「帰ろう、ヴォルグ。お前の城へ」
「ああ」
一歩、また一歩と、混戦が続く戦場に向かって、二人は手を繋いで歩き始める。
マモンの姿が目に入り、そちらへ声を掛けようとしたヴォルグとナギの足元に、影が落ちた。
「何だ!?」
「下がれ、ナギ!」
ドンッと鈍い音がしたかと思うと、先ほどまで二人が立っていた場所に、無数の矢が突き刺さっていた。
矢尻に白薔薇が施されているそれを見て、ナギの顔から色が失われていく。
「大聖人、なのか……!?」
影の先、そこに居たのは宙に浮かび、冷たい眼でヴォルグとナギの二人を見つめる男――大聖人だった。
「ソレを返してもらおうか、小僧」
大聖人がナギに向かって弓を構えながら、言った。
「嫌だ、と言ったら?」
「貴様に拒否権などありはしない。地に落ちた汚らわしい、貴様らに。二度と『アリス』は渡さぬ」
大聖人の、老人の身体が眩い光を発する。
目も開けられないほどの光に、思わず手で瞼を覆うも、光は激しさを増すばかりであった。
一陣の風が両者の間を通り抜けていく。
漸く、光が治まった、と目を開けば。
そこには、恐ろしい光景が広がっていた。
バタバタ、と次々に地に伏していく魔界の戦士たち。その中に、マモンの姿を見つけて、ヴォルグは唇を噛み締めた。
「次は貴様の番だ」
大聖人の声が遥か頭上から落とされる。
そちらに目を遣れば、大きく白い翼を広げた美しい青年が、鋭い眼光でこちらを見下ろしていた。
「何だよ、アレ……」
「天使? いや、そんなまさか……っ!?」
二人が呆けている間に、大聖人――天使が手を振り下ろす。
鋭い矢が雨のように二人に向かって落ちてきた。
ナギが大剣を振り回す。
ブン、と風切音が響くと同時に、矢は無残な姿となって地面に朽ちた。
「……全く、騒がしいと思ったら。やっぱり貴方だったのね」
ゆらり。
ヴォルグの影の中から突然姿を現したアスモデウスに、ナギは目を剥く。
「知り合いなのか!?」
「ええ、まあ」
「アレはかつてこの世界に生きていた古の種族、天使だろう? どうして君が知って……」
「あら、お忘れになられたのかしら? 私は一万年前に生を受けた者ですよ?」
ふふ、と妖艶に笑うアスモデウスの瞳には、怒りが見え隠れしていた。
「アリス、アリスと先程から忌々しい小娘の名を呼ぶ者が多いと思って顔を出してみれば。愚弟が全ての元凶だったとは思いもしなかったわ。ねえ、アザゼル?」
「……その声は、アスモデウスか?」
天使が信じられないものでも見るかのような目つきで、アスモデウスを睨んだ。
負けじと天使を睨むアスモデウスに、ナギが絶句する。
「ちょっと待て、今『愚弟』と言ったか?」
「ええ。言ったわよ。それが何か?」
「だ、大聖人がアンタの弟ぉ!? 勘弁してくれ……!」
うげえ、と顔を顰めるナギに、アスモデウスは失礼なと、顔を歪める。
「あれは弟であって、もはや弟ではないわ。ルーシェルお兄様を裏切って、魔界に堕とした張本人なのですから」
「な……!?」
今度はヴォルグが絶句する番だった。
初代魔王、ルーシェルが元天使だったなんて、全く知らなかった。それどころか、目の前に居るアスモデウスが彼の血縁であることに、ヴォルグはぞわぞわと肌を這っていく寒気に思わず目を瞑る。
「これで、ナギに見覚えがあった理由がはっきりしたわ。貴女、アリスにそっくりなんだもの。ううん違うわね。似ているんじゃない。貴女はアリスそのもの。ルーシェル兄様が愛した、アリスの複製(にんぎょう)を囲っていたのね」
「……」
「図星を衝かれると黙る癖、治した方がいいわよ」
