡羊座》は年に一度、毛刈りの時期を終えた初夏に男性陣が毛皮を使った加工品を売りに街へと降りてくる。
夏の間だけ、村は無防備になるのだ。
彼らの毛皮は貴重で、着るだけで万病が治ると言われている。
他種族が侵入するのが難しい岩山で暮らしているとは言え、それでも不埒な輩が後を絶たず、子どもや女性を誘拐する事件も夏に頻発していると滞在した村の村長から相談を受けたほどだった。
「判決は《悪》。猪は夏場の貴重な食物を荒らし、その日暮らしもやっとな《牡羊座》の生命を危機にさらした」
猪が不満そうに、一際大きく鼻を鳴らしながら、真っ黒な影となって床に溶けて消えた。
どろり、と歪んで見えなくなっていったそれにリュカが小さく拍手を贈る。
「素晴らしい。では参考までにどうしてこの猪が夏に現れたと分かったのか、聞こうか」
「兄さんが『出稼ぎの時期』と言ったからさ。彼らが出稼ぎに村を降りるのは年に一度、毛刈りを終えた夏だけだもの」
「まるで、《牡羊座》の村を見てきたかのような口振りだな」
「少しだけ、ね」
ハカリの言葉に、彼の背に隠れていたノクはハッとした表情で顔を上げた。
リュカを見つめるハカリの横顔は、いつしか真剣なものに変わっていた。
「では最後の裁決だ。《雷風(ベルヴォラ)》を裁いてみよ」
閃光が弾けた。
稲妻と踊る鹿に似た魔物――《雷風(ベルヴォラ)》が、ハカリを睨め付ける。
その眼差しの冷たさは、どこか長兄セラスを思い起こさせた。
