イザベルたちと合流して束の間、マリアは簡易的に張られたテントの寝台に寝かされていた。
見れば見るほどそっくりだと、少女の顔に触れながら、ナギは苦笑した。
己が存在を写し取った、片割れといってもおかしくはない少女に背負わせた業の重さに、ぎりと歯噛みする。
「失礼致します」
不意に掛けられた声に、既知感を覚えた。
どこか懐かしいその声の主は、マリアを守る騎士が一人――アッシュのものだ。
「マリア様の容体はどうなのでしょうか?」
真剣な表情でマリアを見つめる彼に、ナギは口元を綻ばせた。
そして、その真剣な思いに応えるべく、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺は嘘をつくのもつかれるのも嫌いなのだが、お前はどうだ?」
ナギの問いかけに、アッシュは眉間に深い皺を刻んだ。
尊敬するナギに対して、そのような態度を取ってしまったことに慌てて、すぐに表情筋を戒めたのだが、ナギは別段気にした様子もなく、アッシュが何と答えるのかを待ってくれているようだった。
「……俺も、嘘は苦手です」
「そうか。なら、お前にだけ話すとしよう。マリアにも、秘密にすると誓えるか?」
「大聖女ユミル様の名に懸けて」
「よし」
ナギはまず、アッシュに座るよう促した。
それだけでもう長い話になる予感はしていたのだが、アッシュはとても座る気にはなれなかった。
傍らで主が眠っているのだ。
いつ何時敵が襲ってきても対処できるよう、自分はこのままで良いとナギに伝えれば、彼女の顔がぱっと華やいだ。
「そうか。マリアは随分と良い騎士を側近に選んだな」
「良い、と言えるのかどうかは分かりません。何せ、私はマリア様から一度、炎を取り上げたのですから……」
「安心しろ。もし俺がお前の立場だったなら、同じことをしていた」
「ナギ様も、ですか?」
「ああ」
コーラル帝国にマリアの能力を知られるくらいなら、ナギもアッシュと同じことをしていただろう。
その場合、もっと手荒な手段を選んでいたかもしれないのだが、結果的にアッシュがマリアの炎を使用不能にしてくれたお陰で、あちらに情報が洩れることを未然に防いだのだ。
ナギはベッドの縁、ちょうどマリアの胸元辺りに腰を下ろすと、両手を組んで更に続けた。
「お前には本当に感謝している。コーラルの教皇が戻ってくる前にマリアを助けられたのは、お前とユミル、それにフィンたちの判断が早かったお陰だ」
「恐縮です」
一礼してみせたアッシュだったが、ナギの表情が芳しくないことに疑問を抱いた。
「ナギ様?」
「……さっきも言ったが、俺は嘘が嫌いだ。だから、正直にお前に伝える。心して聞いてほしい」
「はい」
「――マリアの命はそう長くない」
重い一撃を喰らったように、アッシュの顔が歪んだ。
痛みでもんどり打つのを堪える一兵卒のような顔でこちらを見つめるアッシュに、ナギは両手が白くなるほどギュッと強く握った。
「戦闘の後、男三人分くらいの食事を食べていることはないか?」
「あります」
「やはりな。マリアの身体は普通の人間より脆い。炎を扱うことで、自らの生命力を激しく消費しているからだ」
「そんな……! では、マリア様は炎を使う度に、自らの命を削っていると言うことなのですか!!」
アッシュが悲鳴のような声を上げて訴えた。
「そうだ」
ナギの答えは実に簡潔だった。
そして、その表情が雄弁に「痛み」を語っている。
「これ以上、炎を使い過ぎるとどうなるんです」
「間違いなく消滅する」
金色の瞳が静かに揺れていた。
眠っているマリアと同じ顔のナギを見比べて、アッシュは思わず目を伏せた。
とてもじゃないが、事態を上手く飲み込むことが出来ない。
「ですが、マリア様でないと獣を殺せません」
「そうだ。そこで、俺に提案がある」
「提案?」
ナギはマリアの短くなった緋色の髪を優しく梳いた。
滑らかなそれを存分に堪能して、ゆっくりとベッドから立ち上がる。
「こちらに残っている獣は、恐らく残り一体。それを倒すことが出来れば、マリアが消えることは無い。その処理をお前に手伝ってほしい」
「私に?」
