冷たい肌に溺れる - 2/2

「ナギ」

 不意に呼ばれた声は、初めて聞く類のものだった。

 振り返るとそこには執務机に座っていたはずの魔王陛下が、ソファの後ろで腕を組んでナギを見下ろしている。

「な、なんだよ」

「……酷い顔だ」

「お前に言われたくないっての」

 ベルフェゴールにナギが無体を働かれてからというもの、ヴォルグはナギに対して過保護になっていた。

 月のモノが来たから、もう心配はいらない、と言っても、納得できないようで、日に数度はナギの体調を確かめるのである。

 ヴォルグは長い足で器用にソファを跨ぐと、ナギの隣に腰を下ろした。

 緋色の双眸が、じっと何かを疑うようにこちらを見つめるのに、ナギは居心地の悪さに少しばかり身動ぐ。

「近い」

 苦言を溢しても、彼の王は聞く耳を持たないようで、それどころか「おいで」と優しい声で小さく言葉を紡いだ。

「なんで、」

「いいから」

「やだよ。ガキじゃあるまいし、」

「ナギ」

 有無を言わさない口調に、ナギはぎくり、と肩を強張らせた。

 すぐ側にある整った顔の中心に埋め込まれた緋色の炎が轟々と燃えている。

「ヴォ、」

 いやだという意味を込めて彼の名前を紡ごうとしたナギを制するように、ヴォルグが彼女の腕を引いた。

 魔力の高さに準じて低く、冷たい体温が、指先を通して伝わってくる。

 抵抗する間もなく閉じ込められた腕の中で、ナギの鋭い舌打ちが響く。

「……満足したか、魔王陛下」

「まだだよ」

「うっそだろ、お前。これで今日何回目だと思ってんだ!?」

「うーん、数えてないから分かんないな」

「いい加減にしろよ! しつこ――」

 しつこい、と。

 そう告げるはずだった声は喉の奥に落ちていった。

 かさついた唇の感触が、ゆっくりと離れていくのを、どこか他人事のように見つめる。

「な、にして……っ」

「アイツが君にしていないことを考えて思い至ったんだ」

「なに、」

「キスはしていないだろうなって」

「……確かに、された覚えはないが」

「でしょう? アイツ、若い女の子の身体を舐め回すのは好きなくせに、口付けだけは嫌いなんだよ」

 魔族の体液には魔力が含まれている。

 それはもちろん、唾液も例外ではない。

 高位魔族の間では、他者の魔力と己の魔力が混ざり合うことを良しとはしない純血至上主義的な考えが古くから根付いている。

 三貴人の一人であるベルフェゴールも、それに準じているのかもしれなかった。

「魔力が混ざるのが、嫌なのかな」

 ヴォルグはそう言いながら、もう一度ナギに口付けを迫った。

 紅顔が迫ってくる様を呆けたまま見つめていたナギだったが、鼻先が触れ合う距離になって漸く抵抗を示す。

「ちょ、待て! 何、普通にする流れになってんだ」

「ダメ?」

「……ダメに決まってんだろ」

 上目遣いの魔王という珍しい姿を間近で浴びてしまって、一瞬だけ「んぐっ」と喉の奥から変な声が出そうになったが、ナギは何とか言葉を絞り出すことに成功した。

「あ、でも、君の魔力って、僕の魔力を媒介にしてるから、混ざっても問題ないかも、」

「…………しないっつってんだろ」

「僕はしたい」

「しつこいぞ、ヴォルグ」

 この話はここまでだ、という意味も込めて、ヴォルグの肩を押し返したナギだったが、それで諦めるヴォルグではない。

