「良いか、お前たち。直にこの境界は崩れる。そうなる前に、最後の門を使って外に出ろ」
母から告げられた言葉に、少年と少女は愕然とした。
門の魔力を狙って次元の魔物が現れるようになり、母は門を壊すことを選んだ。
「これは俺のミスだ。俺がもう少し早く門を破壊することを決めていれば、魔物が来ることもなかった」
魔物の牙を剣背で受け止めながら、母の――ナギの顔が歪む。
「母さん!!」
少年は叫んだ。
一緒に行こうと、そう意味を込めて。
だが、ナギはそれを拒んだ。
ふるふると弱々しく首を横に振り、少年と彼の隣に立つ少女を視線で辿る。
「ルナ。ソルを連れて、今すぐここを離れろ」
少女の目は真っ赤に濡れていた。
緋色の宝石が今にも零れ落ちんばかりに見開かれ、ナギを凝視する。
「行け。決して振り向くな。ただ、門に向かって走れ」
話をしている余裕もなくなってきたのか、ナギはそれだけ告げると眼前の魔物へ剣を振るった。
キィン。
空虚の世界で、乾いた鉄の音が響き合う。
「ルナ!!」
早く行け、とそう言わんばかりにナギが娘の名前を叫んだ。
ルナはグッと歯を噛み締めると、未だ愚図る弟の手を引っ掴んで、走り出す。
「離せ、姉ちゃん!! 母さんが!!」
「いいから、走れ!! 門を使って助けを呼べば、ここは崩れないかもしれないだろ!!」
ルナが握ったソルの手に力を込める。
手が真っ白になるまでの強い力で握られて、ソルは漸く我に返った。
「ごめん。ごめんよ、姉ちゃん」
「謝るなら、俺じゃなくて母さんに謝れ」
二人はそれっきり黙り込むと、眼前に迫ってきた白い門へ手を伸ばす。
背後では未だぶつかり合う金属音が響いていた。
ソルとルナは、互いに見つめ合うと、ゆっくりと額を合わせる。
『我らアリスの子。聖なる門よ。我が声に応え、異なる世の入り口を開きたまえ』
鏡のように反射する二つの声に、門はゆっくりと応えるようにその身体を左右に揺すった。
白い光が差し込むその先へ、ソルとルナは片足を掛けた。
「すぐ戻るよ、母さん」
二人はそう言い残すと、門へ飛び込んだ。
綺麗な夢を見た。
そこは海の空が広がっていて、黄昏に染まる空が一等美しく、目を奪われる。
「ん、」
頭が重い。
痛む首を緩慢な動作で持ち上げて、四肢が無事であることを確認する。
ルナは目を閉じたまま隣に居るはずの弟を手探りで探した。
「ソル?」
すぐに見つけた指先は酷く冷たくなっていた。
「ソル、ソル!!」
名前を呼べば、ゆっくりとその瞼が持ち上がった。
金と朱の宝玉が真っ直ぐにルナを見つめる。
「姉ちゃん? ここ、どこ?」
「良かった。返事がなかったから、死んだのかと」
「え、縁起でもないこと言うなよ」
冷汗を流すソルの肩を笑いながら叩くと、ルナは重い身体に鞭打って立ち上がった。
「……海の空だ」
ソルも立ち上がって姉の隣に立つ。
目の前に広がった光景に思わず息を飲んだ。
朝焼けに染まる海が、きらきらと反射して辺りを照らす。
ちら、と視線を下に向けると、雲の地面が光を浴び、眩いばかりに輝いている。
「すごい」
「ああ」
二人して、暫く見惚れていると不意にどこからか鐘の音が聞こえてきた。
「あっちからだ」
「行ってみよう」
鐘が鳴るということは人が居るということ。
二人は四つの目を輝かせて、走り出す。
懐かしい声がする。
ずっと待っていたあの声だ。
「……門が開いた」
「え?」
ヴォルグの声にアスモデウスは耳を疑った。
ずっと開くことのなかった門が何故、と思考を彷徨わせ、辿り着いた答えに表情を苦く染める。
「もしや、ナギの身に何かあったのでは……」
「分からない。でも、二つの魔力がこちらの世界に入ってきた」
「あら。私でも気づかないほどの微量な魔力を感じ取るとは流石、陛下」
「魔界樹の方から、こちらへ向かってきているようだ」
ヴォルグは座していた椅子から立ち上がり、窓に手を付いて外の景色を眺めた。
あの日、ナギと別れた日と同じ澄んだ朝焼けの空がヴォルグの目を優しく刺激する。
「ナギ」
細く零された懐かしい名前を耳に、アスモデウスはヴォルグが告げた魔力の正体を確かめるべく部屋を後にした。
人の波に飲まれないよう、ソルとルナは互いの手を握り合いながら、一歩ずつ慎重に前に進んだ。
右を見ても、左を見ても、他人で溢れている光景を見るのは実に初めてのことだった。
