「藤月(とうげつ)」
澄んだ声に名前を呼ばれて、藤月は後方へと視線を遣った。
普段は滅多に霊王宮から下りてこない叔母――葵乃宮(あおいのみや)が沈鬱な表情で己をじっと見ている。
「……霙(みぞれ)殿に赤子(やや)が宿ったそうですね」
「ええ。侍医の見立てでは女子のようで、今から誕生を待ちわびております」
「……っ」
「叔母上?」
葵乃宮の顔からサッと血の気が引いた。
今にも倒れそうな彼女の腕を取って、椅子へ座らせる。
「今朝方、華月様に言われたのです。新たなる神子が生まれる、と。まさか……まさか、貴方の御子が女子だったとは……」
蚊の鳴くような声で、そう告げると葵乃宮の頬を涙が伝った。
「私の代でお役目を果たすつもりでした。けれど、あの方のお言葉は絶対。よもや、国王の第一子を亡き者にせねばならないとは……。私の力不足です」
「そんなことはありませぬ、叔母上。貴女はこれまで、自らを犠牲にしてお役目を全うしてこられました。そんな貴女をどうして責められましょうか」
「そうはいきませぬ。この上は、毒を飲むも、腹を切るも喜んで受け入れましょう。どうか、この不甲斐ない叔母に罰をお与えください」
嗚咽を漏らして泣く叔母に何と言葉を掛けてやれば良いのか分からず、藤月はただそっとそのか細い身体を抱きしめた。
華奢な叔母の身体の中には、もう一つの魂がある。
それは、世界が創造されたときから存在している破壊の黒龍――華月の魂だった。
今や伝説と化した龍神を葵乃宮が身体に宿しているのには訳があった。
華月と対を成す白龍、旭日の封印を維持するためである。
かつて、百年戦争と呼ばれる激しい戦争があった。
増え続ける人間に危機感を抱いた旭日が、己の治めていた西の国を滅ぼし、東の国へと攻め込んできたのだ。
華月は東の民を従えて、彼を迎え撃った。
そうして、百年の時をかけて、旭日を世界樹の元に封じることが出来たのである。
だが、彼女の身体は長きに渡る戦いの所為でボロボロになっていた。
そこで、身体を修復するために霊王宮に籠り、魔力の波長が近い東の王族に魂を宿すことにしたのである。
葵乃宮は数えて七十九人目の神子だった。
八十人目の神子はなんとしても出すまいと、必死で役目に励んでいたが、その想いは今朝方虚しく四散したのである。
『葵』
藤月と葵乃宮を見下ろすように、華月が宙に浮かんでいた。
葵乃宮と同じく、いやそれ以上に暗い表情の彼女が藤月のすぐ隣に着地する。
『……貴女はとてもよく尽くしてくれました。ですが、完全に旭日を封じるには至りませんでした。次の神子を出したくなかったのは妾とて同じこと。酷なことを言っているのは、重々承知の上です。ですが、どうか分かってください』
今にも泣きだしてしまいそうな弱々しい声で華月は葵乃宮に頭を垂れた。
この国の守護神ともあろう彼女に頭を下げられて焦ったのは葵乃宮だけではない。
普段は冷静な藤月もこの時ばかりは髪を振り乱して、華月に顔を上げるように促した。
「どうか、お顔を上げてください!」
「藤月の言う通りです、華月様! 私如きに頭を下げないでくださいませ!」
悲鳴に近い二人の懇願に、華月は渋々と言った様子で顔を上げた。
夜空に浮かぶ三日月を思わせる金色が、薄い銀色の膜を張って、今にも零れ落ちてしまいそうだ。
『私如き、だなんて……。言わないで……。本当なら、貴女は結婚だって出来たのに……。貴女以上に妾を、そしてこの国のことを考えてくれた神子は他に居なかったわ』
もっと己を誇りなさい。
華月の一言が、今度は葵乃宮の瞳を濡らした。
じわり、じわり、と心の奥底から温かい何かが込み上げ、それは言葉になるより先に涙となって溢れ出していく。
「恐悦至極に存じます……っ」
震える声で感謝を述べながら右手の拳を左手で包み、頭を垂れた。
東の国で、最高礼とされるお辞儀をしてみせた葵乃宮に、華月が微笑む。
『藤月』
「はっ」
『……ごめんなさいね』
そう言って笑った華月の顔を、藤月はきっと一生忘れないと心に誓った。
それから五カ月が過ぎ、神々の涙が大地を濡らす美しい季節に、藤月の娘は産まれた。
父の凛々しい目つきと、母の美しい顔立ちを受け継いだその姫は生まれ月にちなんで『雫ノ宮(しずくのみや)』と名付けられた。
