5話『酒涙雨-前編-』

聞こえるのは己の息遣いだけ。
右手に握った銃が構えた先には、一人の少女が立っていた。
今回の指令は、あの少女を殺し、亡骸を回収すること。
東雲にとっては簡単な任務のはずだった。
引き金を引こうとした瞬間に少女と目が合うまでは。

「!?」
「捕まえて」

少女の声に、東雲の身体が宙に浮いた。
声を上げる隙もない。
気が付けば、少女は至近距離に近付いていた。
咄嗟に握ったままの銃を放つも、少女には当たらない。
それどころか、放たれた弾丸を器用に掴んで見せた彼女に東雲は目を疑った。

「じっとして。貴方を殺したいわけじゃないの。私はただ、侵入者を捕らえろと言われただけだから、貴方に危害を加えたりしないわ」

そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。
東雲の一族は強者こそが正義。
実の兄や弟を殺して、東雲は生きる道を掴んだのだ。
初めての敗北に次いで掛けられた情けの言葉は、鈍器で頭を殴られたときよりも大きな衝撃を東雲に与えた。

「……」
「ありがとう。これも、下ろしてくれる?」

銃口を突き付けられているというのに、少女はぴくりとも顔色を変えなかった。
よく見ると、少女は人形のように美しい顔をしていた。
東雲は呆けた顔をして、彼女に見入った。
口布を当てている所為で、東雲の顔は少女には分からないはずだ。
だが、じっと顔を見られていることに気付いたのだろう。
不快そうに眉根が寄る。

「……下ろしてって言っているのだけれど」
「あ、」
「はい。どうも」

半ば無理矢理に銃を奪われる。
不意に、自分の腕に巻き付いたままの何かが気になって視線を映した。
これの所為で己は少女に捕まったのだ、と忌々しく思えば、それは水の塊だった。
頭に疑問符を浮かべるのと同時に、後頭部を衝撃が襲う。
そこで、東雲の意識は途絶えた。

次に目を覚ますと両の手足は鎖に繋がれていた。
指先に力を籠めるも、何か薬を撃たれたのか、意識が朦朧としてそれは叶わなかった。

(どこだ、ここ……)

霞む視界で懸命に辺りを見渡せば、光のない空間が広がっている。

(地下牢、か?)

鼻を衝く埃とカビの臭いに、僅かばかりに血の臭いが混ざっていた。
拷問部屋かもしれないな、と東雲はどこか他人事のように乾いた笑みを浮かべた。

「目が覚めた?」

すぐ傍から聞こえて来た声に、東雲は思わず身を固くした。
鎖で繋げられていることも忘れ、懐の銃を取り出そうと右手に力を込める。

「無理に動かない方がいいよ。即効性の神経毒だから、動けば動くほど身体が痺れる」

暗殺稼業に身を置きながら、少女が近付いてくるまで全く気配を感じなかった。
毒で身体が鈍っているからではない。
この少女は文字通り音もなく、突然現れたのだ。
東雲はぐっと言葉を詰まらせると、真正面に立った少女に睨みを利かせた。

「どこから入った? って言いたげな顔ね。ちゃんと牢屋番の人に鍵を借りてそこから入ったの」

ふふ、と笑った少女とは対照的に東雲は唇を歪めた。
先程から妙に顔が涼しいと思えば、気絶している間に口布も外されてしまったらしい。
慣れない感覚に東雲が強張っている間にも、少女は興味深そうに東雲を観察していた。

「ふーん?」
「な、んだ」
「別に? 黙っていれば、綺麗な顔をしているのに残念だなぁと思って」
「……嫌味か」

血と煤塗れになった顔を見て『綺麗』だと言われても嬉しくない。
少女の意図が全く分からず、東雲はますます眉を顰めた。

「それで? 君は一体誰から殺しを依頼されたの?」
「そう言われて『誰々さんに依頼されました』って馬鹿正直に答える奴が居るわけねぇだろ」
「あはは。それもそうか! じゃあ、これならどう?」