ふう、とアスモデウスが煩わしそうに前髪を掻き分けた。
「まったく。昔から馬鹿だとは思っていたけれど、ここまで馬鹿なことを仕出かすとは思ってもいなかったわ」
「黙れ! お前に何が分かる!」
アザゼルの弓が、今度はアスモデウスを狙う。
だが、彼女は身動ぎ一つしなかった。
じっと、眼前に浮かぶ弟を凝視して、不敵に笑う。
「一体、誰に向かって言っているのかしら? 末弟の分際で、『俺』に楯突こうとは、いい度胸だな!」
ぶわり。
辺りを生温かい空気が覆ったかと思うと、アスモデウスの身体が宙に浮いた。
美しくたなびく髪が逆立ち、高濃度の魔力をぎらつかせている。
「お行きなさい、若き魔王とその騎士よ。原初のアリスを見つけて、彼女と我が兄ルーシェルの魂を救ってちょうだい」
「原初のアリス? ちょっと待って、彼女がまだ生きているって言うのかい?」
「彼らに会えば分かりますよ」
ヴォルグの問いには答えず、そう言ってアザゼルに向き直ったアスモデウスの横顔はいつになく真剣で、美しかった。
真摯な眼差しを背に、ヴォルグとナギは教会が所有している建物に向かって走り始める。
「男の身で女の姿を模るなど、下劣な」
「好いた女の模造品を造って愛でるお前に言われたくはないわ」
ふふ、と紅顔から放たれる毒に、アザゼルは顔を顰める。
握り直した弓に矢をつがえて、かつて兄だった姉に標準を定めた。
「一万年ぶりの再会直後に殺し合いをすることになるなんて、随分とロマンチックね」
「抜かせ。直にその口を黙らせてやる」
「ははっ。やってみろ」
ゴウッと激しい風が吹くのを合図に両者は同時に武器を激突させた。
◇ ◇ ◇
「探せって言われたものの、一体どこを探せばいいのか……」
「こっちだ。俺に心当たりがある!」
ドレスを着ているのも忘れて、大股で走り出そうとするナギの腕をヴォルグは掴んだ。
「待った。君の着替えが先だ」
「はあ!? 何でだよ! 早くしねえとアスモデウスが!」
「そんな恰好で目の前を走られる僕の身にもなっておくれよ。背中とか太腿とか、さっきから目のやり場に困っていたんだ」
「なっ……」
言われて初めて、ナギは自分の恰好を注視した。
真っ白だったドレスは煤や泥で汚れていて、目も当てられない。動きやすいようにと裾を切り捨てた所為か所々糸が解れていて、知らぬ間に丈が短くなってしまっていた。極めつけは、腹に開いた大きな穴である。
ジグを倒すときに雷で穿たれた部分が綺麗な円を描いており、赤くなった肌が痛々しい。背中の開いたドレスの所為もあって、少しでも激しい動きを取れば、今にもずり落ちてしまいそうな頼りなさに、じわじわと湧き上がった羞恥心がナギを苛んだ。
「…………着替える」
「分かっていただけたようで何よりだよ」
溜め息を吐きながら、自分のローブを脱いだヴォルグにナギは目を瞬かせる。
「君が着れば、膝下くらいの丈にはなると思うから、」
「これを、着ろってか?」
「これが嫌なら僕のインナーを貸してあげてもいいけれど、君には大きいと思うんだよね」
「で、でも」
ちら、とヴォルグと手渡されたローブとを見比べて固まるナギに、ヴォルグが悪戯っ子のような顔をして笑った。
「何だい? 『勇者様』は魔王のローブだとご不満かな?」
「そんなこと、誰も言ってないだろ! それと、勇者って呼ぶな!!」
「君だって僕が嫌だと言っても『魔王』って呼ぶじゃないか」
「俺は良いんだよ!」
ぎゃいぎゃいと軽口の応酬を繰り返しながら、先導するナギの後をヴォルグは追った。
走る度に浅葱色の髪があちらこちらに跳ねるのに、思わず笑みを零す。
――ドンッ!!
