魔王城の湯殿は、波間の空が一番近く、そして美しく見える場所に造られている。
星屑が散りばめられた湯に肩まで浸かり、ほう、と悩ましい息を吐き出したナギは、ドレスの所為で凝り固まった身体を和らげようと緩慢な動作で腕を回した。
「あ~~~! さいっこうだな!!」
魔王城にきて何が一番嬉しかったか、と問われれば、間違いなく風呂と答える自信がある。
誰も居ないのをいいことに、仰向けになって大理石で造られた浴槽を漂っていたナギだったが、不意に視界の端で何かが煌いて見えた。
上体を起こして、そちらに目を凝らせば、薄紫に染まった波間の空の下を何かが這うように蠢いている。
ヴォルグに取り込まれ、その臣下として契約を交わしてからというもの、ナギの身体は人間であった頃よりも遥かに五感が鋭敏になっていた。
とりわけ、視力に能力が付与されているのか、スッと目を細めただけで山向いの様子まではっきりと見て取れる。
「何だ? 炎――いや、松明か?」
ぽつぽつと行列を作って揺らめいていたのは、青白い炎だった。
意思を持つかのようにゆらゆらと辺りを彷徨う姿に思わずナギの眉間に皺が寄る。
不自然な動きは、どうやら馬に乗った人物が腰にぶら下げた魔石によるものだった。
青白い燐光を放つそれが何かは分からないが、目を凝らしたお陰で見えた黒装束の一団に、ナギが口角を上げる。
「……方角的に[[rb:魔王城 > ここ]]が目当てらしいな」
ナギは勢い良く湯の中から立ち上がった。
ザパァン、と派手な音を立てて波打った湯に、ナギの凶悪な笑顔が反射して映り込む。
濡れた身体もそのままに、彼女は主の元へと急いだ。
◇ ◇ ◇
辺りはシンと静まり返っていた。
頭上では、夜の空がゆらゆらと穏やかに波を立てていて、その中を優雅にクジラが泳いでいく。
足音を殺しながら、隊列に続けば、魔王城の門がすぐそこまで迫っていた。
『では、手筈通りに』
頭の小さな声に、微かに頭を盾に動かすことで了承の意を示すと、皆一様に各々が目指す場所へと駆けた。
ある者は、塔を。
また、ある者は、中庭を。
そして、ある者は魔王城の中枢にある玉座の間を目指した。
静かな城の中に神経を張り巡らせながら、目的の人物が眠る場所を一直線に目指す。
(それにしても、静かだな)
剣の柄を握る手に汗が滲む。
もしや作戦がバレたのではないか、と長い時を費やしてきた作戦の最悪の結果を考えてしまい、知れず歩を進める速度が僅かばかりに緩やかなものになった。
ここが敵地であることも忘れ、男の脳内に『失敗』の二文字が浮かぶ。
「よう」
ふと、すぐ傍から声が聞こえた。
声のした方へ視線を滑らせれば、闇の中に黄金が二つ。くっきりと浮かび上がっていた。
――いつからそこに居たのか。まったく気配を感じなかった。
男は震える手でそれに対峙した。
「こんな時間に何の用だ?」
にたり、とそれが笑うのが分かった。
鋭く光った二つの黄金に、男はぶるりと身震いした。
背筋を冷たい何かが這っていくような、そんな感覚に、震えが全身を覆っていく。
「なあ、おい。人と話をするときは、相手の目を見ろって、ママに教わらなかったのか?」
それは、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
その手には大きな剣が握られていた。
殺される前に殺さなくては。
男は作戦のことなど疾うに忘れて、自分の命を守るため無謀にもそれへと突っ込んでいった。
「危ねぇな!」
男の剣を大剣で受け止めたナギは、眉間の皺を深く刻んだ。
湯殿で見たときは時間に余裕があるとばかり思っていたのだが、先遣隊が既に侵入を果たしていたらしい。
濡れた身体もそのままに慌てて衣服を着込んだ所為で、シャツが肌に張り付いて、思うように身動きが取れない。何より何とも言えない気持ちの悪い感触に、先程から鳥肌が立ちっぱなしである。
「ったく、問答無用かよ!」
キィン、と金属のぶつかり合う音が廊下に響く。
