太陽と月に抱かれて

世界樹での激闘から二年。
その日、旭日は珍しく機嫌が良かった。
今ではすっかり宿主として定着した桔梗とも、比較的穏やかな日々を過ごせている。
それこそ、魔力も回復し、気ままに飛び交う旭日を咎めることもなくなるほど、互いに心を許していた。

「あ! 旭日様! 丁度良いところに!」

ふんふん、鼻歌混じりに空中散歩を楽しんでいた旭日に声を掛けたのは、今まさに頭の中に浮かべていた人物――桔梗である。

『どうした、血相を変えて。何かあったのか?』
「午後からどうしても外せない会議が入ってしまって……。急だったので、『この子』を頼める人が見つからないんです」
『ほう』
「なので、少しの間だけシュラを見ていてもらえませんか!?」

言いながら、既に腕の中の赤子を己に差し出すあたり、大人しい容姿をしているにも関わらず、頑固なところがある己が片割れを連想した。

『……良いだろう。今日の我は機嫌が良い。華月を出すのであれば、二人でこれの守りを引き受けてやる』

旭日がそう言って、人の悪い笑みを浮かべながら赤子を受け取った。
桔梗は迷う素振りも見せず、一も二もなく頷いた。

「我が左腕に宿りし龍――」
『おやめなさい。貴女の魔力を使って妾を外に出せば、魔力の消費が激しいと何度教えたら分かるのです?』

怒った顔も美しい対の存在が姿を見せる。
黒い髪を靡かせて、桔梗を諌める彼女の横顔に旭日がにんまりとほくそ笑む。

『早う、行かねばならんのではないか?』
「あ!! 本当だ!! すみません、華月様!! お説教はまた後でゆっくり聞きますね!!」

助け舟を出してやると、桔梗はこれ幸いと言わんばかりに飛び乗った。
まるで春の嵐か突風である。忙しなく走り去っていく愛し子の後姿に、華月が肩を竦めながら旭日を振り返った。

『あーさーひー?』
『ふふ、恐ろしい。お前のそんな顔を見たら、赤子が泣き出してしまうな』
『まったく、もう! 妾に直接呼びかければ良いものを。いつも桔梗をからかって』
『あれで遊ぶのは楽しいからな』
『まあ、それに関して否定はしませんけれど』

鈴を転がしたような声で笑う華月に、旭日はシュラを抱いていない方の腕を伸ばした。
夜を彷彿とさせる長く美しい黒髪を指先に絡めると、そっと唇を寄せる。

『それにお前の穏やかな表情(かお)をこうして再び見ることが出来たのも、あれのお陰だからな。赤子の世話くらい、喜んで引き受けよう』
『旭日……』

ぽっ、と頬を薄桃色に染めた華月に、旭日が喉を鳴らす。
すると、その振動に驚いたのか、腕の中でシュラが「ふえ」と泣き声を漏らした。

『何だ、シュラ。俺は今、華月を口説くので忙しい。少し大人しくしていろ』
「う、ううあああん」
『…………』

顔を真っ赤にして泣き叫ぶ赤子に旭日の眉間に皺が寄る。
そんな彼の姿を見た華月が、彼の腕で愚図る小さな存在へと腕を伸ばした。

『よしよし。大丈夫よ~』
『おい、華月……』
『赤子の面倒ならば、私の方が格段に勝りますね』

得意げに目を細めた華月に、旭日が瞑目していると、泣き喚いていたはずのシュラが鼻を鳴らしながら、華月の髪で遊び始めた。

『……ほう? 一体どんな魔法を使ったのだ?』
『簡単ですよ。貴方の抱き方だと、お尻の辺りがムズムズして嫌だったみたいです。こんな風にそっと手を添えて抱いてあげれば、大抵の子は落ち着きを取り戻します』

ね、と微笑む華月の愛らしい姿に、思わずその頤に手を掛ける。

『旭日』
『ん?』
『駄目ですよ、子どもの前で』
『まだ赤子であろう? 平気だ』
『だ――』

続きの言葉を紡ぐより早く、旭日の唇が華月のそれを塞いだ。柘榴のように赤い舌が、華月の唇をこじ開けようとノックを繰り返す。
いやいや、とシュラを抱いたまま首を振る華月に、旭日の目の中で炎が燻った。

『なるほど、お前が拒むと言うのであれば、俺にも考えがある』

右手を使って宙を十字に裂く。

『来い、十六夜』

旭日の声に呼応して現れたのは、華月の眷属・十六夜である。
彼女は自分を呼び出したのが、主の片割れということに気付くと、地面に片膝を立てて、深く頭を垂れた。

『何なり、と』
『これの守りを頼む』
『承知いたしました』

流麗な動作で華月の腕から赤子を抱き上げると、二人の数歩後ろに控えた。

『いつの間に十六夜を、』
『桔梗の魔力に馴染んできたからな。俺の声にも応えるようになったのだろう』

ふん、と鼻を鳴らした旭日に華月が目を細める。

『まったく、貴方ときたら。そういうことに魔力を使わずとも、桔梗が戻ってくるまで、我慢をすればよいだけの話でしょうに……』
『俺に堪え性がないことなど、お前が一番よく知っているだろう』
『……旭日』

