「大丈夫よ、ルーシェル。今なら、貴方の子をきっと孕んでみせる」
尚も、見当違いな言葉を繰り返すイヴに、ルーシェルの額に青筋が浮かぶ。
いい加減にしろ、と怒鳴り声を上げようとしたルーシェルだったが、よく知った気配を窓の外に感じ取って、動きを止めた。
ここは地獄の最下層に位置する場所だ。
翼のない彼女が辿り着けるわけがないと、そう思うのと同時に、もしかしてと淡い期待が胸中を支配する。
乱暴にイヴを払いのけると、縺れる足を叱咤して勢い良く窓を開け放った。
「明星！」
「……アマネ！」
純白の翼を広げた、天使が腕の中に飛び込んでくる。
陽だまりに似た香りを纏う彼女をきつく抱きしめると、背後から冷たい殺気が放たれるのを感じた。
「どうして、私じゃないの？」
ベッドの上に立ち上がったイヴの髪が、怒りに同調して焔のように揺らめく。
「どうして！？ どうして、そんな紛い物を選ぶのよ！！ あの時、貴方は私を選んでくれたじゃない！ それなのに！ どうしてよッ！！」
ゆらり、とイヴの影が動いたのと同時に、ルーシェルとアマネを突風が襲った。
イヴの鋭く伸びた爪が、ルーシェルを標的に定める。
アマネが彼を守るように、イヴの前に立ち塞がった。
ちり、と首筋に熱が灯る。
その痛みに、自然と表情が歪んだ。
「もう、やめてください。イヴ様」
「煩い！！」
「お願いですから！！ これ以上、明星を苦しめないで！！！」
ルーシェルの姿を隠すように、アマネは翼を広げた。
「誰も、傷付けたくて傷付けるわけじゃない。けれど、明星とイヴ様は傷付くと知っていて互いに『代わり』を望んだ」
「……っ」
「苦しいのも、悲しいのも、一緒に分かち合いたかった。だから手を伸ばしたんでしょう？」
カツン、とアマネのヒールの音が部屋の中に響いた。
初めて出会った日と同じだ、とルーシェルは頭の片隅で思いながら、眼前の瓜二つの女性たちから視線を離せなかった。
「それは『罪』ではありません。愛することが罪であるならば、この世界に生きるものは何を求めればいいのですか」
「うるさい！」
「愛が深いからこそ、貴女も明星も傷が深かった。ただそれだけ」
「来るな！！」
一歩、また一歩と近付いてくるアマネに、イヴは後退することしか出来なかった。
背筋を襲う冷たい何かに、逃れなければと必死で思うのに、身体がバカみたいに震えて言うことを聞いてくれない。
「……ごめんなさい。辛かったでしょう？ 苦しかったでしょう？ お一人で、全て抱えてこられて。もう少し早く、私が生まれていれば。貴女にこんな思いをさせずにすんだのに」
懐かしい天の香りがイヴを包み込む。――抱きしめられていると気が付く頃には、肩がうっすらと濡れていた。
ごめんなさい、と形の良い唇から言葉が零れ落ちる度に、イヴは自分の中にある怒りの炎が鎮火していくのが分かった。
この子に非はないのに、己を想って泣いている。
ぽつり、とアマネの睫毛にぶら下がっていた涙がイヴの肩に染みを広げる。
「馬鹿ね。貴女の所為じゃないでしょう？」
「ですがっ！」
「泣かないで、生まれたての天使（リトルエンジェル）。貴女の涙で私は救われたわ」
ちら、と黙ったままこちらを見つめているルーシェルを見れば、自然と口角が上がるのが分かった。
「可愛いレディね、ルーシェル。大事にしないとダメよ？」
「……ああ」
そうして、彼に見せつけるようにイヴはアマネの身体を抱き寄せた。
触れている箇所からアマネの温もりが移るように、身体がかつての熱を取り戻していくようだった。
「ありがとう、アマネ。優しい天使」
「イヴ様？」
「さあ、行って。私の気が変わらないうちに」
小さく握りしめられた掌を名残惜しむようにアマネがイヴを見れば、彼女はおどけたように笑ってみせた。
「大丈夫。もうルーシェルにちょっかいは掛けないわ」
「そ、そういうことが聞きたかったのではなくて……！」
「……そのうち、伺いますとお父様にお伝えしてくれる？」
ぱあ、と見る間にアマネの顔が薔薇色に染まるのに、イヴはルーシェルと顔を見合わせて噴き出した。