 未だ腕に閉じ込めたままになっているナギの身体を、さらに抱き寄せると、その耳元に軽く息を吹き込んだ。

「っ!?」

 驚いて肩を震わせたナギに、ヴォルグが飢えた獣のような視線を向ける。

「僕がしたいと言ってるんだよ、ナギ」

 普段はあまり見せることのない、王としての側面が色濃く出た口調に、ナギは戸惑った。

 そして、動揺するあまり、彼の衣服にうっかりしがみ付いてしまう。

「……や、」

 いやだ、と紡いだはずの言葉は、虫の羽音のように頼りなく、それがまたナギの羞恥心を煽る。

 一度言い出したら止まらないことは、三貴人の一件で承知していたつもりだったが、こんな場面で再確認させられるとは思いもしなかった。

 冷たい、魔族特有の体温を宿した指先が、ナギの頸を不埒な動きで弄ぶ。

「やめろって、」

「聞こえない」

「……魔王、」

「拒絶するなら、もっとはっきり言ってくれなきゃ」

「このっ、」

 やめろ。

 口から出る言葉は、頼りなく掻き消されてしまう。

 それならば、と血の契約を利用して、心の中で叫べば、ヴォルグの目がより一層、妖しい光を帯びた。

「本当に、やめていいの?」

「あ、たりまえだろ」

「…………こんなに、濡れてるのに?」

「は、」

 するり、と差し込まれた手は、ナギの下半身に遠慮なく触れた。

 衣服越しに、くちゅ、と水音を漏らしたそこに、ナギの顔が赤く色付く。

「なッ……!?」

「それに、さっきから腰も揺れてるよ」

「んなこと、してな、ッんぅ」

「キスしたいって言っただけで、こんなになるんだもの。君って案外、快楽に弱かったんだね」

「~~~~っ」

 そんなことない、と反論したいのに、出来なかった。

 ヴォルグに触れられているのだと思うと、それだけで、昂揚感に包まれてしまう。

 手ずからあの男のものを掻き出されたときだって、実を言うとぎりぎりだった。

 緋色に射抜かれながら触れられて、感じない奴が居るのであれば、教えて欲しいくらいだ。

「このままぐちゃぐちゃにされるのと、キスだけで済ませるの、どっちがいい」

「…………」

「ナァギ」

 甘ったるい、聞いたこともない主人の声に、耳朶が震える。

 進んでも地獄、退いても地獄、とは正に、このことだった。

 どうせ辱められることに変わりがないのなら――。

「ん、」

 王の首に腕を回して、頬を擦り寄せる。

 商売女のような仕草に、ヴォルグは瞑目した。

 次いで、それを『好きにしても良い』と合図として受け取ると、ナギの瞼にキスを落とす。

「おいで」

 甘ったるい声が、ナギの胸に火を灯した。

 言われるがまま、ヴォルグの膝に腰を下ろす。

 グッと下腹部を押し当てられて、ナギは唇を戦慄かせた。

 あからさまに兆し始めたそこを、ヴォルグが何度もナギの下腹部に擦り付ける。

「やっ」

「だーめ。ほら、もっとこっちに」

「ひうッ」

 女のような声が口を衝いて出るのに、ナギは必死で首を振った。

 いやいや、と駄々を捏ねる彼女の姿が想像していた何倍も淫美で厭らしく、ヴォルグの喉がごくり、と音を鳴らす。

「ゔぉ、るぐ」

 舌足らずに名前を呼ばれると、もう止まれなかった。

 衣服を着たままだというのも忘れて、無心で腰を振る。

「あ……っ! やっ、だ、だめっ! とまっ、て、く……んァ!」

「ごめん。無理だ」

