――叶わないことなど、初めから分かっていた。
それでも、願わずにはいられなかったのだ。
彼女と共に時を刻みたいと。
◇ ◇ ◇
夜明け前のひととき。
天がまだ静けさに包まれているのを見計らって、門番隊の天使ヨフィエルはそっと寝所から抜け出した。
まだ交代の時間には少し早いこともあってか、巡回の天使たちが持つ明かりがやけに眩しく映る。
この時間帯の雰囲気を、ヨフィエルは気に入っていた。
唯一、一人きりになることを許された休憩時間だから、というのはもちろんだが、普段は賑やかな天界がシンと静まり返ったときにだけ見せる、透明な美しさが何よりも好きだった。
東の空が僅かに色付き始めたのを目を細めながら見遣ると、ヨフィエルは勢い良く雲の地面を蹴った。
頬を撫でる風が心地良い。
浮遊感をたっぷりと楽しむと、大きく両手を伸ばす。
――バサッ!
天界一美しい、と言われている白銀の翼が朝焼けの空を縫うように、飛翔する。
そのまま風に身を任せて、ヨフィエルは朝の散歩を楽しんだ。
待ち合わせの時間よりも少し先に来ている少女の姿を視認するや否や、わざと派手な音を立てて着地する。
「ミーシャ」
麗しい名前を紡げば、彼女は春に咲く満開の花々のような笑みを浮かべた。
「おはよう、ヨフィエル。今朝はまた、随分とご機嫌ね」
「二週間ぶりに君に会えるのかと思うと、楽しみで眠れなくて」
「また、そんな冗談ばかり言って……」
呆れたようにため息を吐くミーシャに、ヨフィエルはムッと唇を尖らせた。
「本当だよ? ほら、心臓も踊るほど楽しみにしていたんだ」
己の胸に彼女の細い指先を導く。
形ばかりの心臓は、不自然に激しさを刻む鼓動をはっきりとミーシャに伝えた。
淡い紫色の目が驚きで丸くなる様子を、ヨフィエルは喜色満面の笑みで見つめた。
「……いつも、こんなにドキドキしているの?」
「それって、どう答えるのが正解?」
コテン、と首を傾げたヨフィエルに、今度はミーシャが笑みを浮かべる番だった。
「ふふっ。やっぱり、変ね。貴方って」
「やだな~。君には負けるよ」
「まさかとは思うけど、今の褒めたつもりじゃないわよね?」
華奢な手から繰り出されたものとは思えない鈍い音を放った拳を、ヨフィエルは甘んじて受け止めることにした。
痛いよ、と苦笑しながら、大袈裟に地面へ倒れる。
「貴方が変なことばかり言うからでしょ」
「……怒った?」
「知らない!」
瞳と同じ、淡い色合いの――ラベンダーの花を彷彿とさせる美しい髪が少女の顔を隠してしまう。
限られた時間にしか会えないというのに、うっかり機嫌を損ねてしまった。
面白がって、ついつい構いすぎてしまうのはきっと、自分たちの育ての兄がそうだったからかもしれない。
うっすらと責任転嫁しつつ、ヨフィエルは寝転がったままミーシャの髪に手を伸ばした。
滑らかな感触が心地良くて、思わず何度も彼女の髪に指を滑らせていると、不意に擽ったそうな笑い声が上がった。
「貴方、甘えるのが下手ねぇ」
その言葉に、ヨフィエルの頭に長兄の顔が浮かぶ。
自分や弟たちを育てた兄――ルーシェルの厳しい躾までも一緒に思い出してしまって、ヨフィエルの背中を冷たい何かが這っていった。
「じゃあ、君が甘え方を教えてくれる?」
嫌な何かを払拭するように彼女の細い腰を引き寄せると、ミーシャは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめる。
戯れに腕を引っ張れば、少女の身体は簡単にヨフィエルの腕の中に収まった。
この時間がいつまでも続けばいい。
そう願いを込めながら、そっとミーシャの額に口付けを施した。
◇ ◇ ◇
「兄さん」
午後の会議を終え、自身の御所へと戻ろうとしていたルーシェルの背を、ミカエルの声が呼び止めた。
先ほども会議で予算の取り合い――僅差でルーシェルが勝利を収めた――をした相手の声に、ルーシェルは眉根を寄せる。
「何だ。予算の件なら、俺は妥当な金額を要求しただけだぞ」
「その件はさっき決着がついただろ。そうじゃなくて、」
「――ああ。アマネのことか」
「うん。あれから、問題なくやってる?」
あれから、というのは、つい先日の『飛び降り未遂事件』のことを言っているのだろう。
