ともすれば、目が灼けてしまうのではないかと思うほどに眩い光を放つ、あの金色が好きだった。
届きそうで届かない。
胸に湧き上がったその想いが叶わないことをアスモデウスは知っていた。
偉大なる我らが長兄――ルーシェル。
兄に抱く想いにしては随分と重く、どろどろとしたそれを告げることなく飲み下すことを選んだ結果、アスモデウスは男で居ることに疲れてしまった。
父である神と大喧嘩をして天界を離れると言った彼に一番初めに付いて行くと手を上げたのはアスモデウスだ。
大好きな兄を独り占めできる。最初はそんな風に考えていた。
けれども、彼の傍らにはいつもアリスが居て。
アスモデウスの中で育っていた幼い恋心は日の目を見る前に死んでしまった。
ルーシェルが笑えば、アリスも同じように顔を綻ばせる。
そんな二人のやり取りを微笑ましく感じるようになった頃、アザゼルがアリスを攫って、二人の仲を引き裂いた。
「ねえ、知っていた?」
言葉はいらない。
そう言わんばかりに降り注ぐ矢の雨を、アスモデウスは毒の息で溶かしていく。
「貴方が引き裂いた二人は、必ず出会うようになっていたのよ」
「何の話だ!」
「ルーシェル兄様とアリスの話に決まっているでしょう? 他にお前と話すことなんてないもの。相変わらず鈍いわねぇ」
ふふ、と天界に居た頃を思い出して、アスモデウスは笑った。
あの頃は毎日が、ただただ楽しくて、こんな風に弟と本気の殺し合いをする日が来ようとは思ってもいなかった。
「魔族(ルーシェル)と人間(アリス)の縁は結ばれない。お前はそう言っていたけれど。それは違うよ」
アザゼルは攻撃の手を緩めない。
次から次へと、雷鳴の如く唸りを上げる矢がアスモデウスの肌を掠めていく。
全て紙一重で避けきったアスモデウスを見て、アザゼルは悔しそうに表情を歪めた。
「縁は一度結ばれたら、そう簡単には断ち切れない。本人たちでもそれを切ることは難しい。――アリスの複製とて、それは同じ」
「まさか!?」
「そのまさかよ。当代の王には、ルーシェル兄様の血が混ざっている。あの紅色の瞳を見たでしょう? あれは、兄様の色。血が薄まっても、あれだけは絶対に見間違えるはずがない」
アザゼルの拳が、怒りでぷるぷると震えていた。
「何故、俺を選ばないんだ。どうして、いつも彼女はあいつを選ぶ!」
「お前の愛は重すぎた。アリスにはとても受け止めきれなかったのよ」
「そんなことはないっ!! それでは、俺の愛が間違っていたことになるっ! 俺は……! 俺はただ傍で笑ってほしかっただけだ! あの笑顔を、俺にも向けてほしかった、それだけなのに!!」
ゆらり、とアザゼルの姿勢が不安定な動作で後ろに傾いだ。
アスモデウスは目を細めると、髪を伸ばして彼の身体に巻き付ける。
身動きを封じられたというのに、何の抵抗も示さないアザゼルにアスモデウスが眉根を寄せた。
「相変わらず、子どもみたいなことを言うね。お前は」
「……っ」
「愛は大きすぎると形を変える。膨らみすぎたそれはやがて己の身をも亡ぼす狂気になり果てるだけだ。――今のお前のように、ね」
髪を元の長さに戻して拘束を解く。
解放されても尚、アザゼルは動かなかった。
虚ろに彷徨うアザゼルの瞳が子どもの頃のそれと重なって、アスモデウスはそっと彼に近付いた。
「愚かで、優しい弟。お前は愛を注ぐ器を間違えてしまった」
「に、いさま」
「俺と同じで歪で異質な愛を持つお前のことは痛いくらいによく分かる。だからもう、これで終わりにしよう」
アスモデウスのしなやかな腕が、アザゼルの腕を絡めとる。
久方ぶりに抱きしめた弟の身体は酷く震えていて、殺し合いの最中だというのに、それが少しだけ可笑しかった。
「そのまま押さえていろ!! アスッ!!」
懐かしい兄の声が、アスモデウスの耳朶を、心を、喜びで震わせる。
天高く舞う灰色の翼を視界で捉えるとアスモデウスは、アザゼルの身体をきつく抱きしめた。
「怖くない。怖くないよ。アザゼル。俺も共に、行ってあげるから」
いつかのように――天界を去ることを泣いて愚図ったあの日のように、アスモデウスがアザゼルの背を優しく撫でる。
――ドンッ。
ルーシェルの鋭く尖った爪が、二人の心臓を抉った。
痛みで眼前が白く染まる。
次いで感じた浮遊感に身を任せようと、アスモデウスが目を閉じれば、温かな温もりがそれを阻止した。
「ルーシェル兄様。約束は守りましたから、ね?」
愛しき我が兄、ルーシェル。
ずっと貴方の後を追いたかった。
『我の代わりに、我の子を、そして我とアリスが愛したこの世界をアザゼルから守ってくれ』
貴方と交わしたあの約束が無ければ、疾うに後を追っていた。
「ああ、礼を言う。アスモデウス。俺は本当に良い妹(おとうと)を持った」
「ふふ」
ごはっ、とアスモデウスの口から血が噴き出す。
ルーシェルに抉られた心臓が動きを止めようとしているのだと、どこか他人事のようにアスモデウスは空を見上げる。
朝焼けが夜を飲み込もうと、東の空で色を帯び始めていた。
「死なせはせん。少し、我慢しろ」
「え?」
何をするつもりなのだ、と聞き返す間もなく、ルーシェルの掌が穴の開いた胸に重ねられる。
