――アストライア。
懐かしい声が、自身の名前を紡ぐ。
朗らかに笑う愛しい夫――ヴァトラの姿が、脳裏を過ぎる。
王を象徴する緋色の髪と瞳を持って生まれたヴァトラは、歴代魔王の中でも異質な存在だった。
そんな彼とアストライアが出会ったのは、ヴァトラの成人を祝う夜会でのことだった。
父親に連れられてこの日初めて夜会デビューを果たしたアストライアは、誘蛾灯に誘われる羽虫の如く寄ってくる男たちから逃れるように壁際へと避難した。
「……ふう」
次期魔王候補と名高いヴァトラの成人祝いとなれば、王城に集まる人数は桁違いだ。
加えて、現魔王の甥という立場も相まって、本日の主役は美しい華たちに囲まれている。
(なんだか、場違いな気がしてきたわ)
別に強請ったわけでもないのに、父から与えられた真新しいドレスを指先で持ち上げながら、アストライアはもう一度ため息を吐き出した。
開け放たれた窓から流れてくる冷たい夜風が、酒を嗜んで火照った肌を優しく撫でる。
(そういえば、お父様が改築したばかりの庭園があったはず、)
アストライアの父方の家系は代々魔王城や王都の建築物の管理を任されてきた。
特に父であるアンタレスは、現魔王陛下との親交が厚く、つい先日もバルコニーや庭園を増築したいと王直々に依頼書が届いたほどである。
その書状の内容を覚えていたアストライアは、アンタレスが知己の友人たちと楽しく飲み交わしているのを尻目に、バルコニーへと足を踏み入れた。
波間の空から降り注ぐ星々の輝きだけを頼りに、真新しい大理石の上を滑るように歩く。
「誰かいるのか?」
不意に、背中へと声が掛かった。
室内の灯りが眩しくてこちらからは顔が見えない。
アストライアは今更ながらに、勝手にバルコニーへと出たことを後悔した。
今日の夜会がバルコニーと庭園のお披露目とも兼ねていたのを今更ながらに思い出したのである。
自分の浅慮を後悔しても、もう遅い。
叱られる、と息を呑んだのと、革靴が石畳を鳴らしたのは同時だった。
「……驚いた。星でも降ってきたのかと、」
その人は、燃えるように赤い瞳でアストライアを射抜きながら、朗らかに笑った。
「緋色の、君」
知れず、社交界でのヴァトラの通称が唇から零れ落ちる。
先ほどまで美しく着飾った女性たちに囲まれていたはずのヴァトラが、アストライアの眼前に迫っていた。
「君はどこのお姫様かな? 初めて見る顔だ」
「お、お許しください。人酔いしてしまって、夜風に当たろうと、」
「うん。それは別に構わないよ。僕もご婦人方の相手に疲れて逃げ出してきた身だしね」
「?」
「どこの家の子か聞いたつもりだったんだけど、聞こえなかった?」
音もなく、ヴァトラはアストライアの腕を掴んだ。
数歩分あった距離は今や吐息が触れそうなほどに近く、「ひっ」と上擦った悲鳴が溢れる。
次いで、先ほど告げられた『お姫様』という呼称が自身に向けてのものだったことを、数分遅れで理解した。
「え、あの、わ、私?」
「ここには君と私の二人しかいないけど、君には他に誰かいるように見えているのかな」
にこり、と笑ったヴァトラに、アストライアは言葉を詰まらせた。
間近で見る緋色は噂で聞くよりもずっと美しく、その神々しさに畏れと昂揚が胸中で渦を巻く。
「ふふ、面白い娘だね。君」
ヴァトラの笑った振動が、掴まれた腕から伝わってくる。
「……申し遅れました、アンタレスの長女アストライアです」
「へえ? 君が噂の『星の輝き』か」
「噂?」
「アンタレス殿がね『うちの娘は、星の輝きを閉じ込めたように美しいのです』と、城に来るたび仰っていたから」
「お父様ったら、」
「でも、噂以上だ」
「え、」
「本当に、波間の空から星が落ちてきたのかと思ったんだよ」
ヴァトラの手が、力強くアストライアの腰を抱いた。
身動ぎ一つでもすれば、唇が触れてしまう。
そんな距離で見つめられて、アストライアは息も絶え絶えに瞑目する他なかった。
「夜の波間と同じ色だ」
美しい、と。
緋色を纏った未来の王から溢れた賛辞に、胸が高鳴る。
「お、恐れ多いです。殿下に比べれば、何物も霞んでしまうでしょうに」
「……褒められていると思っていいのかな?」
「っ」
「ねえ、アストライア」
「は、はい」
「出会ったばかりでこんなことを言うのは自分でも驚きなんだけど、」
「?」
――私の妻になってくれないか。
遠慮がちに触れた唇の温度と柔らかさを今でもはっきりと覚えている。
ヴァトラと交わしたキスで、アストライアは生まれて初めて酒の味を知ったのだ。
◇ ◇ ◇
「――上、母上」
夫とよく似た声がアストライアの身体を揺すぶった。
懐かしい夢に後ろ髪を引かれながらゆっくりと瞼を持ち上げれば、愛しい人の面影を色濃く写した息子が心配そうにこちらを見ている。
「なんです、朝から騒々しい」
「……紹介したい人がいます」
「起き抜けに聞くにしては、随分と面白い冗談ですこと」