男は未だに一言も言葉を発する様子を見せなかった。
余程、訓練されているのだろう。二撃目を繰り出そうと構えられた剣には禍々しいまでの殺気が込められていた。
ふう、とナギは肩の力を抜いた。
変に肩肘を張っていても疲れるだけだ。
魔族との戦いには慣れている。やることは人間だったときと、何ら変わらない。
「そっちがその気なら、手加減はなしだぜ?」
右手だけで大剣を構え、地面を蹴った。
懐に跳びこんできたナギの姿に、男の目が丸くなる。
大剣の重さとリーチでは接近戦は無いと踏んでいたのだろう。
その考えが、男の命取りになった。
――ヒュン。
男の首に赤い線が浮き出る。
次いで、噴水のように溢れ出た鮮血を全身で受け止めると、男は床に崩れ落ちながら絶命した。
ピクリとも動かなくなった男を剣先で突きながら、ナギが首を傾げる。
「おかしいなァ。ちょっと斬るだけのつもりだったんだが……」
大剣をぶんぶんと空振りさせながら、男が向かおうとしていた――深紅の扉に手を掛ける。
そこは魔王ヴォルグの寝室であった。
魔王に相応しい天蓋が付けられ、魔王に相応しい大きな寝台がデカデカと部屋の中央で存在感を放っている。
そして、その寝台の中央でヴォルグが健やかな寝息を奏でていた。
「ヴォルグ」
ナギの声に、ヴォルグの瞼が重そうに持ち上がった。
どこかぼうっとした様子の彼の肩を揺すれば、次第に目に光が宿る。
「ん、ナギ? どうしたのさ、その血……」
「俺のじゃない。外に倒れている刺客の返り血だ。さっさと起きて迎撃の支度をしろ」
「え~~? 君だけで十分でしょう?」
「俺一人で捌ける人数なら、な」
それを聞いたヴォルグの顔が見る間に歪んだ。
安眠を妨害されたというだけでも腹立たしいのに、こんな夜更けに身体を動かさなければならないのかと思うと、怒りを通り越して、呆れを覚えた。
「まったく、どこの誰だい? 参っちゃうなぁ」
「西の方から、黒い装束の奴らが続々とこっちに向かってきている。湯殿からここまでの通路で五人倒した。もしかしたら、離宮の方にも何人か居るかもしれない」
母、アストライアのことを案じているのだと察したヴォルグが、満面の笑みでナギを見る。
「それなら心配はいらないよ。今日はマリーが泊っているはずだからね」
「?」
「彼女は僕の武術の師匠なんだ。君も体感したから分かると思うけど、マリーが本気を出せば、相手の骨は粉々になる」
「……そんな奴に蹴られて生きている俺って」
「ふふん。僕の練成魔法の賜物だね!」
もそもそ、と漸く動き始めたヴォルグに、適当な順で服を投げつけるとナギは出窓の枠に腰を下ろした。
魔王の城は城の最東端。門から一番遠いところにあるにも関わらず、敵が侵入していた。
そのことを踏まえると、城の中には他にも先遣隊が潜んでいると考えた方がいい。
少なく見積もって十五、多くて三十人。そこに本体が五十名ほど合流すると考えて、対してこちらの戦力はヴォルグとナギを含めた近衛兵団が二十人弱。――数だけ見ると、こちらが圧倒的に不利な状況であった。
「どうする?」
「そうだね~。でも、僕がこうして無事なことを考えると、先方の狙いは僕ではない気がするな」
「はあ? お前の寝室に向かうまでに五人も居たのにか?」
「うん。恐らくは『何か』を探している。そうでなければ、わざわざこんな時間に黒い服を着て、城内に進入してくる理由がない」
「確かに……」
「でしょ? それに泥棒は得てして宵闇と黒を好むって言うしね」
ヴォルグがくすくすと楽しそうに笑うのに、ナギはムッと唇を尖らせる。
「呑気にしているところ悪いが、お客様を待たせるわけにいかねえだろ」
「ふふっ。そうだね。たっぷりと、もてなして差し上げなくちゃ」
緋色と黄金の双眸が互いに絡み合う。
にやり、と牙が見えたのは二人同時だった。
◇ ◇ ◇
「見つけたか?」
「いいえ! こちらにはありません!」
「くそっ! 一体どこに隠しているというのだ!」
全身黒ずくめの男たちがウロウロと彷徨っていたのは、魔王城の心臓部にあたる『玉座の間』だった。
