花盗人

「アマネ」

頭上から降ってきた声に、アマネはちらと一瞥を返した。
籠いっぱいの桃を持ったルーシェルの姿に「まあ!」と感嘆の声が口を衝いて出る。

「どうしたんですか、それ」
「今朝はイルたちが果樹園の当番だったらしくてな。多めに採ってきたから、どうぞ、と」
「ふふ。あの二人ったら、また欲張って」
「そう言うな。お前の昇級が我がことのように嬉しいらしい」

イヴの元から帰還して、三ヶ月。
ルーシェルとミカエルの推薦で、アマネが上級試験を受け、無事に昇級が決まったのは先週のことだった。

本来であれば中一級にのみ受けることを許される上三級の試験に挑むよう言われて、初めこそ戸惑っていたアマネだったが、親愛なる兄二人からの期待に応えようと懸命に挑んだ結果、史上初めて飛び級での昇級が決まったのである。

「……それで? 明星やミカエル兄様は私に一体何をさせようと言うのですか?」

決して長くはないが、短くもない付き合いである。
アマネがルーシェルの御所に来て、もうすぐ一年だ。
何の企みもなしに兄たちが自分を上級に昇級させたとはとても思えない。

イルたちからの純粋な祝いの気持ちを、賄賂として差し出そうとするルーシェルに、アマネがじとりとした視線を立ち上がりながら向けた。

「何の話だ?」
「惚けても無駄です。テヴァ様やシーレ様は、私の味方なのですからね」
「…………あいつら」
「さ、観念して白状なさってください」

うふ、と笑った顔の何と愛らしいことか。
ルーシェルは心の臓を鷲掴みされたような感覚を味わいながら、グッと喉を鳴らした。
ここで負けてしまえば、今後この顔をされるたびに屈することが目に見えている。
決して、折れるわけにはいかない、と固く決意したルーシェルの掌を、柔らかい何かが包み込んだ。

「明~星~?」

こてん、と首を傾げながら、片手を捉えられて、ルーシェルは唸った。
否、唸り声を上げることしかできなかった。

「……今はまだ言えない」
「もうっ! 二人して強情なんですから!」

二人して、という部分を強調するあたり、ミカエルにも同じことを尋ねたらしい。
抜け目ない妹だとルーシェルが片手で持つことを余儀なくされた籠を持ち直す。
繋がれたままの右手へ視線を移せば、怒っているにも関わらずアマネはルーシェルの手を解放する様子を見せない。
これ幸いと力を込めれば、末妹の身体がぎしり、と固まるのが伝わってきた。

「どうした?」
「……な、何でもありません」
「そうか」
「はい」

ぎこちない動きで歩みを進めるアマネの後ろ姿を見て、ルーシェルは声を殺して笑うのだった。

◇ ◇ ◇

神から呼び出されたのは折しも、二日後のことだった。
久しぶりに訪ねる天上の城は相変わらず美しく、澄んだ空気が肺を満たしていく。

「お呼びでしょうか」

玉座に座る神の前に、アマネが跪く。

「まずは、昇給おめでとうアマネ。天使創造以来、初めての快挙だ。お前を誇らしく思うよ」
「……身に余る光栄です」
「それでな。お前に一つ、贈り物を用意したんだが、」

アマネは眉根を寄せながら、顔を上げた。
珍しく言い淀む神の姿に、長兄と次兄の姿が過ぎる。

「もしや、明星とミカエルお兄様が何か?」
「ふふっ。違うよ。ああ、その顔――ルーシェルにそっくりだ」

神の指摘に、アマネは咄嗟に自分の顔を覆った。
最近、ルーシェルに似てきたと言われることが増えたのだ。
それがどうにも面映く、どんな顔をすれば良いのか分からなくなってしまう。