華月の手が、旭日の頬に触れる。
少しだけ尖った爪先が肌を掠める感触に、旭日はじっと片割れの目を見つめた。
ゆっくりと華月の顔が近付いてくる。
ふに、と彼女の唇が触れたのは、ただの飾りと成り果てた右目だった。
己が力を使えば、簡単に回復することが出来る。
だが、旭日も華月も、それを良しとはしなかった。
これは、二人の犯した罪を象徴している。
痛みも悲しみも全て、二人で分け合おうと言い出したのはどちらだったか。
いつの間にか気が付くと、華月が傷付いた右目に触れるのは、旭日を甘やかすときの合図になっていた。

『少しだけですからね』
『ああ』

そう言って、ぽんぽんと膝を叩いた華月に、旭日が柔く微笑みながら身体を預けた。

◇ ◇ ◇

季節は、もう直ぐ春を迎えようとしている。
陽の光を纏った風が、肌を優しく撫でていった。

「お前、冗談も休み休みにしろよ!?」
「だって、他に頼める人が居なかったんだもの!」
「だからって、創世龍に自分の息子を預ける奴があるか!」

ゴンッと鈍い音が桔梗の額に響く。

「ぼ、暴力反対! 家庭内暴力反対ーっ!!」
「止めろ、バカ! 往来でおかしなことを叫ぶんじゃねえ!!」
「何よ! 元はと言えば、シアンが第三小隊の鉱物探索に首を突っ込むからいけないんでしょう!? だから私が会議に呼び出される羽目になったんじゃない!!」

旭日が春の嵐と称した桔梗が、今度は雷鳴の如く非難の言葉をシアンに浴びせながら、往来を駆ける。
うぐ、と言葉を詰まらせたシアンに内心で勝利のガッツポーズを決めると、桔梗は旭日達の姿を探した。
別れたのは騎士団本部の近くだったのだが、あれから時間も経過していることもあり、旭日と華月の姿はそこに無かった。

「あ!」
「どうした、見つけたのか!?」
「ちょ、ちょっと静かにして! 起きちゃうでしょ!」

三人が、と続いた言葉にシアンは頭の上に疑問符を浮かべた。
三人ってどういうことだ、と桔梗に詰め寄るよりも先に視界へ飛び込んできたそれに思わず「は?」と声が零れる。

「……こいつ凄いな。将来大物になるんじゃないか?」
「それはどうなるか分かりませんけど、良い仕事をしたのは確かですね」

ふふ、と夫と同じ銀色の髪を撫でてやると、シュラが眠ったまま目元を和らげた。
シュラを抱えた華月が倒れ込まないように支えながら、旭日が木の幹に背を預けて眠っている。
穏やかな表情で気持ち良さそうに眠る二人を見るのは初めてで、桔梗は思わず胸が熱くなった。

「暫く寝かせておいてやろう」
「ええ」
『宮様』

懐かしい呼び方に振り返れば、十六夜が珍しく御簾面を外して笑っている。

『ようございましたね』

華月にそっくりな彼女に微笑まれて、桔梗は込み上げた涙をグッと我慢した。
ええ、とか細く零した妻の声音に、シアンがそっと頭を抱き込む。

「ったく、お前はいくつになっても」
「だってぇ……」
「泣くのはいいけど、俺の前だけにしろよ」

眦を唇が掠めていく。
ぎしり、と音を立てて、桔梗の身体が固まった。

「お前の泣き顔は俺のなんだから」
「と、唐突ないじめっ子発言は辞めてもらえます?! セクハラですよ!!」
「夫婦だから何の問題もないだろ」
「情操教育に問題大ありです!」

寝かせておいてやろう、と言い出したのはこの男だったはずなのだが、すっかり騒がしくなった二人の様子に、旭日は狸寝入りを早々に諦めることとした。
いくつになっても落ち着きのない姫君とその騎士に、呆れて溜め息も出ない。

『おい』
「ひっ!? あ、旭日様、起きたんですか?」
『静かにしろ、童ども。華月とシュラ起きる』
「す、すみません」

しゅん、と項垂れた桔梗に、旭日は片手で両の瞼を覆った。
最近困っていることが一つだけあるとするならば、かつて仇敵であったこの娘が可愛く見えて仕方ないことである。
華月が選んだだけの魔力を持ち、また自らの宿主ともなった彼女は、人間でありながら龍を統べるものとなった。

『少しは母になった自覚を持て』
「あ、旭日様にまでお説教されたくないです」
『この口か? この口が冗談を垂れるのだな?』
「ふひはへん」
『迎えにきたのならば、早うシュラを連れ帰れ。俺はもう暫し、華月の寝顔を堪能するのでな』

恥ずかしげもなくそんなことを宣う創世龍に照れたのは桔梗とシアンだけではない。
当の華月も目を覚ますに覚ませなくて、人より尖った耳を真っ赤に染めていた。
大人たちが慌てふためく中で、シュラだけがスウスウと可愛らしい寝息を立てている。

すぐ傍まで穏やかな春の足音が近付いてきた、そんな夕刻の出来事だった。