ラムがうっかりミカエルを呼びに行った所為で発覚したそれを思い出し、ルーシェルは痛む頭にそっと手を遣った。
「問題ない、と言いたいところだが、アレは気が短くて敵わん。先日も昇級試験で一悶着あったようだしな……」
「あはは。それ、僕もテヴァから聞いたよ。兄さん顔負けだったらしいじゃないか」
「おい、誤解を招く言い方はよせ。俺はあんなに喧嘩っ早くないぞ」
「え~??」
「……今すぐ、その顔を止めろ。殴るぞ」
「ふふっ。誰が喧嘩っ早くないって? 撤回するなら今だよ」
ミカエルが得意げに目を細めて笑うのに、ルーシェルは肩を竦めた。
「それで? 何の用だ?」
「ああ、そうだ。忘れるところだった。アマネの業務内容を確認してみたんだけど、もう一つくらい業務を増やしてみてもいいんじゃないかなと思って」
「業務内容を増やす――そうだな。俺もその件について、お前に相談しようと思っていたところだ」
ルーシェルは、前から目星を付けていた業務を纏めた書類を手元の中から探し出すと、それをミカエルに手渡す。
書類上に並べられた業務の内容にミカエルがふむと顎に手を添えながら「いいんじゃない」と言った。
「どれが良いと思う」
「うーん。この中から選ぶとなると『夢渡し』か『魂の導き』あたりが妥当だと思うけど、」
「俺も同意見だ。だが『魂の導き』の方は、繁忙期に入ったから少し迷っていてな」
「あ~。春だからねぇ。あ、兄さんが直接指導すれば?」
「これ以上、業務を増やすとイルとラムが過労で倒れるぞ」
「あー、そういうことね……」
「それに消去法にはなるが『夢渡し』の指導官には心当たりがある」
「え、誰?」
ルーシェルは珍しく弟と話に花を咲かせている現状に戸惑いながらも、それを誤魔化すようにぱちり、とひとつ瞬きを落とした。
「――ヨフィエルを借りたい」
「なるほど、彼なら兄さんの期待にも応えてくれるだろうね。でも、今は門番の隊長をしているから、どうかな……」
「指導官は推薦が二人居れば問題ないのだろう? あとでお前にも書類を回すから、上手く許可を取ってくれ」
「仕方ないなあ。兄さんとアマネのためだ。許可が下りたら、そっちに書類を送るよ」
「ああ。頼んだ」
気が付くと会議が終わってから優に三十分ほど時間が過ぎていた。
こんな風にミカエルと言葉を交わしたのはいつぶりだろう。
それこそ、ルーシェルが堕天する以前、アダムやイヴを育てていた頃以来ではないだろうか。
「それじゃあ、またね。兄さん」
翼を広げて飛び立っていったミカエルの後ろ姿を、ルーシェルは眩しいものでも見るかのように目を細めながら見送った。
◇ ◇ ◇
「欠陥品」とは言い得て妙だな、と自分で言っておきながらルーシェルは思った。
右斜め前の机で、ラムから渡された処理済みの書類をせっせと分けるアマネの姿に、眉間に入れていた力が幾分か和らぐ。
アマネがここに来てから、そろそろ一ヵ月が経とうとしていた。
日に日に書類仕事を覚えていく彼女に可愛げがないと思いつつも、成長の速さにルーシェルは内心驚いていた。
まるで、『始まりの人間』であるアダムとイヴが再来したかのような吸収力だ、と遠い記憶が蘇る。
「終わりました」
今日も今日とて、可愛げのない処理速度で仕事を終えたアマネの声に、ルーシェルは肩を竦めた。
渡された書類の束を籠に入れると、次の仕事はないかと期待に目を輝かせながら、アマネがこちらに近付いてくる。
「少し休め。用があれば部屋に呼びに行く」
「えー……」
むくれながらも素直に部屋を出て行く彼女の後ろ姿に、かつて育てていたイヴの姿が重なる。
「イ――アマネ」
「はい?」
「きちんと身体を休めるのも、重要な仕事の一つだ」
「分かりました」
近頃、本気でイヴと彼女の名前を呼び間違えそうになることがある。
それほど、彼女と『始まりの女性』であるイヴはよく似ていた。
銀の髪に、美しい声。初めて見たときですら、そっくりだと思ったのに、共に過ごす時間が増え、それはますます色濃くなったように思える。
否、自分と過ごしているからこそ、イヴに似てきたのであろうか。
口を一文字に結びながら、ルーシェルはペンを握る手に力を込めた。
「はあ」
