「…………ヴェ、ヴェレです。よろしくお願いします」
差し出された真っ白い掌を、クラレットは拒んだ。
透き通った肌に嵌め込まれた桜色の宝石が不思議そうに瞬くのに「チッ」と鋭い舌打ちを返す。
「悪いけど握手はできないよ。《蠍座(スコルピオ)》は十五になるまで服毒の儀がある。知らないのか」
「あ、ご、ごめんなさい。私、真珠海から出たことがなくて、」
「こら、クレア。あんまり強い言葉を使うなといつも言っているだろお」
視線を右往左往させるヴェレを見かねてか、彼女の後ろから大男がぬっと姿を現した。
二人の養父となったエルナトが、困ったように眉尻を下げてクラレットを見つめている。
「だって! こんなの聞いてないよ! 自分はいつも何かあったら全部言えって煩いくせに!」
「それは、」
「……アタシのこといらなくなったから、新しい子を引き取ったんだろ」
可愛くない自覚はあった。
里長が半ば押し付けるような形でエルナトに預けられ、困惑していたのはクラレットとて同じだ。
それでもこの一年の間、努めて新設されたばかりのギルドの中で役に立とうと頑張ってきた。
「そんなわけないだろお。――この子も君と同じ。《星影の動乱(アストラ・ベリタ)》で両親を亡くしたんだよ」
「え、」
「君に面倒を見てあげてほしいんだあ。ほらあ、僕は女の子の扱いが、下手だってよく叱られるからあ」
ね、と柔らかい表情でエルナトがクラレットの前に膝を折った。
大きなエルナトの身体が影となって、ヴェレの姿はすっかり見えなくなっている。
「ここでは君の方がお姉さんだろお。だから、仲良くしてあげてほしい」
「…………でも、」
「クレア」
かさついた掌が、クラレットの肩に触れた。
「エルナト! 危ないよ!」
「大丈夫。ほらあ、ヴェレもこっちへ」
クラレットが今、服毒しているのはアンタレスの卵から抽出される毒だった。
呼気が掛かるだけでも危ないからと距離を取っていたのに、エルナトはそんなこともお構いなしに直で肌に触れている。
「これでさっきの握手のやり直しになるかなあ」
クラレットの左手を右手で、ヴェレの右手を左手で持ったエルナトが間に挟まり、にっこりと笑みを浮かべた。
小さな少女二人に挟まれた大男の絵面は、側から見れば随分と面白いことになっている。
現にギルドのメンバーが酒を飲み交わしながら「ぎゃははは!」「マスターもうちょいとしゃがめや! お嬢ちゃんが見えねえだろお!」と下品な笑い声で大合唱していた。
「うっさいよ! あんたら! 静かに飲みなって何度言やあ分かるんだいっ!」
「おお怖! エルナトの幼妻がまた怒ったぞ!」
大樽を煽っていた男性の言葉に、クラレットの顔がカッと赤くなった。
「ちげーって言ってんだろ!!」
エルナトの手を振り解いて、酒呑たちに突撃していく。
赤い髪を振り乱して怒りを露わにするその姿は、戦場での彼女の父を彷彿とさせ、エルナトの眦が僅かに和らいだ。
「……お姉さんは私に怒って行っちゃったんですか?」
「違うよお。からかわれたことに怒っているだけさあ」
「…………」
「ヴェレ」
「はい」
桜色の双眸が、金色のカーテンの隙間からうっそりと覗く。
「ここでは自分のことを自分で全部しなくちゃいけない。やれそうかい?」
「……が、んばります」
「大丈夫。初めのうちは、僕やクレアが一緒に教えてあげるからねえ」
「はい」
「よし。じゃあ、まずは――と、クレア。部屋に案内してあげて」
大樽の蓋を振り回し暴れていたクラレットに声を掛ければ、彼女は「何であたしが?」と唇を尖らせた。
「君の部屋に新しいベッドを置いたの忘れたのお?」
「……あれ、もしかしてこの子のベッドだったの? てっきり新しいのをくれたのかと、」
「まさか……!?」
「つ、使ってないよ! ちょっと、物置にさせてもらった、だけ、」
その言葉に、エルナトはひゅっと喉を鳴らした。
クラレットの物置、ということは必然的に毒物――危険なものばかり置かれているに違いなかったからだ。