「や、そこ、だめ! いやっ……」

「ここ?」

「ちょ、」

「ふふっ、ここ、いいんだ?」

「よ、くなっ、んっ」

「そんな顔で言われても、説得力がないよ」

 ヴォルグが笑うと、その振動が触れている場所から伝わってきた。

 興奮すればするほど、冷たくなる彼とは対照的に、ナギの身体は熱を帯びる。

 触れている箇所がぬるく、互いの体温を奪い合う。

「――ナギ」

 また、あの声だ、と、ナギは瞑目した。

 聞きなれない温度の声音に、背筋が震える。

 ぼうっとしているナギを他所に、ヴォルグはナギの衣服に手を掛けた。

 マリーに作ってもらったばかりの真新しいそれは、飾りボタンが多く、一瞬だけ冷静さを取り戻させる。

 だが、それも本当に一瞬のことで、汗ばんだナギの肌を見ると、理性は音もなく瓦解した。

 衝動のまま、鎖骨に唇を寄せる。

「んっ」

 鼻から抜けたような甘い声を漏らしたナギに、ヴォルグがほくそ笑んだ。

 今日は珍しくサラシを巻いていないのか、代わりに着ていた分厚い肌着を剥ぎ取ろうとすれば、漸く頭が追いついてきたらしいナギの手がヴォルグの髪を乱暴に引っ張る。

「これ、い、じょ、だめ、だって」

 羞恥と興奮で、息も絶え絶えになった彼女の姿を見て、ヴォルグの目が爛々と輝いた。

「どうして?」

「し、んか、あいてに、こーいう、こと、するな」

「……君のこと、臣下だと思ったことなんて、一度もないよ」

「…………そうか、よ」

「ああ、違う違う! 拗ねないで、ナギ。そうじゃないんだ」

 君は臣下じゃなくて、対等な存在だから、とキスの雨を降らせながら、ヴォルグが優しい声で紡ぐ。

 ぎゅっと、心の臓を直接掴まれたかのように、胸が痛い。

 ナギは得体の知れない、その痛みを逃そうと、きつく瞼を閉じた。

 どくどく、と激しく脈打つ自身の心臓の音が、耳裏で反響を繰り返す。

 どうして、こうなった、と羞恥に身悶えながら唇を噛み締めていると、再び胸に柔らかい何かが押し当てられた。

「な、に、してっ」

 ヴォルグが肌着越しに、胸へ顔を埋めている。

 ちゅ、と繰り返される柔らかな刺激に成す術もなく、ナギは唇を震わせた。

「ヴォルグ、」

 王の名前を紡ぐ。

 けれど、彼はそれに一瞥を寄越したきり、何も言わなかった。

 ナギの声は聞こえないと言わんばかりに、服をたくし上げ、露わになった肌に舌を這わせる。

「ひっ、あ……、ちょ、」

 待て、と再度、懇願するも、ヴォルグは一向に止まる気配を見せない。

「……っンあ」

 平たい胸の何がそんなに楽しいのか、ヴォルグはまるで幼子のようにナギの胸に口付けを繰り返す。

 その光景を夢見心地で見ていたナギだったが、不意に、ベルフェゴールの顔が脳裏を過った。

 ヒュッと引き攣った音を奏でたナギを、不審に思ったヴォルグが漸く顔を持ち上げる。

 膝の上に乗せられたままの状態では、逃げることも、抵抗することも叶わない。

 やっと大人しくする気になったのか、と思ったヴォルグだったが、ナギの顔を見て息を呑んだ。

 先ほどまでの火照りが嘘のように、顔面蒼白となった彼女と目が合う。

 ここ数日の経験で嫌というほど思い知らされた、その表情の意味に、ヴォルグは鋭く舌を打った。

 触れている箇所から伝わってくる怯えと、辱めを受けた恐怖を色濃く感じ取って、グッと奥歯を食いしばる。

「ナギ、」

