「まさか、君が女の子だったとはねぇ」
顎が赤くなったナギと向かい合わせになりながら、ヴォルグはふう、と重いため息を吐き出した。
「悪かったな。女っぽくなくて」
唇を尖らせてそっぽを向いたナギだったが、その視線の先には朗らかな笑みを浮かべたマリーが鎮座していたため、慌てて視線をヴォルグに戻す羽目になった。
「ナギ様もナギ様ですが、陛下も悪いですよ。血族にするために一度喰らったのならば気付けたでしょうに」
「……性別とか全く気にしてなかった」
「あらまあ」
ふふふ、と笑うマリーにナギは心の中で「うげ」と悪態づいた。
とても女性が繰り出したとは思えない重い膝蹴りを顎に入れられたのだ。苦い顔をしてしまうのも無理はなかった。
そして何よりも、ナギがマリーを苦手な部類に区別した最大の理由は、視界の端でチラチラと揺れる主張の激しいドレスにあった。
意識を失っている短い間に、女物のドレスを着せられていたのである。
それを理解した途端、思わず悲鳴を上げながら再びヴォルグに掴みかかったが、すぐにマリーの怪力によってソファへと押し戻されてしまい、悔しさのあまり歯軋りすることもできなかった。
「まったく。レディならレディらしくなさい。はしたないですわよ」
「うるせえ! こんなびらびらしたモン着せやがって! ふざけんのも大概にしろよ!!」
褐色の肌に映える深紅のドレスは、ヴォルグの瞳を彷彿とさせて、ざわざわと心が波立って落ち着かない。
もはや怒る気力さえも微々たるものしか残っておらず、ナギはぐったりとソファに凭れかかった。
そんなナギの様子をヴォルグは黙ったままジッと凝視している。
「……んだよ。笑いたきゃ、笑えばいいだろ」
「いや、似合っているなと思って」
満面の笑みでそんなことを宣う主人に対しナギは思わず瞑目した。
女のような格好をすることを嫌っている身としては、侮辱されているにも等しい言葉だというのに、彼の声で賛辞の言葉を並べられるのは、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
ドレス姿を褒められて嬉しい、だなんて――そんなことは、生まれて初めてだった。
「……どうも?」
「どうして首を傾げてるのさ。褒めているのに」
「苦手だってのが、見て分かんねえのかよ」
これ見よがしに裾を持ち上げてビラビラと振ってみせたナギに、ヴォルグとマリーが顔を見合わせて笑う。
「つーか、思いっきり蹴りすぎなんだよ。さっきから喋るたびに顎に響いて痛いんだけど?」
「あらまあ、ごめんなさい。魔王様に詰め寄る人間なんて、初めて見たものだから、ついカッとなってしまって……。侍医を呼んできますから、少し横になっていてくださいませ」
原因を作った張本人はいけしゃあしゃあとした表情で、優雅に手を振りながら部屋を後にした。
「お前といい、あの女といい、魔族って物理攻撃力が人間の倍あるの知らねえのか? こっちは元・人間なんだぞ……。手加減しろよな……」
不安の種が姿を消したこともあって、ナギは漸く新鮮な空気を肺に送ることができたような気がした。
いつもの癖で膝を立てたままソファに寝転ぼうとしたナギだったが、ふと視線を感じてそちらに目を向ければ険しい表情のヴォルグと目が合った。
「何」
「見えちゃうよ」
「何が」
「下着」
「ばっ!」
馬鹿じゃねえの、というナギの怒号が響くのと、マリーが部屋の中に駆け込んできたのは同時だった。
「た、大変ですわ! い、い、今、レヴィアタン閣下が魔王陛下に会いたいとこちらへ向かってきています!」
「ど、どっどうすんだよ!!!」
パニックに陥った女性陣二人に対して、ヴォルグは冷静だった。
「マリー。君、今日は母上にも服を見せるって言っていたよね? 未亡人用のベールか何か持ってきていないのかい?」
「も、持ってきております!」
「よし。とりあえずそれをナギに被せよう」
今から着替えるのは時間がかかる。それならばいっそ変装させて同席させた方が早いという判断を下したヴォルグだったが『隠す』という選択肢を思いつかなかったあたり、彼もまた少しばかり動揺していたようである。
「お、おい、やっぱり無理があるって。俺はさっきの部屋にでも引っ込むから、お前らだけで何とかしろよ」
