龍に愛された少女 後編

――随分と懐かしいものを見た。

桔梗は重い瞼を擦りながら、ふあ、と欠伸を噛み殺した。
身体を起こした先、窓の向こうに広がる景色に、人知れず口元が綻ぶ。

「……また、ここに戻ってこられるなんて」

夢にも思わなかった。
呟きは誰にも聞き咎められないまま、溶けて消える。

――はず、だった。

『ええ。本当に』

朝霧に包まれた光に照らされた黒髪が、ふわりと窓から流れ込んだ春風に揺れる。

「華月様」

自身のうちに宿る創世龍の一対――黒龍・華月が桔梗に背を向けて、階下の景色に目を細めていた。
ここは東の国、王都ミツバ。
華月が守護する地にして、桔梗の故郷であった。

『ふふっ。それにしても、随分と懐かしいものを見ていたわね』
「蘭月と鈴蘭の二人が生まれた日の夢を見るなんて、王城に泊まったからかもしれませんね」
『そうねぇ。妾の魔力が満ちているから、記憶が刺激されたのかも知れないわ。……あの頃の貴女は泣いてばかりで、どうしたものかと扱いに困ったものだけれど。二人が産まれてからはすっかり聞き分けの良いお姉さんになって、驚いたものです』

昔を懐かしむように華月の声が柔らかくなるのに、桔梗も釣られて眦を和らげた。

『おい、小娘』

珍しく二人の会話に割って入った旭日に、桔梗が「何でしょう?」と首を傾げる。

『誰か近付いてくる気配がするぞ』

姿を見せた旭日の眉間には深い皺が刻まれていた。

『あら、本当だわ。……でも、この気配は、』

華月が何かを告げるより先に控えめな声が襖を震わせる。

「……雫? 起きていますか?」

それは、桔梗の母――霙(みぞれ)の声だった。
昨日久方ぶりに挨拶を交わしたばかりの彼女が現れたことに、桔梗は瞬きを繰り返す。

「は、はい」

起きています、と消え入りそうな声で呟いてから、桔梗はハッと息を呑んだ。
寝台ではシアンが気持ち良さそうに眠っている。
彼を起こさないように、そっと寝台を降りると桔梗は静かに襖を開いて、その隙間に身体を滑り込ませた。

「ごめんなさいね。こんなに朝早く」
「いいえ。起きていましたから、気になさらないでください」
「……ふふっ」
「母上?」

ほとんど同じ高さの視点になった母が嬉しそうに眦を緩めたのに対し、桔梗は目を丸くする。

「大きくなったな、と思って」
「え、」
「それから、とっても美人になったわ」

小さな子どもを抱え込むように霙の腕が桔梗の頭を自身の胸に凭れかけさせた。
こんな近くで母と触れ合ったことのなかった桔梗は、またしても目を白黒させることしかできない。

「は、母上。苦しいです」
「ああ、ごめんなさい」
「あの、それで、そのご用件は?」
「ああ、そうでした。実はね、弟妹たちが貴女と貴女の婚約者に挨拶をしたいと言っていて」
「え!?」

弟妹たち、と霙が言うのと同時に、廊下の向こうがざわざわと騒がしくなるのが分かった。

「そ、それは今でなければなりませんか?」
「私も後になさいって言ったのだけれどねぇ。初めて見る姉上と義理の兄になるシアン殿に興味深々のようで……」

明日開催される予定の双子の誕生祭に招待された桔梗たちは、有給をもぎ取るためにこの一週間の業務を死に物狂いで熟し、昨日遅くに東の国へ到着したばかりだった。
特にシアンの方は桔梗と婚約してからというものアレン将軍から課せられた個別任務が増えた影響もあり、ここ数日はまともな睡眠を摂っていない。