そう言うや否や、少女は東雲の前に右手を翳した。
雨の匂いが辺りに充満したかと思うと、東雲の身体を水が包み込む。
どこからともなく現れた水に驚いて、思わず口を大きく開いてしまった。

「ゴボッ……!?」
「あまり吸い込まない方が良いわよ。『汐(シー)』の水は、普通の水よりも早く息の根を止めることが出来るから」

両手足を拘束されている所為で踠くこともままならない。
内心で舌を打ちながら、東雲は必至に打開策を考えた。

「私の質問に答える気があるのなら、解いてあげる」

真っ赤な目が東雲をじっと見つめた。
一度だけ食べたことのある柘榴の実の色に、彼女の目はよく似ていた。
どうせ直に処分される身だ。ここで吐いたところで、東雲に何の損もなかった。
こくり、と口を閉じながら首を縦に振れば、少女は満足そうに笑った。
その笑顔が眩しくて、東雲は思わずぱちくり、と瞬きを繰り返した。

「汐」

少女は隣に浮かぶ半透明の女性に声を掛けた。
女性が右手をつい、と動かすと東雲を捕えていた水が四散する。

「げほっ、ごほっ!!」

咳き込んだ東雲の前に、少女が再びしゃがみ込んだ。
東雲は、じっと彼女の顔を見つめた。
見れば見るほど、普通の少女に見える。だが、先程の力を目の当たりにした後では、少女に接近されることは恐怖以外の何ものでもなかった。

「……俺をここに送り込んだのは、伯父貴たちだ。アンタの妙な力を調べるために殺して亡骸を回収しろ、と命令された」
「やけにすんなり答えるのね」
「また水責めにされるのは嫌だからな」
「賢明な判断だわ。けれど、本当に良かったのかしら。そんな簡単に身内を売って」
「俺が集合場所に現れなければ、里の人間が俺を処分しにやってくる。俺の任務内容と里の情報を外部に漏らさないためにな。そうなれば困るのはお前たちだろう」
「……やられた。それで、私をここに配置したのね」

少女は東雲の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をした。

「何だ? お前も処分予定だったのか?」
「……似たようなものよ。ちょっと逆らっただけで、これだもの。まったく嫌になっちゃう」

溜め息を吐き出した少女に、東雲は鼻を鳴らした。
殺処分待ちの野良犬のような気持ちで、少女と睨み合う。

「私はこんなところで、死ぬつもりはない。ねえ、協力してくれない?」

少女が右手を一閃すると、東雲を縛っていた鎖が砕け飛んだ。

「一緒にここから逃げましょう」

伸ばされた手に東雲は眉根を寄せた。
この手は何だ、と表情で雄弁に語れば、少女がこてん、と首を傾げる。

「女の子をエスコートしたこともないの?」
「……つくづく嫌味な女だな」

乱暴な手付きで彼女の手を取ると、東雲は音もなく走り出した。
少女の話では牢屋番が居るはずである。
まずは牢屋番から武器や衣服を取り返さねばならない。
水を得た魚のように東雲は爛々と輝いていた。

牢屋番に就いていた男は年老いた男性だった。
東雲が牢から出たこともそうだが、その後ろに少女が鎖で縛られている――東雲の手についていた鎖の切れ端を巻いただけである――のを見て、顔から血の気が引いていった。

「き、貴様ッ!!」

老人の動きとは思えないほど素早い動作で連絡用の電話を掴んだ彼の懐に、東雲が飛び込む。
牢から、牢屋番の居る門までは三メートルほど距離があった。
それを彼は一跳びで距離を詰めたのである。
これには少女も驚いて目を剥いた。
人間技ではない、と険しい目つきで、牢屋番を気絶させた東雲の横顔を凝視した。

