第3章『開花の刻』3話

「……ラ、」

誰かの声に呼ばれた気がした。
断続的に聞こえてくるそれにシュラが顔を顰めていると、気配が段々と近付いてくる。

「シュラ」

ああ、エルヴィの声だ。
そう思って、ずっと彼女と繋いでいたはずの右手に力を込める。
すると、きゅっと小さく握り返されて、シュラの意識がゆっくりと覚醒していった。

「エル?」

瞼を開けば、金色のカーテンが自分を覆っている。
ふわり、と香った花のような甘い匂いに、瞬きを落とした。

「おはよう、シュラ」

満面の笑みを浮かべたエルヴィが視界一杯に広がって、シュラは「うわッ」と驚いた声を上げた。
悪戯が成功したのが嬉しかったのか、ふふ、と擽ったそうに笑うエルヴィに、ムッと唇を尖らせる。

「旭日様たちは?」
「桔梗に戻ったよ。身体は平気? どこか痛いところはある?」
「へ、平気だけど」

すらすらと言葉を並べるエルヴィを不気味に思いながら、シュラは上体を起こした。
慣れ親しんだ自身の部屋の景色がゆっくりと浸透してきて、随分と長い間眠っていたことを自覚する。

「何日経った?」
「分からない。エルヴィも昨日まで寝ていたから」
「そうか」

少なく見積もって三日か五日だろう、と踏んで、ベッドから下りようとしたシュラだったが、階下から激しい音が響いてきて、思わず動かそうとした足を元の位置に戻した。

「シュラ!!!」

飛び込んできた桔梗の抱擁は痛いほどで、ともすれば骨が折れてしまうのではないかとシュラがギブアップを示すも、母親が腕を離す素振りは見えない。

「良かった……! このまま、目覚めないかと思ったのよ」
「そんな、大袈裟な……」
「何言っているの! 二週間も眠っていたんだから!」

想像していたよりも長く眠っていたらしい。
驚き半分、早く離してくれないかなと言う思春期特有の気恥ずかしさを半分、胸に抱きながら母親の背中を擦ってみるも、どうやら逆効果だったようで、背骨が折れるのを覚悟するしかないのかと思うほど強く抱き寄せられてしまった。

「良かった!! 本当に良かった!!」

わあん、と少女のように泣き喚く母親にどうしたら良いのか分からず、エルヴィに助けを求めるも、どういうわけか彼女まで涙目になって自分に抱きついてくるものだからシュラは堪らず白目を剥く羽目になった。

「誰でもいいから、ちょっと来てくれ!!」

他の誰かがいることを期待して叫ぶも、家に居るのは自分たちだけだったようだ。八方塞がりである。
結局、シアンが戻ってくるまでの間、小一時間ほどシュラは女性陣二人に羽交い絞めされるという奇妙な状態でベッドの上に居座ることになり、戻ってきたシアンに冷たい目を向けられてしまった。

「旭日様たちが定期的に診てくれていたから問題はないと思うけど、ユタさんに頼んで朝一に検査してもらいましょう」

桔梗の言葉に素直に頷いたシュラの頭を、シアンが乱暴な手付きで撫でまわす。
父の思いは、それだけで息子に響いたらしい。
少しだけ擽ったそうにはにかんだ息子の横顔をうりうりと拳で突くと、再び泣き出しそうになった桔梗を連れて、シアンは自分たちの寝室へと戻っていった。
ここで一つ問題が発生する。
いくら意識を失っていたとはいえ、エルヴィに対してあんなことやこんなことをしてしまったシュラ少年は、今更ながら遅れてやってきた羞恥心に苛まれ、自己嫌悪に陥ってしまったのである。
不自然に視線を彷徨わせるシュラを見て、エルヴィが小首を傾げる。

「シュラ?」

こちらを覗き込もうとしてきた少女の顔の前に片手を振りかざすことで彼女を遠ざけようとしたシュラであったが、何を思ったのか、エルヴィはその手をギュッと握り込んでしまった。