主の命を受け、とある『魔族』の発見と救出を目的としているのだが、この分では目的を達成する前に、魔王城に常駐している近衛兵団に見つかってしまう危険性があった。
「ほうらね? 僕の言ったとおりだっただろう?」
「……分かったから、その締まりのない面を何とかしろ。みっともねえ」
暗闇の中でもはっきりと分かるほど、にやにやと人の悪い笑みを浮かべた青年が、玉座の間に蔓延る侵入者たちをその瞳に捉えた。
「やあ、こんばんは」
それが魔王ヴォルグであることに気付いたのは、その両目が窓の隙間から差し込んだ月の光に晒されて緋色に光ったからだ。
「従者より前に出る奴があるか。お前はそこで、大人しくしていろ」
そう言って、金色が苛烈な炎を灯した。
浅葱色の髪の間を見え隠れする獰猛な獣のような眼に、男たちの喉が引き攣る。
「何を探しにきたのかは知らないが、ついでに魔王も殺しておこうって算段が気に食わねえ。俺の前で王に牙を剥いたこと、後悔させてやるよ」
大剣が風を纏ったのかのように唸りを上げた。
突っ込んできた男を二人、何の衒いもなく斬り伏せると、ナギはそのまま玉座に触れていた不届き者へ距離を詰めた。
「賊ごときが、それに気安く触ってんじゃねえッ!!」
男は足を縺れさせながらも、ナギの大剣を受け止めることに成功した。
だが、仮にも魔王の[[rb:寵愛 > かご]]を受けた元・勇者である。
人間だった頃からその膂力は並々ならぬものを秘めていたが、今のナギはヴォルグに付与された魔力により、更にその力を増していた。
「ぐぅ……!?」
「くたばれ、下衆野郎が!!」
男は必死にナギの攻撃を受け止めたり、交わしたりを繰り返していたが、ややもすると呼吸が乱れ、ナギから逃れようと間合いを取り始める。
「貴様と遊んでいる暇など、我らには無い! 魔王よ! 命惜しくば、『銀の雫』を差し出せ!」
それを聞いたナギは、思わずヴォルグと顔を見合わせた。
今にも死にそうな顔をしているのは、言葉を発した張本人であるというのに「命が惜しければ」などと頭の湧いたことを宣う男に呆れて物も言えない。
「――どうした? 恐ろしくて物も言えぬか?」
「勝ち誇ったような顔をしているところ大変申し訳ないが、援軍は期待しない方がいいぞ。その辺に居たお前の仲間は全員、俺とこいつで伸してきたからな」
男の目が驚愕に見開かれる。
それまで、自身の勝利を信じて疑っていなかった眼が、絶望に染まったその瞬間――。
玉座の間を不穏な魔力が包み込んだ。
「下がれ! ナギ!」
滅多に声を荒げないヴォルグの焦りように、ナギは眉間に皺を寄せながらも彼の指示に従った。
玉座から溢れ出た禍々しい魔力が、男を捉える。
「ぐ、あああッ!?」
噎せかえるような甘ったるい匂いと紫煙が、部屋を満たしていく。
咄嗟に口を覆ったナギとヴォルグであったが、煙の中からゆらりと姿を見せた『それ』に目を見開く。
先程まで紫煙であったはずの毒々しい魔力が腕の形になったかと思えば、美しい容姿の女が、男の首を鷲掴みにしていた。
「……あら、お懐かしい。ヴォルグ殿下ではありませんか?」
緑色の口紅で彩られた形の良い唇がヴォルグの名を紡いだ。
肌がびりびりと震えるほどの強烈な殺気に、ナギがヴォルグを背中に庇うようにして、一歩前に出る。
「アスモデウス、なのか?」
ヴォルグが女に名を問う。
すると、彼女は優美に微笑んでみせた。
その手に握られている男の首が「ごきっ」と不快な音を奏でる。
「はい、殿下。裁定者『銀の雫』アスモデウスにございます」
ヴォルグの前に頭を垂れたアスモデウスは、手に持っていたままの死体を宙へ投げ捨てた。
彼女の魔力に中てられた亡骸は、はらはらと花弁が舞うように空気中にへ溶け、跡形もなく消えていく。
「元気だった、と聞くのはおかしいかな?」
「ふふっ。おかげさまで、玉座の下はとても寝心地が良いんですのよ。よろしければ試してみます?」
そう言って、アスモデウスは音もなく間合いを詰めた。
