『良いか、ヴォルグ。お前が「剣」を選ぶときには決して三貴人の選定した者を選んではいけないよ。彼らは我々の味方であるが、同時に次期魔王の継承権を持つ権力者でもある。故に彼らの前で、気を抜いてはならない。私のように彼らの傀儡になりたくなければ、決して彼らの言葉を鵜呑みにするな。火がついてから慌てても、そのときには既に取り返しがつかないところまで来てしまっているのだ』
それがヴォルグの父である先王ヴァトラが息子と交わした最期の会話だった。
魔界での王位継承は、人間のように血筋が優先されることはない。
先代魔王亡き後、玉座によって選出された魔界で最も魔力量の高い者が次の魔王になるのだ。
幸いにも、ヴァトラの家系はここ数代、魔王を選出してきた魔力量の高い血筋であったがために、次期魔王にはヴァトラの息子であるヴォルグが選出されることになった。
だが、当時十二歳の少年であったヴォルグが王に選ばれたことを魔族のほとんどが快く思ってはいなかった。
当然、三貴人の面々も赤子の頃から知っているとはいえ、幼いヴォルグに王の器があるとは思ってもいなかった。また、ヴォルグ自身も望んで魔王に選ばれたわけではなかったので、成人の儀を迎える十八歳になるまでの間、三貴人が魔王の後見人として魔界を収めることになった。
成人を迎え、魔王の座に座ることを余儀なくされても、ヴォルグは少しも『嬉しい』などと思ったことはなかった。
何度『魔王を辞めたい』という思いに囚われたか分からない。
それでも、魔王の座を降りなかったのは、父であるヴァトラが非業の死を遂げた真相を突き止めたかったからだ。
ヴァトラは『剣』と呼ばれる腹心の部下に殺された。
そして、先代の『剣』は三貴人が選出した人物だったと言われている。
◇ ◇ ◇
「随分と、懐かしい夢を見たな……」
目を覚ます直前に見た父の顔は穏やかな笑みを浮かべていた。
血だらけになって横たわる最期の姿と生前の姿がブレながら重なる。
「父上」
天井に手を伸ばしながら、ぼうっと視線を彷徨わせる。
ナギを剣にすることを三貴人が反対することは予想済みだったとはいえ、あそこまで露骨な態度を取られるとは思ってもみなかった収穫である。
父親の死を間接的に誘発した三貴人をヴォルグは心から信用してはいなかった。
それ故、魔界の権力関係に関わりがなく、腕の立つ剣士を求めて人間界を彷徨うようになるのは必然だった。
(少し気が強いところは考えものだけどね)
ふふ、とヴォルグは人知れず笑みを浮かべた。
――コンコン。
「魔王、少しいいか?」
小さなノックの後に、返事もしていないのにドアが開く。
浅葱色の髪がドアの隙間から見えた。
「何か用かな?」
丁度、今しがた思い描いていた人物の登場に、ヴォルグはナギに気づかれないようにそっと口角を上げた。
「ああ。庭師が呼んでる」
「ベヒモスが?」
「特別な花が咲いたから、お前に見せたいんだと」
「へえ? どんな花だろう。楽しみだ」
すっかり城に住む従者たちと打ち解けたのか、ここに来てまだ二週間足らずだというのに、ナギは魔族たちの中に容易に溶け込んでいた。
ガウンを脱いで着替えを始めたヴォルグに、ナギが一瞬だけギョッとしたような顔になった。
「何?」
「い、いや……。何でもない」
ふい、と顔を逸らしたナギを不審に思いながら、ヴォルグは手早く着替えを済ませた。
いつの間にか、部屋を出て廊下で待っていたらしいナギが、ヴォルグの出てきた気配を察して庭園へと歩き始める。
カツン、カツン、と二人分の靴音が廊下に反響した。
外へ向かうためには二つほど渡り廊下を越えなければならない。
緋色の扉は王専用の証。
慣れた手付きで鍵を回して扉を解錠したナギの横顔を、ヴォルグは面映ゆい気持ちで見守りながら扉を潜る。
辺り一面に広がった瑠璃色の宝石で、庭園は埋め尽くされていた。
「ネモフィラ?」
「流石は我が君。よくご存知で」
ネモフィラの海から銀色の星が姿を見せる。