「やだよ。せっかく綺麗に着飾ったんだから見せびらかしたいじゃないか」
「お前……。なんか、ちょっと面白がってるだろ」
死んだ魚のような目をして遠くを見つめるナギに、荷物の中から本来アストライアに見てもらう予定だったベールをああでもない、こうでもないと言いながらマリーが引っ張り出す。
レヴィアタンの魔力が刻一刻と近付いてくる気配に、冷汗をだらだらと流すナギに、ヴォルグが微笑んだ。
「これにしよう」
そう言って彼が手に取ったベールは、宵闇の空を淡く写し取ったような色合いのベールだった。
綺麗な色だ、とナギが手渡されながらに思っていると、マリーが「まあ!」と嬉しそうに破顔する。
「そちらは、ヴォルグ様の御髪をイメージした色ですの。緋色のドレスと合わせると、何だかヴォルグ様のご親戚――いえ、花嫁のようにも見えますわね」
何の気なしに発せられた『花嫁』というあまりにも自分に似つかわしくない言葉に「はあ?」と素っ頓狂な声を上げたナギに対し、マリーが小首を傾げた。
「あら、どうしました? そんな顔をして……」
「お、お前がおかしなことを言うからだろ。なあ、ヴォルグ」
主を振り返れば、緋色の目が、こちらを射抜くように見つめていた。
ピンと張り詰めた空気に、ナギが緊張から喉を鳴らした。
ヴォルグが悪戯を思いついた子どものようにニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「それでいこう!」
「何が?」
「親戚だよ、親戚。母上の遠縁という設定で押し通す!」
「……頭痛がしてきた」
何か良からぬことを考えているのだろうな、とは思っていたが、ヴォルグが嬉々とした表情で告げた内容にナギはドッと疲れが押し寄せてきたような錯覚に陥った。
「一度、顔を見られているのを忘れたのか? 無謀にも程があるだろ」
「そうでもないと思うよ。あの場では皆、新しい剣が『人間』であることに驚いて、君の顔を真面に見る暇もなかったはずだ」
「だからって」
「悩んでいる時間はない。ナギ、君は今から母上の遠縁にあたる『シリウス』という名前の娘だ。マリーも口裏を合わせてくれ」
「しょ、承知いたしました!」
「おい!」
ナギが非難の声を上げるも、ヴォルグは緋色の眼光鋭く、それを黙らせた。
「いいね?」
にっこりと笑った魔王に「否」と唱えられる猛者がいるのであれば、是非ご尊顔を拝見したい。
ナギはこのとき、天井を仰ぎ見ながらそんなことを思った。
◇ ◇ ◇
レヴィアタンが魔王城を訪れたのは、暇つぶしも兼ねていた。
自身の管理している土地は鉱石が多く採れるものの、それを加工する技術者がおらず、今までは隣接する領地に素材のまま輸出していたのだが、それだけでは採掘量を全て捌くことが叶わず、いっそのこと加工してみるのはどうか、という案が浮上したのである。
そこで、城下町に居を構える贔屓の職人に鉱石の素材がどんなものに加工が適しているのか見てもらおうと思って、西の海域を抜けて遥々やってきたのだった。
常であれば、魔王と謁見するためには事前に申請書類を提出しなければならないのだが、そのルールは三貴人には適用されない。
そこで鉱石を加工してもらっている間、手持無沙汰になったレヴィアタンはつい思い立ってしまったのである。
あの人間が本当に魔王陛下に相応しいか見極める必要があると。
誰にも知らせず、いきなり城へ訪れたレヴィアタンに門番は最初こそ渋っていたが、彼女が引き下がらないことを知ると、渋々といった様子で城の中へ入ることを許した。
家紋とは別に左胸に刺繍された三貴人の象徴である『梟』の意匠に、城内を巡回していた近衛兵たちが次々に壁際へ吸い込まれるようにして、彼女に道を譲る。
その異様な光景を扉の隙間から見ていたマリーが「ひっ」と引き攣った悲鳴を上げた。
「き、来ましたわ」
「やっぱり、今からでもアストライア様の塔に匿ってもらった方がいい気がしてきた」
「大丈夫だよ。僕に任せて。ね?」
「その顔が余計に不安を助長させてんだよなァ~~~!」
などと、ひそひそ文句が飛び交っていた部屋の扉に、控えめなノックが響く。
「レヴィアタンです。近くまできたので、ご挨拶に参りました」
「どうぞ」
(どうぞ、じゃねえよ~~! あー! 逃げたい!! 今すぐにでもあの窓から飛び出したい!!)