「え、あの、」

困惑している所為で言葉になりそこねた単語が口からぼそぼそと零れ落ちていく。

「ふふ」

世界樹がエルヴィの身体に乗り移った時の笑い方と同じ仕草で笑った彼女に、身体が硬直した。

「……大丈夫だよ。母じゃないから」

何を、どこまで、知っているのだろうか。
ダラダラと不安や焦りがごちゃ混ぜになった所為で冷汗が噴き出してきた。

「もう一回、言ってくれる?」

ど、どれのことだ。
エルヴィの意識が無いのをいいことに、正気であれば言えそうにないことを色々言った気がする、とシュラが遠い目をして現実逃避を始める。

「シュラの、番って言って」

よりによってそれを持ち出すのか。
じわじわと侵食を始めた羞恥と動揺が頬を染め上げた。
鏡を見なくても分かる。
きっと、自分の顔は真っ赤に染まっていることだろう。

「ど、どこまで覚えているんだ?」
「……シュラがコレをくれたところまで。あとは、母と旭日たちに聞いた」

コレと称されたのは、エルヴィが意識を手放す前にシュラがプレゼントした髪飾りである。
掌の中でしゃらりと音を奏でたそれに、シュラがグッと喉を詰まらせる。

「聞いて、どうするんだ」

意気地なし、と罵られようと構わない。
ここにラエルが居れば、百パーセントの確率でそう罵声を浴びせられるだろう。
けれど、シュラは怖かった。
誰かを好きになったことも、告白紛いの言葉を紡いだのもエルヴィが初めてで。
それを拒絶されることが、堪らなく怖かったのだ。

「私も特別って言いたいから」

銀と緑の目が、シュラを真っ直ぐ見据えていた。
茶化すこともせず、ただじっと己の言葉を待つ彼女に、シュラが敵うわけもない。

「    」

耳元で小さく零した言葉に、エルヴィの顔が仄かに色付く。
内緒話のように顔を寄せ、どちらからともなく、小さなキスを交わした。

それから二日後、シュラの健康診断及び体力回復を待ったあと、第十三班は無事に卒業認定の判を貰うことが出来た。
汗水を垂らし、魔力が空になるほど働いて貢献したことが報われた事実に、普段の姿から一番縁遠い涙を流すラエルを横目に、やはり女の子だなあとジェットと二人で健闘を称え合った。
他の訓練生たちよりも少しだけ早く合格が内定した彼らだったが、報告書類の量を見て悲鳴を上げることになる。
さっきまで、ひんひん泣いていたラエルも涙が引っ込んだようで、代わりに険しい表情で桔梗から預かった書類を睨みつけていた。

「これを一週間で提出しろって頭おかしいんじゃないの!?」
「……同感だ」

げっそりとした表情で机に噛りつくことになった第十三班の後姿をエルヴィが楽しそうに見守っている。

「そう言えばさぁ、エルヴィって今後どうするの?」
「?」
「ほら、一応聖騎士団預かりってことになっているけど、世界樹の一部なわけでしょ? いつまでも、一緒に居るのは難しいんじゃないかなって」
「え?」
「言ってなかったの?」

ラエルが驚いたようにエルヴィを振り返ると、彼女は悲しそうに眉尻を下げた。

「あとで言おうと思っていたの」
「あちゃーごめん。口が滑った。今のナシ、今のナシだかんね、シュラ」
「いや、無理があるだろ。おい、どういうことだエルヴィ」

がたん、と大きな音を立てて椅子を倒したシュラに、エルヴィは俯いて表情を隠してしまった。

「来い!」
「ちょっとシュラ! 落ち着きなさいよ!」

止めに入ろうとしたラエルの身体を押しのけると、エルヴィの手首を強引に掴んで歩き出す。
引きずられるように後ろを付いてくるエルヴィを人の気配がしない部屋へ押し込めると、もう一度「どういうことだ」と鋭い口調で問うた。

「……母が、もうすぐ居なくなるの。だから、エルヴィが世界樹に戻らないと」
「俺と蒼月の魔力を送った所為なのか?」
「そのおかげで開花できた。でも、そうじゃない」

エルヴィが弱々しく首を振る。
目を覚ました日に、キスを交わしたことが夢だったように思えてきた。

「母はもう限界だった。だから、旭日たちに手伝ってもらって、エルヴィに核を移したの」
「……」
「分かるでしょう? 核がないと世界樹は形を保てない。でも魔力が底をついた母が核を抱いたままでは、また暴走するかもしれなかったから」

