1話『最果ての丘』

大砂時計が刻むは、十二の星々。
降り注ぐ星の魔力によって作動している大砂時計だったが、魔力の弱い場所では当然ズレが生じる。

「覚悟はしていたつもりでしたが、大陸の最南端にもなると時差が凄いですねぇ」

腕に取り付けた小型の砂時計――ギルドから貸し出されたものだ――を見て、ヴェレは肩を竦めた。
砂丘に足を取られた所為で、ヴェレよりも少し遅れて登頂を果たしたシトラスもまた苦い顔で彼女の言葉に頷きを返す。

「まさか二つ星も遅れがあるなんて思わなかったね」
「ええ、本当に。シトラス、まだ歩けそうですか?」
「うん。平気だけど、」
「この丘を抜けたら街があるみたいです。今夜はそこで休みましょう」
「やった~! 久しぶりのベッドだ~!」

ボサボサの髪を振り乱して喜ぶ少年の姿に、ヴェレも釣られて眦を和らげた。
行きましょう、と一歩を踏み出した二人の背後で「ドンッ!!」と派手な音が響く。

「……シトラス!! 走って!!」

視界の端で、砂丘が崩れた。
ゆらり、と蠢いた赤黒い何かに、ヴェレが舌打ちを零す。
最果ての丘に生息する魔物で、ここまでの巨体となれば思い浮かべるのは一つだけだ。

「チッ。《アンタレス》に見つかるとは運が悪い!」

よりによって《砂漠の王》と謳われるアンタレスと会敵してしまった。
自分一人ならどうとでもなるが、シトラスを連れたままでの応戦は正直厳しい。
ヴェレは咄嗟にそう判断すると、坂下が柔らかい砂なのを良いことに、シトラスの身体を思いっきり突き飛ばした。

「ヴェレ……!」
「先に行ってください! 必ず追いかけますから!」

砂の海が不自然に唸る。
恐怖の色を纏ったシトラスの声に、ヴェレは眉間に皺を寄せた。

「何してるんです! 早く行きなさい!」
「でもぉ!」
「でもじゃありません!」

ヴェレが叫ぶ――同時に砂埃が舞った。
ほとんど反射で、腰に据えていた双刀を抜刀する。

「…………仕方ありません」
「ヴェレ?」
「援護は頼みましたよ!!」

不安定な足場だが、ないよりはマシである。
ヴェレはグッと右足に力を込めると、そのまま跳躍を果たした。
笑う月に手が届きそうなほど高く舞った彼女を、《砂漠の王》が格好の的として捉える。

「シトラス!」
「うん! ――《雷》!」

紫電が《砂漠の王》を貫く。
砂の海から飛び出した大蠍の身体に、閃光が走った。
小刻みに震えているのを見るに、雷は苦手だったらしい。

「これで、トドメです!!」

持ち手同士を装着し、薙刀に変化させる。
ヴェレの魔力に呼応した刃には《稲妻》の刻印が浮かび上がった。

――ザン!!

身の丈の倍はある《砂漠の王》の鋏を、ヴェレは見事に切り落とした。

「ギャギャギャググガガギャアア!!」

片手を奪われたことで、汚い断末魔を上げた《砂漠の王》が、砂の海の中にその身を沈める。
視界からその姿が完全に見えなくなったのを合図に、ヴェレとシトラスはどちらからともなく深いため息を吐き出した。

「うわーん!! ヴェレー!!」
「ふふっ。今回ばかりは流石の私も死ぬかと思いました」
「良かった! 良かったよぉ!!」
「こらこら、泣かないの。男の子でしょう?」
「だっでえええ」
「はいはい。分かりましたから。ほら、立って。他の夜行性の魔物に出くわす前に、街へ入ってしまいましょう」
「ゔ、ゔん」
「あらら……涙で顔がぐちゃぐちゃじゃないの……」

自分の袖でシトラスの涙で汚れた頬を拭ってやる。
されるがままの少年の頭を、乱雑に撫で回してやれば、彼は漸く落ち着いたようで「すん」と満足げに鼻を鳴らした。

砂埃を纏った風が、ヴェレの淡黄色の髪を優しく持ち上げる。
きゃっきゃと燥ぐ彼らの姿を、少し離れた場所から夜を纏った青年が凝視していた。

◇ ◇ ◇

翌朝。
街は喧騒に包まれていた。

ドタドタと乱暴な足音に起こされたシトラスは、隣のベッドで眠っていたはずの相棒が居ないことに小首を傾げる。

「ヴェレ?」

小さく名前を呼ぶも、応答はない。
さてはまた酒盛りにでも出かけたな、と眉間に皺を寄せながら、ソファに放り投げたままだった上着に袖を通す。

「――坊ちゃん、大変だよ!! アンタのお連れさんが!!」

無遠慮に開かれたドアから顔を見せたのは、この宿の女将である。
寝起きで動きが鈍いシトラスを焦ったく思ったのか、女将は彼の腕を引っ張ると一階まで駆け降りた。
そんな彼らを出迎えたのは、双刀を抜いたヴェレと、それに対峙する大柄の青年の姿だ。

「ヴェ、ヴェレ?」
「おはよう、坊や。今朝は随分と早起きですねぇ」
「な、何してるの?」
「見ての通り《決闘》を申し込まれまして……。朝食を調達するのはもう少しあとになりそうです」

すみません、と口では謝罪をしながらも、その顔は喜び一色に染まっている。
おとなしい言動からは考えもつかないが、武闘派として名を馳せていた先代ギルドマスターの娘であるヴェレはこう見えて血の気が多い。
同じ魚座(ピスケス)の人間、十人中八人に「本当に同族?」と疑われるほどの気の短さだ。
どうせまた売られた喧嘩を言い値で買ったんだろう。
爛々と輝くその目に、シトラスは力無くため息を吐き出した。

