3話『蓮とその守り人』

青蘭は混乱の渦に呑まれようとしていた。
たった数人の侵入者によって、指揮系統は麻痺。高い金を払って雇っていた傭兵たちも次々に倒れ、残ったのは武器も碌に手にしたことのない人間ばかり。

「……もう、終わりだ」

そう呟いた従兄弟の頭を、男は容赦無く撃ち抜いた。
弱音を吐く人間など、青蘭に必要ない。
男の言わんとしていることが恐怖となって生き残りたちの肩に重く伸し掛かった。

「時雨はどうした。今こそ、アレの出番だろ」
「そ、それが……。侵入者の一人に連れ去られたみたいで……」
「何!?」

どよめきが、怯えと焦りを携えて広がっていく。
階下で男たちが輪になって震えている姿に、東雲は「げ」と舌を突き出した。
小炎から預かった地図を頼りに屋敷の中を逃げ回っていたのが仇になった。
出口はすぐそこだと言うのに、身を乗り出すわけにもいかず、思わず歩みを緩める。

「し、東雲、こっち」

険しい表情になった東雲の衣服を、時雨が遠慮がちに引っ張った。
彼女が示した先には、外廊下へ続く扉があった。

「よく、こんな場所知ってたな」
「前に一度、連れてこられたことがある。そのときも、姉ちゃんと一緒にここから外に出たんだ」
「……逃げなかったのか?」
「呪符を足首に巻かれていたんだ。外に出た途端、爆発するって言われて……」