髪についた花弁を払いながら立ち上がった大男にヴォルグは笑いかけた。
「母上が好きな花だ。お前もそれを知っていてわざわざナギを寄越したんだろう」
「ええ」
「懐かしいな。父上が生きている頃はよく三人でこの花を見に行ったものだ」
そっ、と壊れものを扱うかのように、優しく繊細な手つきで花を手折ったヴォルグに、大男――ベヒモスは何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
「すまない。せっかく綺麗な花を見せてくれたのに、湿っぽいことを……」
「いえ」
口を一文字に結んでそれきり何も話さなくなったベヒモスの手元を、ヴォルグは黙ってじっと見つめた。
ベヒモスはヴォルグの母であるアストライアと同郷の幼馴染であった。
ヴァトラ亡き後、彼女はショックのあまり塞ぎ込んでしまい、居室である北の離れに引きこもっている。
そんなアストライアの姿に胸を痛めたベヒモスは、それまでの地位を捨てて魔王城の庭師に名乗りを上げた。花が好きなアストライアのために、ヴァトラとアストライアが育てていた花を毎日彼女に送り届ける、ただそれだけのために。
『いつか元気になってくれることを信じているのです』
庭師になりたいと懇願しにヴォルグの元を訪れたとき、彼はそう言った。
自分の地位を捨ててまで、幼馴染に尽くしたいと思うその気持ちはヴォルグには理解できない。
けれど、時々正気に戻った母がベヒモスと楽しそうに談笑している姿を見ていると、嫌な気持ちを忘れることができた。
「ヴォルグ」
後ろから聞こえてきたナギの声に、ヴォルグは思考の海から意識を浮上させた。
「んー?」
「この花、もらってもいいか?」
「ああ。構わないよ。何に使うの?」
「別に何でもいいだろ」
そう言ってベヒモスとアイコンタクトを交わしたナギに、ヴォルグは首を傾げた。
心の声を聴こうと目を細めた彼に気が付いたナギが、慌てたように主人の耳を塞ぐ。
「それはナシだぞ!」
「ええ~……。どうしてさ?」
「ダメなものはダメだ」
「ぶー」
「子どもみたいな顔をしてもダメだ。それより、さっさと支度をしろ。午後に仕立て屋が来ると言っていたのはお前だろ」
それに書類も溜まっていたのではないのか、と嫌味混じりに追い討ちをかけられてしまえば、ヴォルグは何も言い返すことができなかった。
「分かったよ。邪魔者は部屋に退散します。あ、でも、マリーが来たらナギも僕の部屋に来てね」
「?」
「いつまでも人間臭い服でウロウロされるのは嫌だからね。君の服も一緒に作ってもらおうと思って」
「わ、分かった」
『人間臭い』と言われたのを気にしているのか、ナギは自分の服の匂いを嗅ぎながら、少しだけ上擦った声でヴォルグに返事をした。
そんな彼の姿に、少しだけざわついていた心が落ち着きを取り戻す。
小さく笑みを浮かべながら、ヴォルグは本日の執務を全うすべく、庭園を後にした。
「……臭うか?」
「いや? 魔王様は冗談がお好きだからな。あまり気にしない方がいいぞ」
「そ、そうか」
「ふふっ」
「な、何だよっ! 笑うな!」
おい、庭師という怒号を背中に、ベヒモスは再びネモフィラの中に腰を下ろした。
穏やかな昼下がり、波間の空が青い光を放ちながらナギとベヒモスの二人を照らしていた。
◇ ◇ ◇
「あら! あらあら! まあまあ!!」
パンッと両の掌を合わせて、目を輝かせる眼前の女性に、ナギは顔が引き攣るのが嫌でも分かった。
「私好みの美男子ではありませんか! 何とまあ! 美しいっ!」
「ちょ、近い! い、一旦離れてくれ!!」
至近距離で身悶える女性の姿を遠ざけようと彼女の肩をぐいぐい押し退けるナギを見て、魔王がカラカラと笑い声を立てる。
「おい! 見てる暇があるなら、助けろよ!」
「ははは! ひー、駄目だ! お腹痛い~っ!!」
「ヴォルグ!!」
「くくっ。マ、マリー! 僕の横隔膜が限界だからその辺にしてあげて」
