10話『うらなり』

桃麻の自宅がある最寄駅は、覚えていた。
だが、そこから先は彼の背中を追いかけるのに必死で、あまり覚えていない。
何せ『同級生男子の家に行く』という事態が初めてのことで、いっぱいいっぱいになっていたのだ。

「あ、ゆうちゃんだ!」

改札を抜けた先、高架下に入っているコンビニから出てきた陽菜が嬉しそうに手を振っている。
渡りに船、と言わんばかりに、侑里は迷うことなく小さな友人へ歩みを寄せた。

「こんにちは、陽菜ちゃん。もしかして、」
「陽菜ぁ? 一人で先に出ちゃダメっていつも言ってるでしょ~」

お兄ちゃんと一緒ですか、と続くはずだった侑里の言葉は、少し掠れた女性の声に驚いて腹の底へと落ちていく。

「ママ!」
「ん~? その制服、うちの子と一緒じゃん」
「は、じめまして、あの、柏原くんの同級生で、その、」
「あ~っ! あなたが委員長ちゃんね! うちの子たちがよく話してる!」

侑里がしどろもどろになっている間に、桃麻と陽菜の母はどこか納得したように力強く頷いた。
次いで、学校指定のカバンをキツく握りしめたまま固まってしまった侑里を上から下までじっくりと眺める。

「……お見舞い?」

遠慮がちに差し出された助け舟に、侑里はこくりと頷きを返した。

「ゆうちゃん、にいのお見舞い? じゃあ、陽菜と手ぇつないで帰ろぉ!」
「え、あ、は、はい」
「こら、陽菜。お姉ちゃんが困ってるでしょ」
「へ、平気です。ごめんなさい、こういうのに慣れてなくて、」
「ふふっ、それは見たら分かるよ。ごめんね、うちの子ったら押しが強くてさ~」

一体誰に似たのか、と溢した彼女に、侑里は少しだけ口角を持ち上げた。
陽菜の手を繋ぎながら、柏原家を目指す。
道中一度も途切れることがなかった柏原母娘の他愛もない会話が、耳に心地良かった。

「多分寝てると思うから静かにね。桃の部屋は、」
「知ってます」
「え?」
「あの、前にも一度、お邪魔したことがあって」
「まあ……!」

心底驚いたと言わんばかりの表情でこちらを見る柏原母に、侑里は何ともいえない気持ちになった。
別に疾しいことがあるわけではないが、保護者の不在のときを狙って訪れたようで、居心地が悪い。

「ご挨拶が遅れてすみません」
「い、いやねえ、急に畏まらないでよぉ。そんなん気にするタイプに見える?」
「……」
「ゆうちゃん、顔に出やすくって助かるわ~」
「…………すみません」
「やだ! 責めてるわけじゃないのよ! 素直で可愛いなって思っただけで!」

あわあわと唇を震わせる柏原母に、侑里は深く頭を下げた。
突然のことに、玄関先であることも忘れて「急に何!?」と柏原母が困ったように叫ぶ。

「柏原くんの怪我は私の所為なんです」
「え、」
「申し訳ありません」
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと!? あ、頭上げてよ」
「私を助けに来てくれて、それで、」
「ええ……っ!?」

侑里は掻い摘んで事情を説明した。
玄関先では何だから、という柏原母の提案も無視して、その場から動かない。
否、動けないと言った方が正しかった。
桃麻にどんな顔をして、会えばいいのか分からなかったからだ。

あのときの、去り際の桃麻の背中が侑里の脳裏に焼きついて離れない。

顔を見て、拒絶されるのが怖かった。

下唇を噛み締め、微動だにしなくなった侑里の姿に、彼女の手を握っていた陽菜が小さな目にいっぱいの涙を浮かべて母親と侑里との間で視線を泳がせる。

「…………そっか。うん、良かった」

先に言葉を発したのは、柏原母の方だった。
ぽつり、と噛み締めるように溢されたその言葉に、侑里は驚いて顔を上げる。
良かったと思われるようなことは一つも溢していないはずだ。
それなのに、投げかけられたその声はあまりにも優しくて――。