時雨はそう言って、目を伏せた。
あの時、姉の足には呪符が巻かれていなかった。
逃げようと思えば、逃げ出せたはずなのに、そうしなかったのはきっと。

「梅雨は、お前を置いて一人で逃げるような奴じゃないもんな」

東雲がクッと喉を鳴らして笑う。
その笑顔が、何故か姉の姿に重なった。

「……ん」
「次は、どっちだ」
「えっと、二つ向こうの棟までいけば、塀が見えてくると思う」
「なら、そこまで突っ切るか」
「うん!」

常の明るさを取り戻し始めた時雨を見て、東雲はやおら目を細めた。
くしゃり、と少女の頭を乱暴に撫でつける。

「も~!」

何すんの、と続くはずだった時雨の声は、悲鳴へと変わった。
外廊下を繋ぐ扉から、刀が飛び出してきたのだ。

「東雲ッ!!」
「……ぐッ」

咄嗟に時雨を庇うように身体を捻ったおかげで、彼女の身体に刀が触れることはなかった。
左肩へと突き刺さった刀を見て、東雲が苦悶の表情を浮かべる。

「時雨、潮と一緒に小炎たちを探してきてくれ」
「でもっ、」
「……大丈夫だ。俺はお前を置いて、死んだりしない」

刀を無理やり抜けば、傷口が広がるだろう。
そうなれば動きに支障が出る。
動けるうちに彼女を安全な場所へと誘導する必要があった。

「潮なら淡の居場所が分かるだろ?」
「う、うん!」
「一人でも、できるな?」
「――うん!!」

時雨が頷くのと同時に、そっと彼女を床に下ろす。
夜色の髪を柔く撫でると、少女は瞳を潤ませながら、東雲に背を向けた。

「待っててね! すぐに小炎たちを連れてくるから!」
「ああ。ここで待ってる」

潮が時雨の小さな身体を水泡で包み込む。
すると、彼女の身体は景色に同化して見えなくなってしまった。

「さて、と。――久しぶりだな、おい」

刀の背を拳で打ち付け、叩き割る。
肩にめり込んだ部分を少し残して、扉に残ったままのそれに、東雲はハンと鼻を鳴らした。

「お前の気配を俺が忘れているとでも思ったのか?」

懐から愛銃を取り出す。
息吐く間もなく、銃弾を全て打ち込んだ。

煙を放つ扉を蹴破ると、少し離れた先――外廊下に一人の青年が立っていた。
その髪は、東雲と同じ鈍色に染まっている。

「ずっとお前が来るのを待っていた」

青年は東雲をきつく睨むと、帯刀していたもう一本の刀をゆっくりと抜いた。
白刃が物騒な光を放ちながら、東雲を捉える。

「俺もお前に会えて嬉しいぜ」

漸く、梅雨の仇討ちができる。
琥珀に宿った獰猛な炎が、轟々と音を立てるかのように激しく揺れていた。

◇ ◇ ◇

「小炎!!」

銀に宿る淡の気配を辿って、時雨は彼らを見つけることに成功した。
ワッと駆け寄ってきた少女の姿に、小炎の眦にうっすらと涙が浮かぶ。

「しーちゃん! 良かった! 無事だったんだネ!」

会いたかったヨ、と言いながら、小さな身体を抱きしめた。
痛いくらい強い抱擁を受け止めた時雨だったが、自分が彼らを探しにきた目的を思い出して「大変なの!」と叫んだ。

「東雲が! 怪我してるの!」
「何だと!?」
「それで、ここまで一人で来たノ?」
「う、うん! こっち! 早く!」

小炎の手を引き、来た道を戻ろうとした時雨だったが、そんな彼女の前に人影が立ち塞がる。

「…………お姉ちゃん」

時雨が姉と呼ぶのは、この世でただ一人。
死んだはずの梅雨が再び時雨の前に姿を見せた。

青い肌に虚な目は彼女が既にこの世のものではないことを物語っている。

「しーちゃん、下がって!」

時雨を隠すように、小炎と銀が梅雨の前へと躍り出た。
生前と異なる姿とはいえ、時雨にとって彼女が姉であることに変わりはない。
これ以上、彼女に梅雨の変わり果てた姿を見せたくはなかった。

「…………こっち、」

身動ぎ一つでもすれば攻撃に転じようとしていた小炎たちの耳に、蚊の鳴くような梅雨の声が届く。

「はやく、術の効力が弱まってる、うちに、」

どうやら、どこかへ誘導しようとしているらしい。
その目は先ほど目の当たりにした白と同じく、淀みが薄まっており、僅かばかりに知性を取り戻しているように見えた。

「……どうする?」
「どうするも何も、付いていくって言うまで、退く気がないみたいだケド」
「だよなぁ」
「妙なことしようとするなら、叩っ切るだけだヨ」

ね、しーちゃん。
同意を求められた時雨は、唇を噛み締めただけで何も言葉を紡ごうとしない。
そこで時雨の嬢ちゃんに同意を求めるなよ、と銀が白けた目を向けたが、小炎はそれを意に介した様子もなく、梅雨に向かって顎をしゃくった。

「こっちも気が長くないんだ。連れて行きたい場所があるなら、早く案内しな」

小炎の言葉を合図に、梅雨が緩慢な動作で歩き始める。
彼女が向かおうとしている場所に、時雨は一つだけ心当たりがあった。

決して近付いてはならない。

姉にきつく言いつけられていた離れがこの先にあったはずだ。

「お姉ちゃん、」

時雨の声に、梅雨は答えない。
ただ、振り返ってこちらを一瞥した彼女の横顔は、昔と変わらず優しかった。

梅雨が小炎たちを導いたのは、時雨の予想した通りの場所だった。
いつもは閉ざされているはずの扉が無惨にも破壊されており、地下へと続く階段が大きく口を開いている。

「ここ、こわして、おねがい」

徐々に術の力が戻り、再び彼女の身体を蝕んでいるのだろう。
カタコトになりながらも、必死にそう告げた梅雨に、銀と小炎、そして時雨はそれぞれの顔を見合わせた。

「……仕方ないなぁ。銀、君はここで留守番ね。あ、淡だけ貸して」
「何だよ。水臭いぜ。俺も一緒に行くって」
「バカ。君まで来たら、誰が退路を確保しとくのサ」

それに気になることがあるから、と小炎は面の下で眉間に皺を寄せた。

「ちょっとの間、いい子でお留守番してな」

するり、と熱の籠った指先で頬を撫でてやれば、それだけで銀は大人しくなった。
初な生娘のように顔を真っ赤にしてこくこくと激しく首を縦に振る彼の姿に、時雨がぱちり、と不思議そうに瞬きを落とした。