「たいっ――シアンは、少し疲れているようなので、」

後ほど、こちらから伺いますと言うはずだった桔梗の言葉を大きな掌が遮る。

「え、」

振り返った桔梗の視線の先。
眠っているとばかり思っていたシアンが、ちゃっかり隊服を身につけて霙に頭を垂れた。

「おはようございます、妃殿下。このような恰好で御前に謁見すること、どうかお許しください」

公的な場ではないとはいえ、一国の王妃の前に見せるにしては、少々薄汚れた隊服にシアンが苦笑を浮かべる。
そんな彼に霙が笑顔のまま首を振った。

「いいえ。こちらこそ、こんな朝早くからごめんなさいね。朝食をご一緒にどうかしら、と思って」

身なりを整える時間はあっても、流石に目の下にあった濃い隈は隠せない。
霙もそれに気がついたのだろう。
廊下の奥、桔梗の弟妹たちに聞こえるように若干声を張った彼女に、桔梗が声に出さずに謝罪の言葉を形作る。

「それでは、準備ができたら大広間にいらっしゃい。藤月様も、貴方たちに会うのを楽しみにしていましたから」

国王の名前を出されて、今度はシアンが固まる番だった。
ぎくり、と肩を強張らせた彼の脇腹を、桔梗が肘で突く。

「はい、妃殿下。後程すぐにお伺いします」
「ええ。待っているわ」

春の日差しのような朗らかな笑みを浮かべた王妃の後ろ姿を見送って、二人は慌てて部屋の中へと引き返した。

「す、すみません! シアン大佐! 起こさないように気を付けたつもりだったんですけど……」
「おい」
「それから、母上の無茶も聞いてもらってしまって……」
「おい、桔梗」
「も~……本当にすみません……!」
「おいって言っているだろ、このバカ! 人の話を聞け!」

ゴン、と鈍い音が桔梗の頭に響く。
床を睨め付けていた桔梗は、シアンの拳が振り下ろされていることにも気が付いていなかった。
普段の彼女であれば、頭を守るなり、身を引くなりして避けてもいいところだ。
それが出来ないほど動揺しているのが見てとれる。

「落ち着け。それから『また』戻っているぞ」
「え?」
「……俺は今、お前の婚約者としてこの場に居るんだが?」

婚約者、という言い慣れない単語に、シアンの頬がうっすらと赤みを帯びた。
照れるシアンなどという珍しい姿に釣られた桔梗の頬も赤く色付く。

「す、すみません」
「いい加減になれろよなァ。もうすぐ半年経つんだぞ……」
「だ、だって」
「目が覚めたばかりの頃は呼んでいたくせに、今更何が恥ずかしいんだよ?」

じろり、と青の双眸が桔梗をきつく睨んだ。
西の国に広がる雄大な海を彷彿とさせる青の宝石に射抜かれて、桔梗が「う、ぐ」と喉を詰まらせる。

「……慣れないんだもの」
「何が?」
「貴方が私の、その、」
「婚約者だって?」

首を縦に振ることで肯定の意を示した桔梗に、シアンがゆっくりと、そして深いため息を吐き出した。

「はああ……」
「大佐?」
「だからよぉ、」
「はっ!? す、すみません」

完全に萎縮しきってぺこぺこと頭を下げる動きを繰り返す桔梗に、シアンは自身の髪をくしゃりと乱暴な仕草で撫でつけた。

「別に謝ってほしいわけじゃねえんだって。ただ、その……。それで呼ばれると業務中かと勘違いしそうになるっつーか、」
「うっ」
「まあ、ゆっくりでいいって言ってやりたいところなんだが。お前うっかり陛下たちの前でも言いそうだしな……」

婚約者になったことはまだ書面でしか国王の藤月(とうげつ)には報告していなかった。
それと言うのも、桔梗の戸籍が東の国になく、騎士として生活するために中央の国の住民権を獲得していたからである。
王族に名を連ねていないとはいえ、桔梗は藤月の血を引く存在である。
このまま婚約の手続きを進めて良いものかと渋ったシアンに対し、彼の父アレン――実は藤月とは魔導学校の頃からの友人でもある――が「普通に挨拶へ赴けばいい」と言ったのが先々週の出来事だ。
これに困惑したのはシアンだけではない。
もちろん、桔梗も例に及ばなかった。
何せ、霊王宮で過ごしたときから藤月に会えるのは月に二、三回のことだったのだ。
父が申し出を受け入れてくれるかどうか、桔梗にも分からなかった。