嫌な、予感がしていた。
目覚めてからずっと、エルヴィがエルヴィでなくなってしまったかのような不安がシュラを襲っていた。

「置いていくな」

子どものようなことを言っている自覚はあった。
けれど、縋るように彼女の腕へと絡めた己の手が、彼女自身の手でゆっくりと剥がされるのを見て目の前が真っ赤に染まる。

「……シュラ、聞いて」
「嫌だ」
「お願い」

いやいや、と我儘な子どものように首を振るシュラを、エルヴィがそっと抱き寄せた。さっきは触ることを拒絶したくせに、と小さな怒りが胸の中に渦巻く。

「賭けをしよう」
「はあ?」

理解不能な言葉を並べたかと思うと、にっこりと微笑みまで浮かべてこちらを見つめるエルヴィに、シュラの目が点になる。

「世界樹に戻ると、エルヴィはまた蕾の姿になる。本物のエルヴィを見つけられたら、シュラの勝ち。見つけられなかったら、エルヴィの勝ち。どう?」

突然、持ち出された賭けごとに、シュラは何と答えたらいいのか分からなかった。すっかり表情が読みにくくなった少女の顔をもう一度見遣る。
シュラがジッと見つめても、エルヴィの表情は変わらない。
透き通った硝子のようにキラキラと反射する銀と緑の双眸がただ眩しいだけだった。

「……勝った方の言うことは何でも聞くんだよな?」
「そんなルールがあるの? 旭日はそんなこと言ってなかったんだけど」
「旭日様の入れ知恵かよ。てっきり、母上かアンナあたりに吹き込まれたのかと」

どうせそんなことだろうと思ったと、シュラは頭を抱えながらその場に蹲った。
不思議そうな顔でこちらを覗き込む少女の仕草を見て、うっかり毒気を抜かれてしまう。

「シュラがそう言うなら、勝った方の言うことを聞くことにしようか?」

こてん、と首を傾げたエルヴィに、シュラはその日一番の大きな溜め息が口を衝いて出た。

「そうだな。そうしてくれると助かるよ。――俺は絶対にお前を見つける自信があるから」

引き攣る頬を気取られないよう口角を上げたシュラに釣られたのか、エルヴィの表情も柔らかさを取り戻していた。

「本当に? どこに隠れても見つけられる?」
「……ああ」
「なら、賭けなんてしなくても、」
「ダメだ」

青色が鈍く光った。
その瞳の熱に気圧されて、エルヴィが二の句を告げないでいると徐にシュラの顔が近付いてくる。
鼻先が触れあったかと思うと、視線が不自然に揺れた。「ダメだ」という声が、再び絞り出されたのはそれから数分後のことである。

「その方が、やる気が出る」

至近距離で見た――至近距離ではなくとも初めて見る――真顔に、思わず高速で瞬きを繰り返す。

「そういうものなの?」
「そういうものだ」

真剣な表情でそう宣ったシュラに「そういうものなのか」と何故か納得させられてしまったエルヴィは、未だ近い距離にあった彼の額に、こつりと自分のそれを預けてみた。
以前のシュラであれば、騒ぎ立てていてもおかしくはない距離にいるというのに、彼は怒る素振りの一つも見せない。それどころかジッとこちらを凝視してくるものだから。近付いたのは自分の方だったはずなのに、何だかとても恥ずかしいことをしているような気になってしまって、エルヴィは距離を取ろうと右足を後ろに引いた。
だが、長い間しゃがみ込むという慣れない体勢を強いられていた身体が簡単に言うことを聞くわけもなく、エルヴィの意思に反して上体が傾く。

「あ、」
「うお」

大丈夫か、と差し出された腕に背中を支えられたことで事無きを得たが、先程よりも縮まった距離にエルヴィの口から「ふあ、」と判別しがたい悲鳴が漏れ出ることになってしまった。

「ははっ。何だよ、その声」

シュラが声を立てて笑うと、抱きしめられている所為で振動となってそれが伝わってくる。
ムッと唇を尖らせたエルヴィを、今度はシュラが不思議そうに見つめる番であった。

「どうした?」

手を伸ばせば、触れられるような距離に彼が居る。
それなのに。
エルヴィは自分から彼に手を伸ばすことを良しとはしなかった。
鋭くなった視線に、シュラが怪訝そうに眉根を寄せる。