「まあ、ある意味ではルーシェルたちも関わっているが、」
「え?」

神はそう言って微笑むと、玉座から立ち上がった。

「こちらへ来なさい」

手招きする神に、アマネは恐る恐る歩みを寄せた。

「……そんなに警戒せずとも、大丈夫だよ」
「は、はい」

アマネが隣に拳一つ分の距離を開けて到達するのを待って、神が両手を打ち鳴らす。
すると、どこからともなくラッパの音が鳴り響いた。
硝子の向こうで閃光が弾ける。
その眩さに、アマネはぎゅっと強く瞼を瞑った。

「――ここに《花園の女主人》が誕生したことを宣言する」

天界中へと神の言葉が静かに響き渡った。
状況を飲み込めないアマネが瞑目を繰り返す様を、神は楽しそうに見守っている。

「お前のことだよ、アマネ」
「え!?」

今度こそアマネは動揺するあまり、神の御前であることも忘れて素っ頓狂な声を漏らした。
おろおろと忙しなく視線を彷徨わせる末娘の姿に、神が声を立てて笑い声を上げる。

「んふふっ。サプライズは成功したみたいだな」
「さ、サプライズ?」
「あとは、ルーシェルに直接聞くと良い。――ああ、そうだ。女主人が見習いの衣のままでは格好が付かないな」

パチン、と神が指を鳴らす。
瞬きの間に、アマネの衣服は白を基調とした華やかなものに様変わりしていた。

「ま、待ってください! お父様!」

アマネの言葉を最後まで待たずに、神はその姿を煙に巻いてしまった。
一人残されたアマネは、この数分の間で浴びせられた情報の多さに、思わずその場で蹲ってしまう。
ひとしきり唸って満足する頃には、外の景色が薄闇を纏い始めていた。

「……明星」

神の元に赴いたのは確か昼過ぎだったはずなのだが、げっそりとしたアマネが御所に戻ってきたのは日が落ちてからだった。

「どうした。暗い顔をして、」
「その前に私に何か言うことがあるのではないですか」

普段から喜怒哀楽の激しい彼女ではあるが、今日はいつになく語気が強い。
ルーシェルは「珍しいな」と口の中で小さく呟くと、思案するように片眉を持ち上げた。

「…………全く、心当たりがないんだが」
「本当に?」
「――ああ。衣を変えたのか。よく似合っている」
「あ、ありがとうございます――って、そうじゃなくて!」
「冗談だ。《花園の女主人》の件だろう?」

もう少し揶揄っていたい気持ちもあったが、あまり突くと後が怖い。
両手を持ち上げて降参の意を示せば、アマネは少しだけ溜飲が下がったようで、幾分和らいだ表情でルーシェルの執務机に近付いた。
行儀悪く机に寄りかかって、こちらを見下ろす彼女に、ルーシェルが口元を綻ばせる。

「何を笑って、」
「いや、何。そうして黙っていると、まるで花嫁のようだと思ってな」
「え、」

先ほどまで怒っていたことも忘れて、アマネの顔が薔薇色に染まった。
気恥ずかしさのあまり、腰を浮かせた彼女を逃すまいと、その細腕を捉える。
ぐい、と力任せに引っ張れば、簡単に腕の中へ収まってしまう。

「ははっ。どうした? 照れているのか?」
「~~っ!」
「――綺麗だ、アマネ」

羞恥に潤んだ瞳が、ルーシェルを映す。
鴇色の双眸に映り込んだ自分の姿が、とろとろに煮詰めた砂糖のように甘ったるく見えて、ルーシェルは自嘲気味に口角を上げた。

「二つ名が欲しい、と言っていただろう」

こつん、と額を合わせながら呟かれた言葉に、アマネは目を見開いた。
天使族初の女性天使、と呼ばれることはあれど、それはルーシェルやミカエルたちのように「神の恩寵」が込められた名とは違う。
いつぞやに戯れで溢したその言葉を、ルーシェルは律儀に覚えていてくれたらしい。

