6話『太陽の子』

 はらはらと身体が崩れた大聖女とともに、ソルとナギが砕いた逆鱗も地面へ投げ出される。

「……これでやっと、楽にしてやれる」

 青と緑の色の異なる逆鱗の欠片を一つずつ拾い上げると、ナギはホッとしたように安堵の溜め息を吐き出した。
 遠くを見つめるように波間の空を見上げるナギに、マリアが嬉しそうに駆け寄ってくる。

「ナギ様」
「ああ。今度こそ終わったな。助かったよ、マリア」
「いいえ。これで貴女の憂いが晴れたのであれば僥倖でございます」

 目尻に涙を浮かべながらマリアはナギの前に傅いた。
 ナギがそっと労うように彼女の肩へ掌を重ねた。

「お前には本当に苦労を掛けた。これで本当に俺から解放してやることが出来る」
「何を仰います。オレは貴女が居たからこそ、こうしてここに『在る』ことが出来たのです。ご自分を責めるのはもう辞めてください」

 同じ顔がふたつ。
 互いに顔を涙で濡らしながら健闘を称え合うその美しい姿に、アリアは肩の荷が軽くなったような気がした。
 ふと、手元に影が落ちる。
 見上げなくても、そこに立っているのが誰かアリアには分かった。
 懐かしい天の香り。
 太陽の、日向の香りだ、とアリアが睫毛を震わせれば、相手が自分の名前を呟いた。

「アリア」

 もう幾度となく呼ばれてきた名前だというのに、彼に名前を呼ばれると小さな炎が灯るように胸の内を柔らかな熱が侵食した。

「何です、ソル」

 初めて敬称を付けずに相手の名前を呼ぶようになった。
 思い返せば、たくさんの初めてが彼との思い出の中に散りばめられている。

「ありがとう」

 その賛辞は神のそれと相違なかった。
 ドク、と一際大きく跳ねた心臓に、頬に熱が上るのが嫌でも分かる。

「……いいえ。礼を述べるのは、こちらの方です。これで漸く箱庭に穏やかな日常が戻ってきます」

 俯いたままそう言えば、ソルの手がアリアの手を掴んだ。
 ぎゅう、と力強く掴まれたそれに、目を白黒させていると、ソルが笑うのが気配だけで分かった。

「御礼を言っている人の表情じゃないよ、それ」
「え、」
「すっごい仏頂面」

 はにかむように笑ったその顔を、アリアは真正面から浴びることになってしまった。
 うぐ、と喉の奥が変な音を鳴らす。

「おぉーい! お前らァ! 帰るぞ!」

 ナギの声が、遠くに聞こえる。
 アリアはそれに小さく頷きを返すことしか出来なかった。

 次元の獣との戦いから二日後。
 結論から述べると、ナギの火傷は進行が激しく、レヴィアタンやアスモデウスの魔術を以てしても左腕を元通りにすることが出来なかった。
 マリアの姿を映しとるにしろ、女神の焔で焼かれたものは直すことが出来ない。
 そうこうしているうちに、ナギの魔力が切れて、マリアは元の世界へと戻されてしまった。
 本人はそのことについて気にも留めていないようであったが、周囲がそれを許さなかった。とりわけ、彼女の夫であるヴォルグが人一倍激怒しており、アリアを今にも殺さんばかりの勢いで雷を纏っていたのだが、当の本人が「こうなることを承知で俺が頼んだ」とあっけらかんとして告げるものだから、ヴォルグは怒り損だと臍を曲げて拗ねてしまっていた。

「ごめんね、アリア。父上も悪気があったわけじゃないんだ」
「いいえ。私にはナギ様を無傷でお守りすることが出来なかった負い目があります。魔王様の裁きを甘んじて受ける覚悟は出来ていました」
「それなら僕にだって責任を取る必要があるよ。母上を守れなかったのは、君一人のせいじゃないんだから」