――そんな折だ。母から一通の手紙が届いたのは。

双子の弟妹が元服の儀を行うので、来賓として参加してほしいと。

「だ、だって、『大佐』と呼ぶのが癖みたいになっていて……」
「よし。じゃあ、こうしよう」
「?」

シアンの目が、弧を描く。
長い付き合いだからこそ、桔梗にはその表情の意味が嫌というほどによく分かった。
「碌なことを考えていない」ときにするそれである。

「間違えた数だけ、キスしてやるよ」
「はあっ!? ど、どうしてそうなるんですか!!」
「それなら恥ずかしくて呼び間違えたりしなくなるだろ?」
「た、確かにそうかもしれませんが……ってちょっと待ってください。人前でもする気ですか?」
「当たり前だろ。それが嫌なら、早く慣れることだな」

意地悪く細められた目に、桔梗は喉を詰まらせることしかできない。
絶対に言い間違えませんように、と胸の前で十字を切る。
そんな彼らの様子を、桔梗の中から華月と旭日が楽しそうに見守っていた。

◇ ◇ ◇

王都ミツバの中央に座す『東鹿城(とうろくじょう)』の大広間にシアンと桔梗が赴くと、そこには既に明日の主役である桔梗の双子の弟妹、蘭月(らんげつ)と鈴蘭(すずらん)が座っていた。
座布団と呼ばれる正方形のクッションに正座して談笑していた二人はシアンと桔梗が入ってきたのを皮切りに、静かな足運びで彼らに歩みを寄せた。

「姉上、おはようございます」

綺麗な二重奏に、桔梗は思わず笑みを溢した。

「おはよう。二人とも。他の弟妹たちは、まだ来ていないのかしら?」
「はい。先ほど、何やら廊下で話をしているのは見かけましたが、」
「しっ! ダメでしょ蘭月! どうして姉上にバラしちゃうのよ!」
「……おっと。聞かなかったことにしてください」

鈴蘭が蘭月の袖を引いて「何でもありません」と笑って誤魔化してみせる。
何か、悪戯でも考えているのか、それとも――。
桔梗が顔を曇らせながら、思考を巡らせる。

「あ、姉上様!!」

奇しくも、その答えは背後から鈍い衝撃となって、桔梗を襲った。
仮にも騎士の端くれであるというのに、全く気配に気が付かなかった。
脊髄反射で刀の柄へと伸びそうになった手の上へ、シアンの掌が重なる。

「落ち着け。よく見ろ」

振り返れば、シアンの背中にもぺたり、と張り付いた物体を目にして、漸く事態を飲み込むことに成功する。

「こ、こら、二人とも! もっと静かに近付こうと言ったのに! どうしてそう、落ち着きがないのです!」

後を追うように現れた少女に、桔梗はくすりと笑みを零した。

「おはよう、牡丹(ぼたん)。それに、椿(つばき)と楓(かえで)も」

自分と同じ栗色の髪をくしゃりと撫でつけながらそう言えば、桔梗の腰元に抱き着いた楓の顔がキラキラと輝きを増した。

「ず、ずるいぞ! 楓ばかり!! 姉上様! 次は俺も、俺も撫でて!!」

シアンに抱き着いていた椿が顔を赤くしながら、こちらに駆け寄ってくるのを見て桔梗が笑う。

「ふふ。順番に、ね。牡丹、貴女もいらっしゃい」

さあ、と伸ばされた手に牡丹の華奢な指先が遠慮がちに乗せられた。
途端に、鮮やかな朱に染まった妹の顔を見て、桔梗がますます笑みを深くする。
燥ぎ声を上げる桔梗たちからスッと身を引くと、シアンは遠巻きに彼らを見守ることにした。
ほんの一年ほど前までは考えもつかないような、穏やかな表情で談笑する婚約者殿の姿に、見ているだけで心が温かくなる。
シアンが知っている桔梗の表情と言えば、怒っているか、殺気に満ちたもの――胸の内を晒すような、あんな穏やかな表情を見るのは、実に子どもの時分以来だった。

「義兄上殿(あにうえどの)も、混ざってくればよろしいのに」

からかい交じりにそんなことを言った鈴蘭に、シアンは口を開けたまま固まった。
悪戯が成功した子供みたいに笑う鈴蘭の顔が桔梗そっくりで、長年会ったことがなかった、と言うのが嘘のように思える。