「まさか、それで上級の試験を受けるように……?」
「……ああ。上級になれば、神から恩寵を賜ることが出来るからな。望めば、俺たち創世期の天使たちのような二つ名や、神器を授かることも可能になる」

驚きのあまり固まってしまったアマネの唇に、ルーシェルはそっと己のそれを重ねた。
イルたちに貰った桃を食べたのか、ほんのりと甘い口内にやおら目を細める。
もっと、と甘味を求めるように舌を絡めれば、その感触でキスをされていることに気付いたアマネの目が咎めるようにルーシェルを睨んだ。

「っ、みょう、じょっ……う、」

喘ぐように名前を紡がれ、ルーシェルは軽く目眩を覚えた。
ここが執務室で良かった。
寝室だったら間違いなく押し倒していたところだ。

アマネのことに関すると、途端に理性が崩壊してしまう。
目下の悩みは、アマネに備わっている性知識がやけに少ないということである。
手取り足取り教えるのは実に楽しいが、彼女は許容量が超えると自分以外の天使に助けを求めるのだ。
先日もミカエルに教えを請うたらしく、会議が終わった後にこっぴどく叱られる羽目になった。

「……明星?」

漸く呼吸が整ったらしいアマネが、神と彼女にだけ呼ぶことを許したルーシェルの《明けの明星》(二つ名)を呼ぶ。

「…………気に入らなかったか?」
「え、」

短い接触でも慣れないアマネにとっては一事が万事だ。
薄紅に染まった頬に、掌を重ねる。
視線を泳がせて困惑の色を濃く表情に乗せた彼女に、ルーシェルは柔く微笑みを浮かべた。

「いえ、あの、」
「ん?」
「少し、刺激が……その、強くて……」

そう言ってアマネは、先ほどの口付けを辿るように唇へと指を這わせた。
ここにきて漸く二人の会話が噛み合っていないことに、ルーシェルが気付く。
恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めたアマネの可愛らしさに「スーッ」と息を深く吸い込んで、邪な考えから逃れるように天井を仰いだ。

「……すまん、アマネ。俺は《二つ名》の話をしているつもりだった」
「え!?」
「…………気に入ったのなら、もう一度するか?」
「しっ、しませんっ! 明星のバカ! 離してください!」
「こらこら、暴れるな。抵抗されると燃えるのが『男の性』というものだ」
「い、いやッ! 誰か! 誰か、居ないのですかッ!」
「――分かった。俺が悪かったから、大きな声を出すな」

陸に釣り上げられたばかりの魚のように暴れ始めたアマネをきつく抱きしめることで、物理的に静かにさせる。

「《花園の女主人》」

ぴくり、と腕の中で、アマネが華奢な身体を震わせた。
ルーシェルに顔を見られたくないのか、胸元に顔を埋めている所為でその表情を見ることは叶わない。
だが、銀色の隙間から覗く形の良い耳が真っ赤に染まっているのを見て、ルーシェルは喜色満面の笑みを浮かべた。

「俺の知る《二つ名》の中で、一等美しい響きの名だ」

今にも歌い出しそうな声音で、ルーシェルがそんなことを紡ぐものだから。
アマネは益々顔を上げることが出来なくなってしまうのだった。

◇ ◇ ◇

白薔薇と白百合が咲き誇る花畑の中で、一人の女性が佇んでいた。
花の精が居るとすればきっと、彼女のような姿をしているのだろう、とは、夜明けを告げる天使たちの言である。

彼女の番を彷彿とさせる薄紫のベールが早朝特有の冷たい風に遊ばれて、ふわりと舞う。
隙間から覗いた鴇色の瞳が見下ろすのは、朝陽を受けて花開いたばかりの蕾たちだ。

「強く、凛々しく、健やかに育ってね」

我らが明星のように、と生まれたばかりの赤子を抱き上げながら、花園の女主人は柔らかく微笑んだ。