ばたばたと階段を駆け上がっていったエルナトを追いかけるように、少女たちも慌てて階段を上った。
「前にも約束したろお。使ったあとの毒物は?」
「ジュネスに預ける~~。分かってるけど、毎回取りに行くの面倒くさいんだよ」
文句を垂れるクラレットの頭をエルナトの手刀が襲う。
「また触ったあ!! 危ないって言ってんだろ!!」
「そういうことは《黒蠍(ザハラク)》になってから言うもんだあ。今の君の毒なんて、ちっとも怖くないよお」
「何だと!?」
「それより、ここちゃんと片づけないとねえ。あ、ヴェレも手伝ってくれる? クレア、こう見えてお片付けが下手なんだあ」
「は、はい」
エルナト、と怒鳴り声を上げるクラレットを無視して、エルナトは大きな身体を器用に折り畳んだ。
部屋の中央でしゃがみ込み、散らばった荷物をかき集める姿はどことなく可愛らしい。
その後もぎゃんぎゃんと煩いクラレットを躱しながら、エルナトとヴェレは無心で部屋の片付けに勤しむのだった。
◇ ◇ ◇
こんなに海から離れて眠るのは初めてだった。
潮の香りがしない目覚めに、ヴェレは唇をむにゃりと動かす。
ここには、髪を撫でる父の大きな掌も、朝食の支度をしている母の鼻歌もない。
(父様……母様……っ)
思い返すのはいつだって笑顔の二人だった。
《星送りの迷宮》に向かったときも、笑顔で「行ってきます」を交わしたのに、帰ってきたのは父の右手首から先と母の長い髪だけ。
「はっ……はっ……ううっ」
息が苦しい。
胸の奥で黒い何かがヴェレの呼吸を邪魔しているようだった。
「おい、大丈夫か!?」
隣のベッドで眠っていたはずのクラレットが、ヴェレの身体を軽く揺すった。
呼吸できない恐怖で声を出すこともままならない。
ふるふると弱々しく首を振ったヴェレに、クラレットは困ったように眉根を寄せた。
「お、起こすぞ」
「…………っ」
「大丈夫だ。ゆっくり息吐け。そう。ゆっくり……」
小さな背中に手を差し入れて、上体を起こしてやる。
まだ起きるには少しばかり早い――宵闇のシーツを被った白い朝陽が窓枠を越えて、ヴェレの横顔を青白く照らした。
「水飲むか?」
早かった呼吸が落ち着いたのを待って、クラレットがそう問いかけると少女は短く頷きを返した。
「ん」
「……りがとう、ござ、ます」
「無理して喋んなくていーよ。ほら、ゆっくり飲め」
何だか不思議な気持ちだった。
いつもは周りの大人にあれこれされている自分が、こうして誰かの世話を焼いているなんて。
「ぷはっ」
「どうする。まだ早いけど、もっかい寝れそうか?」
「…………」
俯いてしまったヴェレに、クラレットは「やべっ」と口元を歪ませた。
今眠るときっと良くないものを見る。
自分自身も経験したことがあるのに、考えなしに言葉を紡いでしまった。
「……い、いいとこ、連れてってやる」
「?」
「エルナトには内緒だぞ」
「え、」
「ほら、早く来い――っと、危ねえ……。ちょっと待ってろよ」
そう言ってうっかりヴェレの手を素手で握りそうになったクラレットは寸でのところで、彼女が同族ではないことを思い出した。
片付けられたばかりの机から厚手の黒い皮手袋を見つけ、両手に嵌める。
少しごわつくが、毒の影響を及ぼすことを考えれば、安いものだろう。
「行くよ」
金色が弾ける。
ヴェレは差し出された手を遠慮がちに握った。
眠らない街の二つ名に相応しくリゲルは、一日中喧騒が鳴り止まない。
現に今もギルドの酒場から、何某かが大声で歌っているのが聞こえてきた。
「また朝まで飲みやがって……仕事行けるんだろうな……」
はあ、と深いため息を吐きながら、クラレットは外階段を迷いなく降りた。
歩幅の小さいヴェレを気遣って、いつもより気持ちゆっくりめに足を動かす。
ギルド前の大通りに出れば、斜向かいのパン屋と定食屋たちが忙しなく朝の支度を始めているのが見えた。
「……いい匂い」
「開くまでまだ一つ星もある。帰ってきたら買ってやるよ」
