3話『生贄 -前編-』

身体が重い。
何も見えない。
ここは、どこだったか。
うすぼんやりとした視界の向こうで、誰かがこそこそと話をしている声が風に乗って流れてくる。

「……は、新月だ。……をきっと……し……に……ぞ」
「分かっております。……は必ず……俺が……」

新月。
ああそうか。だからジグは俺を連れ戻しにやってきたのか。

二十歳になった、最初の新月。
それは、ナギの身体にルーシェルの呪いが発動する日でもあった。
知らぬ間に二十歳を迎えていたことに、ナギは瞑目した。
魔界での日々が楽しくて、時を忘れていたのかもしれない。
自嘲気味に笑えば、意識を取り戻したことを察したのか、ジグがこちらに近付いてくるのが分かった。

「起きたか」
「……」
「来い。禊を済ませたら、すぐに着替えろ」

物言わぬのを良いことに、髪を掴まれて無理やり身体を引っ張り上げられる。
声を出すことさえも億劫で、鋭く睨みつけてみるものの彼はそれに何の感情も見せなかった。
乱暴に手を振り払って、大人しく後に従えば、そこには白薔薇が浮かんだ大理石の浴槽があった。

教会の中にこんな広い浴室があったことにナギは驚いた。
子どもの頃からここで生活していたが、地下にこんな場所があることを初めて知った。

「脱げ」

拒むように首を横に振れば、力任せに衣服を引き裂かれる。
マリーに仕立ててもらった一張羅が、ハラハラと床に散らばっていく様に、ナギは奥歯を噛み締めた。

「……一人で入れる」
「なら、抵抗するな。そんなことをしても、逃げられないことなど分かっているだろう」

ジグの言葉に、ナギは彼を睨みつけることしかできなかった。

魔界から連れ去られて一体何日経ったのだろう。
じくじくと痛む胸の内に巣食うのは、ヴォルグに会いたいという思いだけだった。

こんなこと、今まで思いもしなかったのに。

たった一人、冷たい世界で生きてきたあの王に、ナギはいつしか自分を重ねていた。
混血児ばかりで構成された第一部隊に居たとはいえ、ナギの孤独は彼らでは埋められなかった。
彼らは意図的に教会が魔族と人間を掛け合わせて造った合成獣のようなもので、ナギとは似て非なるものだったからだ。
けれども、彼らに対する情がなかったのかと言われれば、それは違うと即答できる。例え偽物でも、彼らはナギの家族に変わりなかった。

ヴォルグに殺された、紛い物の造られた家族。
彼はそれを埋めるように、優しくて残酷な気持ちをナギに教えた。

(……会いたい。会いたいよ、魔王)

心臓を穿つ、この想いの名称をナギは知らない。

「禊が済んだら呼べ。いいな」
「……」
「返事は」
「…………分かった」

引き裂かれた衣服にゆっくりと手を這わし、順に脱いでいく。
一糸纏わぬ姿になると、ナギはするりと身体を湯に滑り込ませた。
魔王城の湯殿を知った今なら分かる。
とても心地良いとは言えない、生ぬるい湯が肌を滑っていく、その不快な感触に肌が総毛立つ。
思わず喉元までせり上がってきた何かを必死に飲み込んだ。

湯に浮かんだ白薔薇の香りが、ナギの嫌悪感を余計に逆撫でした。

「くそっ!!」

逃げ出す力があるのに、逃げ出せない。
これではなまるで、幼い頃に逆戻りだ。

『ナギ』

穏やかに己の名前を呼ぶヴォルグの姿が脳裏に浮かんでは消える。

(ヴォルグ)