消え入りそうな声で吐き出した溜息は、真っ白な天井に吸い込まれていった。
西側の窓に夕日が差し込む。
ふと、手元にあった一枚の書類に視線がいった。
先日ミカエルに頼んでいた推薦状が、今日やっと届いたようだ。
「予定より少し早くなるが、まあいいか」
自分の周りで忙しなく動き回るイルやラムを見ながら、ぼそり、と呟く。
夜空を星々が彩り始めたのを機に、ルーシェルは一旦手を止めて、風に当たるついでにアマネの部屋へ向かうことにした。
今日は書類が多かった所為もあってか、流石にイルとラムも疲れたらしく、珍しいことに二人して執務室の机に頬を当て寝息を立てている。
そんな彼らを尻目に、ルーシェルはそっと執務室を抜け出した。
雲の橋を二つ超えて、離れにある紅色の扉を二回ノックする。
「アマネ」
自分に宛がわれた部屋の窓から人間界を見下ろすのが日課となったらしい彼女の後ろ姿に声を掛けると、アマネは銀の髪を揺らしてルーシェルを振り返った。
「何です、明星」
明星、という響きに、知れず頬が緩みそうになる。
だが、寸でのところでそれを堪えるとルーシェルは一枚の書類をアマネに手渡した。
「これは?」
「お前に一つ、新しい仕事を任せようと思ってな」
ルーシェルの言葉にアマネは喜色にその頬を染めた。
常から白い肌が淡い薔薇色を孕み、うっとりとした視線で渡された書類を眺めている。
「何か分からないことがあれば――」
言え、と続くはずだったルーシェルの口から、ごふっと間抜けな声が漏れ出る。
胸部に感じた圧迫感と鈍い痛みにルーシェルは思いっきり顔を顰めた。
自身の胸に綺麗なタックルを決めたアマネがぐりぐりと髪が乱れるのも構わずに、額を押し付けている。
「ありがとうございます! 私、頑張りますね!」
「……ほどほどに、励め」
「はい!」
嬉しそうに破顔するアマネの頭にポン、と掌を置くと、ルーシェルは常より少しだけ軽い足取りでその場を後にした。
そんなルーシェルの背中を見送りながら、アマネの唇からは自然と鼻歌が溢れ落ちていた。
初めの頃は、ルーシェルと上手くやっていけるか不安ばかりが募っていたが、最近では随分と言葉を交わすようになった。
先日、窓から飛び降りようとしてルーシェルに叱られてから、彼は時折優しい顔を見せることが増えた。
執務中は相変わらず恐ろしいが、アマネの中で長兄の好感度は着実に上がっていた。
「明星ったら、いつの間にこんなものを作ってくれていたのでしょうか」
ほう、と悩ましい息を吐き出しながら、アマネが視線を落としたのは、先ほどルーシェルから渡されたばかりの書類である。
「ふふっ」
――嬉しい。
ぼふん、とベッドに背中から倒れ込みながら、アマネは笑った。
天上の城で、神と共に暮らしていた頃も毎日が楽しかった。
けれど、今はもっと楽しい。
知らないことを学ぶのがこんなに楽しいなんて知らなかった。
誰かの役に立てるって、なんて素晴らしいんだろう。
結局、その日は嬉しさのあまり、アマネは書類を胸に抱いたまま眠りについた。
◇ ◇ ◇
コンコン。
控えめに響いたノックの音に、ヨフィエルは口元を綻ばせた。
「どうぞ~」
「失礼します!」
元気良く姿を見せた末妹の姿に、喜色混じった声が思わず口を衝いて出る。
「お久しぶりね! アマネちゃん! 見ない間にすっかり凛々しくなって……!」
「ヨフィエルお兄様! お会いできて嬉しいです!」
きゃっきゃと燥ぐ二人の様子に、アマネの後ろからぬっと姿を見せたルーシェルが眉間に皺を寄せた。
「お前たち、少し静かにしろ。ここが仮眠棟であることをもう忘れたのか」
麗しい長兄の登場に、ヨフィエルが「きゃー!!」と黄色い悲鳴を上げる。
「ルーシェル兄様!!」
「やかましいと言っているだろうが! お前の耳は飾りか!」
ゴン、と鈍い音がヨフィエルの頭頂部を襲う。
それを甘んじて受け止めると、ヨフィエルは怒られるのを承知で長兄の身体に腕を回した。
懐かしい、夜明け前のそよ風に似た彼の香りがヨフィエルを包み込む。
「……離れろ」
「もう少しだけ!」
「ヨフィエル」
「は~い」
語調を強めたことで、漸く身体を離したヨフィエルに、ルーシェルは深いため息を吐き出す。