滅多に見ない大笑いするルーシェルの姿に、アマネは唇を尖らせる。
「そんなに笑うことないじゃありませんか！」
「……ふふっ。見た目に反して、随分と子どもっぽいのね」
「お前が言えた義理ではないと思うが、その意見には同意しておこう」
カラカラと声を立てて笑う二人に、アマネはむすっとした表情で窓に向かって進んだ。
ルーシェルなど知るか、と彼を助けに来たことも忘れたと言わんばかりに窓枠に足を掛けたアマネに、ルーシェルの手が伸びる。
「許せ、とは言わない。ただ、俺が心の底からお前を愛していたことは忘れないでくれ」
「ええ」
「じゃあな、我が君」
互いにわざとらしく会釈して、ルーシェルとイヴは数秒見つめ合った。
ふ、と口角を上げたルーシェルが、アマネの手を取って翼を広げる。
「さようなら、私の天使」
暗雲立ち込める地獄の空を、灰色の翼が舞う。その後ろ姿を見つめながら、イヴは小さく呟いた。
自分を地獄へ攫った天使が、天に攫われていく。
その様子が少しだけ可笑しかった。
◇ ◇ ◇
天界の空気は清く澄み渡っていて、昔からどこか苦手だった。
朝焼けの靄が雲と混ざり合ってきらきらと反射する。翼で風を受ける度に、朝の真新しい空気が肺を満たしていくのが心地良かった。
アマネの手を引き、放たれた矢のようにルーシェルは空を飛んだ。
常であれば天界に入った途端に苦しくなる肺が、痛みを訴えてこないことに、引き摺られるようにして翼を忙しなく動かすアマネが関係していることは明白であった。
思わず口角を上げれば、少し速度が速すぎたのか、アマネから非難の声が上がる。
「待ってください、明星！」
「どうした？ もう疲れたのか？」
「翼が生えたばかりの天使を捕まえて言う台詞ですか！！」
怒りながらも、どこか楽しんでいる様子のアマネにルーシェルは肩を竦めて笑った。
「……アマネ」
「何です？」
近くにあった雲の上に降り立つと、ルーシェルはアマネの手を取って口付けを施す。
「礼を言う」
俺もお前に救われた。
たどたどしく、頭を垂れてそう溢したルーシェルに、アマネは驚きに表情を染めた。
ルーシェルが口付けた場所からじわりじわり、と全身に熱が広がっていく。
「……顔を上げてください」
か細い声で、それだけ告げるのがやっとだった。
愛しそうにルーシェルを見つめるイヴを見たときに分かってしまったのだ。
二人が抱えた傷に対する申し訳なさと悲しみの影に隠れて、ひっそりと胸を棘が貫いた。
『嫉妬』したのだ。
自分と同じ容姿を持つイヴに。
イヴに心を許す、ルーシェルに。
（この人が好きだ）
望んではいけないことだと分かっているのに。
一度気が付くと、もう以前の自分には戻れそうになかった。
ジクジク、と痛む胸に手を添えて、アマネは泣きそうになるのを堪えながら無理矢理笑ってみせた。
「礼を述べるなら、私の方です。貴方にはたくさんのことを教わりました。明星がいなければ、きっと私に翼が生えることもなかったかもしれない」
「そんなことは、」
ルーシェルの言葉を遮るように、アマネは首を横に振った。
その際に、目尻に溜まっていた涙が飛散して、靄の中に吸い込まれていく。
「私は他の天使に比べて、感情のふり幅を大きくしたとお父様が仰っていました。それはなぜか。今なら分かります」
「アマネ？」
ルーシェルの頬に、手を振れる。
愛しさが込み上げてきて、涙が止まらなかった。
傷も、痛みも、怒りも。全ての想いを受け止めてあげたい。たとえ、一方的に想うことになろうとも、彼の心の闇を分かち合える者になりたいと思った。
「痛みを知り、癒す者になれとそういう意味だったのだと」
苦笑を浮かべたアマネの頬を、雫が伝う。
気が付けば、ルーシェルの眦からも涙が零れていた。
頬に触れるアマネの手から伝わる慈しみの情に、滝のように目から涙が溢れだす。
「……おかえりなさい、ルーシェル」
「ただいま」
涙を零しながら、微笑むルーシェルに釣られてアマネも眦を和らげる。
幼子のように泣くルーシェルの身体を抱きしめたアマネは、この温もりを一生忘れまいと心に誓った。