ぽう、と柔らかな光が傷を照らしたかと思うと、あっという間に傷が塞がった。
抉られた心臓もすっかり元通りになり、正常なリズムを刻み始める。
「アスモデウス!!」
ルーシェルに抱えられたまま、地面に降り立つとそこには全身傷だらけになったヴォルグとナギの姿があった。
「ありがとう。兄様を救ってくれて」
「礼は良い。それより、大丈夫なのか!? 酷い出血だぞ!!」
「平気よ。兄様が治してくれたから」
心配そうに自分を睨むナギを誤魔化すように、ぎゅうと抱きしめてやれば、彼女は漸く納得したのか、暑苦しいと言わんばかりに身体を遠ざけられてしまう。
「大聖人は?」
「……あそこよ」
アスモデウスの示した先を視線で辿って、ナギは絶句した。
古い礼拝堂の上に身体が突き刺さったまま動かなくなっている天使に、ヴォルグとナギが息を飲む。
恨めしそうにこちらに視線を寄越す彼を見て、ルーシェルはゆっくりとそちらへ近付いた。
「アザゼル」
ルーシェルの声に、アザゼルの眉が僅かばかりに持ち上がる。
瀕死の状態だからなのか、声を出すのも億劫なようで、表情だけで「何だ」と問い返してくるのが分かった。
「我はお前が憎かった。アリスを連れ去ったお前を殺してしまいたいほどに」
「……」
「だがこうしてお前が死にそうになっているのを見ると『悲しい』と、そんな感情が湧き上がってくるのだ」
ルーシェルが翼を広げ、空に舞い上がる。
灰色の、濁った羽が風に踊って、アザゼルの鼻先を擽った。
「我はお前が憎い。それは今も変わらぬ。だがな、憎くても嫌いにはなれんのだ。この一万年。お前のことを嫌いになろうとした。けれど、出来なかった」
アザゼルはルーシェルの言葉を黙って聞いていた。
ナギの手を握っていたアスモデウスが、ルーシェルの後を追って、空を舞う。
「私も。貴方のことは、嫌いになれなかったわ」
「何故だ、と言う顔をしておるな」
「愚問ね。貴方が私たちの『可愛い弟』だからに決まっているでしょう」
アザゼルの目が大きく見開かれる。
そして、淡い光が彼の身体を優しく包み込んだ。
「……我は往く。お前も共に来るか?」
ルーシェルが伸ばした腕を、アザゼルは拒まなかった。
ずるり、と十字架から引き抜かれた彼の身体は、血に汚れ、穴が開いていた。
だが、ルーシェルはそんなこと気にもしていない様子で、慣れたように弟の身体を抱き留める。
「世話を掛けたな、アリス。それに当代の魔王よ。これからも魔界を頼むぞ」
「ああ」
「はい」
ヴォルグとナギがゆっくりと首を縦に頷かせるのを見て、ルーシェルは満足そうに笑った。
「では、さらばだ。アス。お前も、奴らの助けと――」
ルーシェルの言葉が終わるより先に、アスモデウスは彼の胸の中に飛び込んだ。
腕を肩に回されていたアザゼルが突進してきたアスモデウスへ抗議の視線を向けるが、彼女はルーシェルの身体を抱きしめるのに必死でそれに気付く様子は無かった。
「私も連れて行って」
「アスモデウス」
「もう一人ぼっちはごめんよ。ずっと玉座の下で魔力を張り続けるのに、疲れたの……」
兄様と往きたい。
それっきり、アスモデウスは何も言わなかった。
ただ、ルーシェルの背に縋って震える指先が、アスモデウスの心を物語っていた。
「……顔を上げよ」
「良いって言うまで離れないから!!」
「アス。顔を上げろ、と言っているのだ」
「嫌!! そんなこと言って、誤魔化そうとしても……っ」
ぬるり、と唇を這った生温かい感触にアスモデウスの身体が硬直する。
次いで、トンッと軽く肩を押されたかと思うと、身体が自由を失って地面へと降下を始めた。
「生者が死者に縋るな。お前には我の代わりに、これからも我の子たちを見守ってもらわねばならんのだ」
「ルーシェル兄様!!」
「愛しているぞ。アスモデウス。我が愛しの弟よ」
アザゼルを包んでいた光が、ルーシェルの身体を飲み込み始める。
太陽のように朗らかな笑みを浮かべて、空気に溶け込んでしまったルーシェルとアザゼルの姿をアスモデウスは涙を流しながら見送った。
「酷い、酷いわ。お兄様」
「アスモデウス……」
へたり、とその場に座り込んだアスモデウスを、今度はナギが抱きしめる番だった。
彼らが消えた空をヴォルグはただ黙ってじっと見つめる。
「帰ろう。僕らの世界へ」
ヴォルグの言葉を皮切りに、ナギとアスモデウスはゆっくりと棒のような足を動かして彼の後に続いた。
「ナギ」
不意にヴォルグの指がナギの掌を掠めた。
ぱちぱち、と瞬きを繰り返しながら、前を歩く彼を見れば、やけに真剣な表情をしたヴォルグと目が合って、思わず触れた指先に力が籠った。
「な、何だよ」
言葉尻が上擦ってしまったことにナギが唇を尖らせれば、ヴォルグの汗ばんだ手がナギの肌の上を這っていく。
「おかえり」
その一言に、ナギの眦を涙が伝った。
胸の内から言葉にならない想いが涙となって溢れだす。
「ただいまっ」
ぎゅう、と感情のままにヴォルグの手を握れば、少しだけ痛かったのか、ヴォルグの眉がぴくりと不自然に上がった。それがまた可笑しくてナギは握る力を強くする。
ついには「痛い」と魔王の悲鳴が上がるまで、二人は互いの掌をギュッと握りしめていた。