巻き込みたくはない。
けれど、もう一度。一目でいい。優しい魔王に、会いたかった。

◇ ◇ ◇

「……そこを退け、マモン」
「……前にも似たようなことがあったな。悪いが、俺の答えはあの時と同じだぞ」

落ち着け、と手負いの獣のように唸るヴォルグに諭しながら、マモンはため息を吐き出した。

魔王城の城門で繰り広げられる押し問答は連日連夜続いていた。
終わりのない攻防に、先に痺れを切らしたのは勿論、従者であるマモンの方だ。

「『俺』が退けと言っている!!」
「誰も行くなとは言っていないだろ! 準備が整うまで待てと言っているんだ!」
「準備などしている間に、ナギの身に何かあったらどうするんだ! 僕だけでも先にあちらへ……!」
「お前が死ねば、奴らの思うツボなんだぞ! 少しは冷静になれ!」

マモンの言葉に、ヴォルグの動きが止まった。
だが、大人しくなったのも一瞬で、再び門に向かって魔王は無謀にも手を伸ばす。

「陛下」

低く、地を這うその声に、ヴォルグとマモン両名の動きが、今度こそ止まる。
その声は、連れ去られたナギの父、ベヒモスのものであった。

「ナギなら大丈夫です。アレは私に似て丈夫なようですし、母親と同じく強い意志を持っています」
「……そんなこと、知っているよ」
「なら、何故そのように配下の手を煩わせるのです」
「それは、」
「あの子が心配だからですか?」

ヴォルグの言葉を拾ったのは、ベヒモスの妹にしてナギの叔母、レヴィアタンだ。
いつの間に現れたのか、彼女の傍にはベルフェゴールの頭が培養液の入った水晶に入れられ、ふよふよと不気味に浮遊している。

「ナギが強いことは、戦ったことのある僕が一番知っている。けれど、彼女は優しいから」
「望まれたら、それがどんな相手でも応えてしまう、と?」
「……」
「それはナギに失礼ですよ、陛下」

レヴィアタンとベヒモスが顔を見合わせて笑った。

「育てることすら叶いませんでしたが、アレには私の血が流れています。一度忠誠を誓った者以外には、決して心を許しませんよ」
「そうですとも。それに、義姉君は最後まで教会に屈しなかった人だと聞きます。母を教会に殺されたあの子がそう簡単に与するわけがありません」