母以外の人間を見ることが初めての二人にとって、道を賑わす人間たちはまさに未知の存在である。
きょろきょろと辺りを忙しなく見渡しながら歩いていると、不意に何かが視界の端で光った気がした。
斜め後方、人が波のように唸るその先に、光の正体は居た。
「まったく。兄上ったら! 一体いくつになれば、約束の時間を守れるようになるのですか!」
「す、すまない。花の世話をしていたら、夢中になってしまって……」
「前回も、前々回もそう言っていたでしょう!! もっと時間に余裕を持って、ってあら、どうしたの? 何か用かしら?」
じっと凝視していたのがいけなかったのだろう。
その美しい銀の人はソルとルナの視線に気が付いて、こちらに近付いてきてしまった。
頭に大きな角がある銀の人と、肌に鱗が浮かんだ銀の人。
「お前がじっと見るから、こっちに来ちゃったじゃないか!」
「ご、ごめんよ、姉ちゃん! き、綺麗だなと思って」
こそこそと、姉に謝罪をすれば、その小さな声を拾ったのか、鱗が浮かぶ銀の人がくすくすと笑いながら、ソルの頭に手を置いた。
「まあ。ありがとう。貴方の瞳もとっても綺麗よ。そう、まるで、ヴォルグ様の……」
そこまで言って、銀色の髪を持つ美しい女性が、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「貴方!! その目!! 紅色ではなくて!?」
「何!?」
「ほら、兄上。よく見てください!! ヴォルグ様と同じ、紅色ですよ!!」
ヴォルグ様、と呟かれた名前に、ソルとルナはどこか聞き覚えがあるような気がして、互いを見つめ合いながら首を傾げた。
「……よく見ろ、レヴィ。この子供。ナギと同じ浅葱色の髪だぞ」
「まさか……」
今度こそ、その名前に二人は心当たりがあった。
「ナギって、母さんのこと? 二人とも、母さんのこと知っているの?」
「母さんの知り合いなら話が早い。母さんが大変なんだ! 助けてくれ!」
女性が白目を剥いて倒れそうになるのを、大きな角の男性が優しく受け止める。
「ナギが大変なのは分かったから、少し落ち着きなさい。城の方で話を聞こう」
「あら、出迎える手間が省けましたわね」
空から舞い降りた長身の女性に、二人の目は釘付けになった。
「ふふ。何とまあ愛らしい」
撫ぜるように二人の頬を指先で辿った女性を大きな角を持つ男性が咎める。
「アスモデウス様。お戯れが過ぎます。すっかり、怯えてしまったではないですか」
「ごめんなさいね。小さいものを見るとつい、愛でたくなってしまって」
肩を竦めた女性――アスモデウスが固まってしまった二人の前に膝をついて微笑んだ。
「初めまして、アリスの子供たち。私の主が貴方たちに会いたがっているのだけれど。一緒に来てもらえるかしら?」
優しい声に、ソルとルナは瞬きを落として、ゆっくりと頷いた。
アスモデウスは小さな手を両手に取ると、魔王城に向け、足を踏み出す。
小さな天使を連れてアスモデウスが現れたのは城を出てから、僅か数十分後だった。
「それは?」
ヴォルグの目は、彼女が連れてきた幼子に向けられた。
二人はヴォルグの目を真っ直ぐ見つめている。
紅と金の目を持つ少年と、緋色の目を持つ少女。
どこか懐かしい面立ちの彼らを見て、ヴォルグは眉根を寄せた。
「ナギ?」
ただ一人、焦がれる女性の名前を零したヴォルグに、少年少女はぱちぱちと瞬きを落とした。
『母さんを知っているの!?』
アルトとソプラノのハーモニーがヴォルグの耳朶を震わせる。
キーン、と未だ耳の奥で声が反響しているような妙な感覚を持ちながら、ヴォルグは彼らの顔をもう一度見つめた。
「……ああ、知っているとも。とても、よく知っている」
二人の頬に触れ、ヴォルグは笑みを噛み殺した。
どことなく自分の幼少期の面影が見え隠れする彼らを優しく抱きしめる。
ここに彼らが現れたということは、ナギの身に何かあったということだ。
「母さんを助けて。夜色の王様」
少女の言に、ヴォルグは目を見開いた。
「あちらで何があったんだい?」
跪いて二人の目と目を合わせれば、彼らは互いに目配せをしてそれから、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
子供たちの話を聞いて、ヴォルグの目つきが険しいものに変わった。
すぐにでも飛び出さんばかりの勢いの彼を、書類を持って現れたマモンが止めに入る。
