3話『始まりの人間』

東の空が明るい。
初めての夜勤業務を無事に終えて、アマネはふう、と息を吐き出した。
村の数は二つと本来この業務に付く天使の半分にも満たない数なのだが、見せる人間の数に圧倒されてしまった。
ヨフィエルとの研修同様に、個人を相手に夢を見せていくのだが、夜が明けるまで、という時間制限があると、そう悠長に作業をしている暇はない。
最低限の「御言葉」を伝え、次の人間に夢を見せる、という作業を繰り返していると、すっかり東の空が明るくなってしまっていた。
中継用の大きな水晶が動作を止めるのを確認して、アマネは額に滲んだ汗を拭った。

「初めてにしては上出来だな」

ルーシェルが桃を片手に部屋の中に入ってくる。
放り投げられた桃を受け取るとアマネは苦笑した。

「そう、でしょうか? ラムがお手本を見せてくれたのですが、彼の鮮やかな手捌きに比べるとまだまだです」
「……ああ見えて、ラムは直に上級の試験を受ける身だぞ。年季が違う」
「あら、そうだったんですね。それは知りませんでした」

ふふ、と可笑しそうに笑いながら、アマネはルーシェルから貰った桃に被りついた。一仕事終えた後に食べる桃はこれ以上ないくらいに甘くて、思わずうっとりと頬を綻ばせる。

「お前もゆっくり休んで、ラムと午後勤に入れ」
「ええ!? そんな……」
「そこでそんな可愛げのないことを言うから、お前は半人前なんだ」

はあ、とため息を吐きながら、ルーシェルが乱暴な手付きでアマネの頭を撫で回す。
少し痛いくらいの手付きに、アマネは若干眉根を寄せながら笑った。

「じゃあ、少しだけ。仮眠させて頂きます」
「ああ」
「おやすみなさい、明星」

――カンカンカン!! カンカン!!

鳴り響いた警鐘は全部で5回。
『非常事態』の合図に、アマネは勢い良く身を起こした。
天界を包み込む清浄な気の中に、ざわめきが広がっている。

「アマネ様!」

着の身着のままで姿を見せたラムに、アマネは頸を嫌な汗が伝っていくのを感じた。

「ヨフィエル様が――」

お倒れに、とラムが告げるのと同時に、部屋を飛び出す。
行く先は決まっていた。

「明星!」

ルーシェルの執務室には、イルと険しい顔をしたシーレやルーシェル配下の天使が数名集まっていた。

「ヨフィエル兄様の容態は……」
「大丈夫だ。アレはそう簡単にくたばらん」

そう言ったルーシェルの顔色も白く、事態の深刻さを物語っている。
他の天使たちも同様に、強張った表情を浮かべているのを見て、アマネはその場に力無くへたり込んだ。

「俺とシーレは、これからヨフィエルの容態を確認してくる。お前たちはここに残って、何か連絡があったときに備えてくれ」
「承知しました」

イルがこくりと頷くのを見て、ルーシェルは緩慢な動作で椅子から立ち上がった。
その眼差しは冷たく、どこか苛立ちを帯びた光を宿している。
まるで、初めて会った日の彼を見ているようで、アマネはぎくり、と身体を強張らせた。

「……お待ちください」

アマネがか細い声を漏らす。

「ア、アマネ様、お手を、」

漸く執務室にやってきたラムが、床に座りこんだままになっているアマネに手を貸そうとすれば、彼女は首を振って、それをやんわりと辞退した。
そして、もう一度、今度は先ほどよりもはっきりとした口調で告げる。

「お待ちになってください、明星」

その真摯な声に、ルーシェルが眉間に皺を寄せた。

「…………ダメだ」
「まだ何も申しておりません」
「お前が言い出しそうなことくらい分かる」
「だったら……!」

昨日、笑顔で別れたヨフィエルの姿がアマネの脳裏を過ぎる。
きっと彼に最後に会ったのは自分たちだ、とアマネは確信があった。
倒れる前の予兆はあったはずなのに、気付けなかった不甲斐なさが、胸中に塒を巻く。

「お願いします、明星。私も一緒に連れて行ってください」

鴇色の瞳が、ルーシェルを真っ直ぐに射抜いた。
穢れを知らない、清浄な光だけを宿したその瞳が、今は憎たらしくて仕方がない。
ルーシェルはグッと奥歯を噛み締めると、鋭く舌打ちを溢した。

「シーレ。二人になるが、構わんか」
「……承知しました」

恭しく頭を垂れると、シーレはひと足先にヨフィエルの御所へと向かった。
その後ろ姿が消えるのを待って、ルーシェルはアマネに視線を遣った。

「アマネよ」
「はい」
「……俺の傍から離れぬと誓えるか」

金と紫が混ざった、彼特有の美しい虹彩が、瞬く。
アマネはそれに暫し見惚れると、もう一度「はい」と力強く頷いた。

「誓います! 明星の傍を絶対に離れません!」
「……ただし、何か不測の事態があったときには、迷わず俺を捨て置け」
「え、」
「良いな?」

重々しい言葉の意味をアマネはこのとき理解できていなかった。――だが、常にも増して鬼気迫るルーシェルの声音に、殆ど反射的に頷く。
彼はそんなアマネの様子を見て、困ったような笑みを浮かべて口元を緩めた。
一瞬だけ見せたその表情の意を問う前に、ルーシェルは常の険しい表情に戻ってしまう。
次いで、歩き始めた彼の背を追うように、アマネも慌てて立ち上がった。