「ああ。これはお前にしか頼めないことなんだ」
ひたり、と背中に視線を感じた。
だが、ナギは敢えて後ろを振り返ることはしなかった。
ただアッシュの答えをじっと待つ。
「……分かりました。私でお役に立つことが出来るのであれば」
「その時が来れば、頼んだぞ」
「はい」
「少し、外に出てくる。マリアを見ていてくれ」
こくり、と一つ頷いたアッシュに優しく微笑んで、ナギはテントから抜け出した。
朝靄に紛れて、影がぐらりと傾ぐ。
「フィンか」
「はい、ナギ姉さん」
「久しぶりだな」
「……はい」
フィンは影から現れようとはしなかった。
理由は分かる。
彼の同族であり、右腕でもあったクロウが一族を裏切ったからだ。
「そう気落ちするな。お前に非はない」
「ですが」
「良いと言っているだろ。それより、久しぶりの再会なんだ。姉に顔を見せてはくれないのか?」
ナギの言葉に、フィンは漸く顔を覗かせた。
最後に見たときの彼は、硝煙と血の臭いに塗れていて、とても真正面から向き合うことが出来ない姿だったが、今は違う。
すっかり立派な青年になった姿を見て、ナギは年甲斐もなくフィンの懐に飛び込んだ。
「ははは!! あの泣き虫だったお前がこんなに大きくなるとは!! 俺は嬉しいよ!!」
「ちょ、姉さん! やめてくれ! 恥ずかしい!」
「照れるな照れるな!」
小さな押し問答を繰り返していると、空気と土の乱れを察したのか、イザベルが自身のテントからひょっこりと顔だけ覗かせた。
「あら、ずるいですよ。フィンばかり」
「お前も混ざるか?」
「是非!」
嬉々とした表情で駆け寄ってきた妹分を抱き留めて、ナギは笑い声を上げた。
懐かしい子供の頃を思い出す。
「さて、感動の再会も済ませたことだし、一つ聞きたいことがあるんだが」
「聞きたいこと?」
「ああ。『あの女』の遺体が、見つかったのかどうか」
ナギがそう呼ぶのはただ一人。
二人の顔が見る間に曇った。
「あの方の――大聖女マリアの死体は終ぞ見つかりませんでした。最後に目撃された場所は火災が酷くて、残っていたのは混血児(こども)の骨と用途不明の機械の残骸だけです」
「そうか」
火災の原因は恐らく、ヴォルグが放った炎だろう。
そこまでは辻褄が合う。
だが、クロウが事切れる前に告げた言葉がどうにも引っかかった。
『いいえ! いいえ! あの御方こそ、誠に大聖女を名乗るに相応しい。我が身を喰らった炎を糧に新たな身体を手に入れられたのですから!』
――我が身を喰らった炎を糧に。
ともすると、前・大聖女は只の人間でありながら魔界の炎を身の内に取り込んだことになる。
そんなこと、出来るはずがなかった。
混血児であるナギにとっても、ヴォルグの炎は苛烈で危険な物だったのだ。
血の眷属となって漸く彼の魔力に耐性が出来たというのに、只の人間が炎を取り込むことなど出来るわけがない。
「……あちらの動きはどうだ?」
「教皇が巡回から戻ってきたようで、慌ただしく準備をしております」
「そうか」
「それと、もう一人懐かしい顔ぶれを見かけました」
「ほう?」
イザベルが今出て来たばかりの自分のテントへ、ナギとフィンを案内した。
二人がちら、と布の隙間から中を覗くと、美しい髪の女性が椅子に座り項垂れている。
背後から見ただけでは、それが誰だか分からなかったナギだが、テントの中へ入って初めてそれが旧知の顔であることに気が付いた。
「ロゼッタ?」
ゆっくりと顔を持ち上げた女性は、酷く憔悴していた。
今にも泣きだしてしまいそうなロゼッタの肩に、ナギが手を触れる。
「シスター!!」
わぁん、と抱き着きながら泣かれては、流石のナギも瞑目した。
子供たちの中でも末っ子に分類されるロゼッタもすっかり大人になって、と思っていたら中身は昔から変わっていないらしい。
「ご、ごめんなさいっ。私がもっと早く、気付いていればっ!!」
「大丈夫だから、落ち着け。一体、何がどうしたって?」
泣きじゃくるロゼッタの肩を抱いて、何とか落ち着かせようとすれば、ロゼッタはそれ以上の力でナギの腕を掴んだ。
「アレは! あの女は!! 私の姉を!!」
――取り込んだのです!!