「毎回お前を止める俺の身にもなれ!」
「……」
「お前を含めたナギの救助隊を編成する。それまで、彼らと共にここで大人しく待っていろ」
深い溜め息と共に部屋を出たマモンの後姿を見送って、ヴォルグは自分の背に隠れている少年と少女に笑いかけた。
「お腹、空かない?」
ヴォルグの声に、二人の目がきらきらと輝きを帯びる。
そう言えば、ナギもおやつの時間になると同じように目を輝かせていた。
小さく笑みを零すと、ヴォルグは二人の手を引いて、食堂に向かった。
双子の名前は太陽と月から貰ったのだ、と姉のルナが誇らしそうに言った。
母は、自分たちを見ていつも誰かを思い出していたと弟のソルが、ヴォルグから手渡されたアップルパイを頬張りながら、笑う。
「そ、そうなんだ」
ヴォルグは熱くなる頬を冷やすようにレモネードを煽った。
思い違いでなければそれはきっと自分のことなのだろう。
自分が彼らを見てナギを重ねたように、ナギもまた彼らを見て自分を思い出していたのだ。
「陛下」
アスモデウスが影からゆっくりと姿を見せる。
準備が整った、とその顔に書かれていた。
ヴォルグは緩慢な動作で立ち上がると、二人の子供たちに別れのキスを施した。
「君たちの母さんを連れて、すぐに戻るよ」
ヴォルグの言葉に二人の表情が明るくなる。
アスモデウスを従えて、ヴォルグは城の外に出た。
「ああ。懐かしい。この門が現れるのを何年待ったことか」
白き門が硬く口を閉ざして魔界樹の丘に鎮座していた。
アスモデウスが軽く扉を押せば、それは容易く左右に開いた。
「扉の制御が脆くなっている。急がねば、こちらに戻れなくなります」
付いて行くと聞かなかったベヒモスが眉間に深い皺を寄せる。
それに頷きを返すと、ヴォルグは剣を握って門の中へ飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
子供たちがここを離れてどれくらい経っただろうか。
「嘘だろ」
斬っても斬っても、キリが無い魔物に嫌気が差していたナギの前に、は現れた。
懐かしい、夜色の髪。
燃えるように、真っ赤な瞳。
「ヴォルグ」
消え入るような声で呟いた名前に応えるように彼は笑った。
「やあ、ナギ。久しぶり」
狐のように細められた目がやけに艶めかしい。
「どうやって、ここに……」
「君の可愛い天使たちが教えてくれたんだ」
「あいつら……」
ナギは短く溜め息を零すと、すぐにヴォルグと背中合わせになって彼の後ろの敵を引き受けた。
互いの剣が敵を穿つ音が心地良く響き渡る。
「こんな時になんだけど、さあ!」
「何だよ!! っと」
「あの子たちの父親って、僕で間違いないのかな?」
ズン、と一際重い攻撃を受け止めたナギの顔が苦痛のそれに歪む。
次いで、深い溜め息を長ったらしく吐き出すとヴォルグの背中に蹴りを入れた。
ヴォルグは倒れ込みそうになるのをグッと堪えると顔を歪めながら後ろを振り返った。
鬼の形相となったナギと目が合って、身体が固くなる。
「他に、誰が、居るんだよ!!」
薄く涙の膜を張った金色が、真昼に浮かぶ月のように淡い光を放つ。
失言だった、とヴォルグがナギの身体に手を伸ばすも、彼女はそれを拒むように剣先をヴォルグに向けた。
「……邪魔すんな」
ゴウッと風切音が耳のすぐ横を通り抜け、ヴォルグの後ろに迫っていた魔物を闇に葬る。
それが最後の一体だったらしく、境界の中は元の静けさを取り戻した。
「あ、ありがとう?」
「……」
ナギはふん、と鼻を鳴らすとヴォルグから視線を逸らした。
「相変わらず、仲がよろしいことで」
どこからともなく姿を見せたアスモデウスに、ナギの機嫌は更に降下した。
「来ていたなら手伝え」
「嫌よ。門を維持するだけで手一杯なんですもの。二人とも早くこちらに戻ってらっしゃい」
アスモデウスがにやり、と悪戯が成功した子供のような表情を浮かべる。
彼女の言葉に、ナギは目を剥いた。
「まさか、お前……」
「一緒に帰ろう、ナギ。みんな君の帰りを待っているよ」
差し伸べられた手にナギは躊躇した。
触れた指先は、相変わらず冷たくて、それが少しだけ可笑しい。
「髪、伸びたね」
「今、言うことかよ。それ」
ふふ、と笑ったナギにヴォルグもつられて笑った。
「僕に身体があって良かった」
門へと続く光の道を歩きながら、ヴォルグがぽつりと呟く。