『それでは、これよりこの子は妾の神子。よって、王家には存在しないものとなります。よろしいですね?』
「……はい」
静かな声で藤月と霙が華月に同意を示す。
そして、彼女の腕に抱かれた我が子に微笑みを浮かべた。
「雫。どうか健やかに、そして美しい子に育ってください」
「華月様の言うことをよく聞くのだぞ」
まだ目もよく見えていない赤ん坊に別れを告げるのは、酷く心が痛んだ。
華月の神子に選ばれた王家の女児は、赤子の頃から霊王宮で過ごす決まりになっていた。
年に数度だけ王宮に下りることを許されるが、その存在が公にされることはない。
華月の依り代が旭日に露見することを避けるためである。
よって、王家と彼らに仕える五つの部族、そして霊王宮で暮らす侍女にしか彼女の存在は把握されていなかった。
◇ ◇ ◇
雫ノ宮が五歳になった年、彼女に双子の弟妹が産まれた。
それは王家にとって公に出来る初めての子供であり、国中は祝福の声に包まれていた。
「……雫も挨拶に伺っては駄目でしょうか?」
遠慮がちに告げられた小さな雫ノ宮の声に、華月は短く溜息を吐き出した。
この押し問答は弟妹が生まれてから今日に至るまで、既に数十回を超えている。
『駄目です。貴女の存在を知る者は少なければ少ないほど良いのですよ。まだ赤子の弟妹達を危険に晒したくはないでしょう?』
自然と応える声は固く、刺々しいものになった。
「ですが、今年はまだ母上に挨拶をしておりません」
『駄目なものは駄目です。良いですか、雫。霙は今、産後で疲れているのです。西の国と中央の国から祝いの品を受け取るのも、藤月が引き受けたのですよ。母上に余計な心労を増やすものではありません』
本来は王妃が産まれた赤子と共に各国の大使に礼を尽くすのが決まりであるのだが、双子の出産で疲れたのであろう。産後二週間が過ぎた今でも、霙は寝台から起き上がることもままならなかった。
「……」
『そう落ち込むこともありません。今夜は麗月(れいげつ)が遊びに来ると言っていましたから、その時に霙宛に文を渡しては?』
ぱあ、と顔を輝かせたかと思うと、雫はそのまま華月に一礼をして、自室へと走り出してしまった。
『まったく、そそっかしいところは本当に貴女にそっくりね。葵』
すぐ後ろの柱に隠れてやり取りを見ていた葵乃宮は袖で口元を隠しながら、くすくすと笑ってみせた。
「まあ、ひどい。私はあそこまでお転婆ではありませんでしたよ?」
『あら、そうだったかしら?』
「そうです」
ふふ、と華月も釣られて笑みを零す。
穏やかな昼下がりに、雫が紙に筆を滑らせる音が静かに響き渡った。
「雫」
「麗月叔母上!!」
きゃー、と嬉しそうに飛び込んできた姪の身体を、麗月は簡単に抱き上げた。
以前来たときと比べて少しだけ重くなった雫に、思わず笑みが零れる。
「少し背が伸びましたね。義姉上が見たら、きっとお喜びになられます」
「あ、の、母上は元気にしておられますか?」
「ええ。今日は少しお加減が戻ったようで、朝から粥と桃を食べておられましたよ」
「本当ですか! それは良かったです!」
にっこり、と笑い合う二人の微笑ましい姿を眺めながら、華月の胸中にちくりと痛みが走った。
本来ならば、彼女も弟妹の姿を見たいだろうに、自分の命に従って母にも会えず、その喜びを分かち合うことも出来ない哀れな人の子。
自分が彼女を依り代に選ばなければ、今頃、家族と共に談笑の輪を広げていてもおかしくはない。
『……雫』
「はい、華月様」
『今宵は月がよく見えそうな気がするのですが、夜の散歩に付き合ってはくれませんか?』
「本当ですか!? やったー!!」
歳相応に燥ぎ始めた姪と華月とを見比べて、麗月が眦を和らげる。
「ありがとうございます。華月様」
『礼を言うのはこちらの方です。貴女が来てくれたお陰で雫が元気になりました』
この国の人間は皆、優しさで満ちている。
柔らかな幸せに包まれている彼らを、決して悲しませまいと華月はゆっくりと瞼を下ろした。
華月の言う夜の散歩とは、彼女が本来の姿で空を飛ぶことを示していた。
雫は華月の背に寝転がって、夜空に浮かぶ星々を眺めるのが大好きだった。