「あ、義兄上、だなんて止してください。気恥ずかしい……」
「ふふっ。でも、いずれそうなるのですから、今の内から練習しておくのも一興かと」

かあ、と頬が熱くなるのが嫌でも分かった。
聞き慣れない単語が脳内を侵食していくのに瞑目していると、シアンの様子を心配した桔梗が、弟妹たちを引き連れてこちらにやって来る。

「楽しそうね、鈴蘭」
「はい、とっても。シアン様は本当に姉上のことがお好きなのですねぇ、とお話ししていたところです」
「おい、鈴蘭。お二人を揶揄うのはその辺にしておけ。父上にお叱りを受けても、私は助けないからな」

今度は蘭月が鈴蘭の袖を引く番だった。
降参と言わんばかりに両手を上げた鈴蘭に、蘭月が視線だけで謝罪を寄越す。
桔梗はそれに苦笑を噛み殺すと、珍しく年下に言い負かされているシアンの手をそっと握った。

「私も、貴方のことが好きですよ?」
「…………ホンット、よく似たご兄弟でいらっしゃる」

脱力したシアンに向かって「楓、椿。今よ」と突撃命令を下せば、八歳児の双子が雄叫びを上げてシアンに飛びつく。

「うおっ!?」

一瞬だけよろめいたものの、そこは第一小隊が隊長。絶妙なバランス感覚で二人を捕まえることに成功すると、一人ずつ腕に抱きかかえてみせた。
きゃっきゃと燥ぐ彼らを尻目に、桔梗はあまり言葉を交わしていなかった牡丹の隣にしゃがみ込んだ。
姉の行動を真似してか、反対側では蘭月たちが同じように腰を下ろしている。

「ねえ、牡丹?」
「は、はい。桔梗姉様」
「突然、もう一人姉がいると聞かされて驚かなかった?」

牡丹を挟んで、双子の弟妹たちが息を呑んだのが、桔梗には分かった。
彼らとて面と向かって桔梗と会うのはこれが初めてだ。
桔梗にとっても、双子たちは赤子の姿のまま時を止めてしまっている。
姿形は似たものを感じさせても、突然現れた『姉』のことをどう思っているのか。
桔梗は、まだ言葉に衣を着せることを知らぬ妹にその答えを求めることにした。

「姉上、」

蘭月が戸惑ったように声を震わせているのが伝わってくる。
けれども、桔梗は彼を見ることはしなかった。
膝に頬を押し付けて、牡丹が何を言うのかをじっと待つ。

「……私は、」
「大丈夫。ゆっくりでいいわよ」
「…………最初は、びっくりしたんです」
「ええ、」
「でも、兄上や姉上が桔梗姉様のことを教えてくれたから、ちっとも不安じゃありませんでした」
「え?」

がばり、と顔を上げた桔梗の視界にはバツが悪そうにそっぽを向く双子の姿があった。

「まったく、お前たちはどうしてそう、口が軽いんだ……」
「もう、牡丹ったら。姉上にも秘密よ、と約束したでしょう?」
「あ! ご、ごめんなさい!」

こつん、と牡丹の額を突いた蘭月は鈴蘭と顔を見合わせると、唇を尖らせながらぼそぼそと昔話を始めた。

「まだ幼かった頃、私と鈴蘭は一度だけ姉上のお姿を見に霊王宮へと忍び込んだことがあったのです」
「!?」

蘭月が溢したそれに桔梗は目を剥いた。

「あ、もちろん。父上にはこの話は内緒にしてくださいね。あとが怖いですから」

鈴蘭が「何卒ご内密に」と片目を瞑るのに、桔梗の身体から力が抜ける。

「な、何を考えているの! 貴方たちは!」

次いで、声を荒げた姉に、蘭月と鈴蘭はムッと更に唇を尖らせた。

「だって。見たかったんですもの」
「何を……」
「姉上ばかりずるいではありませんか」
「?」
「時折、華月様と私たちの寝姿を見にきていたでしょう?」

桔梗は唸り声を上げそうになるのを必死のところで堪えた。
どうして、そんなこと知っているのだと瞑目していると自身の内側からくつくつと笑い声が響いてくる。

『ふ、ふふっ。もうダメだわ。堪えられない。――桔梗、貴女一度だけ二人に後を尾けられていたことに気付いていたではありませんか』
「か、華月様!? 一体何を、」
『ほら、二人の五歳の誕生日に。どうしてもお祝いがしたいと言って、こっそり「星露宮(ほしつゆのみや)」に忍び込んだことがあったでしょう』
「…………あ~」

