第2章『たゆたう蕾』3話

 誰かが泣いている声がする。
 その声を聞いていると、こちらが胸を引き裂かれるような思いにさせられて、シュラは思わず胸を押さえた。
 痛い、と口を衝いて出た言葉に、喘ぐように酸素を取り込む。

「……夢」

 勢い良く状態を起こした所為で、額から伝った汗が頤を流れ、手の甲に落ちた。

「夢か」

 もう一度、自身に言い聞かせるように呟いたそれは所在なさげに、小さく反響して消えた。

「シュラ?」

 隣で眠っていたエルヴィが自分の名前を呼ぶのに、シュラは何でもないと告げて再びベッドに横になる。
 だが、そこで違和感に気付いた。

「どうして、ここで寝ているんだ!」

 ぐあ、とそれこそ龍の咆哮を彷彿とさせるシュラの怒号が響き渡った。

「……ラエル、寝相悪い。一緒、寝たくない」
「いくら、お前が俺のことを番だと言ってもな! 俺はお前のことをそんな風に見たこともないし、これからもお前に対する認識は変えないつもりだから、はっきりと言わせてもらう! 同意もなく異性のベッドで寝るな!」
「エルヴィ、シュラのこと、好き。問題ない」
「一方的に向けられる好意は迷惑なんだ。こっちにとっては、大問題なんだよ!」

 悲痛に唸ったシュラの声も空しく、エルヴィが不思議そうに首を傾げている。

「シュラ、エルヴィのこときらい?」
「……好き嫌いの話をしているんじゃない」
「好きなら一緒寝ていいって、ラエル言ってた」
「お前は、何でもかんでもラエルの言うことを鵜呑みにするな」

 朝になったら、覚えていろよ、とラエルに静かな闘志を燃やしていると、エルヴィの指先が遠慮がちにシュラの服を掴んだ。
 離れろ、と言葉にしない代わりに、そっと指を外そうとすれば、逆に力強く握られてしまった。

「シュラ」

 その声で名前を呼ばれると困る。
 耳の奥にこびりついて、ジンと熱を持った。

「……近い」
「近い、いや?」
「嫌だな」
「どうして、」

 声が震えているのに、気付かないふりをした。
 触れている指先が、僅かばかりに熱を帯びる。
 金色の隙間から覗く銀と緑の双眼が所在なさげに彷徨った。

「俺にどうしろって言うんだ」

 ぎゅっと握られたままの手を睨みつけながら、シュラはエルヴィの次の言葉を待った。

「シュラと一緒にいたい、だけ」

 子どものように拙い言葉がシュラの胸を穿つ。
 祈りを捧げるように、きつく握り込まれた掌が少しだけ痛かった。

「…………今日だけだぞ」

 はあ、と短く溜め息を吐き出して、シュラは頭を抱えた。
 エルヴィに名前を呼ばれると、駄目だった。
 困ったように自分を見つめる少女の瞳は幼子のそれで、兄気質のシュラが苦手とするものの一つである。

「ぎゅってして、寝たい」
「……あまり、調子に乗るな」

 うっかり承諾してしまったのは間違いだったのかもしれない。
 嬉しそうに胸の中へと飛び込んできた少女の頭突きを受け止めると、眠ることだけを頭に置いて、深く息を吸い込んだ。

◇ ◇ ◇

 朝になるとシュラの左頬には、再び見事な紅葉が咲き乱れていた。

「だから嫌だって言ったんだよな、俺。朝になると夜のこと覚えてないとか、やばいって」
「……だ、だって、シュラ近い、恥ずかしい」
「お前が勝手に潜り込んできたくせに、何言ってんだよ!」

 地味に痛い頬を撫でながら、シュラは歯を剥き出してエルヴィを威嚇した。
 ここが船の上でなければ、その辺りを走り回って怒りを発散できたものを、と額に青筋を立てながら、申し訳なさそうにしょぼくれる少女に睨みを利かせる。