ナギが戻ってきた余韻に浸っていたヴォルグの思考を、何かが爆発した音が霧散させた。
視線の先、二人が目指していた方角に聳え立つ塔が白い煙を上げている。
「何だ!?」
「あの塔は確か……!」
煙の上がる方へ向かってヴォルグとナギは先を急いだ。
立ち込める粉塵と噎せ返るような血の匂いに、思わず顔を見合わせる。
「……聖女・ナギ?」
ふと、見知った声がナギの耳を震わせた。
辺りを見渡そうにも、煙が視界を遮っている。
シスター、ともう一度か細い声がナギのことを呼んだ。
「その声、ユミルか! どこだ! どこにいる!」
瓦礫の中を縫うように進んで、未だ炎が燻る爆発の中心部にやっとの思いで辿り着く。
「ユミル!」
ぐったり、と地面に横たわるのは、ナギが妹のように可愛がっていた混血の少女だった。
自分と同じ境遇の彼女を、第一部隊の面々をナギは本当の家族のように、自分なりに大切に想っていた。
その少女が額から血を流し、倒れている。
「……っ!」
声もなく、怒りで肩を震わせるナギから視線を逸らすように、ヴォルグが辺りに視線を這わす。
「これは……」
爆心地に広がる光景に、ヴォルグは我が目を疑った。
歪な形となった混血の子どもたちが、血だらけの状態で地面に放り出されている。
「一体誰がこんな酷いことを」
手が飛び、足が飛び、果ては首が無い身体もあった。
せり上がってくる吐き気にヴォルグが眩暈を覚えていると、ナギがゆっくりと少女を抱えて立ち上がった。
「大聖女はどこに行ったんだ、ユミル」
「わたしたち、お花くれて、それで……」
言葉を紡ぐのも苦しいのか、ユミルはそこで一旦区切ると、礼拝堂の方を指差して、弱弱しく微笑んだ。
「マザーは、悪くない、よ。わたしたち、の、祈りが、足りない、から、」
「もういい、ユミル。あんなクズ、庇うだけ無駄だ」
「でも、」
「お前の祈りは俺が叶えてやる。人も魔族もない優しい場所。俺が、連れて行ってやるから」
腕の中で息を荒くする幼い少女に、ナギはグッと唇を強く引き結んだ。
金色の双眼が、ぎらぎらと怒りの炎を灯す。
「行こう。ヴォルグ」
ナギの静かな声に、ヴォルグは「ああ」と頷き返した。
◇ ◇ ◇
大聖女マリアは急いでいた。
すぐそこまで迫ってきている魔の気配から逃れようと、必死で地下へと続く階段を駆け降りる。
カツン、と自分のモノではない靴音が、マリアの背筋を震わせた。
「だ、誰」
その声に応える者はなく、カツカツと靴音だけがマリアを急かすように迫ってくる。
「止まれ」
ふと、マリアの行く手を阻むように、青白い炎が彼女の周りを徘徊った。
「ひっ?!」
上擦った悲鳴が喉から漏れるのと同時に、その場にへたり込む。
嘲るように、靴音が背後で止まった。
「よぉ、大聖女。元気そうで何よりだ」
それはよく知った声だった。
ずっと恐れていた、忌まわしいこどもの声。
「ナ、ナギ」
「俺が居ないことを良いことに、ユミルや皆を殺そうとしやがって」
「ちが、う。あれは大聖人がそうしろと! 私は、大聖人の命に従っただけで……!」
「大聖人、大聖人ってうるせえんだよっ!! てめえの意思はねえのか!! 大聖人が死ねって言ったら、てめえは死ぬのか、ああ!?」
ドスの効いた声でそう責め立てられて、マリアは涙が出そうになるのを必死に堪えた。
違う、違うのよ、と壊れた人形のようにそれしか繰り返さなくなったマリアを尻目に、彼女が開けようとしていた地下への扉にナギは手を伸ばす。
「一生そこでそうしてな、クソババア」
ヴォルグの青い炎が涙を流して微動だにしないマリアを無様に照らした。
「良いのかい? あのまま放っておいて」
「もう歳だしな。お前の炎に焼かれて、勝手に死ぬだろ」
「ああ、そう」
急ぐぞ、と言って走り出すナギに、ヴォルグは慌てて後を追った。
地下の扉を潜ったその先で、二人を待っていたのは赤い水晶に埋め込まれた一人の少女だった。