 濃紺の、宵闇を思わせる闇を孕んだ色合いの前髪が揺れて隙間から、緋色と金色の異なる双眸が覗く。

「それより、中に入ろう。こっちの夜は思っているよりも冷えるんだから」
「あ、ちょっと、ソル!」

 バルコニーで涼んでいたアリアの腕をソルが引っ張って進んでいく。
 陽光のように温かいソルの指先に、アリアは忙しなく瞬きを繰り返した。
――まただ。
 ソルが傍に居ると、胸の辺りがざわざわとして落ち着かなくなる。

「……どうして?」

 小さく呟いたそれが、ソルに聞こえることはなかった。

 結婚前、とまではいかないが、焔で焼けて酷い有り様になった髪を肩までの長さに切り揃えたナギが、バルコニーから居心地悪そうに部屋の中へと戻ってきたアリアの姿を捉えた。

「よう、天使さま。何だ? ご機嫌がよろしくない様子だな?」

 あからさまに面白がっています、と言わんばかりの風体で近寄ってきたナギに、一瞬だけ顔を顰めたアリアであったが、その視線はナギの顔ではなく、左腕に向けられている。

「ああ。邪魔だったから、肘から先を落としたんだ。叔母上が良い義手を作ってくれるって言っていたしな」
「ですが、」
「だーっ! しつこいなお前も! 平気だって本人が言ってるんだから、気にするなよ! それにこれは俺が望んでしたことの結果だ。重要なのは、誰も死ななかったってことだろ? 腕一本くらい安いもんだ」
「……」

 ナギは見るからに落ち込んでしまったアリアの様子にげっと舌を突き出した。
 慰めるのも、慰められるのも得意ではないのだ。

「ああ、そうだ。忘れるところだった。これを渡しにきたんだ」

 ん、とナギがアリアとソルの二人に差し出したのは、あの獣が核としていた緑と青の逆鱗の欠片であった。
 正しくは、それを用いて造られたピアスだったのだが、渡された二人はどうしてこれを自分たちに渡そうというのか、ナギの意図が分からずに首を傾げている。

「ちゃんとした礼を言えてなかったからな。記念品だ。取っとけ。その方が『あいつら』も浮かばれる」
「え?」
「ほら、失くすなよ」

 ほとんど強制的に受け取らされて、ソルとアリアは思わず顔を見合わせた。
 そんな二人の様子にナギは肩を竦めながら笑みを深めた。
 そして、あとは任せたと言わんばかりにソルの頭を乱雑に撫でまわすと、ナギは部屋から出て行ってしまった。
 応接間に残された二人はと言えば、どちらからともなくソファへと腰を下ろした。
 ここ数日、色んなことが起こりすぎて、すっかり疲れ切ってしまっていたのも事実である。
 ナギの言う通り、箱庭へ戻る前に休息が必要だった。

(そう言えば、彼はこの後、どうするつもりなのだろう……)

 不意に、アリアは疑問に思った。
 惑星ネアに侵入した獣を退治する目的は果たした。
 『大聖女』とナギたちが呼んでいたあの獣が、他の獣を統率していたといっても過言ではない。残りの獣は殆ど自我のない――聖剣を与えられた今のアリアになら簡単に倒せるレベルの獣ばかりだ。
 そんな簡単な獣退治に、これ以上ソルを巻き込む必要はどこにもない。

「ここでお別れですね」

 貴方はどうするつもりですか、と告げるつもりだった言葉は、全く違う音となって空気を揺らした。
 え、と驚いた顔をしたのは、ソルだけではない。
 言葉を紡いだアリア自身が一番驚いていた。

「本来、次元の獣は、そう簡単に発生するものではありません。よしんば残っていたとしても私一人で退治できるはずです。――貴方が箱庭に戻る理由は、なくなったと言ってもいい」

 違う、と叫びたかった。
 これは自分が紡いでいるものではないのだ、と。
 天使は神に属する者、その言葉を人間に伝えるための『道具』でしかない。
 アリアの身体に神が干渉しているのだ、と彼女は嫌でも悟った。
 神がソルに何を言わせたいのか、分からなかった。
 それでも、自分の喉から出る声を抑えることが、アリアには出来なかった。