二人の言葉に、ヴォルグの顔色が少しだけ明るさを取り戻す。
礼を述べようと若き魔王が口を開いた、その時。

『――ヴォルグ。お前に会いたいよ』

切なく零されたナギの声が、ヴォルグの耳朶を震わせた。

「ナギ?」

今や異界に連れ去られた彼女の声が聞こえるはずもない。
だがそれは紛れもないナギの声だった。

「陛下! 準備が整いました!!」

気の所為だったのか、と思うほどに小さな声はヴォルグの耳の中で、暫く反響を繰り返していた。

◇ ◇ ◇

ナギが連れ去られて、十日。
漸く待ちに待った新月が魔界にやって来た。

生憎の吹雪で視界は最悪。
周りは雪と闇に覆われていた。
だが、ヴォルグに恐れはなかった。

――例え何が待っていたとしても、必ずナギを取り戻す。

ヴォルグの頭は、それだけでいっぱいだった。

「進め! 我が同胞よ! 我が剣、我が騎士を取り戻しに行くぞ!」
「おー!!」

王の雄叫びに、人間界への門が開く。
そして、飛び込んだ彼らを待っていたのは、白い甲冑に身を包んだ聖アリス教会の騎士たちであった。

「魔王軍とお見受けする!!」

誰かの声が風に乗って運ばれてくる。
先陣を切ったマモンがそれに応えるように、剣を振るった。

「聖アリス教会の騎士よ!! 我が剣、ナギを返してもらおう!」

ヴォルグの声に、魔王軍が沸いた。
雪崩れ込むように聖騎士たちの中に突っ込むと、手に手に武器を持って次々に聖騎士を仕留めていく。

「ナギ!! どこに居る!!」

ヴォルグの声は、乱戦の轟音に掻き消された。
けれど、彼は叫ぶことを止めない。
ナギならば応じてくれる、必ず応えてくれるはずだと信じて馬を前に進め続けた。

「……お探しのモノはこれかな? 魔王陛下」

不意に、ジグの声が辺りに静寂を呼び戻した。
血の付いた剣を振るってそちらに目を遣れば、白いドレスを着せられたナギが虚ろな瞳をしてジグに抱えられている。

「ナギ!!」
「おっと、それ以上近付くなよ。禊を済ませたばかりなのだ。汚らわしい手に触れさせたくはない」

ジグが厭らしい笑みを浮かべながら、腕の中のナギに手を這わす。
ナギは遠くを見たまま、彼にされるがままになっていた。

「彼女に一体何をした!」
「何、少し素直になるよう聖水を飲ませただけだ。……ふっ。これが余程、大事に見える。まさかとは思うが、惚れているのか?」
「!!」
「ならば、返してやろう」

そう言うと、ジグはナギに彼女の剣を持たせた。
そして、ヴォルグの方を指さすと何事かを耳打ちする。

「……っ!!」

カッと目を見開いたかと思うと、親の仇のように自分を睨むナギに、ヴォルグは剣の柄を握る手に力を込めた。
かつて戦ったときはあんなに心地良かった鋭い眼光も、今や冷たくヴォルグの胸に突き刺さる。

「ころす」

いつも言われていた言葉なのに、舌足らずな声でそう告げられると、何だか可笑しかった。
馬上の戦いは止めだ、とヴォルグは愛馬から飛び降りると、一直線でこちらに向かってくるナギと刃を交えた。
重い一撃に、ヴォルグの剣が悲鳴を上げる。
剣を受け止めたまま、片足を上げ、蹴りを放つ。
だが、ナギには読まれていたのか、すぐに身体は遠ざかり二人の間に一メートルほどの距離が開いた。

「目を覚ませ、ナギ! 君を傷付けたくはない!」
「うるさい!」
「ナギ!」
「うるさいって、いってんだろ!!」

聞き分けのない子どものように嫌々と首を振りながら、再び剣を振り下ろしてきたナギに、ヴォルグは唇を噛み締めた。
意識を操られている所為で記憶が混濁しているのか、いつもより幼い言動がヴォルグの心を掻き乱す。

(……どうして、来たんだ)

ふと、ナギの声が心の中に直接流れてきた。
契約はまだ切れていない。
ヴォルグはそう確信すると、心の中でナギのことを想った。

(帰ってくれ、ヴォルグ。俺はお前と戦いたくない)

ナギの心は泣いていた。
言うことを効かぬ身体が剣を振るう度、それは重い一撃となってヴォルグを襲う。

(俺がお前を傷付けてしまう前に、俺を殺してくれ)

その一言に、ヴォルグの動きが止まった。
ナギの足が地面を抉る。
しまった、とヴォルグが顔を顰めるが、ナギの身体はその隙を逃さない。

――グサリ。

肉を絶つ嫌な感触に、ナギの目にゆっくりと光が戻っていく。

「……お、かえり、ナギ」
「ヴォルグ!!!」

嘘だ、とナギは叫んだ。
あんなに待ち望んでいた王を、自らの手で傷付けてしまった。
力なく地面に伏せるヴォルグの身体を追うように、ナギもその場に蹲る。

「いや! いやだ! ヴォルグ!! 目を、目を開けてくれ!!」
「だい、じょうぶ。僕は、死なないから、」

泣かないで。
ヴォルグの声がナギの心を波立たせる。
初めて出会った自分を認めてくれた人。
そんな彼を、自分は。

「いやああああ!!」

ナギの声が戦場を駆け抜けた。
二人のやり取りを少し離れた場所で見ていたジグが、けらけらと笑いながらナギとヴォルグに近付いてくる。

「どうだ、ナギ。愛しい者を手に掛ける感触は? さぞ、甘美であっただろうな?」
「ジグ、てめえ!!」
「ふふ。怒った顔もチヨそっくりで、愛らしい。ますます俺のモノにしたくなった」
「黙れ!! それ以上、俺に近付いてみろ! ぶっ殺してやる!!」