ぶくぶくと時折、気泡が立つ水晶の中で、少女が眠っている。
その顔は――。
「ナギと同じ、」
「ああ」
「じゃあ、これが原初のアリスで間違いないね」
「ああ」
「どうしたの? さっきから浮かない顔だけど」
ヴォルグの言葉に、ナギは唇を震わせた。
「俺は、この場所を知っている」
「え?」
ナギはそう言うと、ユミルをヴォルグに預け、水晶の中で眠る少女――アリスに近付いた。
『私を起こしに来たのね』
頭の中に流れてきた声に、ナギは眼前のアリスをじっと見つめた。
「ああ」
『十四番目の私。貴女には辛いことばかり背負わせてしまうわね』
「……」
『私を起こせば、もう後戻りはできない。ルーシェルとの縁が結ばれてしまう』
アリスの声が、ナギの脳内で木霊する。
ここへ帰ってきたとき、ナギは彼女の記憶を垣間見た。
ルーシェルの妻だったアリスを我が物にするために、アザゼルはルーシェルを魔界に突き落とした。
それを知ったアリスは悲しみのあまり自らの身体を水晶で覆い、心を閉ざしてしまった。そんなアリスに、ルーシェルがとある魔術を施したのだ。
『彼はこうなることを想定して、私に私を殺すことを託した』
「ああ」
独りでに頷くナギを、ヴォルグはただ黙って見守っていた。
アリスと会話しているのか、じっと彼女から視線を逸らさないナギに、胸の奥が不安できゅう、と疼いた。
『十四番目の私が造られたとき、ルーシェルの魔法は完成する。私を生贄に、アザゼルに縛られた私たちの縁を壊して』
眠っているアリスの眦から涙が零れた。
ナギはそっと彼女に近付くと、自らの掌を水晶に重ねた。
どろり、と砂糖が煮詰まって溶けるように、水晶が溶けてアリスの身体を汚していく。
上半身が出たところで、ナギはアリスに向かって手を伸ばした。
「あなたはだあれ?」
ゆっくりと目を覚ましたアリスの言葉に、ナギが微笑む。
「私はアリス。貴女は?」
「私もアリス。最初のアリス」
同じ顔の少女が二人。
互いに見つめ合いながら、掌を、指を絡み合わせる。
歌うように言葉を奏でる二人の少女に、ヴォルグは背中を嫌な汗が伝っていくのを感じた。
「貴女は私、私は貴女」
「あなたは私、私はあなた」
「アリスは一人。私がアリス」
「アリスは一人。あなたがアリス」
「星の導きの元、アリスがアリスを贄に命じる。字は明星、名はルーシェル。我を守りし彼の者を解き放て」
ナギの言葉に応えるように、原初のアリスの身体が光を放った。
淡く、優しく彼女を包み込んでいた光は、やがて真っ赤な血の色に染まり、少女の姿をみるみる変えていく。
「……アリス」
それはひどく懐かしい声だった。
ナギは両手を広げて、アリスの身体から解放された彼(・)を抱き留める。
「おかえりなさい。ルーシェル」
ぎゅう、と痛いくらいの強さで抱きしめられた所為で背中が痛い。
身を捩ろうにも、隙間がないほど密着されていて、それに気が付くと触れている場所からじわりと熱が広がった。
「初代様」
ふと、真後ろからヴォルグの不機嫌そうな声が落とされた。
ヴォルグはルーシェルの腕を慎重にナギの身体から剥がすことに成功すると、二の矢が来ないうちに、自分の腕の中に彼女を閉じ込めた。
「何だ貴様は。千年、いや一万年ぶりの再会だぞ」
「それは承知しております。ですが、この者は私の剣です。いくら貴方と言えど、そう簡単に触れさせるわけにはいきません」
不機嫌を隠そうともせずそう告げたヴォルグに、ルーシェルは数度瞬きを繰り返した。
次いで、愉快だと言わんばかりに声を立てて笑うので、ヴォルグの顔はますます不機嫌なそれに変わる。
「何、取って食いはせぬ。我のアリスはもう居ない。最後の抱擁くらいさせてくれてもよかろうが」
「う、ぐ」
「良い良い。貴様、気に入ったぞ。我が造った魔界の王に相応しい眼光だ」
けらけら、と笑ってそう言ったルーシェルに、ヴォルグは素直に喜んで良いのか分からずに複雑な感情を抱くのであった。