「貴方は、どうしたいのですか?」

 瞬間、アリアは身体がカッと怒りで熱くなるのが分かった。
 これ以上、ソルを箱庭に縛り付ける道理はない。
 獣は――危機はもう去ったというのに、神が彼に何を望んでいるのか分からなかった。

「もうやめてッ! おじい様! これ以上、ソルを箱庭に縛り付けないでください!」

 急に身体が軽くなったかと思うと、神はアリアに制御権を戻したようであった。

「ア、アリア? 大丈夫?」
「大丈夫じゃありません! いいですか! 今のは私ではなく、いえ、最後に叫んだのは私ですが……。とにかく、先程の箱庭云々の話は私が言ったものではありません。だからどうか貴方は気にしないでください」
「え、じゃあ、誰が喋っていたのさ?」
「……お答えしたくありません」

 もう休みます、と凄い剣幕で立ち上がって去っていったアリアの後姿を、ソルは「えぇー?」と困惑しながら見送るのだった。

 宛がわれた部屋に戻ると、アリアは力なくベッドに横たわった。
 ソルから返却された聖剣が二つ、壁に寄りかかっているのが目に入る。

「何です。そんな目で見ないでください」
『べっつにぃ。なんにもいってないけどぉ』

 アマテラスがふわふわと宙に浮かびながら、アリアを見下ろす。

「では何故そのような不満そうな顔をしているのですか」
『いっちゃえばいいのに、と思って』
「……何をです?」
『一緒に箱庭へ戻ろうって』

 アリアが、ついとアマテラスから視線を外そうと逸らせば、その先にはツクヨミが立っていた。

『そうですよ。素直に懇願すればよろしいのに』
「…………とても女神の眷属とは思えない発言ですね。これは私の一存で決めて良いものではありません。分かったのなら、二度とこの話を蒸し返さないで」
『でも、』
「でもはなしです。もう、剣の中にお戻りなさい」

 ぶーぶーと未だ文句を垂れる二人の精霊を無視して、アリアは瞼を閉じた。
 何もかも、聞こえなくなってしまえばいい。
――そう念じながら。

 夕日を飲み込んで、黄昏に染まっていく波間の空を、ソルはぼんやりと眺めていた。
 昼間、アリアに言われた言葉が耳にこびりついて、離れない。

『貴方が箱庭に戻る理由はなくなったと言ってもいい』

 そう言ったアリアの顔は酷く狼狽えていたように見えた。
 何かを誤魔化すように、自分が言った言葉ではないと訳の分からないことを呟いていた気がするが、大事なのはそこではなかった。

「……どうしたいのかって言われてもなぁ」

 元の世界へ戻してもらうことを条件に、これまで獣退治に励んできたつもりだ。
 たまたま、偶然にも自我を持つ獣の統率を執っていた厄介な獣の狙いが母親であるナギだっただけで、もしあの獣が今も存在していたのなら、ソルは迷わず箱庭へと戻る決心がついた。

「うーん」
「お前は、戻ってきてから唸り声ばかり上げているな」

 自分とよく似た気配に、ソルはちらと横目でそちらを一瞥した。
 鏡合わせのように隣へと歩み寄ってきた姉に、思わず肩を竦める。

「そういう姉上はご機嫌みたいだね」
「お前と母上が無事に戻ったからだよ」
「母上の腕を見たくせに、嫌味だなぁ」
「それでも、生きていることに変わりはないもの。お前はよくやったよ、ソル」

 流石、私の弟。
 ふふ、と鈴の音を転がすように笑い声を上げたルナに、ソルは頬をぼりぼりと掻いて気恥しさを誤魔化した。

「それで? お前をそんなに悩ませているのは、あの天使さまか?」
「……ちょっと。天使さまのことを天使さまって呼んでいいのは、僕だけなんだけど」
「お前のモノでもあるまいし、何をそんなにムキになることがある」
「それはっ、そうだけど! 何か嫌なの!」
「欲しいなら奪えばいいだろ」
「姉上の押しが強いところは間違いなく母上似だよね」
「馬鹿言え、父上も押しが強いだろ」
「それもそうか」

 どちらからともなく、双子は喉を逸らして笑った。
 暫く、波間の空に二人の笑い声が響き渡っていたが、不意にルナがソルの肩に頭を預けたことで、再び辺りは静寂に包まれる。

