4話『元悪魔の天使たち』

「ルーシェル様!」

ワッと押し寄せてきた部下たちを見て、ルーシェルは顔を顰めた。
その手には、大量の模擬試験の用紙が握られていたからである。

「……手短に話せ」

額に手を遣りながら、ため息混じりにそう溢したルーシェルに、部下たちは歓声を上げた。

「実は次回の昇級試験なのですが、何でも『天使が通った後のような静けさ』の実地訓練か、筆記試験で平均点以上を取るかのどちらかが合格条件なんです!!」

部下の一人が元気いっぱいに告げた内容に、ルーシェルの頭はズキズキと痛み始める。
ただでさえ、アマネのお守りで手一杯だというのに、よりにもよってこんな時期に昇級試験があるとはツイていない。

「悪いが、今回は付き合ってやれんぞ。俺は別件で忙しい」
「別件、ですか?」
「ああ――畏れ多くも、神から直々に天使族初の女性天使を育てる役目を仰せつかった」

天上の城を仰いだルーシェルの表情を見て、昇給試験に挑む部下の一人――シーレが、思わずと言った風に眦を和らげた。

「それでは、我らだけで何とか頑張ってみます」
「……いや、待て。良いことを思いついた」

言うや否や、ルーシェルが掌を二回打ち鳴らす。

「お呼びですか?」

どこからともなく姿を現したイルに、ルーシェルは「アマネはどうした?」と問うた。

「アマネ様なら午前の書類業務を終えられて、先に自室へとお戻りになられました」
「…………そうか。チッ」

初日から可愛げの『か』の字も持ち合わせていないアマネの仕事っぷりに、ルーシェルの鋭い舌打ちが響く。
不機嫌に片足を突っ込み始めたルーシェルの様子に、シーレを筆頭とした元悪魔の天使見習いたちはサッと彼から視線を逸らした。
こういうとき、ルーシェルと目が合うと厄介なのである。
それは堕天するよりも遥か昔、自分たちがまだ天使として生まれたばかりの頃から刻まれた戒めであった。

「シーレ」

前言撤回。
指名されてしまえば、逃げることも叶わない。
今度から、いち早くその場から離れようと心に刻みつけながら、シーレは「はっ」とその場に膝を折った。

「件の女性天使の手が空いている。アレの位は中級だ。お前たちさえ良ければ、教えを請うといい」

アレは存外、世話焼きだから喜んで引き受けてくれるだろう。

久しく見ることのなかった穏やかな表情で口元を綻ばせた長兄に、シーレは驚きのあまり瞬きを繰り返した。
他の者たち――側仕えのイル含む――も同様である。
美しい顔(かんばせ)が綻ぶ様を久方ぶりに間近で見ることが出来たのだ。
明日、世界が滅んでしまっても悔いはないと、どこか不敬なことを思い浮かべながら、シーレは頭を垂れることで承諾の意を示した。

◇ ◇ ◇

「初めまして、アマネ様」

恭しくお辞儀をしてみせた眼前の青年――シーレに、アマネは「はじめまして」と鸚鵡返しすることしか出来なかった。
ルーシェル直属の配下として、堕天の際にも付き従ったとされている元悪魔たち。
彼らが突然、シーレを筆頭に、アマネの部屋へと押し寄せてきたのである。
驚きを隠そうともせず、固まってしまったアマネに、シーレはふむと口元に手を添えた。
どこか懐かしい面影を感じさせる彼女の姿を見て、我らが長兄殿がアマネを苦手としている理由が何となく分かったような気がした。

「我ら、この度、下級上位の試験に臨むことと相成りました。つきましては、どうかご助力いただきたく、馳せ参じた次第です」
「ご、ご助力?」
「はい。我らは皆、一度は天使だった身。ですが、今は昇給試験の内容も変わっており、大変困惑しております。そこでルーシェル様に相談してみたところ、アマネ様に教えを請うように、と言われまして、」
「……明星が、そのように仰ったのですか?」
「はい」

シーレがこくりと頷けば、アマネの顔は見る間に喜色ばんだ。
鮮やかに色付いた薔薇の顔に、見ているこちらも温かな気持ちが湧き上がってくるようだった。

「それで、試験の内容と言うのは」
「はい。こちらなのですが……」
「…………まあ」

男性天使ではこうも感情表現が豊かにはならない。
それを体現するかのように、先ほどまでの嬉しそうな笑顔から一変。
眉根を寄せ、難しい表情になったアマネに、シーレや他の天使見習いたちの顔も曇る。

「あの、アマネ様。やはり、それほどまでに難しい内容なのでしょうか?」
「い、いえ、そうではないのですが」
「ですが、ルーシェル様もそのように浮かない顔をされていたのです……」
「シーレ様。失礼ながら、試験官の名前は見ましたか?」
「試験官?」