そう叫んだロゼッタの言葉をナギは、上手く処理することが出来なかった。否、脳が処理することを拒んで、思考が完全に停止していたのかもしれない。
「どういうことだ」
固まってしまったナギに助け舟を出したフィンに、ロゼッタは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
「ずっと、あの女に近付く機会を窺っていました。そして、聖女マリアの監視を命じるためにあの女が直々に私へ指令を下しにきました」
ロゼッタは話を始めたことで落ち着きを取り戻し始めたのか、ナギの傍から離れ、自分が座っていた椅子へゆっくりと腰を下ろした。
「そこで初めて顔を見たのですが、その顔が……」
「顔が?」
「リゼ姉さんの顔だったんです」
一同が息を飲む。
ロゼッタの姉、リゼはかつて魔王が襲来した際に、前・大聖女の毒牙に掛かり、幼い命を散らしていた。
「私は日課の水浴びに出かけていたので、爆発に巻き込まれませんでした。けれど、姉さんはその日、大聖女の侍女役として一番近くに居ました。当然、爆発の中心部で即死だったはずです。ですが、その遺体は愚か、遺骨さえ発見できなかった。私たち人魚は他の種族に比べて炎に弱い。なので、身体が蒸発しても不思議はないとずっと思っていました」
俯くロゼッタの眦をきらりと光るものが流れる。
あの惨劇が、瞼の裏に今でも焼き付いていた。
「……俺の失態だ。やはり、あのとき確実に息の根を止めていれば良かった」
金色の目に怒りと憎悪の炎が燃えていた。
すっかり形を潜めていたはずの教会への憎しみが久方ぶりに顔を見せる。
「ナギ姉さんの所為じゃない。俺たちだって、確認を怠った。皆の責任だ」
「そうですよ。あの日、約束したじゃありませんか。これからは皆で分け合おうって。痛いのも、苦しいのも、嬉しいのも全部。一人で抱え込むのは辞めて、皆で分かち合おうって姉さんが言ったのでしょう?」
フィンとイザベルの言葉に、ナギの眉間に寄せられていた深い皺が少しだけ緩められる。
優しい人になってくれたことが、何より嬉しい。
ずっと虐げられてきた混血児たちが、誰かのことを想ったり、慈しむことが出来るようになった姿を見て、ナギは初めてこの世界を救えたことに感謝した。
「そう、だったな。すまない。昔の癖で、つい取り乱した。許してくれ」
ナギは三人の弟妹たちの顔を順に見渡した。
昔は泣き虫で自分のあとをずっと付いて回っていた子供たちが、今は自分と肩を並べて戦おうとしてくれている。
それだけで、充分だった。
「リゼを取り込んだとなれば、魔界の炎を核に半魔族の状態になっているということか」
「恐らくは。半魔族は混血児に比べれば力は劣りますが、取り込んだのが私たち人魚族ともなれば話は違います」
人魚族の特性は『不老不死』。
魔力は弱いが、その肉体は傷を付けられても直ぐに再生し、命を落とすことは決してない。
自らの叔母、レヴィアタンが長を務める一族にナギはどうしたものか、と歯軋りした。
(ん? ちょっと待てよ)
いつか、ヴォルグに聞いたことがあった。
魔族には必ず弱点がある、ということを。
それは一族の長にのみ語り継がれる秘匿とされており、明かされることはない。
ナギは懐に入れたままになっていた小さな水晶を手に取った。
レヴィアタンに渡された通信用の水晶。
ずっと、手放すことが出来ずに、ヴォルグから受け取った指輪と共に肌身離さず身に着けていたのだ。
「少し、ロゼと二人きりにしてくれ。確かめたいことがある」
「分かりました」
「悪いな」
いいえ、とイザベルがフィンを連れてテントの外に出ていく。
すっかり逞しくなった二人の背中を見送って、ナギは水晶をテーブルの上に置いた。