「どうして、」
「だって、あの子なんにも言わないからさ。意味もなく人に暴力を振るうように育てた覚えはないけど、性格がちょっと捻くれてるでしょ? 正直、カッとなったらやりかねんな~と思ってたから」
「……」
「ああ、喧嘩したのは勿論良くないよ? でも誰かを守るためだったんだな~って」

すん、と鼻を鳴らしたのは、陽菜だけじゃない。
静かに嗚咽を漏らした侑里を、そして雰囲気に耐えきれずに泣き始めた陽菜の二人を柏原母は優しく抱きしめた。

「も~泣かないのぉ。みんな無事だったんだからそれでいいでしょ~」
「うっ、くっ、すみませっ」
「ゆうちゃんは、我が家を出るまで謝るの禁止ね。こういうとき何て言うか知ってる?」
「…………ありがとうございます」
「はい、よくできました」

今度こそ上がって、と引っ張られるがまま、侑里は柏原家にお邪魔させてもらう。
リビングのほとんどを占める大きな窓の向こうでは、夕陽に照らされた雨が眩しく光っていた。

◇ ◇ ◇

寝苦しさに桃麻は息を詰めた。
薄らと目を開ければ、いつの間に侵入したのか幼い妹が桃麻の腕に巻き付いている。

「ったく、また勝手に入ってきたのか」

通りで暑いと思った。
陽菜を起こさないよう、慎重に起き上がろうとして、びしり、と身体を固める。
見慣れない――この部屋にあるはずのない亜麻色を反対側に見つけたからだ。

「い、いいんちょ!? な、なんで……っ!?」
「し~~っ。静かにしなさいよ、バカ。さっき寝たばっかりなんだから」

母親の鋭い一言に、桃麻はムッと声のした方へと視線を向けた。
だらしなく扉に背中を預けた母親は、棘を纏った言葉を吐き出したとは思えないほど、穏やかな笑みを浮かべている。

「初めてね。あんたが家に女の子を連れてくんの」
「……うっせえな」
「その子のこと、助けに行ったんだってね」
「……」
「大事にしてあげなさいよ。あんたのために泣き疲れて寝ちゃうような優しい子なんだから」
「え、」

そう言われて初めて侑里の目元が赤くなっていることに気付いた。

「泣いてた?」
「家に来た途端ね」
「……そっか、」
「ちょっと、何笑ってんのよ。性格悪いわねぇ」
「お前に似たんだっつの」
「まあ、口の減らない。せっかく二人きりにしてあげようとしたのに、余計なお世話だったかしら?」
「ぜひお願いします、お母様」
「素直でよろしい」

母は呆れたように肩を竦めると、桃麻の傍ですやすやと寝息を立てる陽菜を抱き上げた。

「分かってると思うけど、変なことすんじゃないわよ」
「…………っせえなぁ」
「桃麻」
「わーってるってば!」
「隣の部屋にいるからね」

うっそりと不気味なほど綺麗な笑顔を貼り付けて、母が桃麻の部屋を後にした。
その際、焦らすようにやけにゆっくりと扉を閉められたのに腹が立ち、手近のクッションを投げつけたのだが、それが良くなかった。
ボスン、と思っていたよりも響いた物音に、侑里の睫毛が微かに震える。

「ん、」

ベッドに顔を伏せ、座ったまま眠っていた侑里が顔を持ち上げた。
青い蕾が花を咲かせるようにゆっくりと開いた瞳に、視線が釘付けになる。

「……侑里」

委員長と呼びかけるはずだったそれは、途中で形を変えてしまった。
呼びかけた桃麻自身は勿論、呼ばれた方の侑里も、二人して息を呑む。

「あの、ごめんなさい」
「ご、ごめん」

ほとんど同時に口を衝いて出た謝罪に、互いに「え」と声を漏らした。

「それ、何に謝ってる?」
「怪我をしたと聞いて、」
「あ~これは、その、けじめっつうか、」
「?」
「陸さんの蹴りを甘んじて受けとめたら、こうビキって」
「…………兄さん……はあ……」