「エル?」

いつもなら、エルヴィがシュラの名前を呼んでもおかしくはない場面だ。けれども、彼女がシュラの名前を呼ぶことはなかった。
この時点になって漸くシュラは冷静な頭で自分たちの様子を客観視することが出来た。
人目に付かない部屋で、二人きり。
意図せず、身体も密着させてしまっている。
怒ったのだろうか、と緩慢な動作で身体を離そうとすれば、それはエルヴィに寄って阻まれた。

「……もっと、ぎゅってして」
「え?」
「ぎゅってして!」
「え!?」

最初は聞き間違いかと思った。
疑問符を浮かべたシュラに追い打ちと言わんばかりにもう一度告げたエルヴィの方も、自分で言っておきながら訳が分からないといった様子で目を白黒させている始末である。

「こ、こうか?」

いつかのように、彼女の華奢な身体を腕の中に閉じ込める。
とくん、とくん、と伝わってくる心音は偽物でも、シュラとエルヴィの二人にとっては大切なものだった。
互いの心音を分け合うように、ぎゅうと身体を抱き寄せる。
このまま一つになってしまえたらいいのに。
物騒なことを頭に浮かべながら、シュラはエルヴィの髪に顔を埋めた。
森の中にいるような新緑の香りがする。
世界樹の蕾だからだろうか、とぼんやり思っていると、エルヴィが小さく笑い声を上げた。

「全部声に出ているよ」
「あ、悪い」
「ううん」

嬉しそうに破顔した少女の横顔を盗み見る。
数秒経って、視線が交差した。

「シュラ」
「んー?」
「……絶対、ぜーったい見つけてね。エルヴィ、待っているから」
「ああ」
「約束だよ」

涙目になったエルヴィを見て、腹の底がカッと熱くなった。
そろり、と遠慮がちに顔を寄せれば、エルヴィの瞼がゆっくりと閉じる。
二回目のキスは、微かに海の匂いがした。

エルヴィが新たな世界樹として眠りにつく日。
シュラは彼女の見送りには行かなかった。
見つけてね、と不安そうな顔で無理矢理笑っていた彼女の顔をもう一度見たくなかったからだ。どうせ、思い出すなら、向日葵の花のような満面の笑みが良い。

『意外だったな』

世界樹のある方角を向きながら、蒼月がぼそりと呟く。

「何が?」
『お前は見送りに参加すると思っていた』
「同じことを何度も聞かされる身になれ」
『ははっ、すまんすまん。しかし、本当に見つけるつもりなのか?』
「当たり前だろ」

蕾だった少女は今日、新しい世界樹になる。
魔力の不安定な彼女を象徴するかのように、彼女と同化した世界樹の根から新芽が次々に芽吹いていると聞く。

『見つけられなかったら、どうするつもりだ』

心配そうに手元を覗き込まれて、シュラが深い溜め息を吐き出した。

「見つけるまであきらめないに決まっているだろ。俺を誰だと思っているんだよ」
『……自信家な所は、両親の血を色濃く感じさせるなぁ』

遠くで鐘の音が鳴り響いた。
エルヴィが眠りにつく儀式が完了した合図だ。
三度打ち鳴らされたそれを聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。

「見つけたら、言いたいことがあるんだ」
『ほう?』

教えろ、と言わんばかりに頭に顎を乗せてきた蒼月に、シュラは首を振った。

「あいつを見つけるまで、秘密に決まっているだろ」

そう言って笑った少年の目は、青い海のようにどこまでも澄んでいて、同じ色の名を関する龍はすごすごと引き下がるほかなかった。

――すきだよ。

あの日、耳元で小さく呟いた拙い告白を思い出す。
桜色に頬を染めてはにかんだ彼女の顔が鮮明に浮かんで、シュラは苦笑した。
この記憶が色褪せるより先にエルヴィを見つけることが出来たなら、今度は手の甲にキスを落とすぐらいのことはしてやってもいいんじゃないかと、お伽噺に登場する王子の仕草を思い起こす。

「おやすみ、エル」

必ず見つけだしてやる、と夜明けの空に少年は誓うのであった。

《完》