◇ ◇ ◇

ヨフィエルが隊長を務める門番守護隊は天上の城の最も東に寝所を構えていた。
朝日が昇るのを皆に知らせるために最東端に位置しており、天国の門からも一番近いことから「明けの宮」と呼ばれていた。

『神の美』を司るヨフィエルの名に相応しく、美しい御所は、常の様子とはかけ離れ、どんよりと重い不浄の気を放っている。

天界の気を乱す原因が彼の御所であったことに、アマネは震える口元を手で覆った。
そうしなければ、悲鳴が漏れ出てしまいそうだったからだ。

「この量の瘴気は毒に等しい。これを被っていろ」

肌を突き刺す嫌な空気に見動きが取れないでいると、見かねたルーシェルが自身の外套をアマネに被せた。
頭から被せられた所為で、視界が僅かに遮られる。
明星、と彼の名を呼べば、ルーシェルはちら、とアマネを一瞥した。

「何だ」
「あの、これでは、足元が見えません。……ですから、その」
「……ったく、世話の焼ける」

毒吐きながら、握られた手の力強さに、アマネは不自然に肩を揺らした。
思っていたよりも大きく、骨筋張ったルーシェルの掌が、自分のそれに重なっている。

――ドク。

またしても、心臓が大きく戦慄いた。

あれ、と胸元に手を置くも、ルーシェルがズンズンと先を急ぐことに気を取られた所為で、確かめる暇はない。
そうこうしているうちに、ヨフィエルの寝室に辿り着いてしまった。

白亜の扉に、ルーシェルが右手を掛ける。
もう片方の手から伝わってくるアマネの体温に、背筋がざわついて仕方なかった。

それを振り払うように、重い扉を押す。
むわっと、熱気に近い瘴気が二人を襲った。

「シーレ」
「ここにおります」

眷属の名を呼べば、彼は寝台のすぐ脇に立っており、夢渡しの準備を進めている。
寝台を囲うように、門番の天使が数名倒れているのが目に入った。

「彼らは?」

アマネが心配そうにシーレへ尋ねる。

「ヨフィエル様を起こしにやってきたようです。ですが、瘴気にやられて気を失ってしまったものか、と」
「貴方は平気なのですか」
「……お忘れですか? 私は『元・悪魔』ですよ」

不敵に微笑んだシーレに、アマネはハッと息を呑んだ。
謝罪の言葉を紡ごうとした口を、ルーシェルの手に阻まれる。

「すぐに潜る。何かあれば、アマネだけでも引っ張り上げてくれ」
「御意」
「いくぞ」

アマネが二の句を告げる前に、ルーシェルは彼女の身体を引き寄せた。
次いで、白い光が二人を包み込む。
その眩さに、アマネは思わずきつく瞼を閉じてしまった。

背中が熱い。
茹だるような空気に、思わず咳き込んでしまう。
ゆっくりと重い瞼を開けると、そこは未だ暗闇の中だった。

「みょうじょう?」
「……ここだ」

幼子のように舌足らずな声で己の名前を呼ぶアマネにルーシェルは手を伸ばす。
闇の中で彷徨う銀色の星を腕に抱いて、ルーシェルは辺りを見渡した。

「何だか、いつもと景色が違うような、」

丘一面を覆っていたはずの色鮮やかな花畑はなく、代わりに辺りを闇が支配している。
アマネが不安に表情を染めれば、ルーシェルも口を一文字に結んだ。

「恐らく悪魔の仕業だろう。――行くぞ。あちらからヨフィエルの気配がする」
「はいっ」

ゆっくりと、足取りを確かめながら二人は歩き始める。
生ぬるい風が肌の上を撫でた感触にアマネが思わず身震いすれば、ずっと繋がれたままになっていた手に力が込められた。

「あ、あの」
「何だ? 離れて困るのはお前だぞ」

ぎゅ、と握られた掌の温度に、一人ではないのだと安心を覚えて、胸の辺りがポカポカする。
それきり黙り込んだルーシェルの後に、アマネも黙って従うことにした。
時折聞こえる断末魔のような風の音が辺りに響いて、その度にアマネはルーシェルの掌をきつく握り返した。

どれくらい歩いたのだろうか。
一向に晴れる気配のない暗闇にアマネは不安を抱いた。
少し前を歩くルーシェルも表情こそ見えなかったが、苛立ちの混じった気配を纏っていることから、彼も焦っていることが窺えた。
むしろ進めば進むほどに風の温度が冷たく、肌を切り裂くような錯覚に陥っていく。