「……ひ、」

「大丈夫。――大丈夫だから、僕の目を見て」

 一言一句を確かめるよう、慎重に音を紡ぐ。

 常は勝気に輝く瞳が、今は虚に宙を彷徨っていた。

 噛み合わない視線に、ヴォルグがもう一度「こっちを見て」とため息混じりに囁く。

「ナギ」

 ヴォルグの声に、ナギが肩を震わせた。

 中途半端に脱がせた服の隙間から見える肌に、そっと頬を寄せる。

「君に触れてるのは、誰?」

「う、あ」

「大丈夫。怒ってないよ。だから、ね? 今君に触れているのが、誰か言ってみて」

 柔らかな夜色の髪が、ナギの肌を擽った。

 谷間なんて、寄せて持ち上げても出来ないかもしれない、貧相な胸に、ヴォルグが顔をくっ付けている。

 興奮しているのか、冷たくなった彼の呼気が胸に当たる何とも言えない感覚に、背筋が粟立った。

「……ヴォルグ」

「うん」

「あの、」

「ふふっ」

「なに、笑って」

――ちゅ。

 啄むように唇を軽く塞がれて、ナギは目を白黒させた。

 先ほどまでの早急なそれと違い、彼の体温を分け与えられるように、ゆっくりと繰り返される口付けに、鼻の奥がツンと痛みを訴える。

「も、しつこっ」

 呼吸を求めて喘いだナギが肩を押し返すと、二人の間で銀糸がぷつり、と音を立てて途切れた。

 どちらのものか分からない涎に光ったヴォルグの唇を見て、冷えていたはずの身体が再び熱を取り戻す。

「……ッ、あ!?」

 羞恥のあまり身を捩ったナギの腰を逃さないと言わんばかりに、ヴォルグが鷲掴んだ。

 ゴリ、と凶悪な音を立てたヴォルグの猛りを何度も打ち付けられて、ナギの下腹部に甘い痺れが走る。

「んんッ」

「こら、ダメだよ」

「やっ」

「だーめ。ほら、手はこっち」

 甲高い、耳障りな声が自分から出ている事実に耐えられず、手の甲を噛んでいたナギをヴォルグが叱責する。

 男にしては細い首に無理やり腕を回させられて、ナギは弱々しく頭を振った。

「はずか、しっ、ンあ……ッ! ちょ、やめ、脱がす、なってぇ!」

 いつの間にか、不埒な手がナギの衣服を剥ぎ取っていた。

 下着だけの姿になって初めて、身体を隠そうと暴れ始めたナギを、ヴォルグがぎゅっと抱き寄せる。

 次いで、胸部に鼻先を埋めると、柔らかな肌の上にひっそりと存在を主張する桃色の突起に歯を立てた。

「ひ、あ……っ!」

 ナギが驚いて声を上げるも、ヴォルグは口を離そうとしない。

 抵抗しようと髪を掴めば、緋色の双眸が真っ直ぐにナギを捉えていた。

「しつこいな、君も」

「ど、っちが……ああッ! だ、やめ、ろ! ばかっ、ンぅ!」

 誰にも噛まれたり、舐められたり――厳密に言えば、ベルフェゴールにも触られてはいるが――したことのない場所を弄られて、目の奥がチカチカした。

 遂には直接、秘部に指を差し入れられて、ナギは焦った。

 本当にこれ以上は洒落にならない。

 先ほどまでの形ばかりの抵抗とは違い、本気でジタバタと踠き始めたナギの様子に、ヴォルグは喉の奥をクッと鳴らした。

「煽ったのは君なんだから、最後まで責任を取ってほしいな」

「な、んの話だ、よ」

「首に手を回してきたじゃないか」

「あれは、お前がッ、ひ……あっ! バカ! 動かす、なって……!」

 魔界では、行為に応じる際、女性から首に手を回す、という作法があった。