ぐふぐふっと笑いすぎて気管に唾が入ったのか、涙目になったヴォルグに、マリーと呼ばれた女性がハッとした様子でナギから距離を取った。
「も、申し訳ありません。陛下」
「いいえ~。賑やかなことは好きだから大歓迎だよ」
「ひ、他人事だと思って、この野郎……!!」
握り拳をヴォルグに向けたナギに、マリーが再び距離を詰める。
「魔王陛下に向かって何という態度を! さては貴方、巷で噂の残念な美男子というやつですわね!! そこにお直りなさい! 私が直々に指導してさしあげます!!」
「……アンタの頭の方が、よっぽど残念だろ」
「あっははははは! だ、駄目だ! も、もうやめて! 笑い死ぬって!!」
再び笑いの渦に包まれた部屋の中で、マリーだけが真剣な眼差しでナギのことを睨んでいた。
「陛下をあそこまで笑わせるとは、貴方なかなかやりますわね」
「……」
もはや何かを言い返す気力もない。
死んだ魚のような目でマリーを見つめるナギの表情に、ヴォルグが収まりかけていたはずの笑いに再度引き戻されそうになる。
「くっ」
「しつこいぞ、魔王。炊事係に頼んで、晩飯のメニューにお前を加えてもらおうか?」
今度は大剣の柄に手を伸ばしたナギに、ヴォルグは両手を高く上げることで謝意を示すと重そうな荷物を持つマリーに視線を移した。
「今日はどんな服を見せてくれるのかな?」
「ふふっ。陛下のお望みのものを、お好きな数だけお見せいたしますとも」
「やった! 楽しみだな!」
少年のように屈託のない笑顔を浮かべたヴォルグに、ナギは思わず面食らった。
彼が人前でそんな表情をするのは、母親であるアストライアと話しているときだけだったからだ。
他の臣下たちには決して見せないような態度を取っているところから察するに、マリーは少し歳の離れた姉のような存在なのかもしれない、と仲睦まじい様子で話に花を咲かせている彼らを見守っていた――遠巻きに様子を窺っていたともいう――ナギだったが、不意にヴォルグと視線が交差した。
「ねえ、この服合わせてみたらどうかな?」
「は?」
「ほら。君の服も選ぶって、さっき言っていただろう?」
「あ、ああ」
この数分の間に、ナギに着せる服を見繕っていたらしい。
はい、と渡された量はどう見ても一人で試着する量ではなかったが、断れば更に量が増えそうな気がして、ナギは文句を喉の奥に飲み込んだ。
「これとか似合うと思うけど……。今、着てみせてよ」
ヴォルグの言葉に、ナギはパチパチと瞬きを繰り返す。
「ここでか?」
「うん。もしかして、恥ずかしいの?」
「……だ、誰が! こ、この女がいるところで着替えたくないだけだ!」
「なら、洗面室で着替える? ああ。待って、今朝使ったままだから、ちょっと汚いかも……」
こっち、とヴォルグがナギの腕を引いて、洗面室の扉の前に立ったが、寸でのところで何かを思い出したように固まった。
「まあ、いっか! 男同士だしね!」
「ちょ、おい! ヴォルグ!」
だが、すぐに思い直すとそのまま扉の中に引っ張り込まれてしまう。
そんな二人の様子にマリーはくすり、と口元を綻ばせた。
「お、おい! いいってば! 一人で着るから、出ていってくれ」
「ダメだよ。僕が出ていったら、そこの窓から逃げようと考えているくせに」
「ぐっ」
血の契約を結んでいる所為で、ヴォルグに考えが筒抜けになっていることをすっかり忘れていたナギは今まさに練っていた脱走計画を頓挫させる他なかった。
くそ、と苦い声を漏らせば、ヴォルグが嬉々とした様子で衣服を片手に近付いてくる。
「さあ、観念して僕に身を委ねるんだ」
「鳥肌が立つようなこと言うんじゃねえよ。気色悪ぃな」
「ナーギー?」
「分かった! 分かったから、ちょっとあっち向いてろよ」
「どうして?」
「いいから」
ヴォルグはナギの思考に聞き耳を立てようと目を細めたが、ナギが「脱走は諦めたから、勝手に聞くな」と言われてしまい、仕方なく彼に背を向ける形で洗面台に凭れかかった。