「華月様? 今夜はキリを抜けて一体どこまで行くのですか?」
流石に何度も飛び回ったことだけあって、霊王宮のある霊峰キリの上空に点在する星は見慣れてしまったようだ。いつもとは違う景色に直ぐ気付かれてしまった。
『それは着いてからのお楽しみですよ』
「え~」
『ふふふ』
華月の曖昧な応えに雫は不満そうに唇を尖らせると、空に浮かぶ星を結んで遊ぶことにした。
拗ねたような口調で星と星を「あれはこっち。それはこれと」と言いながら、結び始めた少女に華月が声を殺して笑う。
目的の場所近くまで来ると、華月は人の形を取った。
そして、雫の手を引いて、優雅に空を歩いてみせる。
「か、華月様、お、落ちない? だ、大丈夫ですか、これ?」
『貴女にも浮遊魔法を掛けているから、大丈夫よ』
くすくすと笑いもって着地した先、眼前に広がる光景に、雫が息を飲む音が鼓膜に響いた。
「ここって」
王妃が住まう宮、蓮離宮(れんりきゅう)に二人は立っていた。
「母上の、宮」
『この時間なら、誰にも気づかれず霙に会えます。さ、行きましょう』
華月が満面の笑みを浮かべるのに、雫はぐっと唇を噛み締めて涙を堪えた。
普段は厳しく、恐ろしい面が強い華月であったが、時折こうして見せる優しさを知っているからこそ、雫は彼女に懐いていた。
「……誰です?」
『妾です、霙。ごめんなさいね。こんな遅い時間に』
貴女の愛し子を見せてもらいに来たのです。
御簾を上げ、顔を覗かせた守護神と愛娘の姿に、霙は声を上げそうになったのを寸でのところで堪えることに成功した。
軽く深呼吸することで息を整えると、ゆっくりと上体を起こす。
「久しぶりですね、雫。母に顔をよく見せてちょうだい」
いらっしゃい、と言わんばかりに両手を大きく広げた霙に、雫ノ宮は勢い良く飛び込んだ。
「見ない間にすっかり大きくなって……。小さい頃の私に瓜二つだ、と藤月様から聞いていたけれど、本当によく似ているわ」
「そ、そうですか?」
「ええ。けれど、瞳の色は藤月様と同じ澄んだ若草色。どんな宝石よりも美しい素敵な眼ね」
霙の膝の上で楽しそうに笑う雫を見て、華月は口元を綻ばせる。
神子とは言え、所詮は幼い少女。
久方ぶりに会えた母と談笑する姿に、そっと退席しようとすれば、目敏い雫に気付かれてしまった。
「何処へ行くのですか?」
『少し、風に当たってこようかと』
「ならば、私も共に参ります」
『なりません。貴女は霙と話したかったのでしょう? なれば、久方ぶりの親子の会話を楽しみなさい』
「そこに華月様が居ないのであれば、楽しさは半減してしまいます」
とても、五歳の少女には見えない。
一体誰の入れ知恵か。葵、もしくは麗月か。二人の顔がちらちら、と脳裏を掠めて、華月は苦笑しながら片手で両の瞼を覆った。
「葵の大叔母様が申しておりました。華月様は寂しがりやだから、一人にさせてはならないと」
どうやら前者であったようである。
図らずも、自己申告された犯人の言に、華月は眦を和らげた。寝台に座る二人にそっと近付いて、自らも腰を下ろす。
『霙。雫の弟妹達は今どこに?』
「お待ちください。連れて参ります」
霙は雫と話したことで少しだけ元気が出たのか、来たときよりも顔色が良くなっていた。
寝台を下りて隣接する部屋に入っていったかと思うと、その腕に小さな赤子二人を抱いて戻ってくる。
「わあ……! 可愛い!」
初めて対面した弟妹の姿に雫は鼻息荒く、彼らに手を伸ばした。
ふわふわの栗毛が三つ、寝台の上でぴょこぴょこと撥ねるのに、霙と華月が顔を見合わせて笑う。
それから一時間ほど、母と弟妹達との時間を堪能すると、雫は睡魔に襲われた。
常であれば、眠っている時間帯だ。
瞼がトロリと溶けた彼女の姿を見て、華月は眦を和らげた。
『それではそろそろ、連れ帰りますね』
「はい。今後とも、どうぞよろしくお願い致します」
『産後の疲れが取れるよう、術を掛けておきました。ゆっくり養生して治すことに専念なさいね』
「ありがとうございます」
ゆるり、と微笑んだ霙の旋毛にそっと口付けを施すと、華月は窓枠に足を掛けた。
迷いなく飛び降りた龍の姿を、霙が視線で追いかける。
その姿はあっという間に、闇に溶けて見えなくなった。