 ベルフェゴールに行為を仕掛けるにあたって、マリーからそれを仕込まれていたナギは、思わず「ぐ」と喉を詰まらせる。

「む、いしき、だったんだ、よ」

「受け入れてもいいって、無意識に思ったってこと?」

「ち、が」

「どっちにしろ、もう止まってあげられないや」

――ぐちゅり。

 ヴォルグの指が、ナギの中に侵入を果たす。

 突然の挿入に、ナギが「んあ!?」と一際高い声を漏らした。

「やめ、」

「こういうときにやめてって言うのは『もっとしてほしい』ってことだよ」

「ん、のっ! 性悪、」

「お褒めに預かり、光栄だな」

「ゔぉ、ほっ、めて、ねえっ!」

 呂律の怪しくなったナギの肩に頭を預けながら、彼女の中で指をバラバラに動かす。

 途端に甘い声を漏らして大人しくなるものだから、ヴォルグは笑いが止まらなかった。

「ほら、腰を上げて」

 ヴォルグの指が体液でびしょ濡れになるまで慣らされている間、ナギは終始大人しかった。否、大人しくすることしか出来なかったと言うのが正しい。

 好き勝手に弄くり回されたお陰で、肩で息をするのがやっとだ。

 ぐったりとした状態で、ナギはヴォルグに鋭い眼差しを向けた。

 最後の抵抗と言わんばかりに、顔を真っ赤にしたまま腰を上げる気配のない彼女に、ヴォルグは「ふ~ん?」と首を傾げた。

「よっぽど、酷くされたのが、気に入ったみたいだね」

 誰に、と言わずに呟かれたそれを聞いて、ナギの額に青筋が浮かぶ。

「誰が……っ!?」

 怒って仰け反ったナギの身体を、ヴォルグはそのままソファへ押し倒した。

 ぽかん、と口を開けて固まったナギの下半身に、下着から取り出した自身のそれを押し当てる。

「ちょ、」

「ごめん。もう、限界」

 一息で奥まで入れられて、ナギは「かはっ!?」と声にならない悲鳴を上げた。

 たんたん、と小気味良く繰り返される抽出に、口から溢れるのは、意味を成さない音ばかり。

「お、あ……ッ! ひうっ!」

「は、ははっ。いい声。今の、良かったみたいだね」

「あンっ! やっ! とま、ってぇ……!」

「やだよ。せっかくだ。君が泣いて善がるまで、楽しもうじゃないか」

「このっ、へ、んたっ……い、んぅ……!」

 甘い嬌声を繰り返すナギの姿に、ヴォルグは胸に巣食っていた靄が漸く晴れたような気がした。

 近頃のナギは、異性と言わず、他人が近付いただけで、神経質な猫のように身体をビクつかせていた。

 それがベルフェゴールに無体を働かれた所為だと気付いて、腹立たしさと申し訳なさから、そっと様子を見るだけに留めていたが、やがて睡眠不足に陥ったナギに、ヴォルグは身の内から沸き起こる衝動を抑えられなかった。

 アレの痕跡を、彼女の中から追い出したい。

 最初は、ただそれだけだったはずなのに、気が付けば、腕の中で身体を捩るナギに夢中になっていた。

「ひ、あ、ああ……っ!」

「ナギ」

「んうッ! あっ、ン! ば、かぁ! はげ、しっ……! ひっ、ひ、あっ!?」

「……ね、ナギ」

「な、ん、だよっ」

「もう全部、上書き出来たかな」

 黙っていれば、彫刻のように美しい顔が、真剣な表情でそんなことを宣うものだから――。

 ナギは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 え、と音もなく呟いた声が、宙に消えるより先に、ヴォルグが腰を深く穿つ。