そう言われて初めて、シーレは今回の昇級試験の試験官の名前を辿った。
テヴァと大きな字で記された名前に、シーレが首を傾げる。
そんな彼の様子に、アマネは苦笑を返した。

「やはり、ご存じありませんか。こちらの試験官は、ミカエル兄様付きの中級一位の方なんです」
「ミカエル兄様、ということは……」
「はい。試験結果はすぐにミカエル兄様へと知られることになります」
「……うわあ、」

思わず溢れた本音に、アマネもこくりと頷いた。

「でも、大丈夫です! 『天使が通り過ぎた後のような静けさ』の実地訓練であれば、まだ望みはあります。皆様、飛行はお得意ですか?」
「飛行、ですか。それが、」

シーレが、自分の後ろに控える部下たちに目を向けると、彼らはそれに応えるように相次いで己の翼を広げてみせた。
禊を受けたとはいえ、身体には以前悪魔であった頃の名残がある。
それは特に翼へと顕著に現れており、彼らの翼は天使にあるまじき漆黒に染まっていた。

「……!」
「お恥ずかしい。このように汚れた翼ゆえ、我々はこの空を翔ぶ許しを受けておりません」

俯いたまま微動だにしなくなった彼らに、アマネは口元をキュッと結んだ。
次いで、ひとつ咳払いを落とす。

「何も恥じることなどありません。皆様は、悪魔の身でありながら禊に耐え、下級天使として再び生まれ変わったのですから」

アマネはそう言って笑うと「それに、」と言葉を続けた。

「私の背中にも、実はまだ『翼』がないのです」

翼は天使を構成するもののなかで最も重要な器官であると言っても過言ではない。
翼がないということはつまり、天使としての存在意義が不安定な状態であることを示していた。

「私もこの試験を受けました。私の場合は筆記試験しか選択できませんでしたが、翼のある皆さんなら問題なく実地訓練に合格できると思います……!」
「ですが、飛翔の許可も得ないうちに、合格できると言えましょうか……」
「私に任せてください」

鴇色の双眸が悪戯な光を宿す。
その眼差しは、どこかルーシェルを彷彿とさせた。

「ひとまず、この御所内であれば、明星の管轄下にあたりますから、飛行練習をしても咎を受けることはないと思います。なので、皆様は実地訓練に向けて、存分に練習に励んでください」
「は、はい」
「私は、少し準備がありますので、今日はこれで。皆様、頑張ってくださいね」

足早に自室を去ると、アマネは試験に備えてあるものを準備することにした。
御所の中にある資料室の一つに飛び込むと、白紙の申請書類を見つけ出し、そこに思いつく限りの条件を書き連ねていくのだった。

◇ ◇ ◇

「天使見習いたちの飛翔能力を、採点に加味する?」
「はい。こちらをご覧ください」

渡された書類には、今回の昇級試験に参加する下級天使たち――名目上、下級八位以下は天使見習いと呼ばれる――の名簿と、実地訓練における採点基準の見直しが記されていた。

「……考えたものだな」
「これならば、シーレ様たちも合格基準を満たせるかと」
「それで? 俺に何をさせる気だ」

ルーシェルが片眉を持ち上げながら、アマネに書類を突き返す。

「試験内容の変更は何も珍しくありません。上級天使二人以上の申請があれば、変更は可能だと記憶しています」
「この件に、俺が関わっていると知れたら、アイツらの昇級が難しくなるだろ」
「分かっています。ですから、明星には上級天使のどなたかにこちらを提示していただきたいのです」

他人と関わることを避けていると知っていて、そんなことを平気で頼んでくるアマネに、ルーシェルは深いため息を吐き出した。
ルーシェルが断ることなど考えもせず、色良い返事を貰えると信じて疑わない自信に満ち溢れた顔で、ふんふんと鼻息を荒くしているアマネに、喉元まで迫り上がっていた却下の言葉は勢いを失って腹の底に沈んでいった。

「…………具体的な策はあるのか」
「もちろんです! 明星に憧れや好意を持っている上級天使の皆様の名簿をまとめてみました!」

分厚いリストを見て、承諾したのは早計だったかもしれないとルーシェルが後悔しても、もう遅い。

「試験期間まで既に一週間を切っています。変更は前日の夕方まで可能だったはずなので、」
「お前はどうしてそう妙なところで思い切りが良いんだ。実践するのは俺なんだぞ……」
「明星なら大丈夫です! シーレ様たちのためにも、必ず申請許可を得てくださいね!」

嫌味も何も通じない。
ルーシェルは本日何度目になるのかわからない大きなため息を吐き出すと、鼻歌混じりに部屋を出ていった末妹の後ろ姿を睨みつけた。