「……レヴィアタンへ繋いでくれ」
ナギの声に、水晶が淡い光を放った。
突然のことに驚いたロゼッタが悲鳴を上げそうになるのを、ナギが視線だけで制する。
『連絡が遅いのではなくって?』
「すまない。叔母上。だが、出来ることなら俺もこの回線は使いたくなかった」
水晶を通して浮かんだ画面には、曖昧な笑みを浮かべるレヴィアタンが映し出されていた。
『ヴォルグ様に繋ぎましょうか?』
「いや、いい。貴女に用があって掛けたんだ」
『私に?』
レヴィアタンは意外そうな顔をして、それからナギの隣に居たロゼッタを見た。
『そちらは私の同族、のようですね』
「ああ。そのことで、聞きたいことがある」
ナギは掻い摘んで事の次第をレヴィアタンに伝えた。
今ここで獣を消さなければ、魔界も人間界と運命を共にするかもしれない、とそう訴えかければ、彼女の瞳に冷たい光が宿る。
『良いでしょう。我ら人魚族の殺し方を貴女に教えます。ですが、代わりに条件がある』
「俺に出来ることならば、応えよう」
『一目、たった一目で良いのです。ヴォルグ様に貴女の顔を見せてあげてください』
それは出来ない、と心が警報を告げている。
ナギがグッと押し黙ったのを見て、レヴィアタンが眉尻を下げた。
『栓無いことを言いました。もう無理強いはしません。代わりに違うことを約束してくれる?』
「……何だ?」
『必ず貴女を迎えに行く。だから、どうかそれまで無事でいて』
それだけで充分よ。
そう言って笑った叔母の顔は酷く寂しそうで、ナギはこれ以上見ていられないとそっと視線を外した。
そんな姪の心中を察したのだろう。レヴィアタン自身もナギから視線を外すように俯くと、ぽつぽつと人魚の殺し方を話し始めた。
『私たち人魚族には逆鱗と呼ばれる鱗があるの。それを傷付けられれば「不老不死」ではなくなるわ』
「それはどこにある」
『個人差があるから、逆鱗が生えている場所までは分からないわ。ただ、一つ言えることがあるのなら、他の鱗に比べて鮮やかな色と形状をしている、ということかしら』
それだけ分かれば充分だった。
「ありがとう。恩に着る」
『可愛い姪の頼みを断れるわけがないでしょう?』
くすり、と笑みを零したのは、果たしてどちらからだったのか。
二人して声を立てて笑うと、レヴィアタンが名残惜しそうに手を伸ばしてくるのが見えた。
触れることが出来ないと分かっていながら、ナギも叔母の手に擦り寄るように頬を差し出す。
「……お元気で」
『貴女も、約束を忘れないで』
「ああ」
叔母上、とナギが最後に呟いたのを合図に、通信は途切れた。
しん、と静まり返ったテントの中に、ナギの重い溜め息が大きく響き渡る。
「ロゼッタ。お前は見取り図を描いてフィンと共に周辺の警戒に当たれ」
「わ、分かりました!」
「――俺は先に教皇の間抜け面を拝んでくる」
悪魔の如き、笑みを浮かべたナギに、ロゼッタの口元が僅かに引き攣る。
テントから出ると、森の中は霧に覆われていた。
奇襲を仕掛けるのにはもってこいの天候である。
ここから先は、時間との勝負だ。
久方ぶりの人間界の空気を肺いっぱいに吸い込むと、ナギはゆっくりと瞼を落とした。
肌に触れる春の匂いを纏った風が、少しだけ煩わしい。
『何年、何百年先になるのか分からないけれど、必ず君を迎えに行く。だからその時まで、待っていてくれるかい?』
懐かしい声が頭の中で木霊した。
「……お前が迎えに来る前に世界が壊れてしまわぬよう、俺は番人としての務めを果たすよ」
愛しい魔王の名を唇の形だけで囁いて、瞼を持ち上げる。
今はもう、見る影もないかつての故郷に残してきた悪夢を断ち切るために、ナギの手は大剣の柄を握りしめた。