一、
吐く息は荒く、耳鳴りが頭痛を助長させる。
少女は低く唸り声を上げた。
自分の呼吸する音が、耳の裏で大きく響いている。それが堪らなく煩わしい。
耳障りな金属の擦れる音が後方から聞こえてくる度、少女の心はかき乱された。
低く荒い息遣いと複数の足音が、静かな雪の中に響く。
段々と近付いてくるそれらに、少女は足を縺れさせながらも、決して振り返ることだけはしなかった。
ただひたすらに前だけを見つめて走る。
がむしゃらに走り続ける少女を嘲笑するように、真新しい雪が彼女の足を掬った。
つる、と派手に転んだ拍子に近くに生えていた古木で、盛大に額をぶつける。
「いったーい!!」
追われている身であるというのに、思わず大きな声を漏らしてしまい、咄嗟に手で口を押えるが時既に遅い。
すぐ傍まで人の気配が迫っていることに、少女の顔から色が失せた。
身を隠すように、低い姿勢で背の高い雑草の中に紛れながら進めば、少しだけ開けた場所に辿りつく。
ほっと、安堵の息を漏らしたのも束の間。
どこからともなく現れた五、六人の男たちに周りを取り囲まれてしまった。
「鬼ごっこはおしまいかな? お嬢ちゃん?」
一人の男が下衆な笑みを浮かべて、言った。
少女が震える指先で、胸元にあるローブを握りしめる。真っ白になるまで力を籠めて握った所為か、柔らかい綿で出来たローブに皺の波が広がっていく。
下品な笑い声を上げながら、男の腕が少女に伸びる。
「ひ……!」
びくり、と大げさなまでに肩を震わせて少女が身体を固くする。――捕えた、と男たちは卑しい笑みを浮かべて思った。
だが、次の瞬間。
それまで震えていた少女がにやり、と口元に弧を描いた。
――トンッ。
軽く地面を蹴った少女の身体がふわりと宙に浮く。
真綿が風に揺れるように軽やかな動きで、空中を一回転した少女は地面へ綺麗に着地してみせた。
さっきまで眼前にいた少女が、いつの間にか背後に立っていることに、男たちは呆けた顔で彼女を凝視することしかできない。
「……引っかかったわね」
悪戯っ子のような笑い声を上げて、少女がローブを脱ぎ捨てる。
曇りなき翡翠色の目が挑発的に光った。
燃えるような赤い軍服の下で二振りの刀が揺れる。
「双刀の女騎士……!! コイツ、赤鬼だ!!」
男の一人が震えながらに叫んだ。少女の持った刀が獲物を捕らえた獣の牙のように、鈍い光を帯びる。
少女が片手を上げると、茂みの中から彼女と同じ赤を纏った少年少女たちが次々に姿を見せた。
ひっ、と引き攣った声を上げる男たちに向けて少年少女たちが刀を向ける。
「こちら、第二小隊。敵の誘導に成功。戦闘許可を願います」
少女が虚空へ呟く。
「了解」
にやり、と人の悪い笑みを浮かべた少女が声を張り上げた。
「戦闘許可を確認!! 総員、円陣を展開!! 一人も逃がすな!!」
少女の胸元に咲いた梅のバッジが、きらりと光る。
赤い軍服を率いる者に与えられる称号『紅梅』の紋章だった。
獣が獲物を捕らえたような目で、少女――桔梗が男たちを見据える。
次いで、森の中に可憐な梅の花弁の如く、あちらこちらで赤が鮮やかに咲いた。
「了解!!」
部下たちの声が綺麗に一致する。
「う、うわあああああああ!!!」
目の前に迫る少年少女に恐怖したのか、男の一人が持っていた魔導銃の銃口を桔梗に向けた。
足元に浮かび上がった魔方陣は連射型。
桔梗が小さく舌打ちを零す。それを好機と見たのか、他の男たちも彼女に魔導銃を向けた。
男たちの指が一斉に引き金を引く。
「来たれ、日の申し子――《朱鳥》!」
桔梗は身体を前方に倒すと、右手に持つ刀で宙を斬った。
次いで、眩い光が辺りを覆う。
目も眩むほどのそれに、男たちが意識を逸らした一瞬。
ふわりとした熱い何かが肌を撫でるのを彼らは感じた。
「あら、もう終わり?」
ふふ、と微笑を浮かべるのは、先ほどまで雨のような数の弾丸を一身に受けていたはずの桔梗。その隣に立つ鬼面の女が、青白い炎を彼女の周りに纏わせていた。
身体の周りを炎で覆うことで、弾丸を溶かし、攻撃を防いでいたのだ。
「ひッ! ば、化け物ッ!!」
肌を撫でたのは、弾丸を溶かす時に発した熱風らしい、と気付いた男がまた彼女に銃を向ける。だが、桔梗は小さく笑って見せるだけで、怯えた様子は見せなかった。
「ば、バカ! 止めろ!」
仲間が止めるのも聞かず、男が再び引き金を引く。
だが、桔梗が二度もそれを許す訳がなかった。
刀を逆手に持ち直し、グッと足に力を込めると、一瞬で男の間合いに入る。
下から上へ、一閃。
男の腕から血が噴き出し、少女の整った顔を汚す。
血飛沫が纏わりつくのも構わずに、追い打ちをかけるように男の脇腹を蹴り飛ばした。
「に、逃げるぞ!!!」
仲間がやられたことで完全に戦意をなくしたのか、残りの男たちが我先にと敵前逃亡を図る。
桔梗が肩を竦めて部下たちに視線をやると、彼らは心得たと言わんばかりに頷いて、獲物を追う狼の如く散らばった男たちを追った。
「無駄よ」
――私に銃を向けて、逃げられると思っているの?
殺気の込められた声が、低く鼓膜を震わせる。
後ろから迫りくる少年少女たちに、男たちの顔から色が失われていく。
顔面蒼白のまま、走り続ける男たちを見て、桔梗は笑った。
先程の『鬼ごっこ』の続きをしているようで、思わず口元が緩む。
往生際悪く逃げ惑う彼らを視線で追いかけながら、桔梗は右足に魔力を集中させた。
バチバチと鋭い音と共に右足が雷を纏う。
少女の細足から、鋭い蹴りが放たれた。
「罪人に鋭き牙を突き刺せ――《雷狼》!!」
蹴りの衝撃波が狼の姿を生む。
劈くような雷が男たちを捕らえた。
「ぎゃあ!?」
バタバタと倒れこむ男たちの腕を、少年少女たちが次々に縛り上げていく。
「まーた、隊長一人で片付けちゃったよ」
「少しは僕らにも活躍の場を譲ってくださーい」
けらけらと笑い声を上げる彼らに「ごめんごめん」と苦笑を零す。
縄から逃れるように這って逃げる男が一人いるのに気が付くと、桔梗は足音を殺してそちらに近付いた。
「あら、『鬼ごっこ』はもうおしまいなのかしら?」
「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げる男に、美しい容姿に似う笑みで止めを刺す。
「魔導武器密輸の罪で逮捕します」
己の手首に回された無機質で冷たい手錠の感覚に男は白目を剥いて、意識を失った。