「……さあ、立っておくれよ。勇者。君の力はこんなものではないだろう?」
耳鳴りが、止まない。
男の声が頭の中をぐるぐると忙しなく駆け巡る。
「だま、れ!」
「はは。元気だねぇ、君」
くつくつと笑い声を上げる男に、ナギはぐっと歯を食いしばった。
「黙れと言った!!」
最後の力を振り絞って、大剣を振るう。
――ヒュン。
風切り音が洞窟の中に虚しく響いた。
「危ないなぁ。もうちょっとで脳天が割れるところだったじゃないか」
「わ、ろうとしたんだから、当たり前だろっ!」
「おお、怖い」
欠片も思っていないようなことを宣う眼前の男に、ナギの目元は益々険しくなる。
視界の端にちらと映るのは、今朝一緒に宿舎を後にした戦友たち――その亡骸だった。
肉塊と化した彼らの悲痛な呻き声が聞こえてくるような気がして、胃の辺りがカッと熱くなる。
「もう、いい。もう……喋るな!」
それは男に向けると同時に、地に伏す彼らに向けた言葉でもあった。
息をしている者はもう居ないというのに、ナギの中で彼らはまだ生きていた。
「今、仇を討ってやるから……ッ」
嗚咽の混じる声に、言うことを聞かない身体に、怒りが込み上げる。
のろのろ、と立ち上がったナギに、男が満足そうに笑みを深めた。
「ああ、いいね。その顔、とてもいい」
恍惚とした表情を浮かべて、燃えるように紅い瞳がナギを射抜く。
ぞわり、と背筋を冷たい何かが這う。
足を踏み出したのは、両者同時であった。
「くたばれ! 魔王!」
ナギの剣が男を捉える。
男の目と同じ、紅が宙を舞った。
鈍い衝撃がナギを襲う。
剣を振るったのはナギであったはずなのに、己の大剣が刺し穿った場所はナギの下腹部だった。
視界に広がった洞窟の歪な形の天井に、喉が焼けるように熱い。
「ごふっ」
たらり、と口の端を伝う生ぬるい感触に、ナギは顔を顰める。
一瞬の出来事に、痛覚が麻痺してしまったようだった。
全く、痛みを感じない。
死の恐怖が静かに、そしてゆっくりとナギを蝕んでいく。
「……君に僕は殺せないよ」
悲哀に満ちた声でそう言った男に、ナギは震える手を伸ばした。
「だま、れ」
「ふふっ。おかしな人間だね、君。死に際の言葉が『黙れ』だなんて」
冷たい掌が、ナギの頬を覆った。
それが男の手であることに気が付く頃には、ナギの身体は動くことさえままならなくなっていた。
「……さわるな」
目だけは鋭く、光を失っていない。
男はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべると、ナギの腹に刺さっている剣を勢い良く引き抜いた。
「ぐあっ!?」
「ああ、ごめん。加減が分からなくて、つい力任せに抜いてしまった」
「この……!!」
「わざとじゃないんだ。許しておくれよ」
「な、にを」
男の手が、ナギの腹に開いた穴に触れる。
「君のような面白い人間を殺すのは忍びない。――だから、堕ちておいで」
魔界の住人になれ。
魔王の目がそう語っていた。
「いやだ、と言ったら」
「……その身が僕の玩具になることに変わりはないかな。死を受け入れるなら、僕の命令のまま動く人形になるだけだし、生を選べば、意志を持った僕の剣となるだけ。そう違いはないだろう?」
「どちらにしろ、お前の人形になるのは決定事項ってわけか」
「それは仕方ないよ。だって、君は僕に負けたのだから。敗者は勝者の好きにされると昔から相場は決まっているだろう?」
屈託ない笑顔でそう告げられてしまえば、ナギはもう何も言えなかった。
身寄りのない自分が死んだところで、誰も悲しまない。
視界の端に映る死体の殆どが、ナギと同じ身寄りのない戦争孤児で、教会に命を拾われたものばかりだった。
「……なら、俺はお前の剣になることを選ぼう」
唇を噛み締めながら吐き出されたナギの言葉に、魔王は満足そうに笑った。
「おいで。白き甲冑を纏う神の愛し子。僕がその身と魂を喰らって、新たな命を与えてあげよう」
あーん、と大口を開けて近付いてきた男の気配を最後に、ナギの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
腹が灼けるように熱い。
ドンドン、と何度も繰り返しノックするような激しい痛みに、ナギは「ううん」と唸り声を上げた。
(……腹を、貫かれて、それで)
にや、と笑った男の顔が脳裏で鮮烈に蘇る。
「魔王!!」
鼻息荒く起き上がった、視線の先。
「なあに?」
こてん、と姿に似合わず子どものような仕草をする男と目が合った。
「ここはどこだ!」
「寝起きなのに、元気だねぇ。まあ、そんなところも気に入ったんだけど」
「質問に答えろ!!」
「はいはい。全くちっとも可愛げがないんだから」