それより急ぐぞ、と最後の一段を飛び降りたクラレットに釣られ、ヴェレの身体がふわっと浮く。
「わわっ」
「あ、悪い。大丈夫か?」
「は、はい」
「お前その敬語やめろよ。むず痒いなぁ」
「ご、ごめんなさい。お祖母様の口調がぬ、抜けなくて」
《魚座(ピスケス)》の族長も、息子である《歌い手》を守って死んだと聞いた。
またやってしまった、と顔を顰めたクラレットを他所に、ヴェレの表情は明るい。
「あ、あの、クレア」
「その名前で呼ぶな」
「あ……」
「だー! 違う! 怒ったんじゃねえよ! それは、その、」
エルナトにだけ許した特別な呼び方なのだ。
もにゃり、と唇の端を歪めながら、言葉を紡いだクラレットに、ヴェレは消え入りそうな声で「ごめんなさい」と俯いた。
「だから、怒ってねえって! ったく、調子狂うなあ」
「でも、」
「《蠍座》が愛称で呼び合うのは家族だけなんだよ。……お前のことはまだよく知らないし、その名前で呼ばれるのはぞわぞわする」
「……」
「だから、違う呼び方ならしてもいい。『姉ちゃん』とかな」
エルナトが引き取ったということは、つまりそういうことだろう。
普段は大人に囲まれている所為で年下の扱いが分からない。
これでいいのだろうか、と返事のないヴェレに一抹の不安を抱いていたクラレットの右手を、ヴェレがぎゅっときつく握り返した。
「ね、姉さん」
「……おう」
「ふふっ、クラレット姉さん」
「…………用もないのに呼ぶんじゃねえよ」
首筋の後ろが羽で撫でられているかのようにぞわぞわと擽ったい。
「行こう。こっちだよ」
「はい!」
「……何か急に元気だなあ」
その後も、ヴェレは終始ご機嫌だった。
短い足を懸命に動かして自分の後をついてくる彼女に、クラレットも釣られて笑みを浮かべる。
「ここだ」
「ここ?」
「おう。まあ、見てろよ」
クラレットがヴェレを連れてきたのは、リゲルの街の南西部にあたる――川辺の商業地区だった。
真新しい朝陽に晒されながら、人々が忙しなく走り回っている。
「……来たぞ」
「え、」
ほら、と黒い革手袋が指差したのは、色鮮やかなゴンドラだった。
船の側面に描かれているのは《魚座》の守護者、イクテュスを模した美しい紋様。
水の流れに逆らわずぐんぐんと街の中の水路に入ってくるそのゴンドラに、ヴェレはぱあっと目を輝かせた。
「イクテュスだ!」
「近くに寄って見てみるか? 知り合いが居たら乗せてもらえるか聞いてやるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。行こう」
さっきまで死人のような顔をしていたのが嘘のように、頬を薔薇色に染めたヴェレがクラレットの手を引いて駆け出す。
こちらに気付いたゴンドラの舵取りが呑気に手を振るのが見えた。
ヴェレが「姉さん!」と嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あんまり急ぐと転ぶぞ!」
「早く早く!」
「おい待てって、ヴェレ!」
呼びかけると、ヴェレは意外にも素直に言うことを聞いた。
「どうした?」
「……名前、初めて」
「え、」
「姉さんに名前呼ばれたの! 嬉しいです!」
勢い良く抱きついてきた少女を受け止める。
だが、自身の体質を思い出し、慌てて引き離そうとした。
それでも、ヴェレの小さな手は離れない。
「ふふっ」
「おい、ヴェレ。危ないって」
「んふふ」
「……聞いてねえな、こいつ」
ゴンドラが水路を進む水音が段々と近付いてくる。
水面に朝陽が落ちた。金色に染まった水飛沫が、寝惚け眼には少し痛いほどの眩しさだった。
自分とは違う、少し低いヴェレの体温が心地良くて、クラレットは生まれて初めて家族以外の人間の背に、自分から腕を回した。
「姉さん!」
水面と同じように朝陽に照らされたヴェレが、満面の笑みを咲かせる。
「だぁら、何だっつってんだろ」
「ふふ」
バカヴェレと口の中で呟きながら、手袋越しに伝わってきた体温に、クラレットも静かに口元を綻ばせた。