「お? その子が君の彼氏くん?」
「……冗談も休み休みにしてくださいます? この子は私の相棒です」
「ふ~ん。まあ、どっちでもいいか。彼には後で同行の許可を取るよ」
「私も許可した覚えはないのですが?」
「ありゃ、そうだっけ? 同行を賭けて、決闘を申し込んだつもりだったんだけど、」

ごめんごめん、と男が肩を竦ませながら、笑みを深めた。

「うふっ、もう勝ったつもりですか? ――随分と舐められたものですねぇ」

ヴェレの額に青筋が浮かぶ。
心なしか、髪が波打っているような気がして、シトラスは「げ」と舌を突き出した。

魚座は海と陸とで、その姿が異なる。
それは、初代魚座が大戦の功績を讃えられ、二柱の神々から海の魔力と星の魔力、両方の恩恵を授かったからだと言われていた。

魚座の一族は興奮状態になると陸でも海の姿に変わることがままある。
本来は滅多なことで起こる現象ではない。
だが、ごく稀に居るのだ。

「二度とそんな軽口が叩けないようにして差し上げます!」

ヴェレのように陸でも《海の魔力》を扱うことが出来る人間が。

――大海を宿した瞳に、長く伸びた銀髪の髪。

魚座特有の色に染まったヴェレの姿に、野次馬の中でどよめきが生じた。

「あ、あいつ《黄昏》のヴェレじゃねえのか! や、やべえぞ! 巻き込まれる!」

一人がそう口走った途端、それまでヴェレと青年を取り囲んでいた野次馬が、蜘蛛の子を散らしたかのように走り去っていく。
残ったのはシトラスと宿屋の女将、そして逃げそびれた宿泊客の数名だけだった。

「あなたも逃げるなら、今ですよ」

謝るなら今のうちだぞ、と言わんばかりに、ヴェレの目が細められる。
本気で怒っているときの目だ。
シトラスは祈るような気持ちで天を仰ぐ。
ここにギルドマスターが居てくれたら、間違いなくヴェレの頭を引っ叩いてでもこの決闘を止めてくれたことだろう。
だが、ここは遠い南の地。
頼りになるマスターの手助けは得られそうにもなかった。

「……ヴェ、ヴェレ」
「安心なさい。すぐに済ませますから」
「でも、」
「しつこいで――」

ヴェレはそう言って、シトラスの方に視線を外した。
――刹那。
青年が地面を強く蹴る。

拳一つ分の距離まで、瞬きの間に肉薄されて、ヴェレは唸った。
大柄な見た目に反して、動きが早い。
油断した、と眉根を寄せた彼女を嘲笑うかのように、青年が持つ双剣が容赦無く連撃を繰り出す。

刃に浮かんだ刻印は見たこともないものだった。

ほとんど反射で斬撃を受け止めたヴェレの重心が、不自然なほど低く沈む。

「……っ、この!」

弾き返すのがやっとだ。
持ち前の跳躍力で大きく後ろへ飛び退いたヴェレは、信じられないものでも見るかのように青年をきつく睨んだ。

「その威力、祝福持ち《ギフテッド》ですか」
「さあ? どうだろうね~?」
「祝福持ちは、決闘の前に宣言するのがマナーですよ」
「ありゃ、そうだっけ? 誰かと決闘するなんて、久しぶりでさあ。うっかりしてたな……」

あくまで答えるつもりはないらしい。
飄々とした態度の青年に、ヴェレは鋭い舌打ちを返した。

ひりついた決闘の雰囲気に当てられながらも、シトラスは女将の袖を遠慮がちに引っ張った。

「《祝福持ち》って?」
「ん? ああ、そうさね。二柱の神様から直接刻印を賜った人のことだよ」
「普通の刻印と違うってこと?」
「そうだよ。普通の刻印は自然の魔力を文字に置き換えたものだけど、あれは違う。その人自身が《刻印》みたいなものなんだ」

つまりは自分の魔力をそのまま刻印として刃に乗せることが出来る、ということである。

「……じゃあ、魔力の性質が何か分かれば、対処できるってことだよね」
「理屈で言えばね。だけど、そう簡単には、」
「ふーん」

シトラスの、縦長の瞳孔がきゅっと細められた。
ちり、と毛先が燃えるように熱い視線を感じ、ヴェレが幼い少年を振り返る。

「坊や?」
「――《突風》」

ヴェレのすぐ脇を、一陣の風が駆け抜ける。
それは見えない槍のような鋭さで、青年を標的に定めていた。

「!?」

透明な刃を、然して青年は受け止めた。
重心が後ろへ傾ぐ。
刻印は彼の右手に握られた剣に宿っていた――シトラスの攻撃を受け止めた方である。

「僕の《突風》で吹き飛ばせないってことは、《重力》か《硬化》系の魔力なんじゃないかな」
「……なるほど。助かりました」

ゆるり、と笑みを深めたヴェレの双眸が一際強い輝きを放った。

「いきますよ」

慣れた手付きで双刀を薙刀に組み立てると、柄の具合を確かめるためにぐるりと、一周させる。
砂塵が「ごう」と鳴ったのを合図に、両者走り出す。

切先が交わる――その瞬間、ヴェレの身体は天高く舞った。

「同じ手は食いません」

青年の真上を奪ったヴェレが八重歯を見せ、嬉しそうに破顔する。
彼女の刃に浮かんだ刻印は《大海》。

「……おっと、」

青年がやられたな、と表情を歪めたのとヴェレが刃を振り下ろしたのは、ほとんど同時だった。