きっと、母親の胎内にでも落としてきたんだろうね。
訳の分からないことを言いながら、魔王はそっとナギの手を引いてベッドから出るように促した。
「ようこそ。我が愛しの魔王城へ」
バン、と男の手によって開け放たれた窓から、身を刺すような冷たい風がナギを襲う。
あまりの突風に目を伏せていたナギに、魔王が小さな笑い声を上げた。
「ゆっくり、目を開けてごらん」
言われるがまま、緩慢な動作で目を開いたナギは眼前に広がる光景に息を飲んだ。
空には青くどこまでも澄んだ波のカーテンがかけられ、地面には星屑の絨毯が広がっていた。
ここが実は夢の世界だと言われても、ナギは二つ返事で信じてしまいそうだった。
思わず目を擦ったり、頬を抓ったりしてみるが、眼前の光景は一向に変わらない。
「ど、どうなっているんだ。アレは!」
「すごいでしょ? ここは君たちが住んでいる人間界の『裏側』にあたる場所。空は地面に、地面が空に。君たちが住んでいる場所とは、全て逆になっているのさ」
「へえ……」
あんぐり、と口を開けたまま、外の光景にすっかり夢中になっているナギに魔王の腕が伸びる。
「さて、我が剣。新しい身体の具合はどうかな?」
「え?」
「君の身体は一度僕に喰われ体内に溶けた。そして、新しい身となってから吐き出したんだ。以前より格段に力は付いたと思うのだけれど、何か変わったところはないかい?」
食うだの、吐くだの、聞き捨てならないようなことをいくつか並べられたような気がしたが、ナギは深く考えることを止めた。
魔族と人間が相容れないことなど、端から分かっていたことである。
ふう、と一息吐き出すと、グッと握り拳に力を込めて、眼前の魔王に向かって突き出す。
「うわっ!? ちょっと、危ないじゃないか! 掠っただろう!」
「悪い悪い。わざとじゃないんだ。いつもの感じで突き出したつもりだったんだけどな」
「まったく……」
普通の正拳突きが魔王に当たるわけがないと、つい力任せに振るってみたのが良くなかった。
人間の頃に比べると格段に威力もスピードも増しているようだった。
(今ならコイツを殺せる)
不穏な考えが頭を過ぎる。
「だぁか~ら~、殺せないってば」
肩を竦めてそう言った魔王に、ナギはパチパチと忙しなく瞬きをした。
「なっ!? 声に出した覚えはないぞ!!」
「君は魔族となった。つまり魔王の配下に生まれ変わったってことだ。それもただの配下じゃない。魔王から直接血を分け与えられた眷属――血の眷属だ。頭の中で考えていることを筒抜けにするくらい造作もないことだよ」
「……(キモッ)」
「はっはっは。だから筒抜けだってば~」
正拳突きの仕返しだと言わんばかりに、頬をこれでもかと引っ張られる。
じんと鈍い痛みが残るほど強く引っ張られた頬を何とか男から引き剥がすことに成功すると、ナギは掌を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した。
人間の頃に比べると、少しだけ肉付きが良くなったような気がする。
肌もこんがりと日に焼けて健康的な色合いになり、昨日までの自分とは違うことをまざまざと感じさせられた。
「それで? お前は俺に何を望むんだ?」
魔王陛下、と嫌味を込めて彼を呼べば、猫のように目を細めた魔王と視線が交差する。
「その呼び方はあんまり好きじゃあないんだよなぁ……」
「じゃあ、何て呼べば良いんだよ」
「――ヴォルグ」
緋色の目が、刺すようにナギを射抜いた。
耳が熱い。
火傷の痕が身体に薄く残るように、じんわりと彼の声が鼓膜で反響を繰り返す。
「ヴォ、ルグ」
言葉を覚えたての赤子のように、恐る恐る音に出した名前は酷く美しく、同時に恐ろしい響きに思えた。
――雷の落胤(ヴォルグ)。
古い言葉を使っているのか、聞きなれない音の響きは、ナギの胸に恐れと同時に高揚感をもたらした。
「音の無い者(ナギ)、か。身体つきと言い、随分と貧相な名前だねぇ?」
「悪かったな、貧相で!」
「ははっ。これは失敬。お詫びに朝食を持ってくるよ。少し待っていてくれ」
浅葱色の髪を優しく撫でると、ヴォルグは笑いながら部屋を出ていった。
とても魔王には見えない細い背中を見送り、ナギは再びベッドに身体を沈める。
「……これは運命か、呪いか。どっちだろうなぁ」
脳内で翻った銀色の髪を想って、ナギは片手で両目の瞼を覆った。
一度だけ見たことのある父の後ろ姿が、さっきのヴォルグのそれと重なる。
『あの人は、恐ろしく美しい人だったわ』
母の、優しい声がナギの耳朶を震わせる。
「すまない、母さん」
貴女が望んだようには、生きられそうにない。
そう呟いた、ナギの声は誰に伝わるでもなく、異界の空に吸い込まれていった。