「好き好き言う割に、近いと殴るってどういうことだ。なあ、教えてくれよ」
「だ、だから、近い。いや」
「好きならいいんじゃないのか? あ゛?」

 つい、ガラの悪い声が出てしまったが、これはもう遺伝――主に父方の血が影響している――なのでシュラにどうこうできるものではない。眉間に皺を寄せて、エルヴィに詰め寄っていると、そこへ待ったと言わんばかりに同輩の声が掛かった。

「はーい。そこまで。しつこい男は嫌われるわよ~」
「別に好かれたいとか微塵も思ってないんだが」

 朝食を持って甲板にやって来たラエルをひと睨みして、シュラは手すりに凭れかかった。

「そんなこと言って、エルヴィが他の男に口説かれたりしたら怒るくせに」
「別に怒らないし、何も思わない」
「あら、本当にいいのね?」
「お前の方が、しつこいじゃないか」
「だったら、あれをご覧なさいよ」

 つつ、とラエルの指先を辿っていくと、朝食のフルーツを持ってきたジェットに子犬のように纏わりつく金髪の後ろ姿が目に入った。

「……何だよ」
「ほぉら、不機嫌になった」
「…………部屋で報告書をまとめてくる」
「分が悪くなるとす〜ぐ逃げるんだから」

 ここで煩いと叫んでしまえば、それこそ全面的に肯定しているようなものだ。
 寸でのところで怒鳴り声を飲み込むと、ジェットにもらったフルーツを嬉しそうに頬張るエルヴィの姿を視界の端で捉える。

「あーあ。知らないぞ、俺は」
「あら、何のことよ」

 ふふ、と惚けて笑ってみせたラエルに、ジェットは深い溜め息を吐き出す。
 無事に卒業認定書を貰えるのか。不安は募るばかりであった。

 幼い頃から両親と共に色々な場所へと赴いていたおかげか、シュラはめっぽう乗り物に強い。おまけに、龍の背に乗って移動――これは後で知ったことだが、恐れ多くも華月や旭日の背に乗っていたらしい――したこともあるため、普通の人に比べると三半規管が強いのだろう、とホロのお墨付きまである。
 そのため、船の中でも書類や本を読むことが出来るのはありがたかった。
 何かに没頭している間は、余計なことを考えなくて済むからだ。
 ここ最近のシュラの悩みと言えば、そのほとんどがエルヴィに関することだった。
 日中は、以前と変わらず子どものように、それこそ雛鳥が親鳥の後を追いかけるがごとく、シュラの周りをうろついている。それだけなら、まだ構わない。こちらの様子を窺うような視線は少しばかり鬱陶しいときもあるが、煩わしいのは視線だけなので、何の問題もない。ただ無視を決め込んでしまえばいいだけのことだ。
 だが、問題は夜の行動について何も覚えていないことであった。
 ナーガの魔力を世界樹に送った直後から、エルヴィは時折甘えるようにシュラのベッドに潜り込んでくるようになったのだ。それはまるで、発情期の雌が雄を誘うような動きで、異性への耐性が少ないシュラにとって、どう対処すれば彼女を傷付けなくて済むのか分からなかった。
 最初は気の所為だと、他人の体温の心地良さを知ったから、それで潜り込んできているのだと信じて疑わなかった。
 けれど、それは日増しに色を纏うようになった。
 昨日なんて――。

『シュラ、すき』

 濡れた唇が、シュラのすぐ傍まで迫っていた。
 寸でのところで、彼女の身体を押し返して事無きを得たが、あのままぼうっと見惚れていれば、もう少しで触れていたかもしれない。

「っだー!! もう!!」

 結局、報告書は三分の一も埋まらなかった。
 書類を作っていれば、思い出さなくて済むかもしれないという安直な考えを抱いてしまったのが、そもそもの間違いだったらしい。
 チッ、と鋭い舌打ちを零したシュラが立ち上がったのと、軽いノック音が響いたのは同時だった。