桔梗は思わず顔を覆った。
すっかり忘れていたとばかり思っていたそれが、華月の一言で瞼の裏にはっきりと浮かび上がってくる。
てとてと、と付いてくる足音に気が付いていた。
けれど、どうしても振り切ることが出来ずに放っておいたのだ。
それが彼らの好奇心を育むことになろうとは夢にも思わずに。

「だからと言って、霊王宮に忍び込むなんて……」
「それも、シアン様と親善試合なさっている真っ最中でした」

内に眠る武人の血が騒ぐのか、蘭月の目が爛々と輝きを帯びる。

「よりによって、そんな場面を……」
「はい! 姉上、とっても格好良かったです!」

次いで鈴蘭が心底嬉しそうにそんなことを宣うものだから、桔梗は今度こそ白旗を上げることにした。
受け入れてもらえるかどうか不安に思っていたことが心底馬鹿らしい。
彼らは皆、父と母を同じくする弟妹なのだ。
同じ血が流れている。
それだけで、十分だった。

「…………そんなところで、何をしている」

びり、と肌を刺す冷たい殺気に、桔梗は息を呑んだ。
背もたれにしていた襖が僅かに開いて、父王が顔を覗かせている。

「おっ、おはようございます父上」

一体どこから聞かれていたのか、と動揺を露わにする蘭月たちに、桔梗が先んで立ち上がった。

「少しばかり昔話に花を咲かせていただけです」
「そうか」
「はい」
「なら、私も混ぜてもらうことにしよう。――婿殿」

ちら、とシアンを真っ直ぐに見つめながら、藤月はいたく真面目な顔をしてそう言った。
呼ばれた方はもちろん、眼前で真面にそれを浴びた桔梗の顔が一瞬のうちに朱に染まる。

「ち、父上! からかわないでください!」
「いやなに、きちんと挨拶を受けていなかったからな。名を忘れてしまった」
「父上!」

大広間に笑いの花が咲き乱れる。
肩を震わせて笑う夫の姿など久しく見た覚えがない、と最後にやってきた霙が、心底嬉しそうにその光景を見て微笑んでいた。

◇ ◇ ◇

翌日。
元服の儀が終わる頃には、辺りはすっかり茜色に染まっていた。
慣れない行程に、疲労感がドッと二人の肩に覆い被さる。

「つ、疲れたぁ」
「もう一秒でも早く風呂に入って寝たい」
「同感です」

ふう、と同時に溜息を吐き出して、二人は宛がわれた部屋のソファへ溶けるように身体を沈めた。
本来、桔梗は王家の席に名を属していないので、第一部には参加しない予定だった。
ところが、主役である蘭月と鈴蘭、そして父王、藤月の計らいで、目立たない端の方に席が用意されていたのだ。
これには、桔梗の方も驚いてしまって、式典が始まる前に危うく号泣してしまうところだった。

「最後の舞、綺麗だったな」
「ええ。とっても」

式典の終わりには、元服を迎えた王族――蘭月と鈴蘭、そして二人に宿る龍が、民とこの地を守護する華月に謝意を伝えるために舞を踊るのが習わしとされていた。
煌びやかな衣装に身を包んだ二人は、思わず息をするのも忘れるほどに美しく、桔梗とシアンの目と心を奪った。
そこへ、何を思ったのか、華月と旭日が姿を現し、一緒になって舞を踊り始めてしまった――桔梗は泡を吹いて倒れそうになった――のだが国民も家族も、皆が喜んでくれたようで、そっと胸を撫で下ろしたのであった。

「そう言えば、気になったことが一つだけあるんだが」
「何でしょう?」

小首を傾げながら、シアンに尋ねると、彼は立ち上がって「それはアレか? 王族の癖なのか?」と訳の分からないことを小声で言いながら、桔梗が座っていた一人掛けのソファの肘置きに腰を下ろした。