怪我の原因が自身の兄だったことに、侑里はがっくりと肩を落とした。
桃麻が指し示した脇腹にそっと手を乗せる。
動きを制限するためか、コルセットを巻いているらしく、肌の感触とはどこか違った硬いそれに、短いため息が落ちた。

「……柏原くんこそ、何に対する謝罪だったんです」
「ゆ、い、ふ、藤田が連れ去られたの、俺のセフレの所為だったから、」
「……そう、ですか」

部屋の気温が一気に下がったような感覚に、桃麻は思わず侑里から視線を逸らした。

「う、うん。迷惑かけてごめんね」

もう一度、明後日の方を向きながら謝罪を落とせば、遠慮がちに袖を引っ張られる。

「なに、」

居心地の悪い雰囲気に、思ったよりも素っ気ない声が出た。
感じ悪かったかも、と噛み締めた唇に、柔らかい何かが触れる。

ぱちり。

頬を掠めた侑里の睫毛に、遅れてキスをされたことに気が付いた。

「………………え、」
「何です、その顔は」
「い、いや、何で、キス」
「あなたが言ったんでしょう」
「は?」
「ご褒美はキスが良いって」

放課後の勉強会で、課題を全て終わらせたらご褒美にキスをさせてほしい。
冗談のつもりで放った言葉に、侑里が顔を真っ赤にして動揺しているのが可愛くて、歯止めが効かなくなった。
誰もいない教室で交わしたやり取りを鮮明に思い出し、瞑目を繰り返す。

「た、助けてくれたお礼です」
「……足りない」
「なっ、」
「もっかい」

今度は桃麻の方から、侑里の唇を塞いだ。

「んっ、ちょ……ま、」
「待たない」
「か、しわばら、く」

鼻から抜けるような甘い声に、背筋がぞくりと震えた。
角度を変え、呼吸さえも奪うほど深く口付ける。
慣れないキスに、侑里の身体からくたり、と力が抜けた。

「…………ごめん」
「……っ」

それが告白に対する答えだと何故か分かってしまった。
視界が歪む。
キスはするくせに最低、と罵ってやろうと拳に力を込めた侑里の右手を桃麻が包み込んだ。

「言うのが遅くなったけど、聞いてほしい」
「なに、」
「俺も、藤田のことが好きだよ」

告げられた内容を上手く理解できなかった。
ゆっくりと噛み締めるように桃麻の言葉を繰り返し頭の中で唱える。
何度かそれを繰り返し、やっぱり理解ができなくて、侑里の唇から「はあ?」と柄の悪い声が漏れたのは仕方のないことだった。

「今の顔、陸さんにすっげー似てた」
「……嬉しくありません」
「んはは、めっちゃ嫌そう~」

茶化して場を濁そうとした桃麻のことを侑里は鋭く睨んだ。

「何がどうして、私のことが好きって話になったんです?」
「それ、聞いちゃう感じ?」
「女子なら誰でも良いと豪語していた心境の変化が気になります」
「そ、んなこと言ったっけ?」
「……態度が言っていたでしょう」

すごい。
ベッドの上なのに、全然雰囲気が甘くならない。

桃麻は素直に感動した。
これぞ、侑里である。

次いで逃げられないことを悟ると、降参の意を示すために両手を持ち上げた。

「俺と陽菜ってさ、父親が違うんだよね」
「……」
「まあ、見たら分かると思うんだけど、あのババア男見る目無ぇからさァ」

桃麻の父親は病気で死んだ。
その後、桃麻が小学校の高学年になったことを機に付き合い始めた陽菜の父親は、機嫌が悪いと暴力を振るうような最低な男だった。
陽菜を孕っていた母親は勿論、桃麻にも平気で暴力を振るった。