「シュラ、ごはん、もってきた」
「…………あとで食べるから、その辺に置いておけ」

 また、ラエルやジェットに何か吹き込まれたのだろうか。
 おろおろ、と視線を彷徨わせながら、食事を持って部屋の中に入ってきたエルヴィに、シュラは眉間に皺を寄せる。
 不機嫌を露わにしていれば、すぐに立ち去ると踏んでいたのだが、遠慮がちにソファへ腰を下ろした彼女を、視線で追いかけてしまった。

「……何だよ。まだ何か用があるのか?」
「ない、けど、シュラといたい」
「……」

 エルヴィの言葉は、いつだってシュラの心を掻き乱す。
 人間みたいに振舞ってはいるが、所詮は作り物だ。ただ、最初に目があっただけで、どうしてここまで盲目的に好意を抱けるのか、シュラには分からなかった。

「俺といても、つまらないだろう」

 ぽろり、と零れた本音に、シュラは口を塞いだ。
 だが、エルヴィの耳にはしっかりと届いたらしい。

「シュラ、一緒、ここあったかい。だから、好き」
「……好きとか、簡単に言うな」
「え?」

 初めて見たのが、たまたまシュラだっただけだ。
 そうじゃなければ、エルヴィはシュラに好意を抱かなかっただろう。
 そしてそれは好意と呼ぶにはあまりにも稚拙で、親から与えられる愛情を求めて泣き喚く赤子となんら変わりない。

「蕾に触れたのが俺だったから、勘違いしているだけだ。お前はただ、俺の魔力が欲しいだけで、それは好意でも何でもない。食欲や睡眠欲をはき違えているだけだ」
「シュラ」
「そんな声で、俺の名前を呼ぶな!」

 エルヴィに名前を呼ばれると、いつの頃からか、胸の内が騒がしくなるようになった。
 シアンや桔梗の息子としてではなく、ただの『シュラ』を求めてくれた彼女に、心の隅で縋ってしまいそうになる自分が見え隠れしている。

「旭日様や世界樹がお前にそう思い込ませているだけだ」

 エルヴィに告げながら、シュラは自身にも強く言い聞かせていた。
 勘違いしてはいけない。彼女に芽生えたその感情は、世界樹や旭日が植え付けた偽物なのだから、と。

「そんなこと、」
「シュラッ!! 大変だ!! ミーティスが……!!」

 エルヴィの声は、ジェットの悲痛な叫びに掻き消された。
 なんだ、と視線だけで続きを促せば「魔物の群れに襲われているんだ!」と、鼻息荒く捲し立てられる。

「救難信号は?」
「もう出した。先生たちが結界石を魔法で強化しているみたいなんだが、どうも様子がおかしい!」
「……まさか、」
「ラエルはもう飛び出して行ったぞ」
「オイ!」

 ほら、と半笑いのジェットが示した先には、相棒の精霊に乗って街へと向かうラエルの後姿が小さく見えた。

「単独行動をさせたと知れたら、班長の俺が叱られる。急いで追いかけるぞ。エルヴィ。お前も来い」
「う、うん」

 すぐさま、自分の荷物を纏めると。何もかもを放って飛び出したラエルの荷物も回収してから、シュラは甲板に移動した。
 幸いにも遊覧船ではなかったことが幸いし、乗客は少ない。
 そして、その少ない乗客も対岸の騒ぎに気を取られ、甲板の方に誰も視線を向けてはいなかった。

「こんなところで使ったら、また母上に怒られるな……」
「そう言うと思って、目くらましの魔法陣を書いておいてやったぜ」

 ふふん、と得意げなジェットに、シュラは苦笑を零す。

「お前、最初からこれが目的で、ラエルを止めなかったな?」
「だって、早々ないだろ! 龍の背に乗る機会なんて!」

 興奮気味に話すジェットの目は、爛々と輝いている。
 さながら、珍しいおもちゃを前にして手をぶんぶんと振り回してはしゃぐ幼子のようで、シュラは短く溜息を吐いて呆れることしか出来なかった。