動きが早すぎて、姿を捉えることができなかった。
ナギは、すぐ隣から伸びた腕がヴォルグの手の甲を恭しく持ち上げたのを尻目に、グッと喉を詰まらせる。
そして、その唇が彼の王の肌に触れるよりも先に、アスモデウスの喉元へと大剣を煌かせた。
「おい、こら」
強大な魔力に中てられていたのはナギも同じだったが、男のように身動きが取れないほどではない。指先が痺れる程度で済んだのは、ヴォルグと結んでいる血の契約のお陰だった。
「ご自慢の顔をオブジェにされたくなかったら、今すぐその物騒なモンをしまえ」
「……何のことかしら?」
「その爪だよ。甘ったるい匂いに反吐が出そうだ」
アスモデウスの目が、三日月に変わる。
「随分と鼻が良い犬を飼うようになったのね」
ヴォルグの手を握っているのとは反対の手の爪がナイフのように鋭く伸びて、彼の喉元に迫っていた。
「そうだろう? 気に入っているんだ」
表情を一切変えることなく、アスモデウスの爪が元の長さに戻るのをニコニコしながら見ていたヴォルグに、ナギが舌を突き出す。
「誰が犬だ、誰が」
主に平気で悪態を吐くナギに興味を引かれたのか、アスモデウスは大人しくヴォルグの傍から離れた。それを見たナギも剣を下ろす。すると彼女は、今度はナギに近付いて、頭から爪先まで舐るように視線を遣った。
「魔王様の剣にしては随分と奇妙な魔力の持ち主ねぇ」
「まあ、そりゃあ人間だったしな」
「ふーん?」
「な、何だよ」
「いいえ、何でも」
アスモデウスは何か言いたそうな顔をしていたが、ヴォルグのにこやかな笑顔に釣られて、それ以上言及することを諦めた。
「魔力を引っ込めてくれないかな? このままだと城に居る者のほとんどが動けなくなってしまう」
「何故です? 私には何の得にもなりませんわ」
「……それはどうかな? 君のことを長きに渡って封じてきたのは先代様たちだ。僕は君のことも臣下に迎え入れたいと思っている。今回の件はそれを知った臣下の犯行だと考えるのが妥当だろう。犯人を捕まえるためにも、君には僕の臣下になってもらわなくては」
「あら、いつからそんなことをお考えに?」
「――もうずっと、魔王になる前より昔から」
アスモデウスの目が零れ落ちんばかりに見開かれる。
銀水晶を切り取って眼に宛がったと言われてもおかしくはない、美しい瞳がヴォルグの目をまっすぐに見据えた。
「相変わらず甘い考えをお持ちなのですね」
「そうかな?」
「ええ。いつか私に寝首を掻かれても、文句は言えませんよ」
「それはごめんだな。僕はナギだけで手一杯だ」
アスモデウスが、くすくすと笑い声を上げながら、右手を掲げる。
玉座の間を覆っていた禍々しい魔力――毒の霧が彼女のイヤリングに吸い込まれ、部屋を満たしていた甘い匂いが消えた。
「良いでしょう。貴方の収めるこの国に興味が湧きました。それに、」
「それに?」
「面白い者も居るようですし、ね?」
同意を求められても困る。
ナギが顔を顰めながら、そう言えば、二人は声を揃えて笑うのだった。
◇ ◇ ◇
「また失敗したのか」
主の罵声に、男は項垂れることしか出来ない。
自分の爪先だけをじっと見つめて、それに耐えていると主の気配が近付いてくるのが分かった。
「申し訳ありません!」
冷たい殺気が項を撫でる感触に、咄嗟に頭を地面に擦りつける。
「聞き飽きた台詞を並べられても嬉しくなどないわ。首を持って来いと言ったのだよ、首を」
主の手が頬を叩く。
手袋越しに感じる怒気とも殺気とも取れる恐ろしさに、思わず喉が引き攣った悲鳴を漏らす。
「ひ、」
「次はない。今度こそ、アレの首を私の前に連れてこい」
「わ、分かりました」
「行け」
男は慌てて命令に従った。
開け放たれた窓から、外に飛びだし、木の枝に着地する。
五十人の部隊を引き攣れて、生還したのは僅か三人。
まさか、毒霧の罠が仕掛けられているとは露ほど思ってもいなかったのだ。
「クソ!」
男の声は、赤く笑う月に吸い込まれて消えた。