「ここから、地上に出るにはこの階段しかないのか?」
「ええ。でも、私と汐ならそこを通らずに上へ行けるわ」
「どうやって?」
「こっちよ」

少女は己に巻いていた鎖を解いて、来た道を戻っていった。
これではまた牢に逆戻りではないのか、と東雲が疑問を零すより先に、少女が目的のものを見つける。

「この排水管を伝っていけば、街のどこかに出るはずよ」
「……本気で言っているのか? こんな細い排水管の中をどうやって移動する気だ」
「まあ、見てなさい」

少女はそう言って瞼を落とした。
すると、彼女の周りを薄い水の膜が覆い始める。

「さ、次は君の番ね。目を閉じていて。後は私が引っ張ってあげるから」

少女は東雲の瞼に触れると無理矢理瞼を閉じさせた。
ひたり、と想像していたよりもずっと冷たい彼女の掌に意識が逸れた一瞬に、身体を浮遊感が襲う。
次に目を開けると、そこは市井のど真ん中だった。

「よし。ここまで来れば、直ぐには追ってこられないはずよ。ひとまず、ご飯でも食べて休憩にしましょう」
「……一体何をした」
「汐に頼んで、身体を水と同化させたの。そうすれば、狭い排水管の中も移動できるってわけ」

そこから出てきたのよ、と示されたのはまだ整備も行き届いていない道路の端に設置されている排水溝だった。
そんな場所から人が出てくれば普通はもっと騒ぎになっても良いはずなのに、道を行く人々はこちらに無関心なようで各々が喋りながら歩を進めていた。

「大丈夫よ。ちゃんと人目に付かないように術を掛けたから。さ、行きましょう」

スタスタと先に歩き始めた少女の後姿を、東雲は呆れた眼差しで見つめることしか出来ない。
それが、時雨の姉である少女――梅雨との出会いであった。

◇ ◇ ◇

それから一月半ほど、東雲は梅雨と共に彼女の異母兄が経営する反物屋で生活していた。
物心ついた頃から家業に身を費やしていた東雲は、彼らとの生活の中でたくさんの『初めて』に触れ、その心を育んでいった。

追っ手の気配もなく、穏やかに日々を過ごしていたそんなある日。
梅雨が妹を迎えに行きたいと言い出した。

「歳の離れた妹がいるの。もう一ヶ月も身を潜めたし、そろそろ迎えに行きたくて……」

それに良い顔をしなかったのは、もちろん彼女の兄である黒燈だ。

「アイツらはお前が来るのを待っているんじゃないのか。時雨のことだ。お前が来なくても、」
「……兄さんは知らないから、そんなことが言えるのよ。あそこに一人ぼっちでいることがどんなに辛いか、私と時雨にしか分からないわ」

梅雨の家系は『蓮宿』を囲い、その恩恵を独占しようとする野蛮な思考を持っていた。

「それに、アイツらの所為で母さんがどんな目に遭ったのか、忘れたの?」

それ故に、姉妹の母親は一族から身を隠し、恋人である黒燈の父の元へ戻ろうとしたのだが、時雨の出産後を襲撃され、帰らぬ人になってしまった。
梅雨がこうして外出を許可されるようになったのも、つい最近のことで、黒燈が一族の大人たちを説き伏せ『一族と裏社会との繋がりを持たせるため』という名分を与えたからだ。

「なら、俺がその妹とやらを迎えに行ってやろうか?」

それまで静観を決め込んでいた東雲がぼそり、と呟けば、黒燈が一つしかない目を瞬かせた。

「……珍しい。お前が自分から何かを提案するなんて、明日は槍でも降ってくるんじゃねえか」
「よく分からんが、馬鹿にされていることは分かった」

懐から銃を抜こうとした東雲の手を、何かがぎゅっと包み込む。

「は?」

間抜けな声を上げながら、そちらに視線を遣れば、梅雨が喜色満面の笑みを浮かべて東雲の手を両手で握りしめていた。

「本当に!?」

見たこともないような眩しい笑顔を向けられて、東雲は言葉を失った。
ぐ、と喉の奥で低い唸り声を上げた彼に、黒燈が憐れみの視線を送る。

「出来ないことは言わない方が身のためだぜ、クソガキ」
「……俺がしくじるとでも?」
「おっと、怒るなよ。お前さんの腕が悪いって言いたいんじゃねえ」

あそこは特別なんだ、と黒燈は窓の向こうを見ながらため息を吐き出した。

「俺が教えたのは商売のことばかりだったっていうのに、いつの間にか危ない奴らが出入りするようになってる。――梅雨を連れ出したときとは訳が違うんだよ」
「危ない奴ら、というのは?」