幸い、急所は外していたのか、ヴォルグの息は荒いがしっかりと呼吸を繰り返していた。
のそりのそり、と熊のように大股な足取りでこちらに近付いてくるジグに、ナギが剣を持って立ち上がる。

「ナギ……」
「大丈夫だ。お前には指一本触らせない」

ドレスの裾を斬って動きやすくすると、ナギはジグと対峙した。
ジグは腐っても聖剣を託された剣士だ。
下手に動けば、後ろで倒れているヴォルグを狙われる。

ナギは逸る気持ちを押さえつけて、相手の様子を窺った。
じっと、ジグを凝視すれば、彼は心底可笑しそうに笑みを深める。

「実に愉快だ。魔王を殺すために送り込んだお前が、魔王を守ろうとしているだなんて。大聖人が知れば、さぞ悲しまれるだろうな」
「黙れ」

その声を聞くだけで、全身の血が沸騰しそうなほど怒りで熱くなった気がした。
飛び込んできたジグの身体を大剣で受け止める。
ガンッと巨大な岩が突進してきたのではないかと思うほどの衝撃に、後退りしそうになるのを何とか堪えると、ナギは剣の柄を彼の鳩尾に叩きつけた。

「ぐっ」

苦しそうに息を漏らしたジグの隙を衝いて、ヴォルグの身体を抱えて僅かばかりに距離を取る。

「ちょっとは、回復したか?」
「無茶言わないでくれる? 君が刺したんだろ……っ」
「操られていたんだ。本意じゃねえ」
「ふふ、分かっているよ」

ふらり、と起き上がったヴォルグにナギは安堵の息を漏らした。

「余所見をするとは、随分余裕だな」

すぐ真横から聞こえてきた声に、ナギは防御の構えを取るのが、少し遅れた。
ダァン、と派手に背中を大木に打ち付けた所為で、耳鳴りがする。
震える身体に鞭打って立ち上がれば、武器を持って笑うジグの姿が眼前に迫っていた。
禊の後に飲まされた聖水の所為で、頭に靄が掛かったように視界が霞む。

「ナギ!」

ヴォルグの声に、ナギはグッと歯を食いしばった。
剣を逆手に持ち直し、一閃。
返り血が顔に飛ぶも、直後に響いた笑い声に、それほど深い傷を負わせていないことを悟る。

「惜しかったな、ナギ。もう少し上を狙っていれば、俺の首を落とせたというに」

くつくつと、背後で笑う男の声が不快で堪らない。
霞む視界の向こうで、ヴォルグの手がこちらに伸びているのが分かった。

(俺ごとこいつを撃て)

ヴォルグが操る魔法は、雷。
ナギはそのことを思い出して、心の中で呟いた。
ヴォルグの目が大きく開く。

(やるなら、今しかねえ!! やれ!!)

「ヴォルグ!!!!」

ナギの声がヴォルグを奮い立たせた。

「うああああああ!!」

ヴォルグの腕に紫色の雷が這う。
放たれた光は、獅子のように獰猛な音を立てて、ナギとジグの二人を襲った。

「ぐあああ!?」

ジグが煙を上げ、地面に吸い込まれるように倒れた。
バタン、と派手な音を立てて倒れた彼に続いて、ナギも地面に倒れ込む。

「ナギ!!」

ヴォルグの声に、ナギは苦笑しながら手を伸ばした。

「これで、おあい、こ、だからな」
「……まったく、君って人は」

痺れる身体をヴォルグに支えられながら、立ち上がる。
辺りには肉の焼け焦げた匂いが充満していた。
動かなくなったジグを見て、ナギは長い間、胸に巣食っていた靄が漸く晴れたような気がした。