「ちょっと離れていろ」
「ん」

 ぴたり、と傍に寄り添うように立っていたエルヴィに離れるよう促すと、シュラは心の中で相棒に呼びかけた。

(蒼月)

 シュラの呼びかけに応えた龍が、美しい青を反射させながら姿を見せる。

『全く、お前は。いつになったら、落ち着いて俺を召喚できるようになるんだ』
「はは。ごめんって」
『笑いごとではないわ! このたわけ!』

 ぐあ、と眼前で吠えられて、シュラは思わず「ごめんな」ともう一度謝罪した。
 けれども、蒼月の気は済まないようで、お仕置きだと言わんばかりに熱い鼻息を吹きかけられる。

「あっつ。おま、ちょ、熱いって!!」
『熱くしているのだ。当たり前だろう』

 鋭い目で睨みつけられて、負けじとシュラも睨み返す。
 そんな二人を現実へと引き戻したのは、遠慮がちに呟かれた小さな声である。

「しゅ、ら。急がないと」

 くい、と引かれた袖は、今までよりもずっと弱い力で握られていて、思わず口を開けて固まった。「遠慮」という言葉は、エルヴィからもっともかけ離れたものだと思っていただけに、こちらの様子を窺うようにジッと見上げてくる双眸を黙って見つめ返す。

「シュラ?」
「あ、ああ。分かっている。振り落とされるなよ」
「ん」

 シュラはエルヴィを抱えて蒼月の背に飛び乗った。
 すると、その様子を見ていたジェットの生温い視線を真面に浴びて「何だよ」と視線だけで釘を刺す。

「べっつにぃ。なんだかんだ言って、面倒見の良さが滲み出てるなぁと思っただけだよ」
「……俺の同輩はどうしてこう性格の悪い奴ばかりなんだろうな?」

 はあ、と吐き出された溜め息は、蒼月の翼の音に紛れ、誰にも気づかれないうちに小さくなって空に飲み込まれた。

 ◇ ◇ ◇

 学術都市ミーティス。
 世界中の知識を有している街と名高いその場所は、西の国の北部に位置している。
 水の都ラグーナに次ぎ、白いレンガで造られた家屋や建物が美しいと称されており、街を闊歩する魔導学生や騎士訓練生などの制服が陽の光に反射し、鮮やかな光景を作り出すのが特徴的であった。

 海上からでもはっきりと見えていた砂煙は、近付いてみると更に色が濃くなり、混乱と共に街全体を覆い隠していた。
 シュラたちが在籍している魔導学校は街の中央部に居を構えている。
 上空から崩れていない建物の目星をつけて屋上に降り立った蒼月の背から見えた景色に、シュラたちは言葉を失った。
 地面から突き出た世界樹の根が建物や人間に容赦なく襲い掛かっていたのである。
 白亜の壁は崩れ、血の赤と煤の色に染まっていた。
 普段の街を知っているだけに、シュラとジェットは地面に足を縫い付けられたかのように動けなくなってしまう。
 あちこちから悲鳴や鳴き声が響いていた。

「母、やめて!!」

 エルヴィの声に、近くで蠢いていた根の動きが一瞬だけ止まった。
 声の元を探るようにうろうろと空中を彷徨い始めた根を見て、シュラは咄嗟にエルヴィの前へと躍り出る。

「シュラっ」
「よく見ろ! お前の声を聞いても、人を襲うのを止めていない! 今の世界樹にお前の声は届いていないんだ!」

 シュラの視線の先には、根に押しつぶされて動けなくなった人たちが居た。
 すぐにでもそちらへ駆け寄りたかったが、ここでエルヴィに気付かれてしまえば、刺激を与えてしまうかもしれない、と彼女を守ることを優先する。