布擦れの音が狭い洗面室の中に小さく木霊する。
時間にして一分にも満たない、短い時間だった。
「いいぞ」
ナギの声に、何の疑いもなしにそちらを振り返る。
擦り切れてボロボロになった上半身の衣服が消え、褐色の痩躯が震えながらそこに立っていた。
「え……」
「…………」
ヴォルグが驚いたのは、ナギの身体が想像以上に痩せていた――とか、そういった理由ではなかった。使い込まれてクタクタになった幅広の包帯が『胸部』にサラシのようにきつく巻き付けられていたからである。
「あの、」
「何だよ」
「それ、って」
じっと凝視すれば、そこには確かに僅かな膨らみがあるような気がしたが、ここで間違えてしまえばせっかく得た貴重な人材を失ってしまう予感がして、言葉を上手く紡げなくなる。
「気になるなら、触って確かめればいいだろ」
男同士なんだからなあ、と先ほどの言葉を取り上げられて、ヴォルグは喉を詰まらせた。
「ご、ごめん。あの、え? いつから?」
混乱した様子でおかしなことを言い出したヴォルグに、ナギが喉を逸らして豪快に笑う。
「いつからも何も、生まれたときからこうですけど?」
「言ってよ!!」
「聞かれなかったから答えなかっただけだよ。その方が、お互い楽だろ」
何が、とは聞けなかった。
きっと、ナギはナギなりにヴォルグを気遣って、自身の性別を進言しなかったのだろう。
男であれば見過ごされることも、女であればそう簡単に許されないときがある。
「……この場合、責任とか、取った方がいいのかな?」
「ぷっ! ははは! 孕ませてもいないのに? 責任取るとか、魔王様ってば随分とお優しいんだな!」
お前が気にすることじゃないよ、と続けたナギから、ヴォルグはスッと視線を逸らした。
こんな狭い密室で異性と二人きりになったことは、ほとんど初めてに近かったからだ。
『女性』と認識してから、まだ数分も経っていないというのに、ナギに対して普段どのように接していたか上手く思い出せない。
混乱するヴォルグを他所にしゅるり、とまた布擦れの音が小さく響いた。
「?」
不思議に思って顔を上げると、着ていた衣服を脱いで、ヴォルグが選んだものに袖を通したナギと目が合った。
「何だよ? 試着しろって言ったのはお前だろ」
「そ、そうだけど」
狼狽えるヴォルグに、ナギの眉間に深い皺が刻まれる。
「そうだけど、何だ? 自分の剣が女だと分かって幻滅しましたってか?」
金色の双眸が不安そうに明滅を繰り返す。
くしゃり、と泣き笑いのような、ともすれば、今すぐにでも泣いてしまいそうな顔になったナギに、ヴォルグはハッと息を呑む。
「違う!!」
「なら、何だよ!! そんな――そんなあからさまにガッカリして、他に何があるっていうんだ!」
ボタンを止めていない中途半端な格好のまま、ナギがヴォルグに詰め寄った。
襟元を締め上げられながら、床に散乱した自分の夜着を、ナギの靴が乱雑に踏み荒らす様をヴォルグはどこか他人事のように視界の端で捉える。
「――怖いんだ」
「何が!」
「女の人は、壊れやすいから」
アストライアのことを言っているのだ、とナギは直感で悟った。
けれども、それと自分がどう重なるのかが分からなくて、ヴォルグの胸倉を掴んでいた手に力が入る。
「あんなにボコボコに痛めつけてきたくせに、今更『壊れやすいから』だと? 喧嘩売ってんのか、てめえ!」
「そうじゃ、なくて……」
歯切れの悪いヴォルグに、ナギが殴りかかろうとした――そのとき。
「陛下? 何か不備がありましたか? もしよろしければ、私が、」
ノックもせずにマリーが洗面室の中に入ってきてしまった。
今にも殴りかからんとばかりに拳を構えたナギと、表情を曇らせたヴォルグとを見比べたあと、彼女はニッコリと満面の笑みを浮かべる。
「――失礼。足が滑ってしまいましたわ」
「は、あ゛っ……!?」
鈍い音が自分の顎から発せられたのを最後に、ナギは意識を手放した。