「あ、いや、『そう言う意味』の人ではありません――新しく臣下に迎え入れた者をご紹介したくて」
「?」
側に控えた女官二人に促されるまま身支度を済ませたアストライアに、ヴォルグはどこか落ち着かない様子で扉の向こうを窺っている。
「応接の間に連れてきているの?」
「は、はい」
「……貴方もお父様と同じで気が早いわねぇ。私が嫌だと断ったらどうするつもりだったのです」
くすくすと彼の王を思い描きながら笑った母親に、ヴォルグは先ほどまで緊張していたのが嘘のように脱力した。
「……母上が、父上の頼みを断ったところを見たことがありません」
「まあ! 言うようになったわね」
「さ、早くこちらに。ともすれば暇なあまり、居眠りでもしているかもしれませんので」
「それは、臣下として怠慢ではなくって?」
「そういう子なんです」
そういう子、とヴォルグが誰かのことを称するのを、アストライアは初めて聞いた。
魔王になってからこっち、初代魔王ルーシェルの呪詛の影響で『同族嫌い』に拍車が掛かった彼は、親しい者以外に更に冷たい態度を取るようになっていたのである。
「――ナギ」
応接の間へ進むと、夏の青い波間の空を彷彿とさせる珍しい髪色に、アストライアと同じ金色の瞳を持った中性的な容姿の青年が居た。
行儀悪く廊下に続く扉を背もたれに、両手をベルトに引っ掛け、だらしなく立つその姿が妙に様になっている。
「くあ、」
仮にも魔王とその母、先代魔王妃を前にして、大きな欠伸を溢した彼に、アストライアは瞬きを繰り返した。
どこか不遜な態度でヴォルグを睨むと、その隣に並ぶアストライアを見て、ナギの目が大きく開かれる。
「……母さん?」
小さく呟かれた声を、アストライアは聞き漏らさなかった。
え、と驚いて固まった魔王の母を見て、ナギが困ったように顔を顰める。
次いで、先ほどまでの態度を誤魔化すように、その場に恭しく跪いてみせた。
「無礼をお許しください。魔王妃様。この度、ヴォルグ様付きの側仕え『剣』となりました――ナギと申します」
剣、という単語を聞いて、身の内から湧き立つ怒りと憎しみに、魔力が膨れ上がるのをアストライアは抑えきれなかった。
室内を支配する重い魔力の気配に、ナギがちら、とアストライアの隣に立つヴォルグを窺う。
彼は常の様子を崩すわけもなく平然としていた。
そんな主人を見て、ナギが苦虫を噛んだような表情を浮かべる。
「恐れながら、」
恐々と、こちらの様子を窺いながらも、決して逸らされることのない金色の瞳の中に、見知った光を見た。
「かの『星の輝き』を前に、私など無力でございます。それに私が王を傷つけることはありません」
懐かしい呼び名に、アストライアは息子が何か入れ知恵をしたことを悟った。
擽ったそうに笑うヴォルグの穏やかな表情を見て、怒りがゆっくりと沈んでいく。
「それは、我が夫ヴァトラ様にのみ呼ぶことを許した名です」
アストライアが告げた言葉に、ナギがぎくりと肩を竦めた。
それからひどく恨めしそうな顔をしてヴォルグの顔を睨む。
「……お許しください。お二人を描いた絵画にそのような記述がありましたので、」
小さく身体を縮こませたナギの姿に、アストライアはかつての自分を重ねた。
あの日、ヴァトラと出会った夜の自分も、彼にはこんな風に見えていたのだろうか。
「ふ、ふふっ」
「母上?」
少女のようにコロコロと笑い声を上げたアストライアに、ヴォルグが首を傾げる。
ナギも主人に習って、彼の母親の一挙一動を固唾を飲んで見守った。
カツン、と大きく響いたヒールの音がこの場を支配する。
「ナギ、とやら」
夜の波を支配する星々を携えた美しい髪を翻しながら、アストライアがナギの顎を掬い上げた。
驚いた表情でこちらを見上げる金の瞳に、柔く微笑みかける。
「王を決して死なせぬと、私に誓えますか?」
亡き母と同じ色合いの人が、ナギを覗き込む。
落ちてきた髪に囚われている所為で、世界から一人だけ切り離されたような錯覚に陥った。
真剣な眼差しを一身に受けながら、ナギは唇を噛み締めた。
答えなど、最初から一つしか持ち合わせていない。
「――この命に変えても」
迷いもなく告げられた言の葉に、アストライアが満足そうに眦を和らげた。
金色の双眸の中で、猛々しい炎が揺れる。
ヴァトラの眼差しと、眼前の青年のそれがどこか重なって見えた。
「よろしい。私はお前が気に入りました。特別に、この宮を自由に出入りできる許可を与えましょう」
「え、」
呆けるナギを見て、それまでおとなしかったヴォルグが肩を震わせながら噴き出した。
「ふふっ。母上が誰かをここに招くなんてベヒモス以来ですね」
「だって、お前と違って、この子は揶揄い甲斐がありそうなのですもの」
「それはもう、間違いなく……!」
「貴方のおかげで、暫く退屈とは無縁になりそうね。楽しみにしていますよ、ナギ」
同じ顔で笑う親子に、ナギは人前であることも憚らずに「うげ」と舌を突き出すのであった。