「蒼月は、ジェットと一緒に街の人を避難させてくれ。俺はエルヴィと一緒に根を撃退する!」
「分かった!」

 龍の姿から人型へ形を変えた蒼月と、ジェットが屋根を伝って器用に移動する姿を横目に、迫りくる根に向かってシュラは長刀を構えた。

「やめて!」

 シュラと根の間に割入ろうとするエルヴィの腕を、強い力で引き寄せる。

「お前はどっちの味方なんだ」

 思っていたよりも数倍、冷たい声が空気を震わせた。
 エルヴィの目が世界樹の根とシュラの間で揺れる。
 すぐ後ろまで迫ってきた世界樹の根に、シュラが無表情のまま長刀を振りかざす。

「お願い、まって」

 エルヴィの声に、シュラは無視を決め込むことにした。
 それというのも、洒落にならない速さで無数に伸びてくる根から彼女と自分の身を守るのに必死だったのである。

「刃に宿るは氷の女帝、凍てつけ――《氷華・ヒナギク》!!」

 個別に捌くのも限界がある、と判断したシュラは、長刀で辺りを一掃した。
 シュラとエルヴィの周りを囲うように、氷の軌跡が広がっていく。

「兄上ッ!!」

 ここには居るはずのない弟の声にシュラはぎょっとした。
 鈍い衝撃が胸板を襲う。

「あ、兄上ぇ~」

 顔中、汗まみれになったリオラが目に涙をいっぱい浮かべて抱きついてきたのだ。

「こんなところで、何をしている! 避難指示に従わなかったのか!」
「薬学の授業で森に行っていたんだ。それより、こっちに来て! ブル先生の結界が壊れそうなんだよ!」

 弟たちの担任の顔を思い出して、シュラは息を飲んだ。
 彼らの担任教師が得意とする魔法はラエルと同じく、他者を支援する魔法である。仮にも一教師であるため、結界魔法は扱えるだろうが、それも長くは保たないだろう。

「キヨラはどうした!?」
「結界魔法が使える子たちと一緒に先生を手伝っている!」
「急ぐぞ!」

 魔法が扱えると言っても、彼らはまだ十歳だ。魔力量の少ない一年生が結界魔法を使うとなれば、負荷は大きく圧し掛かる。
 弟たちの身体のことを考えると、エルヴィと争っている暇などなかった。

「悪いが、リオラたちを助けるのが先だ。その間にどうするのか考えておけ」
「……っ」

 だが、護衛対象の傍から離れるわけにもいかない。
 仕方なく、彼女の手を引きながら、シュラはリオラの後を追った。

 キヨラたちが居たのは、街の東出口付近だった。
 東側には港へ続く街道と森しかなく、街の出入り口付近には建物も少ない。
 隠れるところのない場所で、戻って来たばかりの所を襲われたのだろう。
 以前、退治したナーガの群れのように、世界樹の根が結界魔法陣の光に群がっていた。

「……兄上っ!」

 自分の顔を見るや否や今にも泣きだしてしまいそうになったキヨラを見て、シュラは苦笑した。
 幸いにも、生徒たちが身に着けていたのは、野外実習用の魔力装備の高い運動服だった。これならば、魔力の消費量を抑え、魔法を扱うことが出来る。
 ほっと息を吐き出すと、シュラはリオラの背を追うようにそちらへ駆け寄った。
 ブル先生を中心に、子どもたちが円を描くように手を繋ぎ、結界魔法陣を形成している。
 円の中心には逃げ遅れた人たちも居るようで、その顔は恐怖に染まっていた。
 市民の安全を第一に、と教え込まれている所為か、子どもたちの顔色は白くても表情は笑顔を心掛けており、健気な姿がシュラの胸を打った。

「キヨラ、それに他の子たちもよく頑張ったな。今、助けてやる!」
「うん!」
「ブル先生。周りの根を排除します。もう少しだけ持ち堪えてください!」
「……分かった。すまんな、ウェルテクス」

 既にぐったりとした様子のブル先生に頷くと、シュラはリオラに視線を戻す。

「お前、無理矢理結界の外に出たんだろ」
「ち、違うよ。張り終わる前にこっそり出たんだ。先生、結界魔法得意じゃないから、助けを呼びに行った方がいいかなって」
「全く……」