桃麻が殴られたことで何かが吹っ切れたのだろう。
妊娠中だったこともあり思うように身体が動かず、いつもだったら抵抗することでしか身を守ることが出来なかった。
けれど、あのとき――桃麻が殴られたときの、母親の怒りっぷりは尋常じゃなかった。
男の顔が腫れ上がって元の原型が分からないほどに殴り返したかと思うと「お腹の子は認知してくれなくていい。今度私や桃麻の前に現れたらぶっ殺す」と捨て台詞を残して、当時男と一緒に暮らしていた部屋を飛び出した。

陽菜を出産して落ち着いた途端、母親はすぐに二人の子を養うために働き始め、一日の間で顔を合わせるのは夜眠る前だけ、何てことが日常茶飯事だった。
そんな複雑な家庭環境で育った桃麻は、常に寂しさに囚われていた。

「だからさ、誰かと一緒じゃなきゃ眠れなくなった」

寂しさを紛らわせるなら、誰でも良かった。
来るもの拒まず、去るもの追わず、が桃麻のスタンスだ。

――侑里と出会うまでは。

「放課後さ、一緒に勉強するようになったじゃん」
「……はい」
「遊びに行く時間無くなったから、家に直帰するようになったんだけど。そしたらさ、陽菜が言うわけ『にいに、一緒に寝て~』って」

幼いときの自分を見ているようで、桃麻は胸が痛んだ。
母親が自分たちを育てるために働いていることは知っている。
寂しいと伝えることを諦めた桃麻と違って、陽菜はまだ幼い。

「最初は陽菜のために家に帰るようになった。そしたら、ババアも嬉しそうでさ」
「……」
「揶揄うつもりでキスしたのに、気付いたら藤田のことばっか考えてるし。いつの間にか、他の女の子と遊ぶ方が、面倒くさくなって」

自分の軽薄さが嫌になった。
振り絞るように吐き出された桃麻の言葉に、侑里はこくりと生唾を飲み込んだ。
繋いだままになった右手に力を込める。

「全部精算してからじゃないと、好きって言う資格がないと思ったんだ」
「それで、セフレさんから仕返しを?」
「ん。だから、巻き込んでごめんねって、」

しゅん、と項垂れる桃麻の頭に、垂れ耳が生えたように見えて、侑里は本日何度目になるか分からないため息を吐き出した。

「……面倒くさいってよく言われません?」
「瀬尾には、言われる」
「私も同意見です」
「…………それで?」
「それで、とは?」
「好きだって言ったんですけど、」

そう言って桃麻は唇を尖らせた。
散々、他人の気持ちを弄んでおいて、と侑里の中にふつふつと怒りの情が生まれる。

「…………私も、嫌いじゃないですよ」
「え~~何それ……。 ――!!」

言葉の真意が伝わったのだろう。
パッと華やいだ桃麻の表情とは反対に、侑里は眉間に皺を寄せた。

何か言われるより先に、と噛み付くように乱暴なキスで唇を塞いでしまう。

名前と同じ桃色の髪が侑里の頬を掠めた。
少しだけカサついた骨筋張った指先が、頸を辿るように撫でていく。

「ふっ、ン……ぅ」

慣れないキスに、生理的な涙が浮かんで、視界が滲む。

「かわい、」

唇をくっ付けたまま、桃麻がふにゃりとだらしなく笑った。
それは、初めて見る表情で――。
侑里もまた、釣られて口元を綻ばせる。

カーテンの隙間から雨上がりの夜空が街の灯りに照らされて、薄いベールを頼りなく揺らしていた。
それを横目に、二人はもう一度引き寄せられるように、どちらからともなく重ねるだけの拙い口付けを交わすのだった。

《完》