ヴォルグの向かい側に座したままのナギは、今すぐにでも窓を蹴破ってこの場から逃げ出したい衝動に駆られていた。
隣にマリーが座っていなければ、すぐにでも実行に移していたのだが、悲しいかな現実はナギの焦燥を助長するばかりであった。
そんなナギの心を知ってか知らずか、レヴィアタンは彼女の斜向かいに腰を下ろすと、優雅に微笑みを浮かべる。
「あら、マリーではありませんか? 久しいですね。元気にしていました?」
「ご、ご無沙汰しております。レヴィアタン様。本日は、アストライア様の御申しつけにより、馳せ参じました」
先程までの騒々しさが嘘のように、借りてきた猫のように大人しくなったマリーの姿に、自分が今どれほど危ない状況に置かれているのかを知って、ナギの胸中は荒れに荒れた。
(マリーが萎縮するとか相当やばいじゃねえか! やっぱり無理だ! 俺はふけるぞ!)
キッと眼光鋭くヴォルグを睨んだナギだったが、それがいけなかった。
白銀に揺れた琥珀が、ベール越しにはっきりと自分を射抜いているのが分かる。
「初めまして、ですよね?失礼ですが、どちらのお宅のお嬢様か、お聞きしても?」
「え、えーっと……(ヴォルグ!!)」
無理だ、助けてくれと、目線と心の中で必死に訴えかけると、彼はくすりと笑い声を上げながら、ナギに助け舟を出した。
「母方の遠縁の娘だよ。名前はシリウス。よく見れば、母上に似ているだろう?」
「……ごきげんよう」
「アストライア様の縁戚でいらっしゃいましたか。これはとんだ失礼を……。三貴人が一人、レヴィアタンと申します」
存じています、とはとても言えない。
ひい、と半ば気が狂いそうになりながら、ナギは彼女に向かって小さく頭を垂れた。
「ヴォルグ様と同じ年頃のお嬢様がいらっしゃるとは知りませんでした」
「それはそうだよ。だって、そんなことが知れたら、君たちは率先して僕と彼女をくっつけにかかるだろう?」
ヴォルグが刺すような冷たい視線をレヴィアタンに向ければ、彼女は猫のように目を細めて笑った。にい、と口角を上げたかと思うと、緩慢な動作で瞼を持ち上げ、睫毛を震わせる。
「あら、そんなことありませんわ」
妖艶な美しさと同時に背筋がひりつくような殺気を放った女に、ナギとマリーは思わず顔を見合わせた。
肌を撫でられたような冷たい殺気を垂れ流しながら、レヴィアタンは器用に笑顔を浮かべ続けている。
「結婚相手を決めるのは、魔王陛下の自由ですもの。先代様がそうであったように。――その件に関して、我ら三貴人が口を挟むことはありません」
「……そうだね」
「もし、シリウス様と添い遂げたいと考えていらっしゃるのであれば、私は応援致します。閣下たちにも上手くお取次ぎ致しましょう」
「そのときは、よろしく頼むよ」
バチバチ、と眼前で閃光が飛び交うさまを、ナギとマリーは黙って見守ることしか出来ない。
少しでも動けば襤褸が出る、とひやひやしていたナギを他所に、「ふ」と小さな笑い声がヴォルグから漏れ出た。
「あはははっ! もう! 意地悪しないでおくれよ、レヴィ! 君のその顔に弱いってこと、知っているだろ?」
「ふふ、コレは失礼しました。陛下とのやり取りが楽しくて、つい」
先程までの雰囲気が嘘のように、互いに穏やかな表情を浮かべる彼らにナギは呆れたように頭を振った。
「出来れば、『剣』の方にもお会いしたかったのですけれど、姿が見えないようですので、本日はこれにて失礼致します」
二時間ほど談笑したのち、レヴィアタンは綺麗なお辞儀を残して去っていった。
「はああああああ……」
深い、深い溜め息を吐き出したのは、言わずもがなナギとマリーの二人である。
この二時間、生きた心地がしなかった。
自分が何を話していたのかさえ、真面に覚えていない始末である。
「……仲が良いなら、最初に言ってくれよ!」
無駄に変な汗を掻いた、と着慣れないドレスの胸元をパタパタと仰ぎながらナギが疲労の滲んだ掠れ声でヴォルグを睨んだ。
「レヴィは三貴人の中でも若いからね。古い考えを持っているベルフェゴールやベルゼブブと違って、話が合うんだ」
「汗でドレスが張り付いて気持ち悪ぃ」
「はは。なら、一緒に湯浴みでもするかい?」
ヴォルグが笑いながらにそう零した瞬間、マリーとナギがカッと目を見開いて叫んだ。
「陛下!!」
「笑えない冗談は止せ!!」
すっかり意気投合した臣下たちの苦言に、魔王は喉を逸らして笑い声を上げる。
そんな魔王の姿を横目に、本日何度目になるのか分からない溜め息を吐き出すと、ナギは力なくソファに身体を沈めたのだった。