 呆れたように溜め息を吐き出すと、結界の周りに蔓延っている根に切っ先を向けた――そのとき。

「ちょーっと待って! サンプル取らせて! すこしで良いからぁ!!」

 上空で響いた声に、シュラとリオラ、そしてキヨラの三人が顔を顰めた。

「《涼風の調》!」

 ぱちん、と指を鳴らす音が響いたかと思うと、結界の周りに竜巻が発生する。
 世界樹の根を巻き込みながら宙に舞ったそれに釣られて視線を上げると、箒に跨った少女が「やっほー」と陽気な声で彼らの視線に応えた。

「ミア!」

 シュラが名前を呼べば、毛先だけ淡い藤色に染まった銀の髪をゆるゆると指に巻きつけながらミアが下降してくる。

「間に合って良かった~! シュラくんが斬ると凍っちゃうからサンプル取れなくってさ! またお母様に嫌味言われるとこだったよ~」
「見ていたのなら、もっと早く助けに来いよ」
「……騎士科の先生って、結界も碌に張れないの? 逆に問題じゃない?」

 ふふ、と笑ったその表情はアメリアそのものだ。
 顔つきはレオンに似ていると言うのに、言動はアメリアにそっくりなものだから、シュラは一つ年下のこの従妹のことが苦手で堪らなかった。

「貸し一つね」
「この前、蒼月の鱗やっただろ。それで相殺しろよ」
「えー……」
「お前に拒否権はない」
「ったくもー。お父様と同じくらい人使いが荒いんだからー」

 次から次へとよく思いつくなぁと半ば感心していたシュラだったが、ここはひとまずミアに任せておけば安心であると判断した。

「ミア姉を置いていくなら、僕たちも連れて行ってよぉ」
「ミア姉と一緒、やだ!」
「お、何だ。君たち。お姉さん泣いちゃうぞお」

 全くこれっぽっちも悲しいなどと思ってもいないくせに泣き真似を始めた従妹と、駄々を捏ねる弟たちを見比べて、シュラは重い溜め息を吐き出す。

「ブル先生が居るから大丈夫だろ。俺たちは、他にも逃げ遅れた人が居ないか見てくるから……」

 ぷくり、と頬を膨らませて尚も食い下がる双子に、どうしたものかと困っていると、それまで大人しかったエルヴィが彼らの前に跪いた。

「シュラ、リオラとキヨラ、心配。ここにいてほしい。ここ、あんぜんだから」
「お、おい」
「そうなの?」
「そうなの、兄上?」
「……あ、ああ」

 重なった声に、そういうことにしておくかと頷いてやれば、彼らは仕方がないと言った風に担任の元へ走って行く。

「帰ってきたら、また組み手してねー!」
「ねー!」
「分かったから! 先生とミアの言うことをちゃんと聞けよ」

 追い払うように彼らへ手を振ったシュラを見て、ミアがにいと八重歯を見せて笑った。

「あはっ。シュラくんが、お兄ちゃんしてる~」
「煩いな。お前だってお姉ちゃんだろうが」
「うちのはあんな可愛くないもん。知っているでしょ?」
「……」
「ちょっとー! そこは嘘でも、可愛いよって言うとこだよ」
「だって、実際可愛くないしな」
「も~。早く行って。私の気が変わる前に~」
「ハイハイ」

 気まぐれな従妹に見送られながら、シュラはエルヴィの手を引いて走った。
 世界樹の根は地面を割って、あちこちから顔を出している。

「街ごと魔力を吸い上げるつもりか……!?」

 視界に入った瞬間に斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返していたシュラだったが、不意に袖を引かれて後ろを振り返った。

「まって、」

 その声は、震えていた。
 小さな声で懇願された願いに、シュラの眉間に皺が寄る。

「俺に斬らせたくないなら、お前が何とかしろ」

 無理難題を押し付けている自覚はあった。だが、それほどシュラも焦っていたのだ。
 彼女の声が届かない世界樹の根に、太刀打ちできるのか否か、それを考える余裕もなかった。
 唾を飲み込むだけで、喉が引き攣ったような痛みを覚える。