「小炎、銀に何かしたの?」
「どうして?」

地下へと続く階段をおっかなびっくり降りながら、時雨が問いかける。

「だって、何か、銀嬉しそうだった」
「嬉しそう? いつものことじゃん」
「そうだけど、そうじゃなくって、」
「ふふっ。おかしなしーちゃん」

そう言った小炎の声が常よりも優しい音色を帯びていて、時雨はこてんと首を傾げた。
やっぱり、何かしたんだな、と思うのと、梅雨が「ここ」と階段の先で待っていた分厚い扉を示したのは同時だった。

『…………たくさんの同胞の気配がするわ』

小炎の側に控えていた淡が苦虫を擦り潰したような顔をして、そう溢した。

「まさか、」

小炎が乱暴に扉を蹴破る。
その先に、広がっていたのは――地獄のような光景だった。

青い肌に虚な目。
梅雨と同じ状態の少年少女が寝台と呼ぶにはあまりにも簡素な石の台にびっしりと並んで寝かされている。
彼らの傍には、主人と無理やり繋がれたままの蓮が悲痛な叫びを上げていた。

「……蓮宿を僵屍にして、無理やり蓮を繋いでいるのか」
「ええ」
「ここを壊せば、君も彼岸に行くことになるヨ。それでもいいの?」
「かまわない」
「しーちゃんを残していく、後悔はないってこと?」
「…………わたしは、すでに死んだ人間。それに時雨には、東雲がいる、から」

大きくなったね。
告げられた言葉が優しい棘のように、時雨の胸を穿つ。
姉の言葉を嬉しいと思う反面、本来訪れるはずのない二度目の姉の死に立ち会わなければならないことに、時雨の頭は今にも煙を上げてしまいそうだった。

「いかないで、」
「…………わかるでしょ、しぐれ」
「でも、お姉ちゃん」
「なら、せめて、あなたがおわらせて」
「ちょっと! 何てこと、妹に頼むんだヨ!」

小炎が梅雨の胸ぐらを掴んで叫ぶ。
鬼の怒声に、宿し子の側で蹲っていた蓮たちの目が一斉に瞬いた。

「わたしの術者、は、あの人、とは違う」
「術者は一人だけじゃなかったのか……」

小炎が顔が面の下で苦悶に染まる。

「私たちは、首を落とされない限り、何度でも、再生する。だから、意識が、もどっているうちに、おわらせて、ほしい」

これ以上、誰かの大切な人を壊してしまう前に。
梅雨の――姉の言葉に、時雨は唇を強く噛み締めることしかできなかった。
力を入れすぎて白くなった唇の端から血が滲んで、少女のまろい肌を汚す。

「おねがい、しぐれ」

懇願は、涙交じりに、時雨の胸深くに突き刺さる。

「……小炎」
「しーちゃん、無理しなくていい。君が望むなら、僕の炎で焼き払ってあげるヨ」
「大丈夫。時雨、自分で出来るよ」
「だけど、」
「お姉ちゃんの『最後のお願い』だもん。時雨、お姉ちゃんのこと見送ってあげたい」

ただ見送られるだけなら、どんなに良かっただろうか。
幼い妹の手を借りなければ、向こうへ渡れなくなった自身の身体を梅雨は忌々しげに見下ろした。
時雨の覚悟を受け取った小炎が、掴んだままになっていた梅雨の胸ぐらをそっと離す。

「潮(シー)」

梅雨の足が地面に降りたのを見計らって、時雨は自身に宿る蓮の女神を呼び出した。
普段は仏頂面か不機嫌そうな顔をしていることの多い潮が、梅雨や同胞たちの顔を見るなり、何かを堪えるように唇を噛み締めた。
それが涙なのか、怒りなのか、時雨には分からない。
ただ、流れ込んできた潮の感情に釣られて、時雨の眦を熱い雫が伝っていった。