東雲が、ちら、と梅雨を見れば、彼女は一瞬だけ何かに逡巡するかのように視線を彷徨わせた。
だが、琥珀の瞳が逸らされることはないと悟ると意を決して、唇を開く。

「暗殺や人身売買を主にしている人たちよ。その中に、あなたの服と同じものを着ていた人がいたわ」

東雲はぱちり、と一つ瞬きを落とした。
何もおかしなことはない。
ここ一月の間ですっかり忘れてしまっていたが、自身は元々そういう場所で生きてきたのだ。

「何故そんな苦しそうな顔をするんだ」
「それは、」
「まさかとは思うが俺に遠慮しているのか? 同族を殺すことになるかもしれないから、と?」
「……っ」

梅雨が息を呑む音がやけに大きく部屋の中に木霊した。
それが全て答えだった。
東雲は音もなく懐から銃を取り出すと梅雨の額にそれを突きつける。

「舐められたもんだな。俺はお前ですら簡単に殺せるって言うのに」
「このガキ!」
「動くなよ。こいつの頭を吹き飛ばされたくなかったら、そこで大人しくしていろ」

東雲はそう言って黒燈を威嚇すると、梅雨に「なあ」と言葉を投げかけた。

「俺がそんな殊勝な感情を持ち合わせているように見えるか」
「……」
「俺の里で物心が芽生えて初めにすることが何か教えてやるよ」

真っ赤に濡れた柘榴のような梅雨の眼が、東雲を射抜く。

「十人ずつ落とし穴に入れられて、二日間殺し合いをさせられるんだ。最後に生き残った奴だけが、暗殺者として育てられる」
「……ひどい、」
「生きるためには仕方のないことだ。偶々俺の生まれた家がそんな家業だった」

だから、と東雲は語気を強めて続けた。

「例え仲間であろうと、俺は殺せる。今も、この引き金を引けばお前を簡単に殺せる」

死は怖くない。
その考えが変わることは、きっとこの先もないだろう。
東雲は無意識のうちに銃を握る手に力を込めていた。
ごり、と梅雨の額に触れる銃口が嫌な音を立てる。
機嫌の悪い猫のように黒燈が息を荒げるのが分かった。
あまり刺激しては後が怖い。
東雲は彼らに聞こえないように小さくため息を吐き出すと、梅雨の身体を突き飛ばした。

「――俺がお前を殺さなかったのは、お前とお前の兄貴に恩があるからだ。そんな『ややこしいもん』はさっさと返して、身軽になりたいんだよ」

舌打ちを打った東雲に、梅雨は瞬きを繰り返した。
ほんのりと赤くなった頬を見るに、少しばかり照れているのが分かる。

「……つまり、恩返ししたいから俺に任せろってことか?」

黒燈が怪訝な顔で東雲を睨む。
明言するのを避けたかった言葉を態々口に出されて格好も何もついたものではなかった。

「…………」
「おいこら、答えやがれってんだ」
「そうだよ! 分かったんなら、早く妹の居る場所を教え――!?」

鈍い衝撃が東雲を襲う。
ふわりと香ったのは、梅雨が好んで使っている整髪剤のものだ。

「おい、」
「ありがとう」
「……まだ何もしてないだろーが」
「ええ。それでも、嬉しかったから」

自分とは違う、細く頼りのない腕が東雲の身体を包み込む。
初めて感じる他人の体温に、東雲は何とも言えない表情を浮かべることしか出来なかった。