「こっちのことは心配するな。お前は、お前の思うままに生きればいい」
「でも、」

 反論しようとしたソルの唇に人差し指を押し付けて、ルナは「最後まで聞け」と真剣な表情でそれを黙らせた。

「私が王位を継ぎたいと言い出したとき、味方になってくれたのはお前だけだった。魔界には女の魔王が居なかったから、前例のないことを承認するのは難しいと誰も賛成してくれなかったのを覚えているか?」
「う、うん」
「あのとき、お前はこう言った――『魔界の書物のどこにも、女が魔王になってはならないとは書いていません。僕は僕よりも、民や父上のことを第一に考え、勉学や剣術の稽古に励んできた姉上の方が魔王に相応しいと考えます』と」

 当時を思い出して、ルナは微笑を浮かべた。

「あれほど笑ったことは後にも先にもない。今まさに皇太子殿下を拝命しますってときに、お前は王冠を押し戻したんだからな」
「あのときは、あれが正しいと思ったんだ。それに僕は姉上と違って勉強は苦手で、稽古にばかり熱を入れていたし、皇太子になれば嫌いな勉強の時間がもっと増えちゃうじゃないか」
「自分の身、可愛さで私を生贄にしたと思っているのかもしれないが、少なくとも私はそうは思わなかったよ。――お前は私のやりたいことを否定しないんだな、と勇気づけられたんだ」
「買いかぶりすぎだよ、姉上」
「それでも嬉しかったことに変わりはない。だから今度は私の番だ」

 ルナは波間の空を見上げながら、ソルの手をギュッと強く握りしめた。
 初めてこの地に降り立ったとき、母をあの場所に置き去りにしてきた恐怖に飲み込まれ、押しつぶされそうになった。
 それでもルナが諦めずに済んだのは、いつも傍らに寄り添ってくれた優しい弟がいたからだ。
 父王が母の腰を抱きながら境界の門を開いた姿を今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 あのときのような、晴れ晴れとした気持ちがルナの胸を満たしていた。

「行っておいで、ソル。どこに居ても、お前は私の自慢の弟だ」
「……姉ちゃん」
「おい、泣くなよ。泣き虫はもう治ったとばかり思っていたのに、いくつになっても仕様のない弟だなぁ」

 涙があとからあとから溢れて止まなかった。
 こんなに泣くのは、ステラを初めて抱っこしたとき以来だ、と姉の肩に顔を埋めながら鼻を啜る。

「うわっ、ぶっさいくな顔だなぁ」
「姉上のせいでしょぉ」
「ふふふっ。おい、止めろ! 鼻水を付けるなったら」

 階下に響く子どもたちの声に、ナギはそっと目を細めた。
 知らぬ間に、随分と大きくなってしまった彼らの姿に、目頭が熱くなる。

「盗み聞きは良くないと思うよ」

 すぐ後ろから聞こえてきた声に、ナギは「どの口が」と顔を曇らせた。

「お前にだけは言われたくない台詞だな」
「心外だなぁ」
「……何か用か?」
「ううん。腕の調子はどうかなと思って。まだ痛む?」
「少しな」

 肘から先がなくなった腕をふらふらと頼りなく振ってみせたナギに、ヴォルグの顔が曇る。

「全く、無茶をする」
「それも、お前にだけは言われたくない」
「君さあ。自分が頭から爪先まで僕のモノだってこと、忘れてない?」
「俺の命とこの世界を天秤にかけた結果が左腕一本ならお釣りをもらっても怒られないと思うぜ」
「ナギ」
「……悪かったって」

 ヴォルグの腕が、ナギの身体を閉じ込めるようにギュッときつく彼女の身体を抱きしめた。

「もう二度と、こんな無茶はしないでくれ」
「ああ」
「君が死んでしまうんじゃないかと思って、怖かった」
「ああ」
「僕より先に死なないと、誓ってくれ」
「……善処する」
「うん」