「……やめて!」

 お願い。
 エルヴィの叫びは、世界樹の根に届かなかった。

「――ッグア!?」

 華奢な身体が、地面を割って現れた世界樹の根に貫かれたからである。

「エルヴィ!!」

 視界が真っ赤に染まった。
 それは怒りからくるものか、それとも、エルヴィの血を被ったからだったのかは分からない。
 無意識の内に、握っていた長刀が彼女を貫いた根を容赦なく分断した。
 力なく倒れ込んだ少女の身体を受け止める。
 ひゅうひゅう、と息も絶え絶えにこちらを見上げたエルヴィの手を、シュラは優しく握りしめる。

「ご、め」
「喋るな。血が止まらなくなる」

 シュラが使える下級の回復魔法では、どう考えても塞がらない傷だった。
 くそ、と先程までの愚図な自分を叱っても、もう遅い。

「もっときつく傷口を押さえないと駄目よ」

 聞き慣れた――否、嫌というほど、よく知っている声がシュラの耳を震わせた。

「はは、うえ」
「大丈夫よ、エルヴィ。じっとしていなさい」

 桔梗の手が傷の部分を優しく撫でた。
 きらきらと回復魔法の軌跡が輝いたかと思うと、あっという間に傷が塞がる。

「はい、おしまい。さてと、現状を教えてもらえるかしら?」

 柔らかく微笑んだ桔梗の、翡翠だけがギラギラと燃えていた。

「海上より、ミーティスが襲撃されているのを目視で確認。班員を分散し、状況を注視しつつ、人民の救助を優先させました」
「よろしい。迅速な判断は評価に値します。ですが、護衛対象であるエルヴィを危険に晒したのは、良くなかったわね。次は無いわよ」
「……はい」

 項垂れた息子と、その腕の中で痛覚が完全に治っていない所為で苦悶の表情を浮かべているエルヴィを交互に見ると、桔梗は彼らを傷付けた世界樹の根へ視線を向けた。

「さて、」

 咳払いをした桔梗が指を鳴らすと、黒い風が辺り一面に蔓延っていた世界樹の根を吹き飛ばした。

「十六夜」

 掠れたアルトが、精霊の名前を告げる。

『ここに』
「目に見える範囲で構いません。根を焼き尽くしなさい」
『御意』

 黒い風が形を成したかと思うと、それは御簾面を付けた女性の形をとった。
 桔梗の命令に深々と頭を垂れ、両手に黒い炎を纏う。
 それは、破壊の龍である華月が造りだした精霊である『十六夜』が放つ至高の一撃だった。

『宵闇』

 パァン、と勢いよく合わさった掌から、黒い炎がゆっくりと辺りに侵食していく。
 それは宛ら、太陽を飲み込む夜の闇が迫ってくるように、静かに世界樹の根を飲み込んでいった。

「あ、あ、母……」

 エルヴィが手を伸ばす。
 けれども、世界樹の根はそれに何の反応も見せなかった。
 次いで、音もなく四散する。
 十六夜の炎に飲み込まれて消えたのだ。

「朱鳥と十六夜はここに残って二人の護衛を。舞霜は私と来なさい」

 桔梗の言葉に従うように、彼女の精霊たちが次々に姿を見せる。
 精霊を同時に顕現させられるのは、多くて三体が限界だ。
 だが、桔梗の場合は違った。
 女性にしては多い魔力量と、彼女の身に宿る龍たちの加護を受けているおかげか、一度に五体までなら平気で同時に呼び出すことができた。
 今回はすでに街の反対側に二体顕現させているのか、新たに呼び出したうちの一体を引き連れて世界樹の根を撃退に向かった桔梗の背を黙って見送った。

「母、」

 エルヴィの頬を涙が伝う。
 シュラは黙ってそれを拭ってやることしか出来なかった。