そんな二人の兄の姿を間近で見ていたアマネはと言えば、普段は見ることのできないルーシェルの姿に目を白黒させていた。
「アマネ」
「は、はいっ!」
「何を呆けている。今日の目的が何か、もう忘れたのか」
「い、いえ。申し訳ありません。すぐに準備いたします」
突然こちらに言葉を振られて、アマネは慌てて持ってきた書類と道具の確認を行う。
籠の中身をひっくり返す勢いで準備を始めた末妹に、ヨフィエルは眦を和らげた。
「アマネちゃん、ゆっくりでいいからね」
「は、はい! すみません、ヨフィエル兄様」
「うふふ。いいのよ~! 兄様たちのおかげで久々に休暇をもらえたようなものなんだから」
ヨフィエルの本来の業務は門番隊の天使を総括、訓練することだ。
ルーシェルとミカエルたっての希望ということもあって、隊長格の彼が『夢渡し』の指導をするのは異例中の異例だった。
「それじゃあ、早速始めましょうか。兄様が手引き役を務めてくださる形で進めて大丈夫なのよね?」
「ああ。無理を通してもらったんだ。それくらいなら、俺でも役立とう」
「……また、ご謙遜を。ルーシェル兄様がしたことのない業務(もの)なんてないでしょうに」
「馬鹿を言うな。俺の経験値は創世紀止まりだぞ」
「ふふ」
ヨフィエルが柔く微笑めば、ルーシェルも釣られて眦を和らげた。
歳の近い弟の前ではこんな顔もするのか、とアマネは三度瞬きを繰り返す。
――とくん。
形ばかりの心臓が、不自然に脈打った。
ざわざわと胸の辺りが落ち着かない、不快な感触に、アマネが思わず顔を顰める。
「アマネ? どうした。何か不備があったか」
「い、いえ。何も問題はありません。ヨフィエル兄様、こちらの確認をお願いいたします」
ルーシェルから渡された書類に、必要事項を書き足したそれを本日の指導官であるヨフィエルに差し出す。
「うーん。そうね。書類はこれで問題ないと思うわ。あとは作業工程についてだけれど、アマネちゃんは手順の中で何か気になることはあるかしら?」
「では、一点だけ……。この、二人一組という箇所なのですが、これはどういった基準で役割を決めているのですか?」
「あ~『手引き役』と『潜水役』についてね。役割分担に明確な基準があるわけじゃないんだけど、強いて言うなら『馴染み易さ』の違いかもしれないわね」
「『馴染み易さ』?」
「そう。私たちは人間の夢に入るわけでしょう。そうすると、夢は私たちのことを『異物』として判断するの。人間に備わった防衛本能によって、上手く夢に馴染めないと追い出されてしまうことがあるのよ」
ね、兄様とヨフィエルがルーシェルに話を振れば、彼はこくりと頷きを返した。
「まあ、稀にだがな。余程、適性が低くない限り、そんなことは起きん」
「アマネちゃんの場合は未知数だから、とりあえず最初の一週間は私の夢に潜って、身体を慣れさせましょ」
「分かりました……! よろしくお願いいたします!」
「うふふっ。とってもいいお返事だわ。こちらこそ、よろしくね!」
ヨフィエルはそう言って、アマネの髪を優しく撫でると仮眠棟の部屋全てに常備されている、柔らかい雲を素材に遇らった寝台に腰を下ろした。
アマネも彼に倣い、その隣に座る。
「それじゃ、早速始めましょうか。――ルーシェル兄様、お願いします」
「ああ。一時間ほどで引き上げるぞ。アマネ、」
「はい、明星」
「ヨフィエルの言うことをしっかり聞くように」
はい、と短くはっきりと告げた末妹の姿に、ルーシェルは満足そうに頷くとヨフィエルから事前に預かっていた彼の水晶に手を翳した。
淡い光が部屋の中に浸透していく。
アマネはゆっくりと瞼を閉じると、何かに引き寄せられるように、意識が遠くなるのを感じた。
その力に逆らうことはせず、ふっと身体が軽くなる感覚に身を任せる。
パタン、と倒れ込んだ二人の天使に、ルーシェルは感心した。
「初めてにしては上出来じゃないか」
水晶の中に浮かんだ映像には、ヨフィエルとアマネの二人が立っている。
自然と夢の中へ入り込めたようだ。
ホッと胸を撫で下ろすと、意識を失った二人の弟妹に緩慢な動作で近付く。
対人形のように並んだその横顔は、幼い日のミカエルとガブリエルを思い出させて、ルーシェルは小さく笑みを浮かべるのであった。