「第一部が終わるってときに、王族だけ揃って霊王宮の中に入っていっただろう? アレは何の儀式だったんだ?」
「ああ……。アレは『授けの儀式』ですよ。元服の祝いに刀と『真名(しんめい)』を与えられるんです」
「真名?」
「ええっと、真名って言うのは、西の国や中央の国で言う『ミドルネーム』? みたいなもので、東の国では生涯の伴侶にのみ、その名前を教えるしきたりがあるんです」
「へえ」

シアンは興味深そうにふんふんと頷きを落とした。
それに小さく笑みを零していると、何かに気が付いたように「あ」と声が上がる。

「お前の真名は何て言うんだ?」
「え?」
「……生涯の伴侶になら、教えても良いんだろう?」

ニヤニヤと途端に人の悪い笑みを浮かべたシアンから、桔梗はぎこちなく視線を外した。
しまった、と思っても既に後の祭りである。

「なあ、桔梗?」

教えてくれよ。
甘い低音が耳元に吹き込まれる。
桔梗がその声に弱いことを知っていて、シアンは笑いながら耳朶に口付けた。

「…………わ、私の場合、皆とは逆ですから」
「逆?」
「私は華月様の神子ですから、王家に存在しない者とされています。本来であれば『雫ノ宮』というのが真名にあたりますが、私は元服の日に、父上から正義を冠する『桔梗』という花の名を授かりました。なので、そちらが真名のようなものなのです」

二つ目に与えられる名が、本来の真名なのだ、と桔梗は視線を右往左往させながら言った。

「桔梗」
「はい?」

顔を上げれば、真摯な表情で己を見つめるシアンと目が合った。
どくり、と心臓が一際大きな音を立てる。

「大佐?」

微動だにしない彼を不思議に思って左手を伸ばせば、存外に強い力で腕ごと引っ張られてしまった。

「わ、ちょ、っと」
「…………………雫ノ宮」

久しく呼ばれることのなかった、懐かしい名前が鼓膜を震わせる。
その名前を知っているのは、霊王宮を訪れたことのある者と――家族だけだった。
シアンも数年だけ東の国に滞在していたが、その名で呼ばれたことは数える程度でしかない。

「~~っ!?」

ぼふっと音が出るのではないか、と思うほど、桔梗の顔は赤く茹だった。
体内の血液が沸騰したかのように、シアンと触れ合っている場所が熱い。
軽く食まれた唇が離れていって初めて、キスされたことに気付くほど、桔梗は動揺していた。

「あ、の……っ」
「雫」

ぎくり、と強張った桔梗の肩へシアンは額を押し付けた。

『生涯の伴侶にのみ、真名を教える』

一夫一妻制を重んじる東の国らしい、秘密めいたしきたりに昂揚を覚えたのも事実。
けれど、実際に口にしてみると、その破壊力にこちらがダメージを受けることになろうとは思ってもみなかった。
雫ノ宮と呼んだときの桔梗の表情が頭から離れない。
じわり、じわり、と白い肌を赤く染め上げていく、その様に、知れず身体の芯が熱を帯びた。
そう言えば、今朝方、中途半端に触れたきり、彼女に触れていない。
それに気が付くと、もう駄目だった。

「……あー、その、殿下?」

口を衝いて出た懐かしい呼び方にまたしても動揺を見せた桔梗に、ずい、と顔を近付ける。

「な、なん!? い、一体何を、」
「お気に召して頂けたようで、何よりなんですけどねぇ。今度は俺の言うことも聞いてほしいと言うか……」
「?」
「ベッドの上でも、可愛く名前を呼んでほしいなぁ、なんて」

にこ、と笑ったシアンの目が全く笑っていない。むしろ、獲物を捕らえた獣の如く鋭い眼光で桔梗を見つめていた。
腰の辺りが、ジンと甘い痺れを纏うのに、桔梗はあわあわ、と唇を震わせる。

「な? 良いだろ? 雫ノ宮」

ちゅ、と啄むだけの口付けが落とされて、それから。

「や、」
「や?」
「やさしくしてください」

顎を殴られたかのような衝撃に何とか堪えると、シアンは息が乱れそうになるのを必死に抑えて、桔梗の身体を抱き上げた。
甘い彼女の香りが鼻腔を満たす。
火照った桔梗の体温に煽られて、ベッドに下ろすや否や、赤く熟れた唇へと乱暴に噛みつくのだった。