いつか、ルーシェルに言われた台詞が蘇る。
「君をここから連れ出すことが出来る」
ぎゅっと握りしめられた手に、ナギは頬が熱くなるのがいやでも分かった。
「……馬鹿」
こつり、とぶつけた額がヴォルグの肩甲骨に当たる。
久方ぶりに触れた温もりは、以前と変わらず冷たい体温をナギに伝えた。
(懐かしい匂いがする)
猫のようにすり、と鼻を擦りつけて彼の匂いで肺を満たそうとすると、ヴォルグの肩が僅かに震えた。
「忘れているみたいだから言うけれど、まだ『血の契約』は有効だからね」
「さ、先に言え!! この馬鹿!!」
慌ててヴォルグから身体を離すも時既に遅い。
じわじわと腹の底から羞恥がせり上がって、あっという間にナギの肌を赤く染めた。
それきり言葉を交わすことはなく、気が付くと門の前に辿り着いていた。
大きく口を開いた向こう、光が刺す方からいくつかの魔力を感じた。
「……やっぱり、俺はここに残るよ」
繋がれたままの指がぎゅっと強く結ばれるのに、ナギは唇を噛んだ。
「ルーシェルと約束したんだ。ルーシェルとアリスの縁を断ち切るって。俺がここに籠ることによって、それは成立していた。もし外に出れば、また門が開くかもしれない。今度こそ何が起こるか分からないんだよ」
自分の爪先を見つめ、ナギは口を一文字に結んだ。
すると、ヴォルグはナギの前に跪いて、笑った。
「君ならきっとそう言うと思ったよ。――でもね。その頼みは聞けない」
「……」
「僕はもう、百年待った。目の前に君が居るのに、それを連れ去るなと言うのは酷じゃないかい?」
繋がれていた手が離れたかと思うと、今度は左手にヴォルグの冷たい手が重ねられる。
チュッと軽いリップ音が境界に響く。
「……好きだ、ナギ。この先に何が待っていようと、もう二度と君と離れたくない」
紅の、美しい光がナギを捕らえる。
ずっと見てきたあの目だ、とナギは思った。
冷たくて、美しい血の色。
何度も恐怖して、幾度となく焦がれた。
「狡い男だな、お前は」
「魔王だからね」
「ふっ。違いない」
ナギは降参の意を示すために両手を上げた。
そんな彼女をヴォルグは優しく抱きしめる。
『ありがとう、ナギ』
ふと、小さな声がナギの背中に波紋を広げた。
振り返るも、そこには無限の闇が広がっているだけで、声の主は見当たらない。
それは懐かしい声だった。
身体に流れる血が、脈打つ心臓が、先程の声の主を教えてくれる。
「さよなら、アリス。――今度こそ、良い夢を」
もう一度、小さく聞こえてきた「ありがとう」を胸に、ナギはヴォルグと共に門を潜った。
そして、飛び込んできた景色を見て、眦から涙が溢れだす。
「おかえり」
門の前でナギを一番に出迎えたのは、父親であるベヒモスだった。
ぎゅ、と痛いくらいの抱擁を甘んじて受け止めると、次いで、腰に鈍い衝撃を受ける。
「母さん」
「ぐす……母さん……!」
ルナとソルの二人が脇腹にぐりぐりと額を擦りつけてくるのに、思わず笑みを零すと、ナギは緩慢な動作で二人と目線を合わせるために身を屈めた。
「怪我はないか?」
母の第一声に子供たち――ソルは既に泣いていたが――の目から滝のように涙が溢れた。
わんわん、と泣き叫ぶ彼らを抱きしめて、そっとヴォルグを振り返る。
淡い青に、碧にも見える黄昏の中で彼は静かに泣いていた。
紅の眼から零れ落ちる雫は夜空を流れる星のように美しくて、ナギは瞬きを繰り返すことしか出来なかった。
「……ヴォルグ」
「ナギ」
「ん」
両手を伸ばしたナギの腕の中へ、ヴォルグはゆっくりと抱き着いた。
子供のように顔を緩めて自分に抱き着く魔王を見てナギは笑った。
以前にも似たようなことがあったのを思い出したのだ。
あの時は確か、膝枕を強要されたのだったか。
「何も変わっていないな、お前」
「君もね」
ナギの髪と同じ淡い浅葱色の夕日が、空を染めていく。
青い黄昏の日。
魔王と勇者は再び出会った。
この先に何が待っていようと、もう片時も離れない。
魔王の言葉を胸に、勇者は彼の傍らにあることを決めた。
「……俺も好きだよ」
そっと耳打ちされた勇者の言葉に、魔王はふにゃりと笑った。
未だかつて見たことのないような柔らかな表情を浮かべるヴォルグにつられて、ナギもまた笑みを零す。
そんな二人のやり取りを見た子供たちが、くすくすと幸せそうに笑い声を奏でるのであった。
《完》