不意に、甘ったるい花の香りが鼻腔を擽る。
何の花だろう、とアマネが不思議に思ったのと同時に、閃光が走った。
思わず目を瞑れば、間近にルーシェルの気配がして、アマネはきつく瞼を閉じることしか出来なくなってしまう。

「……大丈夫だ。目を開けてみろ」

ルーシェルの声に恐る恐る瞼を開くと、そこにはヨフィエルのお気に入りの景色が広がっている。
芳しい花の香りに、うっとりと目を細めていると何故かルーシェルの掌が伸びてきて、鼻と口を纏めて覆われた。

「あまり吸い込み過ぎるな。悪魔の呼気が混じっている」
「?」

どういう意味だとルーシェルを見上げると、彼はアマネの方を見てはいなかった。
ただ花畑の中の一点をじっと見つめて、微動だにしない。

「ルーシェル?」

ふわり、と風に乗って聞こえてきた小さな声に、ルーシェルの肩がぴくりと震えた。
繋がれたままの手を痛いくらいに握りしめられて、アマネは思わず声を上げそうになる。
だが、険悪な雰囲気を醸し出すルーシェルに、寸での所で声を押し殺した。
ルーシェルが睨んでいた花畑から銀色の髪が覗いたかと思うと、それはあっという間に距離を詰めて、二人の眼前に姿を見せた。
色白な肌とは対照的に真っ赤なルビーのような目が爛々と嬉しそうに輝いて、またルーシェルの名前を呟く。

「懐かしい気配だと思っていたら、やっぱり貴方だったのね」
「――イヴ」
「どうしたの? そんなに怖い顔をして。せっかくの美形が台無しじゃない」

おどけたような口調でそう言ったのは、夜空を彷彿とさせる黒のロングドレスを身に纏った女だった。
にこり、と笑みを浮かべる女とは対照的に、これでもかと顔を歪めたルーシェルが彼女を睨む。

「俺の弟を返してもらおうか」
「嫌よ。……あら、そちらは? 私の記憶だと天使に『女』はいなかったように思うのだけれど」

ひたり、と冷たい手で頬を触られて、アマネは引き攣った悲鳴を上げた。
慌ててルーシェルの後ろに隠れると、女はますます楽しそうに笑ってみせる。

「随分と悪趣味ね、お父様は」
「……」
「こんな紛い物に情を注いで、楽しい?」

長い前髪が、風に煽られて女の顔があらわになる。その顔を見て、アマネは息を飲んで固まった。

「私と同じ、顔――?」

アマネの声に女はムッと表情を顰めると、再び彼女に触れようと手を伸ばした。
だが、寸での所でルーシェルに阻まれて、それは失敗に終わる。

「ヨフィエルはどこだ」
「答えないとダメ?」
「ああ」
「じゃあ、私と一緒に戻ってきてくれる?」
「……それは無理だと、お前が一番分かっているだろう」

眼前で悲しそうに顔を歪める女にルーシェルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「貴女は人間(ひと)で、俺は天使。一緒にいることは叶わないと、あの時はっきり分かったではないか」
「最初に私を誘ったのは貴方でしょう? なら最後まで責任を持って」
「イヴ!」

低い怒鳴り声が辺りに響く。
久方ぶりに腹の底から声を出した所為か、じーんと響く己の身体にルーシェルは眉間に寄せていた皺を更に深く刻んだ。

「……みょ、明星」

背中の服を掴むアマネの手が震えている。
それを落ち着かせようと振り向いたのがいけなかった。
すぐ後ろから冷たい殺気を感じ取って、ルーシェルはハッとした表情で視線を戻す。

「随分とソレにご執心なのね」

手首に女の――イヴの冷たい手が触れる。
つつ、と手首を伝って腕に、腕から腰に回された手に、ルーシェルはグッと奥歯を噛み締めた。
触れている箇所からじわじわと侵食する得体の知れない嫌悪感に、ルーシェルは自分に抱き着いているイヴからアマネを遠ざけようと強い力で彼女を突き飛ばす。

「走れ! 夢渡しの水晶を使えば、ヨフィエルの場所が分かるはずだ!」
「ですが!!」
「行け!! 俺との約束を違えるな!」

『……ただし、不測の事態があったときには、迷わず俺を捨て置け』

ヨフィエルの夢の中に入る前に言われた言葉を思い出して、アマネは唇を噛みしめた。
引き返そうとした己の身体を叱咤して、言われたままに懐から水晶を取り出して意識を集中させる。

「私には一度も『明星(あの名)』で呼ぶことを許してくれなかったくせに」
「……」
「まあいいわ。貴方さえ手に入れば他に何もいらないもの。行きましょう、ルーシェル」

――私たちの家に、帰りましょう。
再び視界を侵食し始めた暗闇にルーシェルは、ぎり、と歯ぎしりした。
動かなくなった腕を睨むと、自分の言いつけを守って走り出したアマネに視線を移した。
未だ翼の生える気配のない華奢な背中が、肩を忙しなく揺らしながら、段々と小さくなっていく。
ただアマネとヨフィエルの無事を祈ることしか出来ない己に吐き気を覚えながら、ルーシェルは薄れゆく意識を呪った。