 ぐす、と耳元から聞こえてきた泣き声に、これじゃどっちが子どもか分からないな、とナギは小さく笑い声を噛み締めた。

 明朝。
 アリアは誰にも別れを告げずに惑星ネアを出立することに決めた。
 天使であるアリアにとっては朝が活動開始時間であるが、幸いにも惑星ネアの住人達は朝に弱い。
 誰にも気付かれずに魔王城をあとにするのは簡単だった。
 入ってきた場所と同じ場所に門を展開して痕跡を消して帰らなければならないことを除けば、何も問題はない――はずだった。
 そこにソルと、彼の姉であるルナが居なければ。

「やっぱり、黙って帰ると思った」
「……そこを退いてください、ソル。貴方の務めはもう終わったのですから」

 安易にこれ以上関わるなと告げたつもりだったのだが、ソルはアリアの言葉を受けて、不服そうに顔を顰めた。

「嫌だと言ったら?」
「ソル!」
「昨日、君が言ったんだよ」
「え、」
「貴方はどうしたいのですか、って」

 それは、アリアが告げたくても告げなかった言葉。
 神がアリアの思考を読み取って、ソルに告げた彼女の本音であった。

「だから、君と一緒に行こうと思う」
「はい?」
「僕も箱庭に戻るよ」
「……それが何を意味しているのか、本当に分かっているのですか」
「うん」

 それまで黙って二人のやり取りを見守っていたルナが、面白そうに目を丸くして、ソルとアリアの間に割って入った。
 その手には、見たことのない小ぶりの水晶と、緋色の宝石が埋め込まれた指輪が鎮座している。

「仲が良いのは大変結構だが、いちゃつくのは戻ってからにした方が良いと思うぞ。直に父上たちも私たちの気配が魔王城にないことに気付いてしまう」
「ルナ様、貴女まで何を、」
「悪いな。アリア様。私も弟も筋金入りの石頭なんだ。ソルが行くと決めたのなら、それはもう決定事項だ」
「……ッ」
「これは私からの細やかな贈りものだ。きっと二人の役に立つ」

 ルナはアリアが何も告げないことをいいことに、持っていた水晶と指輪を彼女の鞄に了承もなく放り込んだ。

「行こう、アリア」

 ソルがアリアの手を掴んだ。
 掌から、彼の体温が伝わってくる。

「ソル、私は……」
「分かっているよ。君が僕を勇者としての立場から解放しようとしてくれていたことは」
「なら、どうして!」

 ぱちりとソルとルナが互いの顔を見合わせて瞬きを一つ落とす。
 次いで、よく似た顔が笑みを浮かべて、アリアを射抜いた。

「そんなの、君と離れたくないからに決まっているじゃないか」
 
 二人が声を揃えてそんなことを宣うものだから、アリアは喉元まで出かかっていた反論を飲み込むしかなかった。

「あなたたち、一体何を」
「冗談で言っているわけじゃないよ。昨日、真剣に悩んで出した答えだ」
「そうだとも。弟が子どもみたいに泣きながら出した答えだ。否定することは私が許さない」

 さあ、とソルがアリアの手を引っ張った。

「ぐずぐずしている暇はない。お説教でも、嫌味でも、君の話ならいくらでも聞くから、箱庭に帰ろう」

 今、彼は何と言ったのだろう。
 帰ろう、とそう言わなかっただろうか。
 彼の故郷はここなのに、一寸の迷いもなく、戻ろうと告げた。

「……本当に、あなたたち人間は、」
「何? 戻るの、戻らないの? どっち?」

 痺れを切らしたように、焦りを帯びたソルの声音に、アリアは今日初めての笑みを零した。

「帰りましょう。私たちの箱庭へ」

 天使の白い翼が大空を舞う。
 朝焼けに濡れた波間の空を割くように開いた門の中へ、ソルとアリアの二人が飛び込んだ。

「行ってこい。ソル」

 それが姉の声だったのか、それとも母の声だったのかは分からない。
 けれども、ソルは迷いなくそれに応えた。

「行ってきます!!」

 太陽が闇間を照らすような眩しい笑顔で手を振りながら、ソルは故郷を後にした。
――二度と戻ることは出来ないと知りながら。               

《完》