 答えを聞くつもりがないのか、それとも最初から答えさせるつもりはなかったのか。

 激しい律動に、ナギは思考を奪われてしまう。

 いたい、でも、それだけじゃない。

 あの男に抱かれたときは、こんな風に快感を拾えなかった。

 ただただ、自分本位で動く男の腰遣いに、早く終われ、と信じてもいない神に祈っていたことしか、もう思い出せない。

 どこをどう触られて、舐められて、無理やり高められたのかを、はっきりと覚えていたはずなのに。

 気が付けば、あの男から与えられた歪な劣情はナギの中から消え掛かっていた。

「……ばか、だなっ、んあ、んっ!」

「ナギ、ナギ……!」

 忌々しくて仕方なかったあの夜の記憶が、ヴォルグの体温に塗り変えられていく。

 ぴん、と足先を伸ばしたナギが、悲鳴に近い嬌声を上げるのに、そう時間は掛からなかった。

「ああ……っ! そっ、こ、やだぁ! とま、って……んうっ!」

「く…………ッ!」

 冷えた何かが、ナギの身体の中で弾ける。

 それがヴォルグのものだと、気付いた途端、ナギの背中が弓なりに戦慄いた。

「…………へんたい」

 ぜえはあ、と肩で息をしながら、ナギがヴォルグを睨んだ。

 最後の一滴まで、漏らさないと言わんばかりに、塗り込められたそれに、ナギが「あっ」と甘い声を響かせる。

「も、さいあくだ、おまえ」

「僕は良かったんだけど……。何、足りない?」

「誰が、んなこと、言ったよ。ばか。しね」

「んふふっ。君、こういうことすると、呂律回らなくなるんだね。かわいい」

「~~っ!!!」

「あははっ! ごめんごめん! 冗談だって!」

「冗談で済まないことしておいて、よく言えるな!! そんなこと!!」

 皮の座面が背中に張り付いて気持ち悪い。

 シャツ一枚を羽織っただけの自分と、上半身裸のヴォルグ、という昼下がりの執務室にしては夜の匂いが色濃く香る空間に、ナギは舌打ちを溢した。

 ゆっくりと、身体を起こすと視界の端に映った毛布を頭から被る。

「んで、どーすんだよ。こっから」

 ヴォルグは勿論、自身の視界からも事後の身体を逸早く隠したくて、毛布をぐるぐる巻きにしながら、ナギが低い声で言葉を紡ぐ。

「……君は、どうしたい?」

「お前、今日そればっかだな」

「なにが、」

「俺に選択肢を与えるフリをして、自分に都合良くことを進めてる」

 金色が、獰猛な輝きを取り戻す。

 いっそ、眩しすぎるくらいのそれに、ヴォルグは瞬きを繰り返した。

 先ほどのナギではないが、完全に無意識での言動だった。

 しぱしぱ、と睫毛を震わせながら微動だにしなくなった男に、ナギは蟀谷を抑えたまま洗練された動きで右手を持ち上げた。

「…………なかったことにしよう」

 ヴォルグから表情が消える。

 真顔の彼は、画家や彫刻家泣かせだな、と改めてその顔の良さに見惚れていたナギだったが、不穏な気配を漂わせる魔王に、もう一度「なかったことにするべきだ」と追い討ちをかけた。

「どうして?」

「どうしても、何も、合意じゃなかっただろ」

「?」

「きょとん顔するな。ムカつくから」

「途中からノリノリだったじゃないか」

「ノッ――誰がだ!?」

「君!」

「あーもうっ! 茶化すなよ! こっちはいつも通りに感覚を戻そうって必死になってんのに、何なんだてめえは!」

 ナギの頬に赤が宿る。

 行為中に何度も見た光景に、その熱さを確かめることを失念していたことを思い出して、そっと手を伸ばす。

 ひたり、と音もなく頬に触れたヴォルグの掌に、ナギは「ひっ」と悲鳴を漏らした。

 冷たい感触に、彼が未だ興奮状態であることを嫌でも知覚させられる。

「お、おいっ」

「ん~~?」

「は、離れろって、」

「やだ」

「…………さっきと同じ流れにしようとするな。いい加減にしろ、ヴォルグ。こんな格好、誰かに見られたら、」

 どうするんだ、と尻すぼみになっていくナギの唇を、ヴォルグの指先が優しく撫でた。

 少し、カサついた、彼の指が、むにむにと無遠慮にナギの唇を弄ぶ。

「僕ね、他人のことなんて、本当はどうでもいいんだ」

「は?」

「でも、君は違う。だから、あんなことされて弱った君の姿を見るのが、嫌だったんだ」

「な、に」

「――これ以上、君が嫌がることはしたくないし、今回は大人しく従うことにするよ」

 名残惜しそうに告げたかと思うと、数秒して、鼻先が触れ合った。

 優しく繰り返されるキスに、ナギが戸惑っていると、唇越しにヴォルグが笑うのが分かった。

「これっきりにする。でも、あと少しだけ」

 くっつかせて、と遠慮なく毛布を剥ぎ取った魔王に、勇者が本日何度目になるか分からない悲鳴を上げたのは言うまでもない。